…… 池 千之助   信州ありふれた雑記帳 ……。

         信州・長野県長野市から、お気楽で無駄な記事を載せています。

今日は、76回目の終戦記念日です………!

2021年08月15日 | 日本の歴史

  今年のお盆は、毎日雨降りで、大雨警戒注意報にあわせて、急激な新コロナ感染者の増加で、感染警戒の特別警報が発令されて、踏んだり蹴ったりの状況になっているこちら長野です。

 

 

  大雨は天の神様に聞いてみないと分かりませんが、新コロナの方は、人流を極端に減らしたり、ワクチン接種を増やしたり、辛うじて手の打ちようはあると思うのですが、これが思ったようにいかないようですね。

 

 

  こちら長野県でも、一昨日は過去最大の109人、昨日も100人と2日続きの三桁感染者が発表され、ワクチン接種を2度受けていても、やはり怖さを持つようになってしまいます。なんせ、ニュースによると、東京都では、コロナ感染者が具合悪くても入院出来ず、自宅療養とは、異常過ぎます。

 

 

  ですので、変な話ですが、都会で新コロナに感染したら、東京関東圏を離れて、感染者の少ない地方へ行って、そこでコロナに感染したと言って入院した方が、安心出来そうだ………、とそんな噂をする方もいらっしゃるようです。

 

 

  救急車を頼んでも、病院へ搬送されないなんて、恐ろしい時代になっています。お偉いさん達が机上だけでモノを見ているからこうなるんだと思います。

 

 




  さて、今日の話題ですが、戦後76年目の終戦日が、本日8月15日迎えました。



  それに、関連付けて、当地・長野市松代に現在も遺っています戦時中の傷跡「象山地下壕」をフォトストック画像からご紹介させていただきます。



  この「象山地下壕」は、当時、太平洋戦争時下の本土決戦を見込んで、大本営(大日本帝国・陸軍&海軍の天皇直属の最高統帥機関)の移転計画に基づいて、昭和19年11月11日11時11分に、ダイナマイトによる発破が行なわれ、工事が進められたと聞いています。




  この地下壕の突貫工事には、日本軍が担当し朝鮮半島からの数千人規模での労働者が投入されて、翌年の終戦間際まで昼夜問わず行なわれ、約70%以上の工事を進めていたようでした。



  当時、これによりかなりの大人数がお亡くなりになっていて、象山地下壕入口には、その慰霊碑も建立されていて、先日の8月10日にも、それの追悼の集いが関係者の皆さまで行なわれていました。

 

 

  象山の中に掘られた地下壕ですが、ヘルメット着用で、見学出来るようになっています。


photo stock  1   象山地下壕見学用入口


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  以上が、象山に掘られた洞窟ですが、こちらは軍事拠点になる色合いが強かったようです。



  また、次は近くの「舞鶴山」でも地下壕が掘られ、現在は「気象庁精密地震観測所」になっています。



photo stock  8   舞鶴山


photo stock  9  気象庁精密地震観測所


photo stock   10  天皇御座所部屋


photo stock   11  観測所施設案内図




  こちらの地下壕は、見学コースにはなっておりませんが、以前、ビデオ撮影仕事で、ここの地下壕や精密で高精度の「ひずみ地震計」を撮らさせてもらいましたが、100mにも及ぶ地震計が設置されていて、室温度変化などにも最大限の注意を払っていて、撮影時も入口ドアを一瞬に開けていただき、すぐさま数秒で撮った記憶があります。

 

 

photo  stock   12   気象庁精密地震観測室の「ひずみ地震計パネル」(長野市立博物館にて)






  今日15日夜、NHKスペシャル「開戦 太平洋戦争~日中米英 知られざる攻防~」と題して、番組がオンエアされるようですが、「日中戦争の国際化をもくろんだ戦略から、太平洋戦争開戦へつながっていた」と云った内容のようで、観たいと思います。





  当時、たった少人数の陸・海軍部の幹部連の愚かな判断で、最終的には原爆などで日本人の子供から大人まで、また男女問わずに、何十万人いや何百万人もの負傷者や死者を出したり、現在でも病で苦しんでいる方などを出して、今となっては、なんてことをしてくれたんだ!……と、腹立たしくなります。



  ポツダム宣言をいち早く受け入れて、大日本帝国・軍隊の無条件降伏をしていたら……、とも思いますが、そんな空気感も失くしていたんでしょう。



  それ以前に、昭和16年12月のアメリカハワイ・オアフ島への真珠湾攻撃自体も、アメリカ人の強烈な反感をかわれたと言われていて、大日本帝国軍隊もアメリカの原爆製造技術をあなどっていたようで、情けない限りだと感じます。

 


  現在は、世界規模で「核廃絶!」と叫ばれていますが、日本政府もアメリカの傘の下にいる以上、唯一の被爆国にしては、こちらも情けない感じになっていると思います。



  地球規模での温暖化で、全世界で異常気象が頻繁に起きている現況を見ますと、領土問題、経済戦争などと争っている場合ではなく、国連に権威を持ってもらって、地球をひとつにまとめて、早急に対策を立案実施して貰いたいと思います。

 

 

  もたもたしていれば、この地球と云う大切な惑星は、宇宙から消えてしまうぜ………!

