大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!

世界の変化を見ながら世直し提言
朝鮮・韓国・中国・ロシアとの友好促進
日本語版新聞紹介

気持ちが皿洗いに集中することで時間の流れが遅くなり、リラックス効果が生まれる。時間と知覚の視点から見ると、精神の健康が促進される。

2020-09-06 | 「私がお話し」します。
ストレスがたまったら皿を洗おう
人民網日本語版 2020年09月04日08:36

米フロリダ州立大学の研究者は、心身に効く家事もあることを発見した。皿洗いにより頭の中を空っぽにし、ストレスを解消できるという。生命時報が伝えた。

研究によると、皿洗いをする時に洗剤の匂いや食器の形、触感に集中することで、ストレスが緩和され元気が出るという。気持ちが皿洗いに集中することで時間の流れが遅くなり、リラックス効果が生まれる。時間と知覚の視点から見ると、精神の健康が促進される。研究者は、普段から皿洗いなどの日常活動を非正式な集中力強化のトレーニングとすることで、ストレスを解消するよう提案している。(編集YF)
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連載36、 議会壇上から日本共産党を語る、議員最後の議事録から

2019-12-03 | 「私がお話し」します。

 世直しご一緒に  2010年は、韓国「併合」から1〇〇年の重要な年でした。

 ■□日朝協会代表理事として

 昨年(二〇一〇年)は、韓国「併合」一〇〇年の重要な年でした。

 私は日朝協会代表理事として、「西宮女性9条の会」をはじめ、あちこち講演に行きました。

 また、日朝協会の代表として原水爆禁止世界大会に参加し、分科会で非核の政府、非核の自治体を作ること、日朝平壌宣言と六者協議を通して日・朝・韓の正常な発展を実現することが、原水爆禁止二〇一一年世界大会の成功に貢献できる道であると発言してきました。

 議員退職後のこれからも、日本と朝鮮、韓国の友好のため、アジアの平和のためにがんばっていきたいと考えています。

 なお、日朝協会は、過去の不幸な歴史を再び繰り返させない日本国民の強い決意のもとに、一九五五年一一月に結成された日本で最も長い歴史を持つ、韓国・朝鮮の人々との友好運動にとりくむ日本国民の自主的で民主的な団体です。

大韓民国(韓国)・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の在日団体とも交流を進め、北東アジアの平和を確立するために、隣国との関係を早く正常化するために全力を挙げています。

 またハングル講座、史跡巡り、韓国などへの旅行、在日韓国・朝鮮人の方々との交流、各種の勉強会など明るく楽しく朝鮮問題への関心や要求をもとに活動をすすめている団体です。

 

 私は、今後も向日市民の幸せのために努力したいと思います。

      議会壇上から日本共産党を語る 議員最後の議事録から

  二〇一一年六月議会が、私の最後の本会議出席でした。本会議ごとに行われる市長への一般質問は四四年間欠かさず続けてきたのです。退任する議員が市長に質問するのは大変むずかしいものですが、いろいろ考え工夫して市長の基本姿勢をただしました。

 また、三月一一日の大震災、原発事故を受けて民主党が出した意見書に対する賛成討論の形で、「原発ゼロ」をめざす私の見解を述べました。

以下、最後の本会議議事録から、少し長くなりますが全文紹介します。

 

  44年間、最後の一般質問 日本共産党を語る

日本共産党の大橋満です。市長に対し一般質問いたします。

 日本の長い歴史の中で 多くの人々の幸せを実現するために、世の中を良くしようと思って活動された方がたくさんおられましたが、私は二二歳のときに、世界の歴史が二〇世紀まで進んできたこの時代に、戦争によるのではなく、平和的に、理性的に、社会科学的に議会制民主主義を貫きながら、世直しをしていく方法はないものだろうか、しかも一部の血気盛んな人間がするのではなく、圧倒的多数の人が賛成する目的に向かって、圧倒的多数の人が賛成し、参加する方法で世直しができないものだろうかと考え、自分の人生の進路を探し始めていました。

 そうしたら、同じようなことを考え活動しているひとびとの集団に出会ったのです。その集団の名前が、日本共産党という名前だったのです。

 私は生まれたときから日本共産党ではありませんでした。(笑)

 わが家の家系をたどってみると・・・

共産党員だと言ってもいろいろな人がいるものです。私の家系はみなさん方の概念で言えば、保守の中の保守でした。

 祖父はクリスチャンで、まこと幼稚園・向日町基督教会をつくった中心人物の一人でした、その弟は学習院大学の教授でした。彼の葬儀には天皇陛下から樒にかわる白い布と何かが送られてきたと先日一〇二歳で亡くなった母が言っておりました。

 その教授が大正五年九月に書いた「大橋家の家系について」という文書が今も残っています。西暦一三〇〇年頃まで遡っています。先祖が北畠親房だと書かれています。北畠は『神皇正統記』を書いた南朝の有力な指導者だった人です。出身は福島県(霊山町)小字まで地名も詳しく書かれていましたが、私は半信半疑で、二〇一〇年秋、その真相を調べるべく福島県霊山町(合併して伊達市)とその周辺に調査に行ったのですが、書かれていたお寺の名前や地名は全て存在していました。       

 そこには「北畠」をまつる神社があり、北畠にまつわる歴史研究が多く行われており、「町史」を四分冊、全部買ってきました。

 町を歩いてまたびっくりで、合併前の町長さんは日本共産党の大橋さんで、右も左も「大橋」という家が多いのです。もっと時間をとって再調査に行かなければならないと、元町長に再会の約束をして帰ってきました。大地震でどうなっているのかと心配で先日も電話しましたら、近所の公民館には一〇〇人以上の被災者の方が来ておられ、復興支援で忙しいということでした。(注・今は放射能被害で大変です)

