沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩396 本土人 (本土の土人) 

2012年12月15日 10時00分11秒 | 政治論
 もし「沖縄と私」などという表題で書き出したら、その時点でこのブログは閉鎖することになろう。「オキナワ」という呼称はあるがそれに深く関連した「私」などというものは金輪際ない。その意味では「私」筆者は「本土人」そのものということになる。「オキナワ人と本土人」という表題ならこのブログも辛うじて、アタマに「詩」と銘打った意味を失わずに済む。この12月でまる6年の移住生活が「やんばる」と呼ばれる沖縄北部の村落において、あっという間に時間的経過をした。今筆者は「沖縄に移住した本土人」と言えるが、もしかするとそれは単に「沖縄に移り住んだ一人間」ということに過ぎないかもしれない。「沖縄」が「埼玉」でも一向に変わらないことの意味とは一体何か。それはこの一人間がそれ以前に、この地に移り住むことに何らかの特別な意思を加味していたというような歴史は一切なかったという意味だ。従って実を言えば、最初に降り立って歩いたこの地の空気は意外に下水臭いという密かな不快感で始まったし、その後も意識するしないにかかわらず生まれてからずっと何気なく染み込んだ「本土」の空気感と比較して顔をしかめる場面が何度となくあった。これが何か重大な意味を持つとは思わない。ここに居るのは「沖縄と私」に直結する「私」である。この「私」が恣意に縁どられ臆面もなく「感想」「感触」「心持ち」をツラツラ述べ立てるような「本土人」の傾向を、あるいは筆者だけに限定する「ありのままのエゴイズム」を正当化する勝手を、そしてこうした場所で、何もかも無反省に貫こうという本土人の思い上がった心根を、むしろ嫌悪する「本土人」がひとりでもいるべきだという、脆弱な覚束無い「意識改革」という名の「詩」に生きる。されど現場だ。こうしてる間に高江のオスプレイヘリパッドは問答無用で着々と完成に近づきつつある。だけどどうしようもない。彼らの「植民地主義」が「非暴力不服従」で無作為に折れるということは果たしてありうることだろうか。辺野古の民衆行動は、新基地建設のうちの「公有水面」埋め立て行為を頓挫させているとはいえ、いつか「代執行」が強行されるんじゃないのか(県はその可能性に言及している)。こういう「本土人」である沖縄移住者の恣意的な絶望感というのはリアルにあり堪え難く現実的であり、同時に自らの「本土人」への憤怒に似た吐き気、高ぶりをどうにかして有効な行動へ転化したいと、思っているのかもしれない。いずれにしろ本土人たる「私」を語ることはこれだけにする。(中断)