 

 

 

  本日もこのブログにお立ち寄りいただき有難うございます。

  深く感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 


あの武田信玄公のお顔は強面か……?

2021年06月21日 | 日本の歴史

  梅雨入りで、それらしい天気が続いていますね!

 

 

  もっとも、日頃からご家庭で野菜や果物をお育てなさっている皆さんにすれば、ほど良い雨が必要な時もあり、有り難いお湿りに感じることでしょうね!

 

 

  さて、今日の画像ですが、先般とある番組を録画しておいて、それを先日観たらあまりにも意外でしたので、それをネタにして、ご紹介させていただきます。

 

 

  まずは、当地:長野市「川中島古戦場」にある「武田信玄公と上杉謙信公」両雄の一騎打ちの像をご紹介致します。

 

 

  戦国時代には、全国でも「川中島合戦」、「桶狭間の戦い」、「長篠の合戦」、「関ヶ原の戦い」、そして、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」などなどと数多くの合戦が行なわれ、今思えば、なぜ日本人同士で殺し合わなければならなかったのか、現在とはかけ離れた考え方で、恐ろしい時代があったものだと考えさせられます。

 

 

  これが逆に、TV番組で「時代劇」などを観ると、単純に面白く感じていて、人間と云う動物は、それぞれの時代にマッチしたモノの見方が出来るんだと、笑えてしまいます。

 

 

photo  stock   1   武田信玄像(左)+ 上杉謙信像(右)(於:川中島古戦場)

 

photo  stock   2   越後の上杉謙信公像

 

photo  stock   3   甲斐の武田信玄公像

 

  で、今回話題にしたいのが、この武田信玄公のお顔です。

 

 

  今まで、武田信玄公は、上の画像3の通りで、厳(いか)つい強面(こわもて)のいかにも戦国武将らしいお顔だと、それを見て来ましたので、このお顔をずっと信じて来ました。

 

 

  WEBでも見ますと、このような表情の画像がありましたので、お借りしてみました。

 

photo   4   WEB画像より

 

  ご覧のようにように、武田信玄公は戦国武将そのもののカッコ良さ抜群な顔つきをなさっていると、このTV番組を観る前までは、まったく疑う余地もありませんでした。

 

 

  それがそれが………、このTV番組「NHK BS 英雄たちの選択 武田信玄……」では、最近になってこのような肖像画が出てきたようで、それも武田信玄公の実弟の武田信廉(のぶかつ)が描いたと言われ、まず、これが武田信玄公の実際のお顔ではないか……と、そんな総評でした。

 

 

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  TV画面を撮ってみたものですが………、

 

 

  これですと、いかにも温和な優しそうな感じの武田信玄公のお顔で、まるで過去に知っていたお顔とは別人のような感じを受け驚きました。

 

 

  まあ、TV番組の解説ですと、先にもご説明致しましたが、この肖像画は、信玄公実弟の武田信廉(のぶかつ)が描いたと云うもので、真実性が高く、これを契機に、武田信玄公のイメージを切り替えなくては ……、と思うようになります。もっとも、現実的にはちょっと時間も掛かると思いますが………!

 

 

  それで、ついでですがこの「川中島古戦場」のご紹介を少しさせていただきます。

 

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  川中島古戦場への駐車場入口の案内板からご紹介させていただきましたが、ここは、川中島史跡公園、長野市立博物館、地元農産物直売所などがあり、ご家族連れでも大いに楽しめる場所になっています。

 

 

  特に、長野市立博物館では展示品の他にプラネタリウムがあり、その投影は、真暗な部屋で満天の星空を見上げるようになるのですが、BGMとナレーションを聴きながら宇宙空間を学びますと、まさに圧巻な感じがして、凄く感動するようになると思います。

 

 

  もっとも、私は何年か前に一度しか見たことが有りませんが、それでも、当時の感動が現在でも記憶に残っています。

 

 

  この長野市立博物館:プラネタリウムは、お薦めです!

