沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩578 日本国の現実 31 国政及び沖縄

2015年03月20日 09時42分49秒 | 政治論

 独立精神は何故必要か。

 芋裸足(いもはだし)生活への逆戻り、という言われ方、言い方が世間の耳目を惹いたのは1968年の沖縄返還前最後の主席公選時であったらしいが、それが、対立候補の屋良朝苗氏が掲げる「米軍基地撤去、即時無条件返還」のスローガンに対する一方の西銘順治候補が言ったものかどうかは別として、この考え方は概ね現在の辺野古問題においてさえ脈々と持続されていることは、ネット右翼のヘイトスピーチも含め彼等ヤマトゥ政府官僚政治家連中が持っている「沖縄」に対する最たる偏見の代表的なものだということである。しかし今この言い方言われ方がそのまま通用するとはこれまた誰も思ってはいない(沖縄県財政における基地関連シェアは5%程度である)。残滓はあるとしてもこれが故に沖縄差別があるわけでないことは彼等も認めることだろう。「アメとムチ」のやり方が反感を買うことは彼等も感じている。安倍晋三のやり方には、言って見れば「ムチ」だけの強硬路線がはっきりと見られ、このやり方が通用すると思っている時点で安倍晋三が「時代錯誤」乃至「思い込んだら命がけ」的な愚昧さに侵されていることは明白に見えている。しかし、冷戦の終焉と同時にレーゾンデートルを喪失したはずの「沖縄偏在米軍基地」という内容の日米安保体制が米国および日本の軍産複合戦争経済主義一筋に再編される過程で、この体制の内容(沖縄偏在)を如何に消化するかという問題は当然に議題化されたであろうし、その途次に「米兵による少女暴行事件」があって俄然現在の辺野古問題へ究極していったわけである。アメでもムチでもない、沖縄偏在米軍基地のための正当な理由は最早どこにも存在しない。だから安倍晋三は彼自身の政治的実現課題としてなりふり構わず、先ずは前仲井真知事を言葉巧みに籠絡懐柔し、翁長新知事が何を言おうが一度水を得た魚類並に即決即断で事を処理しよう、ということになる。彼の中には「琉球沖縄の民族的歴史」に関する知識、認識などどこを探しても見当たらない。官僚が「馬鹿の一つ覚え」で教えた「県民の意に沿って」「県民の理解を得ながら」という空言を繰り返しているだけで、この宰相が何らかの政治理念を持って問題解決するなんてことは金輪際起こり得ようもない。しかしこの宰相が彼自身言っているようにこの国の「最高権力者」「最高権力をふるえる存在」であることは否でも認めないわけにはいかない。そしてこうした頭越しの理屈で沖縄が最も忌避し否定する「軍事的展開」を繰り返す安倍晋三以下自民党政治がのさばっている限り、沖縄が普通に憲法のもと基本的な生存生活を全きものにする安心した状態は来ない、と覚悟するしかない。

 恐らくは、行き着くところ正真正銘の琉球国独立宣言以外にはないのであろう。だが、この道も所詮は精神的な問題であり、「祖国復帰」という形容矛盾(ヤマトゥは果たして祖国、と言えるのか)にさえ自己反省が必要なのだ。ここからこの考察を試行する。(つづく)