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37年間の歴史です。私はこの歴史をたどりながら、新版『資本論』の特徴と意義について話したいと思います」と述べ、講演に入りました。

2019-09-23 | 科学的社会主義の発展のために

新版『資本論』刊行記念講演会

『資本論』編集の歴史から見た新版の意義

不破哲三党社会科学研究所所長の講演(詳報)

 20日に東京都内で開かれた新版『資本論』刊行記念講演会(日本共産党中央委員会、新日本出版社主催)での不破哲三社会科学研究所所長の講演の詳報は次の通りです。


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(写真)講演する不破哲三氏=20日、東京都新宿区

1、『資本論』の歴史を 振り返る

 不破氏は冒頭、「『資本論』には歴史があります。マルクス(1818~83年)が最初の草稿執筆を開始したのは1857年、マルクスが死んでエンゲルス(1820~95年)の編集によって『資本論』最後の巻が刊行されたのが1894年。37年間の歴史です。私はこの歴史をたどりながら、新版『資本論』の特徴と意義について話したいと思います」と述べ、講演に入りました。

1865年の大転換

 不破氏はまず、『資本論』とその草稿全体を執筆順に並べて紹介しました。

 (1)『1857年~58年草稿』 『資本論』の最初の草稿で、7冊のノートから成りたっています。

 (2)『経済学批判』(1859年刊行) 経済学研究の最初の部分、商品と貨幣の部分をまとめたもので、草稿ではなく出版されたものです。

 (3)『1861年~63年草稿』 23冊の膨大なノートです。

 (4)『資本論』第1部初稿(1863年~64年夏) 題名を『資本論』と変えてまず書いた草稿です。

 (5)第3部第1編~第3編(1864年夏~12月) 第2部「流通過程」を飛ばしたのは、執筆するにはまだ研究不足と思ったからと思われます。

 不破氏は「私はここまでの草稿を『資本論』の“前期草稿”と見ています。なぜかというと、この次にマルクスは大発見をするのです」と述べました。

 それは、マルクスが1865年に第2部第1草稿を書く中で「恐慌の運動論」を発見したことでした。

 前期の草稿と後期の草稿と何が一番違うのか。それは、「恐慌の運動論」の発見により、資本主義社会がなぜ没落して社会主義社会に変わるのかという資本主義の没落論が大きく変わったことです。

 “前期草稿”では、マルクスは、リカードから引き継いだ「利潤率の低下の法則」を革命に結びつけて、利潤率が下がるから恐慌が起きる、そして恐慌が起きるから革命が起きるという「恐慌=革命」論に立っていました。

 ところが、新しい恐慌論は、恐慌は利潤率の低下から起きるのではなく、資本の再生産過程に商人が介入することが恐慌を引き起こすことになるというものでした。

 マルクスはこの大発見の直後に改めて第3部の残りの草稿を新しい構想で書き始めました。それから第1部を完成させ、次に第2部草稿を書いている途中で死を迎えました。未完成に終わった第2部、第3部は、マルクスの残された草稿をもとにエンゲルスが編集したものでした。

 マルクスの経済学の要は二つあります。第一は、なぜ資本主義が封建社会にかわって生まれ発展したのかを解明した部分で、マルクスはこれを資本主義の「肯定的理解」と呼びました。第二は、資本主義がなぜ矛盾が大きくなって次の社会に交代するのかを解明した部分で、マルクスはそれを資本主義の「必然的没落の理解」と呼びました。

 不破氏は「第2部第1草稿での新しい恐慌の運動論を軸にして『必然的没落』の理解がすっかり変わってしまった。このことを『資本論』の歴史を見るときにしっかりつかんでいただきたい」と強調しました。そして、これがその後の経済学の理論体系の大きな変更の転機となり、『資本論』を第1部とするそれまでの6部構成の構想から『資本論』1本に集約する新しい構想に変わったことを指摘しました。