 それからもう一つ、自分でも保守的な家系だと思っていることですが、私は余り気にしていなかったのですが、伊勢神宮では一〇月中頃に神嘗祭、一一月の終わり頃に新嘗祭というお祭りがあります。

 一昨年のことでした。「真夜中の祭りですが、この祭りを見に行きますか」と聞かれて、何にでも興味を持っている私は、「行きましょう」とふたつ返事で二回も伊勢神宮に行ったのです。

 池田厚子さん、天皇の姉ですね、小さいおばあさんです。この方が祭主・伊勢神宮の神官の長です。上は白装束に赤い袴、赤い木靴を履いて、足下を杉の木を束ねてつくった松明で照らされながら、先頭を歩き、後ろに三〇人ほどの神主と何種類かの祭具を担いだ神官がゆっくり歩いて、何ヵ所かの場所に止まって決められた儀式をして、お参りされるのです。

 私たちが入れない場所もあり、出てこられるまで待っていなければなりませんでしたが、真夜中の一時間半~二時間くらいの儀式でした。

 向日神社の宮司さんに伊勢神宮の新嘗祭などに参加されるのですかと話したら、「私は行ったことがない」と言われました。「昔は直接見たら目がつぶれる」と言われたものだと書いた文書を読んだことがありますが、私の目は大丈夫でした。私の身内にはそういうところに行けるルートもあるのです。

 誰が言っても良いことは良い!

 何故こんなことを言ったのかと言いますと、日本共産党の人間も他の人と同じように、区別や差別をすることなく、平等に扱われなければならないということが言いたいのです。

 以前の市長は 「共産党」だというだけで、余り毛嫌いされませんでした。

 私は、今日まで、向日市を築いてこられた多くの政治家、市役所幹部のみなさん方とご一緒にこの街を全国に誇れる街にするために、活動してきました。

 日本共産党の関係者の中では、 知る人ぞ知る市になりましたが、一般的にはまだ、「日向市(ひゅうがし)」と間違われるほどですからもっと努力が必要です。 共産党議員団も努力しますので、市長もぜひご協力をお願いしたいと思うのです。

 私がご一緒した市長は、中山仙三さん、民秋徳夫さん、岡崎誠之さん、そうして久嶋さんですが、久嶋さんはまだお若いのであと何年勤められるかわかりませんが、久嶋さんが歴代市長を超えて立派な市長になって頂くために、どうしても直して頂きたいという問題について、別の角度からお聞きしたいと思うのです。

 それは、日本共産党員に対する見方、対応の仕方、さらに日本共産党員でなくても、余り好きでない人との接し方についてです。人を差別したり、人を見下したり、反共という立場でものを見るのは憲法を守っている人とは言えないと思うのです。

 中山さんは、大橋君、今日は疲れているのと違うか、とよく言葉をかけて頂きました。私が日本共産党の事務所の仕事をしながら議員活動をしていたのを知っておられたからです。そうして私が提案したことにも嫌な顔をせず、他の議員が提案されたことと分け隔てなく、良いことは良いとして実行して頂きました。

 こんなことがありました。

 昭和四五年、この場に町の庁舎がつくられ、消防署も滝本金物店の隣から本庁舎の東の端に移されました。それでも当時は立派なものでした。

 かつて、京都府知事だった蜷川虎三さんは、「消防行政は地方自治の原点」であり、「我が町は自分たちの手で守らなければならない」と強調されていました。私は、その教えを実行するために、市制移行、何年か経ってから当時の消防長に「消火活動で一番大切なことはなんですか」と聞きましたら、「初動の三〇秒です。」と答えられました。私は、庁舎から府道に出るまで何分かかるのですか? と聞くと「三〇秒」だと言われました。それなら府道際に消防署を建てれば物集女にも、上植野の端までも五分以内で行けるようになる、現在の図書館入り口が市有地でしたので、そこに移せばどうかと質問・提案しました。

 中山さんは、私の意見に「なるほど良いことだが、もう少し考えよう」と言われ、何日か経ってから、大橋君、京都府に頼んで「たこ公園の所にするよ」といわれ、民秋さんに代わって昭和五六(一九八一)年八月、現在の消防署への移転が行われました。なるほど、私の提案より良い場所だ、さすが中山さんだと思いました。

 また、こんなことがありました。今回改修されている、向陽小学校北校舎ですが、長い間避難階段がありませんでした。日本共産党議員団で向陽小学校の視察をしました。北校舎の三階の、廊下の端に木の箱がついているので、あれはなんですかと聞きましたら、避難用の道具だといわれるのです。どのように使うのですかと聞くと、火事などが起こったときに窓からアームを出して、井戸のつるべのようにして子どもを一人ひとり下ろす設備だというのです。

 私はびっくりして、消防法はどうなっているのかと聞くと、つるべのようなものでも違法ではないというのです。そうして年に一、 二度訓練しているというのです。

 私は、次の訓練の日に、市長と教育長がそれで降りてみてください、どうですか? と聞きました。お二人とも返事がありませんでした。さらに私は、最後の一人はどうして降ろすのですかと聞きました。教育長は答弁出来ず、市長と相談すると答えられ、次の予算に「非常階段建設費」が組まれました。

 日本共産党が市政に果たしてきた役割は明確

 さらに、いま、向日神社の裏山の崖地工事が三年がかりで五億円以上掛けて行われていますが、この工事のきっかけは昭和五一年三月開設の向陽小学校のプール建設前に、崖の上にある南山六四番地の民家が危険ではないかと質問し、地滑りする前に擁壁工事をして頂きたいと要求したことが始まりなのです。