 

 

 

 

  本日もこのブログにお立ち寄りいただき有難うございます。

  厚く御礼申し上げます。

 

 

 

 

 

 


戦後75年、信州・松代の象山地下壕は・・・・・・!

2020年08月08日 | 日本の歴史
  昨日今日と、薄曇りの天気で朝は多少涼しくなっているこちら長野です。だが、徐々に気温も上がり、真夏日の陽気になっています。



  夏の甲子園全国大会は、新型コロナの影響で中止になりましたが、長野県でも、高校野球大会が行われ、今日はもうベスト4の準決勝が行われていて、野球部員のハツラツとした試合がテレビ画面を通じて観れて、夏の季節感を貰っています。



  家から直ぐ近くの長野オリンピックスタジアムがこの試合の会場になっているのですが、会場に入れるのは、選手の家族や、そのチームの野球部員だけで、一般人は、観戦出来ないようになっています。でも、選手達の無我夢中でプレイする姿は、最高に素晴らしい思います。



  さて、今日の画像ですが、過去撮影のフォトストックからですが、戦後75年目の節目の終戦が、来週末の15日に迎えようとしています。



  それに、関連付けて、長野市松代に現在も遺っています「象山地下壕」をご紹介させていただきます。



  当時、太平洋戦争時下の本土決戦を見込んで、大本営(大日本帝国・陸軍&海軍の天皇直属の最高統帥機関)移転計画に基づいたようで、昭和19年11月11日11時11分に、ダイナマイトによる発破が行なわれ、工事が進められたと聞いています。



  この地下壕の突貫工事には、日本軍によって朝鮮半島からの数千人規模での労働者が投入されて、翌年の終戦間際まで昼夜問わず行なわれ、約70%以上の工事を進めていたようでした。



  当時、これによりかなりの数の人達もお亡くなりになっていて、象山地下壕入口には、その慰霊碑も建立されていて、例年はそれの追悼の集いが関係者の皆さまで行なわれています。




photo stock 1   象山地下壕見学用入口


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photo stock 3   削岩機ロッド   


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  以上は、象山の中に掘られた地下壕ですが、ご覧いただきました様に、ヘルメット着用で、ここは見学出来るようになっています。



  また、こちらは「舞鶴山」ですが、ここにも当時、地下壕が掘られ、現在は「気象庁精密地震観測所」になっています。



photo stock 9   舞鶴山


photo stock 10  気象庁精密地震観測所


photo stock 11  天皇御座所部屋


photo stock 12  観測所施設案内図




  こちらの地下壕は、見学コースにはなっていませんが、以前仕事で地下壕や精密で高精度の「ひずみ地震計」を見させてもらいましたが、100mにも及ぶ地震計で、気温の変化などにも最大限の注意を払っているようです。




  一昨日6日夜、NHKスペシャル「原爆投下・全記録」と題して、広島や長崎に落とされた原爆の悲惨さを放映していました。



  それらを見るにつけ、たった少人数の陸・海軍部の愚かな判断で、日本人の子供から大人まで、また男女問わずに何十万人もの死者を出したり、現在でも病で苦しんでいる方などを出して、今となっては、なんてことをしてくれたんだ!……と、腹立たしくなります。



  ポツダム宣言をいち早く受けて、大日本帝国・軍隊の無条件降伏をしていたら……、とも思いますが、そんな空気感も失くしていたんでしょう。



  それ以前に、昭和16年12月のアメリカハワイ・オアフ島への真珠湾攻撃自体が、アメリカの強烈な反感を買ったと言われていて、大日本帝国軍隊もアメリカの原爆製造技術をあなどっていたようで、情けない限りだと感じます。



  現在は、地球規模で「核廃絶!」と叫ばれていますが、日本政府もアメリカの傘の下にいる以上、唯一の被爆国にしては、こちらも情けない感じになっていると思います。



  戦争でお亡くなりになられた皆様に向けて……!







  合掌………!