 ところが、エンゲルスは大転換以前の第3部の初めの部分と発見後の後の部分を同じように考えて編集してしまうという大きな問題が残ったのでした。

直ちに新しい没落論へ

 この経済学上の理論転換は、マルクスが第一インターナショナル(国際労働者協会、1864年設立)の事実上の指導者としてヨーロッパの労働者運動の先頭に立った時期と、くしくも一致していました。

 マルクスはこういう実践活動に携わりながら、資本主義のもとでの生産手段の巨大な発展が次の社会の物質的土台を準備するとともに、搾取と貧困、抑圧の増大に対する労働者階級の闘争、「資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合される労働者階級の反抗」こそが資本主義の没落の推進力となることを解明し、経済的矛盾の深刻化と社会変革の任務を担う労働者階級の主体的発展の二つの面をあわせて視野に入れた資本主義の新しい必然的没落論を定式化したのでした。

 不破氏は「マルクスの実践的活動の発展と、この恐慌の運動論の発見による経済学の転換が同じ時期に行われたのは本当に不思議だと思うのですが、この転換をつかむのが『資本論』の歴史をつかむうえでは非常に大事なのです」と重ねて強調しました。

写真

(写真)新版『資本論』(新日本出版社)

2、エンゲルスの編集史と 後継者の責任

 エンゲルスは、残された第2部、第3部の膨大な草稿にもとづいて、『資本論』編集の仕事にかかりました。

 しかし、これは容易な仕事ではありませんでした。

マルクス流「象形文字」の解読 

 編集にとりかかるには、まずマルクスの草稿を解読する仕事がありました。マルクスの筆跡は「象形文字」といわれるほどの悪筆で、それを読めるのはマルクス夫人亡き後はエンゲルスだけでした。

 エンゲルスは病気に苦しみながら、ソファに横になりながら草稿を解読して読み上げ、特別に雇った筆記者にそれを筆記してもらい、夜、エンゲルスがそれに手を入れ清書しました。それは毎日5時間から10時間、5カ月の「難行苦行」(エンゲルスの友人への手紙)で、夜の仕事のために次の段階でエンゲルスを眼病で悩ます大きな原因となりました。

 第2部の編集は84年5月から始まり、1885年1月に完了しました。

10年かかった第3部の編集 

 第3部は1885年2月から口述筆記を始めて7月には完了しました。このとき、エンゲルスは第3部を読んで受けた感銘を各方面に書き送っています。

 しかし、編集作業の条件はさらに悪化しました。エンゲルスの体調の悪化に加え、視力の減退が始まりました。さらに、急速に発展しつつある各国の運動への援助のための全集で2000ページを超える手紙の執筆をはじめ、やむを得ない自身の著作や論説の執筆のほか、マルクスの著作の刊行などで、『資本論』に取り組むまとまった時間が取れませんでした。

 口述が終わり、1888年から第3部の編集が始まりましたが、編集は困難を極め、最後の2編を印刷所に送ったのが94年5月でした。10年近い歳月をかけて生み出されたのが現在の第3部で、これで、『資本論』全3部を世界が手にすることができるようになったのでした。

 その10カ月後、1895年8月、エンゲルスは死去しました。「まさに『資本論』に命をささげたといっていいと思います」(不破氏)

悪条件のもとでの編集作業 

 エンゲルスの第2部、第3部の編集作業は大変な悪条件のもとで行われたものでした。

 エンゲルスは草稿を手にするまでマルクスから内容を知らされていませんでした。また、残された草稿は第1部と同じように仕上げられたものだと考え、その一部にマルクスの理論的転換以前の古い見解が残っていることはまったく想定できませんでした。さらに『57~58年草稿』『61~63年草稿』を研究して編集に生かすことは不可能でした。