 工事計画は中山さんから民秋さんへ申し送られ、この崖地工事には多額の費用がいることから、必要性はよく理解出来るが予算がない、どうするか、目途がつくまで待ってくれと言われました。しばらくして、工事をすると言われました。

 その方法は、向日市内唯一の「土砂災害警戒箇所」の指定を行い、九割国庫負担で行うという内容でした。それ以来、向陽小学校運動場の西側から始まり、さらに延長して向日神社の裏山に進みました、長い時間と多くの関係者の努力があり、京都府が用地買収までして、公費で改修出来るようになったのです。

 もし「神社の裏山が宗教施設の境内」というとらえ方だったら工事は出来なかったのです。歴史的な向日神社の景観も、関係する氏子のみなさんのたゆまぬ努力と、日本共産党議員団の努力と、中山さんから民秋さんへのバトンタッチと「大岡裁き」とも言うべき判断があったのだということを、ぜひご理解頂きたいと思うのです。

 他にもいろいろなことがありましたが、時間の都合で詳しく述べられませんが、日本共産党と市民の共同で、向日市政そのものを、新しい考えで、憲法が生かされるような町として発展させるために、果たしてきた役割は、歴史の事実として多くの分野で残されています。

 年代順不同ですが、いくつか思いつくままに申し上げますと、一九八四(昭和五九)年長岡京遷都一二〇〇年に行われた「平和都市宣言」、同じ長岡京遷都一二〇〇年記念行事で、京都府との関係で図書館・資料館用地の「無償貸与条例違反」問題、共産党議員団が提出した「都市計画税引き下げ条例」がきっかけで値下げが行われました。地下水を守れの運動で「地下水採取の適正化に関する条例」が可決されました。何度か汚職腐敗の事件がありましたが、その解決の先頭に立ってきました。

 中でも「水道公認業者規程」を作る過程では、私に「殺したる」という脅迫電話がありました。犯人確認のため向日町警察署にも行きました。

 また、倒産した三基建設をめぐる事件、特養ホーム向陽苑の用地買収をめぐる事件、市幹部のゴルフ接待と危機管理問題、等で、独自調査に基づく公正な行政を求める多くの提案を行い、市政が正しく進むようにがんばってきました。

 また、議会制民主主義を徹底するために多くの提案をしてまいりました。 

 これらの事実は、 市民の暮らしを守り、改善していくことには、誰が言っても良いことは良い、特に日本共産党の主張に真理があったということです。人を差別しない、「共産党だと言う理由」で差別しない。このことは、これからの指導者として、一番大切なことだと思うのです。

 久嶋市長は、「反共」という見方をしないようにして頂きたいのでありますがいかがでしょうか?

 向日市民の幸せを願って

 日本共産党議員の発言、意見に対して、その内容よりも「反共」という立場から、自分の考えと異なる意見には、その内容を含めて頭からあまり理解をしようとしておられなかったのではないか、と感じることがありました。

 先の市長選挙の事務所前での第一声や街頭宣伝、個人演説会などで、一六年前の初心に返ってがんばりたいとか、議員の皆様の意見をよく聞いて市政運営にあたるということを何度もおっしゃっていました。私が市長にぜひ直してほしいのは、おっしゃった反省に加え、人を差別しない、日本共産党だ、という理由で差別しない。自分の考えと違うということで差別しない。気にくわない、嫌いだということで差別しない、そのことが、全ての市民に責任を持つリーダーの優れた資質だと思うのです。

 私は、今後の向日市の発展にとって、「反共の色眼鏡をはずし、誰の意見でも尊重して聞き、自分と異なる意見を言う人ほど耳を傾けるべきだ」と思うのです。ある方が「反共は、戦争前夜の声」と言って、誰も差別されなかったのは本当に立派だと思うのです。

 この点で久嶋市長に対する本年の辞職勧告決議は、改めて重大問題として考え直していかなければならない問題だと思うのです。

 以上申し上げてきたことをお考え頂き、市長のお考えをお聞きします。

 日本共産党は、長い世界の歴史の中で次の時代に役立つものは残し、さらに発展させて世界平和・人類のさらなる発展のために活動している政党です。だから、本来的には市長を含めて全市民のみなさんと、協力できるはずなのです。

 また、日本共産党は、日本国民の政党です。

 旧ソ連が、解体したとき、世界中で只一つ「双手を挙げて賛成する」という声明を発表しました。当時のソ連は、名前は共産党だったけれども理念も行いも「共産党の原則からはずれたもの」だったからです。それまでに何度も「あなた方の方針は間違っている」と注意していたにもかかわらず、改めなかったからであります。

 さらに現在、北朝鮮労働党とは、四〇年にわたって関係が不正常なままですし(一九八三年以降完全断絶)、現在北朝鮮という国と日本共産党は公式な関係は全くありません。彼らの考えや行動は「共産党の理念」からはずれているのです。

 日本共産党は、だからといって「日本国」として、国連に加盟している国の中で、嫌いな国とは国交を結ばないというのは、日本国家として、国際問題を正しく解決する上では異常なことだと改善を求めています。 

 かつて、中国共産党が日本共産党に対して、中国共産党の手下になれと、あくどい攻撃をしてきた時期がありました。日本共産党は、中国共産党が自らの間違いを訂正するまで、中国共産党との関係を断絶していた時期があります。中国が次々と新しい指導部に変わっていく中で、日本共産党に対する抑圧は間違っていたと公式に謝罪してきたので、繰り返し話し合いをして、以前のような友好関係を回復しました。

 日本共産党は、相手がどんな大国でも日本国民を守る、日本国民の幸せのために活動するために、自分の頭で考え行動しているのです。「常に国民の立場で真理を探求する政党」だから私は信頼出来るのです。