信州・松代に あの「大本営」が……。

2015年08月14日 | 日本の歴史
  昨日13日から今日にかけて、多少気温が涼しく感じるようになりました。

  今日は、朝からお寺さんのご住職がいらっしゃって、ご仏前にお経を唱えていただきました。

  毎年の恒例のお盆の行事です。

  で、ご住職はあちらこちらと檀家を廻りますので、各家からおもてなしのお茶を頂戴するのですが、この時期ですので、お茶菓子は「水ようかん」が多いようで、甘いものが好きなご住職でしたらいいのですが、当方のご住職は甘党ではないもので、いつも漬物をお出ししています。

  バイクに乗って、一日中動き回るようです。

  今朝は雨でしたが、おいでになられた時は晴れ間になり、良かったです。


  さて、明日15日は、戦後70回目の終戦記念日です。

  自分は戦後生まれですので、戦争経験は皆無ですが、こちら信州・松代には、今でも戦争時の爪痕と云うべきものなのか、そんな遺跡が残っています。

  それは、象山や舞鶴山に掘られた地下壕です。


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  こちらは、象山地下壕入口で、受付を済ませ、ヘルメット着用で、洞窟内に入って行きます。

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  当時、この削岩機ロッド棒で、岩に穴を開け、そこにダイナマイトを仕掛け、破砕(はさい)していったようです。

  これは、工事中に抜けなくなったロッド棒とのことです。

  
  で、地下壕の公開している中間部分にこの様な案内板が掲げられています。


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  上の写真は、その近くで撮ったものです。

  奥に見える明るい部分は、外へ出る部分ですが、入口とは逆な西側に当たります。

  勿論、この部分は非公開で、歩くことは出来ません。

  
  で、更に奥に進みますと……、


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  上の写真は、トロッコ枕木跡が残っている洞穴です。

  そして、次が公開している象山地下壕最後の場所です。


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  この象山地下壕は、太平洋戦争(第二次世界大戦)の昭和19年11月11日午前11時に発破工事が開始され、翌、昭和20年8月15日の終戦日迄、約9か月間突貫工事で全工事の八割が完成したと云われているようです。

  この象山地下壕には、太平洋戦争の本土決戦時に備え、軍などの政府機関がここを本拠地として指揮を執る……、と云ったことで、岩盤の固い松代・象山が選ばれたようでした。


  又、天皇陛下様御一族のお住まいに予定していた、こちらは、舞鶴山です。


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  この山中にも、かなりの洞穴が掘られており、現在は「気象庁 松代地震観測所」になっています。

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  こちらが地震観測所の全景ですが、実際の地震観測器機は、当然一緒に掘られた洞窟の中に設置されていて、一部分は見学出来るようにもなっているようです。

  で、天皇陛下が住まわれる予定でした「天皇御座所」部屋は、この松代地震観測所の建物に隣接していて、外側から見学出来る様になっています。


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  そして、松代地震観測所の全容は、西側の裏口に掲げられています案内板を見ますと、一目瞭然だと思います。

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  こちら側がそうですが、ここから洞窟が繋がっています。

  自分も、過去この松代地震観測所の中に、撮影の仕事で3度程中に入らせていただきましたが、洞窟内部は涼しく、場所によっては、水も滴(したた)り落ちる個所もあり、戦時中に穴掘り作業に携わった人達は、当時どんな気持ちで作業にあたったのか、心が痛む思いです。


  戦争の悲惨さなど、こういった遺跡を見ますと、いつまでも未来永劫、「平和」である事を願ってやみません。

  自分は小さな一庶民ですが、今日14日夕刻、阿部総理の「戦後70年談話」に注目したいと思います。



川中島古戦場は‥‥夏は涼しいかナ ?

2012年07月09日 | 日本の歴史

  今日は、快晴で昼間は結構暑い一日でした。 夕方になって、だいぶ涼しくなりましたが、ビデオ編集をしている狭い作業部屋では、 PC や外付け HDD などの放熱も加わり、 温度計は 30 ℃を超えています。 まだ、梅雨のはずなんですよね。 

  

  まあ、冷房を入れる気温ではありませんので、換気扇をフル稼働で、空気の流れを作っていて、暑さを防いでいます。 「節電!!」と叫ばれている折ですので、余程でないと冷房のクーラーは使わないのですが、我慢出来ない暑さもあるから‥‥‥、 どんなもんでしょうね。

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  先般、長野からの帰りに、この「川中島古戦場」に寄って、撮ってきた写真です。 ここは、平日でも結構観光客の皆さんがいらっしゃっていて、賑わっていまして、久し振りに寄りましたら、『史跡 川中島古戦場 八幡社』 と云う案内表示の看板が、新しくなっていました。

  

  また、入口の鳥居の表示も、「八幡原」から「八幡社」となっていて、「ふ~~~ん、なるほどね!!」 と感じました。 

  

  この辺は、戦国時代、越後の上杉謙信公と、甲斐の武田信玄公の歴史上でも有名な「川中島の戦い」が行なわれた地籍と言われており、かつては「八幡原」と云っていたと思うのですが、時代の流れと共に、その呼び名も変化していくのでしょうか。 それとも、新たな歴史研究で、こちらの「八幡社」と言うようになったのでは‥‥‥、とも思います。