 不破氏は「こういう困難を極めた歴史的条件のもとでエンゲルスは最善を尽くしたと思います。その努力があったからこそ、『資本論』の全体像が後世に伝わることができました。これはエンゲルスならではの歴史的功績だったと思います。私は今回、改めてその全経過を振り返って、その意義を痛感しました。後の機会に、エンゲルスの苦闘の経過をまとめて紹介する仕事を自分の課題にしたい気になりました」と語りました。

 同時に、「こういう困難な条件の下で、エンゲルス単独の努力で行われた編集作業が歴史的限界をまぬがれないことは当然です。いくつかの問題点が残りました。今日、マルクス、エンゲルスの新しい完全版全集=略称『新メガ』の刊行で、90年代半ば以後には、諸草稿のほとんど全体を日本語で読めるようになりました。ですからエンゲルス編集の歴史的到達点に安住せず、その問題点を調べて解決するのは、新しい条件を得たわれわれの責任だと思います。その責任を果たしたのが、今回の新版の大きな特徴・成果だということを報告したいと思います」と強調しました。

3、現行版の編集上の問題点

資本主義の「必然的没落」論と恐慌論 

 エンゲルスの編集の現行版の最大の問題点は、現行の『資本論』への発展の起点となったと意義付けた第2部第1草稿における新しい恐慌の運動論が見落とされたことでした。

 エンゲルスは第2部の序言(1885年)に「第1草稿は、現在の区分での第2部の最初の独立の、しかし多かれ少なかれ断片的な草稿である。これからも利用できなかった」と述べています。確かに第1草稿は全体としては未熟さを大きく残したものでしたが、そのために新しい恐慌の運動論が見落とされてしまったのでした。

 そこから二つの問題が生まれました。

 第1は、マルクスが克服した「利潤率の低下→恐慌→社会変革」という古い没落論が第3部に残ってしまったことです。そのため、第1部で展開した労働者階級の闘争を軸にした新しい革命的な没落論が全面的にはとらえられないようになってしまいました。

 第2の問題は、新しい恐慌論の本格的な説明が欠けたことです。第3部第4編の「商人資本」論の中である程度の解明はあるのですが、「商人資本」の特殊な説明として受け取られ、読み過ごされる形になってしまいました。

 新版では、それぞれの箇所で、新しい恐慌論にかかわる必要な説明を「注」で行って補うとともに、第2部の最後には、マルクスが恐慌論の本格的な展開を予定していた箇所にかなり大きな「訳注」を立て、第2部第1草稿の恐慌論の全文を掲載して、マルクスの恐慌論の到達点を正確に示すことにしています。

そのほかの一連の問題

 そのほかにも、エンゲルスの編集の問題点として新版で解明した大きな問題があります。

 マルクスは、解決すべき新しい問題にぶつかった時、解決の方法を見いだすために、書きながら問題の入り口や道筋をいろいろ考えて試行錯誤を繰り返すことがよくありました。「蓄積と拡大再生産」(第2部第3編第21章)もその典型の一つです。

 新版では、独自の注を付けて、マルクスの試行錯誤の過程であることが分かるように工夫しました。

 また、マルクスは、ノートに書くときに、イギリス議会の議事録抜粋など別目的の文章を、本文と明確に区別して書き込む習慣がありました。ところが現行版では、本文と別目的の文章との区別に気が付かないで、全てを本文として編集してしまう場合がしばしばありました。

 新版では、『資本論』に入るべきではなかった草稿が部分的に入り込んでしまった事実が分かるようになっています。

未来社会論の取り扱い

 重要な問題として、第3部第7編第48章「三位一体的定式」の最初に近い部分にある未来社会論の取り扱いがあります。

 ここでマルクスは、社会における人間の活動を二つの部分に分け、社会を維持するための物質的生産に参加する時間を「必然性の国」、それ以外の自分が自由に使える時間を「自由の国」と呼び、自由の時間を持つほど人間は発達することができる、未来社会=共産主義社会ではみんなが平等に労働して労働時間が短縮され、みんなが豊かな「自由の国」を持つようになる、それがまた「必然性の国」に反作用して労働時間が短くなって社会は発展するという壮大な未来社会論を展開しました。