 さて今後の向日市政の発展方向は、市長が何人代わられたとしても、近い将来、市民との共同で必ず市民が主人公の方向に進むと考えています。市民が主人公で平和憲法の理念と内容が生かされる町、そうして原発ゼロの日本に発展すると確信しています。

 私は、今後も向日市民の幸せのために努力したいと思います。

 さらに向日市の良いところを、 全国に広げていくことにも努力しようと考えています。また、何よりも、世界の進んだ文化や科学を多く知り、身につけ、向日市にお返ししたいと考えています。市長のお考えをお聞きします。以上、質問と致します。

 

 久嶋市長の答弁要旨(市長登壇) 日本共産党議員団大橋満議員のご質問にお答えをいたします前に、ただいま、今期限りでご勇退されるというお話をお聞きいたしまして、私といたしましては、残念であり、少し寂しい思いがしております。大橋議員におかれましては、昭和四二年八月一〇日、向日町議会議員初当選以来、一一期四四年という大変長きにわたり、市民の福祉向上のため、そして、向日市の発展のため、並々ならぬご尽力を賜り、心から深く敬意と感謝を申し上げる次第でございます。ご苦労さまでございました。そしてありがとうございました。

 それでは、ご質問にお答えをさせていただきます。(略)ご高齢の方や小さいお子さんをお持ちの方、次の世代を担っていく若者たち、多くの方々がおられ、それぞれが違った考え方、意見をお持ちであります。それらの方々、お一人お一人の考え方や意見をすべて市政に取り入れていくことはできませんが、さまざまな考え方や意見を持った方々と手を携え、協力し合っていくことで、市民の皆様にとって、よりよいまちを築いていくことができると考えております。

 今回の厳しい市長選挙の結果、私が引き続き市政を担わせていただくことになりましたが、市民の皆様のために、向日市の明るい未来のために、今まで以上に多くの方の声に耳を傾け、広い視野、柔軟な考え方を持って、市政に取り組んでまいりたいと考えております。
 大橋議員におかれましては、今後とも向日市のため、大所高所からご指導、ご鞭撻いただきますようお願いを申し上げます。

 

(大橋議員登壇)再質問ではありません。一言お礼を申し上げます。市民のみなさん、また議長はじめ議員のみなさん、そして市幹部のみなさん、市職員のみなさん、本当に長い間いろいろお世話になりました。ありがとうございました。(拍手) 

          

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連載33、 もうひとつのライフワーク 日朝韓友好運動!

2019-12-02 | 「私がお話し」します。

 世直しご一緒に 日本と韓国・朝鮮との友好

もうひとつのライフワーク

日本と韓国・朝鮮との友好   世界と向日市をつなぐ

 私にとって、日本と韓国・朝鮮との友好運動は、青年時代からかかわってきた、もうひとつのライフワークです。

 私の家の近くには在日コリアンの人たちが暮らしておられ、ちいさなころから日本人も朝鮮人もかわりない友達でした。同じように暮らし、学校に行き卒業しましたが、いくら能力があっても、朝鮮人の友達には就職先がなく土木作業の手伝いのようなところしかありませんでした。「なぜだろう?」と思ったのが、差別の実態や戦前戦後の歴史を知るきっかけになりました。そして、二〇歳の頃から日朝協会(日本と韓国・朝鮮との友好団体)に入って活動してきました。   

 「朝鮮問題を入り口にそこから世界を知る」という考えは、議員として活動している時にも情勢や歴史問題を理解するのに大変役立ちました。そして、議会そのものが国際社会の一角を担って動いているのだということを発言してきました。

 ■□ 平和を求めて提出した意見書・決議 



 北東アジアの平和は、日本と韓国・朝鮮との友好を抜きにしては考えられません。そのためには、まず、歴史・現状・今後の方向と、今何をすべきかを正しく理解しなければなりません。世界の中でも他の地域には見られない複雑な問題が多くありますが、日本人にとっては、一番身近な国際問題として取り組むことが、世直しにつながると考えていました。そこで、向日町・市議会を住民本位に変えるために、平和問題・国際問題を積極的に持ち込みました。今日までにこれらの意見書・決議が可決されています。請願は、「紹介」です。