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  ここを訪れた方々は、この上杉謙信公と武田信玄公の石像の前で、 記念写真をお撮りになっていらっしゃいます。 また、ここをボランティアで案内してくださるオジさんたちも、観光客の皆さんに熱弁をふるっていらっしゃいます。

  

  緑の樹木に囲まれた「川中島古戦場」ですので、夏の暑い時期に、涼しさを求めてお出掛けになるのも、おつなものだと思います。 でも、駐車場にも限りがありますので、大型バスが何台も駐車している時や、土・日などは、混雑が予想されると思います。

  

  さて、話しは違いますが‥‥‥、

  

  昨日 8 日(日)から、私の好きな大相撲・名古屋場所が始まりました。 初日は大入満員のようでしたが、今日はかなり後方席が空いているのが TV からみられました。 まあ、日本人・大関の、稀勢の里関や琴奨菊関などに、うんと頑張って貰って、早いとこ「横綱」にでもなってもらわないと、どうも‥‥‥‥、 と云う感じがします。

         

          

      気合い入れて、いこうぜ!!!!

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真田幸村公の有名な赤兜が‥‥‥!!

2012年02月02日 | 日本の歴史

  今朝も、道路には白く雪が‥‥。 でも、大袈裟に雪かきをする程でなく、ほうきでササッと掃けば用は足りる感じでした。 TV ニュースも、トップは連日「大雪関連」の内容です。 秋田の温泉の雪崩(なだれ)事故、青森の 200 台の車の立ち往生、など、雪の怖さを知らしめているようです。 こちらは、昼間は晴れたり、曇ったりの日でした

  

  思い起こせば、拙者も昔、一度だけですが、冬・仕事で、どうしても富山まで行かなければならず、車で出掛けたものの、大雪になり、国道 18 号線の雪深い「信濃町」で、車が立ち往生に遭い、近くのドライブインの駐車場で、 15 時間くらい止まっていたことがありました。 幸い、車の燃料は満タンにして出掛けたもので、エンジンをかけっぱなしにして、ヒーターを点(つ)け、十分暖かかったのですが、道路で大型車が上下線共、立ち往生になっていますので、戻る事も出来ず、でしたが、今になってみますと、いい体験? をさせて貰いました。

  

  明日 3 日は節分で、明後日 4 日は立春となっています。 もうホント、寒さにも飽きてきましたので、一日も早く暖かい日が来る事を願っています。 でも、暖かくなったら、あれもしたい!! これもしたい!! と、ウキウキしながらそれを待っている今の時期が、一番いいのかも知れません。 そんなもんです。

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  先般、「 Ario 上田」へ行った折り、撮ってきた写真です。 上田城の本丸櫓(やぐら)門です。両側のさくらの木は、この時期ですので、スカスカですが、あと 2 ヶ月ちょっとで、キレイなサクラが満開に咲き乱れる事と思います。 楽しみです。

  

  この上田城は、皆さんもご存知のように、「真田家」の居城としても有名なお城です。 拙者の地元、松代城・藩主、兄・「真田信之公」と、弟・「真田幸村公」の父、真田昌幸公が 1583 年に築城したと言われており、昨年の NHK 大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の中でも、徳川の大軍の攻撃を受けても、全くビクともせず、それを退(しりぞ)けた、日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)と、讃(たた)えられていました。 

  

  この時に弟、「真田幸村公」が戦いでかぶったとされる「赤備え兜(かぶと)」のビッグ・サイズ版が、この上田城の中にある、「真田神社」の手前に、大々的に飾られています。 その写真がこちらです。

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Canon  SX30IS  Wide

  

  真田六文銭がある意味、ロゴ・マークになっており、神社に向かってもそうですが、この「赤備え兜」に向かって、お賽銭を上げて手を合わせたくなる雰囲気を感じました。 さくらの季節になりますと、観光客が沢山いらっしゃって、この前で記念写真を撮られると思いますので、こちらは、ゆっくりと写真も撮っていられないと思います。

  

  この上田城は、上田城跡公園になっていますので、中高年の皆さんが、この寒い中、ウォーキングをなさっていらっしゃいました。 また、真田神社にも、お一人、お二人と参拝に訪れていました。 信州の人気スポットの一つであることは間違いないです。

  

  上田市では、「真田幸村公」を主人公とした大河ドラマ制作を、 NHK にアピールしているというニュースが出て、ここ松代も関係するので、拙者も喜んで署名活動書に名前を書かせて貰いましたが、その後の話しは? ‥‥‥、 NHK へ提出なさったのでしょうか?