 ところが、この章全体は、「資本」が利子を生み、「労働」が賃金を生み、「土地所有」が地代を生むのは自然の法則だとする俗流経済学の批判にあてられたものだったため、未来社会論はこの章の性格と異質のものとして、この章の主題の中に埋没して、未来社会論としては読まれないという状況が続いていました。

 不破氏は「私たちも、新しい党綱領をつくるときに、初めてこの文章を発見しました。これほど重要な未来社会論が見落とされたのは、この章の編集の仕方に一つの原因がありました」と述べました。

 マルクスは草稿を書く時、その場所の本来の主題ではないことを思いついたとき、カギかっこ付きで書き込むことがよくありました。この未来社会論もこの章の冒頭にカギかっこ付きで書かれていました。ところが、現行版では、「三位一体論」批判の本論の間に未来社会論を置くということになりました。そのため、未来社会論の到達点が俗流経済学批判の中に埋没し、内容を理解されないまま、読み過ごされる結果となったのでした。

 新版では、未来社会論を、マルクスの草稿どおりこの編の冒頭において区別を付けて、その独自の意義の分かる訳注を付けました。

4、新版『資本論』刊行の 歴史的な意義

 不破氏は最後に、次のように語りました。

 「今年は、エンゲルスが『資本論』第2部を刊行してから134年、第3部を刊行してから125年にあたる年です。この間、日本でも世界でも『資本論』の多くの諸版が発行されてきました。しかし、エンゲルスによる編集の内容そのものに検討を加え、残された問題点を解決して、マルクスの到達した理論的立場をより鮮明にする、こういう立場で翻訳・編集した『資本論』の新版の刊行は、これまで世界に例がないものです。

 それだけに、私たちは当事者としてその責任の重さを痛切に感じています。

 私たちは、エンゲルスが十分に読み取る機会と条件のなかった『資本論』成立の歴史を、資料の面でもこれだけ明らかになった現在、この仕事をやりきることは、マルクス、エンゲルスの事業の継承者としての責任であり義務であると考えて、この仕事に当たってきました。そして、今回、発刊する新版『資本論』は、エンゲルスが資料も時間も十分に持たない中で行った編集事業の労苦に思いを寄せ、その成果を全面的に生かしながらマルクスの経済学的到達点をより正確に反映するものになったことを確信しています。現代の日本で、また広くは現代の世界で、マルクスの理論を指針として社会の進歩と発展に力を尽くそうとする多くの人々が、この新版『資本論』を活用していただくことを心から願って、私の話の結びとするものです」

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将来は手話落語が電波で流れて、それを一般の視聴者が普通に楽しんでくれる。それが私の夢ですな。そして、そういう時は必ず来ます」

2019-09-23 | 市民のくらしのなかで

声失って編み出した「手話落語」――

桂福団治、40年の軌跡

8/26(月) 8:10 配信

上方落語界の大御所・桂福団治(78)。テレビ・ラジオで10本以上のレギュラー番組を抱えていた30代の時、一時的に喉の病気で声が出なくなり、仕事も失った。「なんとか自分の芸を残したい」――。その思いで取り組んだのは「手話落語」。それ以来約40年、第一人者として、弟子たちとともに活動の幅を広げている。福祉としてだけではなく、手話落語を確固とした文化へ。福団治の軌跡を追った。(三重テレビ/Yahoo!ニュース 特集編集部)

 

40年続けた「手話落語」

体育館に特設された高座に福団治が上がる。披露するのは「手話落語」。両手を大きく使った手話とともに張りのある声が響くと児童の笑いがどっと起きた。

津市立高茶屋小学校で開かれた落語鑑賞会。福団治は児童に理解できるように十分な間を取りながら演じる。演目が終わると、使った手話の一部を解説して、児童たちにも実践してもらう。