      提出して否決されたものは除いています。  

1968年 3月26日 沖縄からB52の撤去を要求することに関する意見書   



1970年12月24日 「朝鮮国籍」の書き換え要請に関する決議 



1975年 9月28日 米国の朝鮮半島での核戦争準備に反対するとともに

           日本と朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化を早期に実現するための決議 



1976年 6月26日 朝鮮の自主的・平和的統一実現に関する決議 



1979年 3月17日 米・韓合同軍事演習に関する決議 



1980年 9月26日 金大中氏の釈放を求める決議 



      9月26日 日本と朝鮮民主主義人民共和国との友好促進に関する決議 



‌      12月20日 在日韓国人および朝鮮人の国民年金適用に関する意見書 



1982年12月22日 外国人登録法の改正を求める意見書 



1983年 9月26日 大韓航空機撃墜事件に関する意見書 



1988年 3月28日 在日留学生対策の充実に関する意見書 



1992年 3月26日 従軍慰安婦問題等日本の戦後責任をはたすために、資料公開、謝罪、補償を求める意見書 



1994年12月20日 日本人男性とフィリピン人女性との間に生まれた子供たちに日本国籍の取得を求める意見書 



1995年 9月26日 再び核兵器全面禁止・核兵器廃絶国際協定の促進、非核三原則の法制化を求める意見書

      8月22日 すべての核実験の即時停止を求める決議 



      9月26日 米兵の蛮行に怒りをもって抗議する決議 



1996年 3月26日 定住外国人に地方参政権を付与する特別立法の制定に関する意見書 



      6月26日 中国の核実験に反対する決議 



1997年 3月26日 米軍機による劣化ウラン弾発射事件に関する意見書 



      9月22日 未臨界核実験反対・核兵器全面禁止国際条約締結を求める意見書 



1998年6月23日 すべての国の核実験全面禁止と核兵器の廃絶を求める意見書 



      9月24日 朝鮮民主主義人民共和国のロケット発射に抗議する決議 



1999年 9月24日 日本国憲法を遵守することを求める意見書 



     ‌12月21日 新ガイドライン関連法に関する意見書

2000年 3月24日 周辺事態法に基づく戦争協力を行わない決議 



               6月5日 森首相の「神の国」発言の即時撤回を求める決議

      9月21日 在日朝鮮人高齢者・障害者の無年金者に対する救済措置を求める請願

     12月21日 民族学校保護者の教育費補助に関する陳情 

     12月21日 在日朝鮮人高齢者・障害者の無年金者に対する救済措置を求める意見書

2001年 3月16日 民族学校保護者の教育費補助に関する決議

      6月22日 京都議定書発効のための国際合意の実現に関する意見書

      6月22日 日本国憲法に反する集団的自衛権の行使に反対し、憲法の遵守を求める意見書

      9月19日 アメリカ合衆国における同時多発テロ事件に関する緊急決議

     12月19日 ILOパートタイム労働条約の批准を求める意見書

2002年 5月31日 「有事法制三法」案を直ちに撤回することを求める意見書

     12月19日 アメリカ合衆国の度重なる未臨界核実験に強く抗議し、核兵器廃絶への取り組みを求める決議

2003年 3月18日 米国のイラク攻撃に反対し平和的解決を求める意見書

      5月21日 「有事法制三法」案の廃案を求める意見書

      9月24日 日米地位協定の抜本的改正を求める意見書

     12月18日 イラクへの自衛隊派遣に反対する緊急意見書

2004年 6月23日 劣化ウラン兵器の使用禁止を求める意見書

     12月8日 イラクからの自衛隊の撤退と国連を主体とした復興支援を求める意見書

     12月20日 シベリア強制労働賃金支払いに関する請願

2005年 6月24日 ふたたび戦争と暗黒政治を許さないために治安維持法の犠牲者に国家賠償法(仮称)の制定を求める意見書

2006年12月19日 憲法を守り向日市世界平和都市宣言に基づく平和行政を進める決議

2007年 3月22日 南アジアの核軍拡競争を防ぐため原子力供給国グループ(N‌S‌G)での慎重な対応を求める意見書

2008年 3月18日 海上自衛隊艦艇と漁船との衝突事故に関する意見書

      3月18日 米軍人の沖縄県女生徒に対する暴行に強く抗議する意見書

2009年 6月24日 北朝鮮の核実験に強く抗議し、核兵器のない世界を目指し、国際世論をつくる指導的役割を果たすことを求める意見書

      3月24日 「慰安婦」問題について政府の誠実な対応を求める意見書

2011年 3月17日 TPPへの参加に反対する意見書 
 

この年代に田舎の地方議会で、これだけの意見書や決議を可決し、国や地方の関係機関に送り続けたところはあまり多くないと思います。果たして国の政治にどれだけ影響を与えたかは、国政分野で働く人々に聞いてみないとわかりませんが、「酷政」・国民いじめの施策は国の隅々にまで国民に痛みを与えていると言うことを読み取れた人はいたはずです。「国政に異議あり」と言う国民の貴重な意見として送り続けたのです。

                    

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連載22、外環工事、第三京阪連絡道路もなくなり、この2本の大型道路計画の中止は、向日市100年の街づくりにとって最大の貢献

2019-11-25 | 「私がお話し」します。

 市民の願いを受けて市政を動かす   議会論戦ダイジェストより

 ■□ 京都市の高速道路とつなぐ第三京阪連絡道路計画は中止せよ。

    外環工事の中止と第三京阪連絡道路も計画がなくなりました。

 向日市の西側に広がる西ノ岡丘陵。奈良時代以前から名高い西ノ岡の自然環境と緑を守るために日本共産党議員団は大きな役割を果たしました。 

 西ノ岡には、京都外環状線道路と第三京阪連絡道路建設(一九九〇年第四次京都府総合計画)の二本の大型道路が計画されていました。すでに、長岡京市では、友岡にできる阪急新駅から奥海印寺に向けて第二外環道路建設工事が行われ、緑はなくなり、住宅地の風景が一変しています。あるところでは上空に高速道路が通っています。

 第三京阪連絡道路計画は、久世橋から府道久世北茶屋線の阪急洛西口駅までが二階建て道路になり、阪急高架線のさらにその上から西側の田圃の上を物集女南条、出口を通り洛西ニュータウンに抜けるのというものです。こんな計画に共産党以外の党は、何も意見を出さなかったのですが、共産党の調査報告で、具体的なルートと工事計画を市民が知るところとなりました。他党議員も無関心ではいられなくなり、反対する人が増えていったのです。

 共産党議員団が「計画」を知ったのは、阪神道路公団に視察に行ったときにもらった、次年度予算と事業計画の中に第三京阪連絡道路の調査費が計上され、そうしてその調査予定ルートの地図が載っていたことからです。

調査をすすめ、議会で明らかにし、向日市の将来のためにならず、自然環境を壊す「計画」の関係資料の提供と、計画そのものの中止を求めました。さらに私は次のように追及しました。

……向日市の将来のまちづくりを考えたときに全く不必要であるばかりか、むしろあってはならないのがこの道路計画であります。向日市の今後の基本構想について、現在、市民の代表を交えての話し合いが進められているようですけれども、市民の代表が正しい判断が下せるよう、この道路計画図面を資料提供すべきであります。