  

  去年、 NHK・前期の朝ドラの「おひさま」は、長野県安曇野を舞台としたドラマでしたが、この地域はもの凄い賑わいを見せたようでした。 観光県でもある長野県に生まれ住んでいますと、何故か不思議に、大勢のお客様に信州にお越しいただきたい気持ちになってしまいます。

  

  そう云えば、「豊科インター」名が、「安曇野インター」名に変更になる事が決定したようです。 看板標識などの総工事費は 2 億円 以上と言われ、その経済効果は、 5 倍の 10 億円と算出されているようです。

        

    そんなんで、拙者も‥‥‥、

    

     井の中の蛙(かわず)にならないよう、

        

        大海にも出てみなくちゃ!! っと。

               

              see   you   again

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信州☆松代藩 佐久間 象山先生!!

2011年11月30日 | 日本の歴史

  今日は、天気予報通り、朝からシワシワの空模様です。 太陽もうす雲の間からは見えそうな感じですが、もうチョイ!! と云った雰囲気です。

  

  それで、今日は午後一から出掛け、夜遅くの戻りになりそうですので、午前中からブログ更新をしております。  11 月も今日で終わり、いよいよ明日から師走の月に入りますが、例年の如く何となく気忙(きぜわ)しくなってしまいます。 

  

  さて今日は、ここ松代出身の「佐久間 象山先生」のお話をしたいと思います。 と、申しましても、象山先生につきましては、拙者が覚えていますのは、松代小学校の講堂にその肖像画が飾られていた事と、象山神社が関係している!! と云ったことくらいで、大人になって、象山先生関係の文献書籍を読んだことで、その偉大さが分かったということでした。

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Photo

Canon  EOS  Kiss  Digital

  

  この写真の像は、佐久間 象山先生、本年、生誕 200 年の記念に合わせて、松代・象山神社の前に建立されていますが、 この象山神社は、 11 月 4 日(金)のブログ記事でもご紹介してありますので、ここでは避けますが、拙者が子供の頃、この神社の社務所に朝 6 時から「早起き会」という勉強会に夏休み参加した記憶があります。

  

  佐久間 象山先生につきましては、ウィキペディアの事典にお譲りしまして、ここでは、江戸時代幕末に活躍した松代藩の儒学者と申しておきたいと思います。 ただ、象山先生の門下生には、勝 海舟、坂本 龍馬などがおり、幕末の動乱期にかなりの影響を与えたともあります。 だが、敵も多く、京都で若くして暗殺されたとも伝えています。

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Photo_2

Canon  EOS  Kiss  Digital

    

  こちらの像は、あの「八幡原・川中島古戦場」の公園広場に建立されています。 また、お近くに立ち寄る事がございましたら、ご覧いただければと思います。 もっとも、この像がいつ頃建立されたか、調べてないもので分かりませんが、また折りをみて、調べたいと思います。 そして、またなぜ、この地に建てられたのかも調べてみます。

  

  ここ地元・松代に住んでいましても、細かな歴史などは不勉強なところもあり、こと細かくご紹介出来ない面も多々あり、拙者のブログをお読みいただく方達にも申し訳なく思っていますが、また拙者の勉強不足を補っていただく為にも、コメント等でお知らせいただければ幸いです。

   

    歴史の真実って、難しいのでしょうネ!! っと。

        

           see  you  again

  


信州☆寺院の鐘楼(しょうろう)‥‥供養?

2011年11月19日 | 日本の歴史

  今日は、案の定一日雨降りのお天気でした。 そんなに強い降りかたではなく、シトシト! といった感じです。 ニュースをみますと、東京や静岡など、太平洋側の地域では突風や強い雨が降っていましたが、大丈夫だったでしょうか?

  

  そう云えば、今日は土曜日ですが、「♪ 雨がシトシト日曜日、ボクはひとり~で~、君の帰りを待っていた‥‥!!」 といった、 GS のザ・タイガース、「♪ モナリザの微笑み」の曲を想い出しました。 ちょっと調べましたら、昭和 42 年の歌でした。 今となっては、懐かしい曲です。

  

  さて、今日の表題ですが、紅葉の写真を撮りに行きました折に、お寺さんがあり、そのうちの 3 件の鐘楼(しょうろう)をご紹介したいと思います。 たかだか釣鐘(つりがね)堂かも知れませんが、鐘をつくことに依って、供養(くよう)が行なわれるとあります。 ただ単に、時刻を告げるが如く、ゴーン、ゴーン、と私達には響いてきますが、拙者も、この記事を書くにあたって、供養と知り得たことで、 勉強になりました。