(撮影:三重テレビ)

全国各地の学校やショッピングモールなどで「手話落語」を披露する取り組みを福団治はもう40年近く続けている。きっかけは、喉の病気で一時的に声が出なくなったことだった。福団治は述懐する。

「声が戻らなければ、今まで培ってきた芸がゼロになってしまう……そうなれば、死んでも死にきれない。なんとか自分の芸を生かす方法はないかという思いが、手話と結びついたんです」

(撮影:宗石佳子)

声と仕事を失って

桂福団治(本名:黒川亮)は1940年、三重県四日市市の造り酒屋に生まれた。三代目桂春団治の華麗な芸風に魅了され1960年に入門。「一春」「小春」を経て1973年、四代目桂福団治を襲名した。

大阪・道頓堀角座(かどざ)での桂枝雀(しじゃく)、笑福亭枝鶴(しかく)とのトリプル襲名は大きな話題となり、福団治はテレビ・ラジオのレギュラー番組を10本以上抱えるようになった。1975年公開の映画「鬼の詩」(藤本義一原作)では主演を務め、芸能界で大きく飛躍しようとしていた。

(撮影:宗石佳子)

そのさなかに突然、暗雲がたちこめる。1977年、声の調子が悪くなり喉にポリープが見つかった。手術して3カ月間、声が出なくなったのである。持っていたレギュラー番組のほとんどを手放さざるを得なかった。福団治はこの時の気持ちをこう振り返る。

「やっと勝ち取ったレギュラーだったのに。とにかく、体の一部が削り取られる思いでした。でも落語というものを捨てたくはなかった……」

福団治は、手話教室を開くなど聴覚障がい者をサポートする施設「大阪ろうあ会館」の紹介でろう学校の教員と出会う。熱心に依頼すると、その教員は出勤前の朝7時頃から手話を教えてくれたという。3カ月で800語くらいをマスターした。

(撮影:宗石佳子)

手話を学んだのは、何としても自分の芸を残したいという思いだった。一方で、手話を学ぶ過程で聴覚障がいのある人たちとふれ合い、彼らに落語の面白さを伝えたいという気持ちも生まれていた。

声が出るようになって福団治は高座に復帰。一緒に手話を学んでいた聴覚障がいのある男子高校生が福団治の落語を聞きに角座を訪れた。その時、多くの観客は笑っていたが、彼だけはキョトンとしていたという。

なんとか彼を笑わせられないか――。福団治は落語に手話を取り入れようと、試行錯誤を始めた。しかし、落語はもともと音声を軸に笑わせる「聴覚芸」。手話の導入は誰もやったことがない。

例えば手話の特性からくる難しさがある。手話は、さまざまな言葉の意味を手の位置や形、動きなどの組み合わせで伝える。だから同音異義語を表現することができないのだ。

(撮影:宗石佳子)

となると、だじゃれでオチをつける、いわゆる「地口(じぐち)オチ」は伝わらないという。著名な古典落語の演目でも「肝心の心棒(辛抱)が狂ってます」(悋気の独楽<りんきのこま>)、「楊貴妃(ようヒヒ)に似ています」(猿後家)といった地口オチがある。

「内容(ストーリー)で笑わせなければならないんです」と福団治は話す。

独学で研究を重ね、時には喫茶店に男子高校生を呼んで見てもらうこともあった。

「ある時、その彼がワッと笑ってくれたんです。『受けた!』と思いました。それがきっかけで落語を手話で作り替えては彼に見せ、ネタが三つ、四つと増えていったんです」

親子の涙が押した背中

1980年、手話落語を初めて披露する機会が訪れる。会場は奈良県文化会館。福団治が落語に手話を取り入れていることを聞きつけた奈良県内の福祉関係者からの依頼だった。

観客は約1000人。そのうち聴覚障がい者が約2割を占めていた。ほとんど誰も見たことがない手話落語の初披露とあって、テレビ局や新聞社も数多く取材に来ていた。福団治はこの時、一抹の不安を感じていたという。それは、伝統を重んじる落語界の反応だ。