 市長は、議会では今日まで第三京阪連絡道路計画の「資料がない、わからない」と繰り返しておられますが、不必要だと思われるのなら一日も早く態度表明し、具体的な行動を起こさなければストップさせることは不可能です。ましてや変更も不可能です。よく先を見越した決断を求めたいと思います。

 次に、第三京阪連絡道路は、第四次京都府総合計画にルートが、○○○○と○印で印刷されておりました。向日市の前の計画でも同じ予定図が載っておりました。

 ところが第五次京都府総合計画(新計画という名称)で予定図は消えてしまった。五府総で消えた今こそ、この計画が再浮上しないように、向日市長としての態度を明確にする必要があるのではないでしょうか。

 向日市が決めている新市街地地区の一番北側を通り、住環境が大変悪くなる、さらに、向日市のマスタープランの田園緑地地区、阪急の新しい駅の西側ですけれども、今度は真上を高速度悪露が通る計画をつくるなど、とうていできないことであります。

 そして、市が、まちづくり計画をたてるときに、上位計画(府の計画)をよく検討し、住民の暮らしを害するようなことになっていれば、府にはっきり意見を言うべきだと迫りました。

 また、西ノ岡丘陵における自然景観の保全(緑を守ること)について、市のマスタープランでは向日市の最重要課題と位置付けられ、西ノ岡丘陵の保全をうたっているのに、都市計画道路の整備については、南北都市計画道路として緑地の真ん中に外環状線が入っている矛盾を追及しました。さらに西の丘は古墳群だともいわれています。
 西ノ岡丘陵の緑を残すことと、真ん中に外環を造ることは、だれが考えても矛盾することであります。これは、 工法の工夫で解決できない問題であります。もし外環の建設と西ノ岡丘陵の保全が矛盾しないと言われるのなら、その具体的な説明を願いたいものでございます。

 私たちの主張を裏付けるように、京都府は、第四回京都府公共事業再評価審査委員会で、向日市内の外環状線を審査し、大幅な変更を決め、地元住民の十分な理解を得るよう決めております。市長の見解を求めます。 

 その後、外環工事の中止が決まり、第三京阪連絡道路も計画がなくなりました。この2本の大型道路計画の中止は、向日市100年の街づくりにとって最大限の貢献であります。

          

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連載21、リストラ対象の天文館を救う! 議会論戦ダイジェストより

2019-11-24 | 「私がお話し」します。

    市民の願いを受けて市政を動かす               

それは、未来に目をふさぐことだと思うからです。

天文館の重要性を訴え、閉館をやめろと言い続けてきました。


 
■□天文館は、向日市の誇り

 二〇〇九年は、 ガリレオが初めて望遠鏡をつくって天体を見た年から四〇〇年目にあたる「世界天文年」でした。ところがこの年に向日市は、入場者が少ない、財政負担が苦しいと「向日市天文館」閉鎖の方向を打ち出しています。私は、天文館の重要性を訴え、閉館をやめろと言い続けてきました。それは、未来に目をふさぐことだと思うからです。

 いま地球は、人類の行為によって、オゾン層が破壊され太陽からの有害な紫外線の影響が大きくなり、そのうえ原発事故で地上で放射能が撒き散らされています。二酸化炭素など「温室効果ガス」も増え続け、地球の危機が叫ばれています。地球の再生機能が大幅に弱まってきているのです。   

 人類は今まで通り生存していくことができるのか、地球環境をどう改善していくのか、その見通しには天体の研究が大きな役割をになっています。これからは、宇宙的に物事を考えなければ時代遅れになるのです。市民、とりわけ子供たちが、宇宙に目を向ける機会となる天文館について、予算の無駄と考えることは、目先のことしか考えていないということです。

 二〇〇九年(平成二一)の第一回議会と第四回議会で、私は天文館存続と充実のために、市長の姿勢をただしました。プラネタリウムの問題についての再質問では、文部科学省が「宇宙的にものを考える人間をつくっていく」という方針を出していることにふれて発言しました。

向日市では、文科省の教育方針に逆行する方針を出しています。そこで、市長は、お金のことだけではなくて、天文館が持っている目的というのは非常に大きな意味があるし、今後、財政的にいろいろ工面をしていただいて、廃止・中止ということではなく、充実・強化の方向にぜひ取り組んでほしいと希望する次第です。

 先日も、 地球温暖化の問題が話されましたけれども、根本的な解決のために天文館へ行って勉強しないと、本質的なことはわからないと思うわけです。
 現在、全国にプラネタリウムはわずか三〇〇施設しかありません。向日市民、特にお子さんが、その近くに住んでいるということが、どれだけすばらしいことかということを考えてほしいのです。(中略)
 天文館でいろんな勉強をするということは、今までの既成概念を取り払って新しいことを考える基礎になると思うのです。地球上にあるすべてのものは、宇宙に全部必ずあるのです。それは当たり前ですね、地球も宇宙の中の一つなのですから。宇宙を研究するということは、このあと人類がどういうふうに生きていったらよいのか、先の先のことがわかるのです。

 また、向日市から世界に人材を派遣していく、そういう育てる施設にもなると思いますので、「今後もう一回考える」と言っていただきましたけれども、ぜひ私が申し上げた観点で検討していただきたいと思います。

 質問では、市長に、「太陽系の中で、太陽は何番目の重さで、その太陽の重さは太陽系の中で何%か」と尋ね、「知らない」という市長に、新しい発見が続く宇宙の姿から、生命誕生の根源に迫る研究成果を話し、宇宙に目を向ける大切さを指摘しました。

