沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩506 文民の怒り 20 現状 3

2014年02月27日 07時33分10秒 | 政治論

 ソクラテスは「悪法も法」として個人の、あるいは対処主体の受動性に鑑み、現状を時間的現在の究極した確定状況と見做し、ここに存在する既定の法秩序を受け入れ、毒杯をあおって自死したと、伝えられる。その詳細は彼の「弁明」に開陳されているが、勿論自ら記したものではなく、我々は其処に彼が言わんとしている真正の精神を眺望するしか方途はない。彼が生涯一編の著作も残してないことは、彼の現場主義、現実の問題に直面して考え、対話し、対話の中でのみ答えを析出していく独特の哲学的論理学的方法からきている。この方法は、取り立てて難しいものではないのだが、対話による「肉声」が持つリアリテイやその質感、あるいはインパクトなどは論理的筋立てに微妙に影響して、そこに何らかの人間的な、情緒的な意味合いも生じて味わい深い関係性さえ作り出すものであろう。人間と人間の人間的交渉においていかに論理的に課題、問題を解き明かしていくか、「白熱教室」のような可視的透明性を基礎とする自由参加の浩然たる議論が展開される。しかし、そこに「賢者」はいない。いてもいいが彼は正しくない。尤もそれは彼個人に帰一するだけの単独な問題だ。賢者がいなければ愚者ばかりか、といえばそうではなく、「無知の知」を秤とする最大知だけが求められているのである。

 国がやろうとしていることは結局ひとつの想定、仮想を基にした軍事的解決法の模索であり、机上の空論でしかないが、これを法定化し施行したとき我々にとって別の現実を見せられることになる。即ち沖縄県名護市辺野古崎につき、かねてから長期計画のひとつとされていた新米軍軍事基地の建設、という現実だ(従って、日米政府の恫喝、偽善的欺瞞に屈服させられた仲井真県知事は普天間のための辺野古斬り捨て、という歴史的失政に先鞭をつけてしまったのだ)。これが、修辞学的欺瞞にさえ当たらない「普天間飛行場返還」にかこつけて「代替施設」という嘘の名称を附され実行されようとしている。かくして辺野古の住民も漁民も名護市民も沖縄県民も、反対する多くの議員、首長たちも、その存在を無視されて、呆然と立ち尽くしながら、日米政府とその手先たちの「粛々と」難なくクリアされる事務手続きによってどんどん進捗する国家的暴力的戦争準備行為を、口をあけてただ凝視している、という現実。(つづく)



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