「何百年の伝統ある“聴く古典芸”を、“見る芸”に勝手に作り替えたら(落語界を)クビになるのと違うやろか」

(撮影:宗石佳子)

しかし、聴覚障がい者に楽しんでもらいたいという気持ちが上回った。

小噺や落語「時うどん」などを必死で演じた。身ぶり手ぶりをいつもよりオーバーにしたこともあり、大きな笑いが何度も起こった。気付いたら予定時間を30分も過ぎていた。

舞台の幕が降り、福団治が楽屋に戻った時、8歳くらいの男の子の手を引いた母親が訪ねてきた。男の子は福団治に握手を求め、母親はこう言ったという。

「この子は声が出ないし、耳が聞こえないんです。珍しい手話落語を見たいと言うので連れてきたら、この子、私の袖を引っ張って笑って……。こんなに笑った顔を見たのは初めて。息子の喜んでいる姿を見せてもらって、ありがとう……」

母親は福団治の手を握って涙ぐんだという。

「大きな励みになりました。喜んでもらってよかった。クビになっても続けていこうと思ったのは、このお母さんの言葉でした」

(撮影:宗石佳子)

「手話落語教室」を開く

1981年には「手話落語教室」を開いた。教室では障がいの有無を問わず生徒を受け入れた。

ある日、福団治は自身の体調が悪く教室を休講にしようとした。聴覚障がいのある生徒の家に休講を伝える電話を掛けたところ、生徒の母親が話す電話口の向こうから父親の声が聞こえてきた。

「うちの息子、まだ手話落語みたいなもんやってんのか。もう習いに行かせるの、やめとけ! 息子は見せ物やないんや」

福団治は振り返る。

「それまで“ええことしてますな”と言われてきたけど、反対してる家族もいるんやと知りました」

一方で「無料で教えてんのに何でそこまで言われなあかんねん」という思いもあり、「もうやめたろか」という気になった。教室を施錠しようと鍵を取りに行くと、その生徒が待っていた。ニコニコ笑って「先生!」と手を振る。

(撮影:宗石佳子)

「気が変わりました。彼(生徒)は昼間の仕事を終えて会社からここへ飛んできた……。親は反対してても子どもはこれだけ習いたいと思ってくれてるんや。親は親、子は子や」

福団治は、何事もなかったように「ほな、やろか」と、稽古に入った。

1995年12月、国立文楽劇場(大阪市)で手話落語の披露公演が行われた。舞台には、その彼の姿があった。そして客席には反対していた父親の姿。父親は、息子が高座に上がった姿を目にすると、ハンカチで目頭を押さえていたという。

福団治はしみじみと回想する。

「教室をやめんと続けてて良かったとつくづく思いました」

(撮影:宗石佳子)

活躍する手話落語の弟子たち

これまでに教えた生徒は200人を超える。手話落語の弟子は「宇宙亭」一門とし、名前をつけた弟子は約40人に上る。現在、福団治の指導を受けた宇宙亭福だんご、笑任、新福らが活躍している。

手話落語を始めて36年というベテラン・宇宙亭福だんごは、現在55歳。学校やショッピングモールで開かれる手話寄席で、師匠とともに舞台に上がっている。

ショッピングモールで手話落語を披露する宇宙亭福だんご(撮影:三重テレビ)