 議会を終えて、市の幹部職員から、「毎回他の議員があまり取り上げないことを言われるので、今回は何が出てくるのかとひそかに期待していた、おもしろかった」と激励されました。

          
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連載7 サラ金地獄で困っておられる方を助けるのは並大抵ではありません。世間には暴力団が多いのに驚く

2019-11-15 | 「私がお話し」します。

 2  共産党議員の生活相談は、みんなで仲良く暮らすお手伝い

 ■□サラ金地獄からの救済は大変だが…

         相談者の気持ちによりそい共産党議員ならではの力を発揮                        

 共産党への生活相談は、 現代の駆け込み寺。他党議員や他の誰かに頼んでも解決できなかった難題が持ち込まれる場合が多いのです。こんなこともあるのかという相談もたくさんありました。まだ独身だった私が、最初に受けた相談が、なんと離婚相談だったことも、心に残っています。

 サラ金地獄で困っておられる方を助けるのは並大抵ではありません。初めに借りたお金は、一〇万~二〇万円でも、返済のために借金を重ねて、五〇〇万円にもふくらんでいたケースがあります。こうなったら利息だけでも返せません。多い方は八〇ヵ所ほどから借りておられました。なぜこんなことになったのかと問いかけ、自分で考えてもらわなければなりません。

 相談者から返済振込の領収書の山が持ち込まれると、一枚ずつ広げて、業者ごとに、日付順に仕分けして、コピー用箋に書き出していきます。パソコンがまだ普及していないころでしたから、何日も徹夜でした。「もう朝やで、いつまでやってるの」と妻もあきれていました。

 整理した資料を持って法律事務所に何度足を運んだことかわかりません。弁護士に解決を依頼するときは、本来なら振込用紙の整理は事務員がやってくれますが、私は自分でしないと相談者の気持ちがつかめないと思いガンコに取り組んでいました。

■□映画のままだった暴力団事務所 

 サラ金業者は、暴力団とかかわりが深いところが多いのです。

 「すみませんが返しに行って、借用書をもらってきていただけませんか?」という相談もありました。金額が多いので直接持っていかなければならないが、 怖くて行けないというのです。自分で行けばよいのにと思いながら、追い詰められた様子を目の前にして、住所・業者名・電話番号を聞いて引き受けました。

 伏見区にあった金融業者の事務所は一方通行の、とてもわかりにくい所でした。何度も公衆電話から連絡してやっとたどり着きました。若い衆が近くまで迎えに来てくれました。二階へ上がってくれと言われて部屋に入ってびっくり、映画に出てくる暴力団親分の部屋と同じつくりです。神棚があって、提灯飾りがあって…。応接椅子に座ってまず名刺を出し用件を告げると、「ご苦労さん。本人が来ればええのに…また入用があったら連絡してください」といたってていねいでした。借用書と領収書をもらって帰ってきましたが、常に子分が一歩下がって控えている密室で、監視カメラもあって、居心地のいいところではありません。

 暴力団は、なくさなければなりません。日本の歴史では、権力者が十手持ちと暴力団を操って、民を苦しめてきたのです。この人たちも元をただせばいつも命令でこき使われて、利用されている人たちですが、理屈・理論でなく義理人情でつながっていますから、初対面で理屈は通りません。私としては、普段、誰とでも接する態度と同じように、普通に対応することにしています。 

  ■□音信不通の息子の「事故」で脅迫が

 「お前とこの息子が衝突事故で俺の外車にキズをつけた弁償しろ」と、やくざ風の男二人が押しかけてきたというのです。

 相談を持ち込まれた方は、長男とは何年も音信不通でした。

 「息子はどこで何をしているのかわからない。本当に事故を起こしたのか、どんな約束をしたのかもわかりません。傷ついた車は五条署の駐車場にレッカー車で引き上げられたので、それも引き出してこいと言い、 『月夜の晩ばかりではないぞ』と脅されました。今晩またくると言っているのですが…」との相談です。さて!どうしたもんか?

 私は、「会うしか仕方ないでしょう」と待っていたら、二人が決めてあった時間通りにやってきました。話を聞いた後、私は「この話を家族に言ってくるのは筋違いだ。あなた方も大人でしょう、男同士の約束はそちらで解決すべきだ。煮ようが焼こうが好きにすればよい。車を出したいのなら、五条署の前で待ち合わせをしよう」と日時を約束して別れました。

 初めからそのような答えを用意していたのではなく、どう拒否しようかと考えていただけでした。約束より一時間ほど前に五条警察署に行くと、事故車は確かにそこにありました。係の警察官に事情を説明して約束の時間まで待っていましたが相手は来ませんでした。それ以来、親への嫌がらせはなくなりました。

  住民票を見たら知らぬ間に自分の家に同居人がいる! さあ!どうする?

 おばあさんから、「女の名前で何度か商品案内のカタログが送られてくるのが不思議なので調べてほしい」と相談がありました。女は亡くなった息子の元妻で、ずっと以前に離婚し、子供はおばあさんが育てていました。前夫に財産があったから、勝手に子供とおばあさんがいる家に住所を移して、同居の形を取っていたのです。

 おばあさんと一緒に、区役所へ行って住民票を取りました。案の定、同居の形をとっているではありませんか。おばあさんは、頭に来て興奮しています。しかし、どうしてよいかわかりません。さあ!どうする?

