野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

掘割祭

2012-04-22 07:40:11 | 野々池周辺

今年も4月18日午前10時半から「掘割祭」が開催された。
4日程まえから、その周りの草刈りや植木の選定が行われていたので、今年も掘割祭の時期が来たと気付く。 林崎掘割渠記碑にある八重桜が咲いてくれたらベストなんだが、18日は堅い蕾のままだった。 確か、昨年同日の蕾はもう少し紅く膨らんでいたと記憶しているんだが。

祭では、昨年同様に約300人程が参列し、明石掘割土地改良区が祭主を務め、林神社の宮司が祭事を執り行った。 当時の掘割工事にかかわった村人の子孫ら関係者が順に玉ぐしをささげたあと、今年は明石市沢池小学校の児童の代表男女3名が祭文を読んだ。 この様子を明石ケーブルテレビが撮影し、インタビュアーが関係者を取材していた。

式の途中で沢池小学校の児童が合唱し始めた。初めて聞く歌だったので、教師に聞くと「赤石 掘割の歌」だそうだ。 歌詞の途中に「刑罰?」らしき言葉がでてきたので、興味があって歌詞を生徒に見せてもらったが、ひらがなばかりで文脈が上手く掴めない。 多分、先人達が相当に苦労して掘割を建設した事を称える内容だろうけど、それが刑罰らしき言葉と関係するのかと思って、調べてみた。

当時の代官や庄屋達は、明石川から堀割を引き野々池に水を蓄える、掘割工事の許可を明石藩主の松平忠国に願い出たが、 明石藩は大工事であったため、始めは許可しなかったそうだ。 そこで、失敗したら請願者一同厳罰に科せられてもかまわないとの覚悟を説明し、掘割工事を許可を得たとの事。 工事を藩費で賄った姫路藩と違い、農民自らの手で、農閑期を利用して行われたそうだ。 林崎地方の6村(和坂・鳥羽・林・東松江・西松江・藤江)は水不足で困っていたので 、農民自ら疏水を開発した。 「失敗したら厳罰をも受けると言う」、この決意が歌詞に中に織り込まれたのだろう。・・・・今では考えられない事だ。

「堀割祭」で小学生が毎年参列し感謝の祭文を読むことは、先達たちが苦労して成し遂げた歴史の正しい伝承のためには必要なこと。 キチンと日本の歴史を教育されていると感じた。 18日は天候も暑くなっていて、長い掘割祭に少しグロッキー気味の生徒もいたが、先生達も良く指導されていた。




明石ケーブルテレビによる撮影



アナウンサーによる理事長と先祖が掘割に関係した子孫(?)へのインタビュー



350年以上も変わることもなく明石川からの水を流し続ける林崎疏水
 
石碑に刻まれた碑文内容は苔が生え解読できないが、説明板文には下記が記載してある。
明石市指定文化財
「林崎掘割渠記碑」
 一、明暦三年(1657)、旱魃で苦しんでいた林崎地方の村(和坂・鳥羽・林・東松
   江・西松江・藤江)が 相談し明石川の上流から野々池まで掘割をつくり、灌漑
   用の水を確保した。
 一、天文四年(1739)十二月、この掘割工事の経緯を長く後世に伝えるため、
   撰文を明石藩の儒学者梁田蛻巌に書を田原荷龍に依頼し碑を建立した。
 一、毎年四月十八日、この碑の前で、「掘割祭」が行われ、地元の水利関係者、
   小学生児童が参加し、先人たちの偉業をたたえている。

 「林崎掘割渠記碑」 
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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (M.B)
2012-04-22 23:14:14
堀割にもこんな歴史があって、ちゃんと引き継がれているんだね。興味深いね。
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取材 (mohtsu)
2012-04-25 07:42:52
昨日(24日)、野々池でケーブルテレビの取材があったようです。
気候も良くなったので、ウォーキングする人も多くなってきました。
返信する

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