手話を学んでいた19歳の時、すでに手話落語に取り組んでいた先輩から「顔が面白いから手話落語にピッタリ」と引っ張られたのがきっかけだった。

手話落語を披露し、勤めていた会社で人気者になった。今では多くのファンもついている。

「オチをつくるのが難しいですが、自分は表情がいいと言ってもらうことが多い。手話と出合って良かったと思っています」

福だんご以外の弟子も、忙しい日々を送っている。福団治のマネジャー、今井三紗子さんは「(弟子たちに)福団治が仕事を頼んでも断ってくるんです」と笑う。

福団治と弟子たちの活動で、手話落語のすそ野は着実に広がっている。

「人生観が変わった」

手話落語は、古典落語を演じる上でも役立ったと福団治は語る。

「聴覚障がい者とふれ合う中で人生観が変わったんです。彼らと出会ったのをきっかけに、人情というものを重んじるようになりました」

(撮影:宗石佳子)

福団治がよく高座にかける演目は「藪入り」「蜆(しじみ)売り」「ねずみ穴」「南京屋政談」などのいわゆる人情噺である。人情噺とは、笑いに力点を置くのではなく、親子の情愛や家族の絆、人間同士の心のふれ合いを描いたものだ。

手話落語のほかにも、福団治を人情噺に傾倒させる出来事があった。1982年、次男の晃次くんを白血病で亡くしたことだ。当時、小学2年生。8歳だった。

1982年に晃次くんを亡くし、2018年には長年連れ添った妻で、ものまね歌謡芸人・翠みち代さんを亡くした(撮影:宗石佳子)

「どれだけ悔やんで嘆いたか。何日も思い悲しみにふけっていたのを思い出します。目に入れても痛くない分身を亡くしました。それで自然と人情噺に溶け込んでいったんです。演じているのではなく、心の神髄を表現できるようになった。決して息子は『無』ではなかった。僕に人情噺という大きなものを与えてくれたから」

3年ぶりに奉公から帰ってくる息子(藪入り)、寒い中で貝を売って歩く少年(蜆売り)など、福団治の噺には子どもが多く登場する。それは息子の死と無縁ではないのだろう。

(撮影:宗石佳子)

福団治が手話落語という世界を切り開いて40年近く。その将来をどう考えているのか。

「以前は福祉の分野での社会貢献という位置付けやったんです。でも今は健常者も含め多くの人が普通の娯楽として手話落語を見に来てくれるようになりました。将来は手話落語が電波で流れて、それを一般の視聴者が普通に楽しんでくれる。それが私の夢ですな。そして、そういう時は必ず来ます」

(撮影:宗石佳子)

桂福団治(かつら・ふくだんじ)
1940年、三重県四日市市生まれ。60年、三代目桂春団治に入門。一春、小春を経て73年、四代目桂福団治を襲名。78年、手話落語を考案し、81年に手話落語教室を開校。以来、手話落語の第一人者として活動する。81年、「上方お笑い大賞功労賞」受賞。98年、「文化庁芸術祭演芸部門優秀賞」受賞。関西演芸協会第10代会長、上方落語協会相談役。2019年10月6日、四日市市文化会館で開かれる第16回文治まつりに出演。10月26日には大阪松竹座で桂福団治芸歴60年記念公演を行う。


本記事は、三重テレビ放送とYahoo!ニュース 特集編集部による共同取材企画。三重テレビ放送は1969年開局の独立系テレビ局。三重県全域と愛知県の一部を放送対象とし、数多くの自社制作番組を放送している。公式サイトはこちら

[取材・編集]
小川秀幸(三重テレビ放送)
Yahoo!ニュース 特集編集部

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中国の内政に粗暴に干渉し、「チベット独立」分裂勢力に深刻な誤ったシグナルを送るものだ。中国側はこれに断固反対する。

2019-09-23 | 世界の変化はすすむ

外交部、米側にチベット問題を利用した中国への

内政干渉を止めるよう促す

人民網日本語版 2019年09月20日16:01
 
外交部、米側にチベット問題を利用した中国への内政干渉を止めるよう促す
 

外交部(外務省)の耿爽報道官は19日の定例記者会見で「中国側は米議員の提出したチベットに関する法案に断固たる反対を表明する。米側に対して、この法案を推進することを止め、チベット問題を利用した中国への内政干渉を止めるよう促す」と述べた。