  

  では、まずこちらの鐘楼です。

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Canon  EOS  Kiss  Digital

  

  長野・善光寺の鐘楼です。 先月 10 月末に参拝に行った折りに撮った写真です。 ちょうど、鐘をつく音が聞こえたので、慌てて近くに行きまして、シャッターをきったものです。 ホントは 「鐘(かね)と撞木(とうぼく)=釣り鐘をつく棒」 が、ピタッとくっ付いている画を狙ったのですが、下手でした。 連写すればよかったのですが、こんなもんです。

  

  だが、いい鐘音が腹の中へ浸み込むように、いい感じでした。 来月 12 月大晦日には、この鐘楼から百八つの鐘音が聞こえてくると思います。 確か、ここ善光寺さんは、参拝者一人ひとりに鐘をつかせると思ったのですが‥‥‥。 拙者は毎年、その時間はだいたいコタツの中ですので、 TV ニュースで観たような気がしています。

 

  そして、次にご紹介しますのは、あのアマチュア・カメラマンの先輩 kazu さんと、先週、小川村へ撮影に行った時に撮って来ました鐘楼です。 11 月 10 日(木)のブログでは、高山寺(こうさんじ)の写真の中に、県宝・三重塔と一緒に写っています山門を兼ねた鐘楼がありますが、 ここでは、高山寺へ行く途中からわき道に入りました、「明松寺(みょうしょうじ)」の「鐘楼」をご案内したいと思います。

  

  それが、こちらです‥‥‥‥。

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Canon  SX30IS

  

  ここ明松寺(みょうしょうじ)には、山門のところに八地蔵などの石仏が並んでいまして、本堂へ行く前に、手を合わせたくなります。 また、左手には大きな観音様立像が厳かに見つめてくれています。 そして、この明松寺に隣接します場所に、「馬事公苑(ばじこうえん)」があり、ダービー馬の飼育も行なわれているようです。

  

  そして、もう一つの鐘楼は、ここ松代から 15 分くらいで行ける、若穂保科地籍にあります、「清水寺(せいすいじ)」の鐘楼です。 先週 14日(月)のお昼時間を利用して、ちょっと撮ってきたのですが、ここの鐘楼と紅葉もキレイでした。

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Canon  EOS  Kiss  Digital

  

  この「清水寺」は、近日中に、他の写真もブログにアップして、ご覧いただけるように予定しておりますが、ここも観音様が一番上の山の中にあり、結構平日でも、観光客などで賑わいを見せていました。 相変わらず、白玉レンズのカメラをお持ちの先輩諸氏も何人かいらっしゃっていました。 もっとも、拙者が行くくらいですから、ハイ・アマチュア・カメラマンの皆さんも大勢いる訳です。

  

  だが、そんな中、毎年この時期に撮影に来られているというカメラマンさんと、話しをしましたところ、「 3 年前の紅葉は凄くキレイだった。 去年あたりから急に色合いが悪くなった!! 」、とおっしゃられていました。 誰もがそう感じているようです。 他の地域の皆様もいかがでしょうか?

     

      まあ、来年の紅葉に期待しよう!! っと。

             

              see   you   again

  


信州で京都・清水寺の至宝展へ!!

2011年09月09日 | 日本の歴史

  今日は、晴れ間と、曇りと交互に空模様が動いていました。 そんなに暑くもないので、午前中、急に出掛ける事になりました。

  

  行き先は、そうです。 以前から、時間が取れたらと思っていました、「世界遺産、京都・清水寺の至宝展」へ行って来れました。 長野市若里にある、「公益財団法人 水野美術館」での展示ですので、拙者の自宅から、20 分もあれば行けるところです。

  

  国の重要文化財の展示ですので、間違いなくビデオや写真などの撮影は禁止されていると思いましたが、この「水野美術館」の庭園がきれいに整備されていて、画(絵)になると聞いた事がありましたので、軽いCanonデジカメを持って行きました。

  

  「水野美術館」の駐車場も、半分以上のスペースで車が埋まっており、観に来ている方々が結構いらっしゃると思いました。

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  この写真をクリックして頂ければ、拡大して見れます。

  

  

  中に入り、受付で、「至宝展」の入場料を一人¥1,000を支払い、Canonデジカメを預けて、まず順路であります 3 階からの見物になりました。 展示会場の中は、未だ、今現在 18 日迄「清水寺の至宝展」が開催されていますので、ここで細かく御披露することは避けますが、拙者が一番驚きましたのは、よく、これだけの数多くの仏像を、京都・清水寺から長野まで運搬したものだと、感心致しました。 この仏像体の運搬専門業者さんがいらっしゃるのでしょうネ!!