【記者】このほど米国の一部議員が「2019年チベット政策及び支持法案」を米下院に提出したことについて、コメントは。

【耿報道官】この法案は国際関係の基本準則への重大な違反であり、中国の内政に粗暴に干渉し、「チベット独立」分裂勢力に深刻な誤ったシグナルを送るものだ。中国側はこれに断固反対する。

チベットの事は完全に中国の内政であり、いかなる外国勢力の干渉も許さない。われわれは米側に対して、チベットに関する問題の高度の敏感性を十分明確に認識し、この法案を推進することを止め、チベット問題を利用した中国への内政干渉を止めるよう促す。(編集NA)

「人民網日本語版」2019年9月20日

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朝米協議の北朝鮮側首席代表として知られる外務省のキム・ミョンギル巡回大使はこれについて、「実現可能なものから段階的に解決していくことが最上の選択」と述べた。

2019-09-23 | 米朝対話

[社説]文大統領訪米、北朝鮮の核「新たな解決策」見出す契機に

登録:2019-09-23 02:00 修正:2019-09-23 02:02
 
 
文在寅大統領とキム・ジョンスク女史が22日午後、ソウル空港で米国への出国を前に手を振っている/聯合ニュース

 文在寅(ムン・ジェイン)大統領が22日、国連総会出席とドナルド・トランプ米大統領との首脳会談のために米ニューヨークに向けて出国した。26日までの3泊5日の日程で行われる今回の訪米は朝米実務協議が迫るなかで行われるものであり、いつにもまして注目される。また韓日の対立が続いており、韓米防衛費分担金交渉がまもなく再開されるなど敏感な懸案事項が多い。文大統領が24日(現地時間23日)に予定されるトランプ大統領との首脳会談において、北朝鮮の核問題解決に向けた踏み込んだ案を模索することにより、朝米交渉が順調に進む契機を作ることを期待する。

 文大統領の訪米を控え、朝米はいわゆる北朝鮮核問題の解決に向けた「新たな方法」を云々して期待を高めている。トランプ大統領は最近、「3年間でこの国に起きた最も良い出来事は、私が金正恩と非常にいい関係にあるということ」と述べて、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長に融和ジェスチャーを送っている。また、「リビア方式」を主張したジョン・ボルトン前国家安保担当大統領補佐官を批判しつつ、「ことによると新しい方法は非常に良いかもしれない」と述べている。トランプ大統領が述べた「新しい方法」が何なのかは明確ではないが、「先に核廃棄、後で補償」というリビア方式に対する北朝鮮の強い反発を意識したもののようだ。

 朝米が実際の交渉で「新しい方法」を模索するかどうかはまだ不透明だ。朝米協議の北朝鮮側首席代表として知られる外務省のキム・ミョンギル巡回大使はこれについて、「実現可能なものから段階的に解決していくことが最上の選択」と述べた。これは2月のハノイ会談の際、寧辺(ヨンビョン)核施設廃棄と対北朝鮮制裁の一部を交換しようとした北朝鮮の方式と同様である。米国は当時、最終段階を含むすべての核・ミサイル凍結などの包括的合意を要求し、交渉は物別れに終わった。まだ朝米が従来の方式を変えたと見るのは難しいが、新しい方法に言及していることには期待が持てる。

 朝米が新たな解決策に言及しているだけに、文大統領の「促進者」としての役割はさらに重要になっている。北朝鮮の非核化措置と米国の相応の措置が段階的に実現するにしても、非核化の包括的展望がより明確になるよう、文大統領は米国と北朝鮮を説得する必要がある。米国が段階的な解決策をもって一歩あゆみよってきたならば、北朝鮮は包括的なロードマップをより具体化すべきだ。韓米両首脳が今回の会談を通じて、北朝鮮核問題の創意的な解決策づくりにさらに一歩近づくことを期待する。

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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