  

  そして、 2 階へ移動して、静粛な展示会場の中、ゆっくりと真近(まじ)かで、菩薩坐像(ぼさつざぞう)や、菩薩立像(ぼさつりゅうぞう)などの感触に、触れることが出来ました。 そして、また 1 階に戻り、展示記念品など販売していましたので、折角でしたので、ちょっとだけ購入しました。

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  今回、実際に京都・清水寺へ行かなくても、ここ長野で、貴重な仏像を拝観できました。各仏像の解説文でも、 1633 年(寛永十年)や 1733 年(享保十八年)に造像、などと記されており、江戸時代に造られた仏像だという事を改めて認識させていただきました。

  

  全国に「清水寺」の寺号を持ちます寺院は、約 80 寺あるようです。ここ真田十万石の城下町・まつしろにも、「清水寺(せいすいじ)」という名前のお寺が存在致します。 ここにも、「千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう)」と云う仏像がございます。

  

  拙者も、ここで実際に拝観させていただきましたが、尊厳がある立派な仏像です。 まア、この他にも、日本全国いたる寺院には色々な仏像があると思いますが、これこそ、何百年前、いや何千年前の仏像体があるかも知れません。 拙者が改めて声を大にして言うこともありませんが、こういった貴重な日本の宝は、次世代、次世代、と未来永劫、確実に保存していけるようにと、念じている一人です。

  

  今日は、拙者も自分の名前通り、千(せん)の助けを与えられるような人を目指して、日々精進しないといけないナ!! と考えさせられました。

  

  さて明日は、先般、信州まつしろ「真田邸・庭園」にてお逢いしました、神奈川県からいらっしゃいましたあるご夫妻様との、ちょっとしたふれあい話しをしたいと思っています。

  

  そのご夫妻様のご主人が、一瞬見ますと、あの日テレ・元アナの「徳光さん似」?? なんです。 お写真も撮らさせていただきました。

      

       お楽しみに!! っと。

  


越後の上杉、甲斐の武田、川中島合戦!

2011年08月29日 | 日本の歴史

  今日は、そこそこ暑い一日でしたが、ひと頃より大分湿気が無く、同じ暑さでも、爽(さわ)やかな感じがしています。

  

  さて今日は、何か歴史の雰囲気を感じさせる表題ですが、拙者は、中・高生時代は、社会や理科の教科が苦手で、キライでした。 以前も、高校の恩師の話をさせて頂いた時(6月4日)にも、記事にさせて貰いましたが、当時は全く興味がありませんでした。

  

  だが、TV で時代劇を見始めるようになった頃から、ごく自然に「日本の歴史」に興味が沸いてきました。、しかし、NHK の大河ドラマや民放各局での時代劇のON  AIR での範囲の歴史感覚ですので、日本史全部に詳しい訳ではありませんが、特に侍時代、いや戦国時代、いや平安時代、その頃からでしょうか、多少は時代の流れが理解出来るようになってきました。

  (一般の皆様に比べますと、非常に遅い目覚めかもしれません!)

  

  それに、拙者が住まいする地域「信州・まつしろ」も、真田家十万石の城下町の名残(なご)りが、あちらこちらに点在しており、県内外などから観光客の皆さんも訪れてくれています。また機会を作って、是非写真などでご紹介したいと思っています。

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  上の写真は、ちょっと加工してあり、変な感じがするかも知れませんが、川中島古戦場の 武田信玄像(左)、上杉謙信像(右) です。 甲斐の武田家の「風林火山の軍旗」と、越後の上杉家の「毘や龍の軍旗」などを含んだ全体的な景観をお見せしたくて、こうなりました。

  

  いきなり、写真の説明で失礼しましたが、ここは拙者宅から約10分くらいの場所にあります「八幡原(はちまんはら)・川中島古戦場」というところです。 およそ500 年位前に越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が十数回の戦いをなしたと云われており、ここ川中島平一帯での戦いは、NHK ・ TV の大河ドラマ「天と地と!」、「風林火山!」、「天地人!」や、また民放各局も類似した番組を放映していると思います。

  

  長野インターからも近いので、結構観光バスが入って来て、観光の目玉にもなっています。

   

  全く関係ありませんが、子供の頃は、漫画やラジオの「赤胴鈴之助」に夢中でした!

 

  剣をとっては日本一の、夢は大きな少年剣士!~~~ っと。