 そこで私は住民課長に名刺を渡し、率直に事情を説明して、どうすれば良いか聞きました。

 すると「変な奴が後ろについてるかも知れないので警察の『民暴課』へ行って相談しなさい」と言います。転入前の住所で電話を調べればよいと言い、その上親切なことに、知人であるという警察の「民暴」の係員に連絡までしてくれました。こういうときは警察が頼りです。近くの伏見警察署に行きました。担当の警官がその場で電話をすると相手の女が出てきました。

 「ねえさん、おかしなことしたら、おばあさんが困ってるやないか、元の住所に戻しとかんと、また電話せんならん。わかってるやろ! 早うしとかんとあかんで!」 

 これで一件落着。そして警察官は、「二~三日してもう一回区役所へ行って確かめとき」と、おばあさんに言いました。なるほど、こんな手があるんや、勉強になりました。

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「世直しご一緒に」NO.2 こうして共産党議員が33%になりました。

2019-11-12 | 「私がお話し」します。


新連載 「世直しご一緒に」 NO.2 

             こうして共産党議員が33%になりました。

          

目次.

 はじめに 

 1 こうして共産党議員が33%になりました 向日市議会選挙、挑戦のあゆみ

■□複数議席へ若さで挑戦 ……………………………………………………………

■□宴会政治はやめよ! ……………………………………………………………… 

■□発言封じを突破する ……………………………………………………………… 

■□議案提案権を獲得 ………………………………………………………………… 

■□総務消防常任委員会で初の委員長 …………………………………………… 

■□汚職・談合を徹底追及 ……………………………………………………………   

■□八人の議員団と反共包囲網 ………………………………………………………

■□臨時議会を招集し減税提案 ………………………………………………………

■□議席占有率が三分の一に …………………………………………………………

■□水道料金値下げや市長辞職勧告決議を可決 …………………………………

 

2 生活相談は、みんなで仲良く暮らすお手伝い

相談者の気持ちによりそい共産党議員ならではの力を発揮

■□サラ金地獄からの救済は大変だが… ………………………………………… 

■□映画のままだった暴力団事務所 ………………………………………………… 

■□音信不通の息子の「事故」で脅迫が …………………………………………… 

■□知らぬ間に同居人がいる! ……………………………………………………… 

■□一〇〇万円で助けてあげてください! …………………………………………

■□「いますぐ死にたい!」「ちょっと待ち!」 ……………………………………    

■□その土手は向日市ではない… ……………………………………………………

■□ホームレスと貧困ビジネス ………………………………………………………  

■□家族関係のごたごたも持ち込まれる ……………………………………………

■□D‌V‌被害から逃げてきたが… …………………………………………………     

■□会社から、早くやめろと嫌がらせ ………………………………………………

■□大企業が配置転換で退職を迫る …………………………………………………   

■□そのほかあれこれ …………………………………………………………………    

■□気をつけよう、議員をねらう落とし穴 …………………………………………   

■□社会に目を向けてもらい自立を援助する ……………………………………… 

 

3 向日市・世直しウォッチング 

住民運動と手を携えた要求実現の数々

■□向日神社と崖工事現場  調査、研究し行政責任を明確に ……………

■□向陽小学校プールは競輪補助金で市民プールとして建設 …………………  

■□お母さんたちが切り開いた「子育てするなら向日市へ」 ………………  

■□復活させたい商店街  大型店の出店でシャッター通りに ……………………

■□市民の生命・財産を守る拠点  消防署からどこの家も五分以内に………

■□40年前に車椅子が通るバリアフリーのスロープ    市民会館 …………………

■□図書館・資料館建設用地費問題  市有財産の処分は条例に従って決めよ…

■□特養ホーム・向陽苑建設用地  裏でうごめいた黒いつながり  ………………

■□阪急西向日駅の改善  ここにも住民運動の歴史あり  ……………………… 

■□老人センター桜の径の建設  雑談がヒントに …………………………………   

■□南山児童公園とゴミ集積場所 ……………………………………………………      

■□通学路の安全を確保する  「見まもり隊」のルーツ  ………………………… 

■□府道久世北茶屋線の拡幅  大幅な市民負担の押し付けは許せない ……… 

■□緊急対策の備え  京都市の水道とつながっている …………………………… 

 

選挙勝利へ   私の十訓 ………………… 

発言原稿を早く正確に 私の方法 …… 

 

4 市民の願いを受けて市政を動かす 

議会論戦ダイジェスト

■□生活保護行政の改善へ …………………………………………………………… 

■□天文館は、向日市の誇り ………………………………………………………… 

■□京都市の高速道路とつなぐ第三京阪連絡道路計画は中止せよ  ………… 

■□水をめぐる攻防  地下水と府営水をめぐって  ……………………………

■□公共下水道の追加二億円工事の責任を追及 …………………………………

■□教訓無視して事故再発、さらに三五〇〇万円の追加! …………………… 

■□談合を徹底追及  古くから業者主導体質があった…………………………

■□学校給食調理業務民間委託反対  議会初の公聴会開催へ ……………

■□消防署の合併は、時期尚早  初動体制に不備?  ……………………… 

■□憲法を守り、平和な社会の建設に貢献するために  …………………………

■□予算、決算の討論は市政評価と政策提案  …………………………………  …

■□「夕張市の財政破綻」を利用したデマ宣伝をやめよ! ……………………

■□共産党の考えをわかりやすく説明する …………………………………………  

■□議員の活動を制限する攻撃には直ちに反撃する ………………………………

 

送る言葉 望田幸男 村山晃 桜田忠衛 …… 34

 

5 もうひとつのライフワーク 

 日本と韓国・朝鮮との友好 世界と向日市をつなぐ   

■□平和を求めて提出した意見書・決議 ……………………………………………

■□国際情勢を地方議会に ……………………………………………………………  

■□中国杭州市との友好盟約をどのように発展させるのか …………………

■□拉致問題の真相究明 ……………………………………………………………… 

■□在日外国人の地方参政権に賛成する ……………………………………………

■□日朝協会代表理事として  …………………………………………………………

 

6 議会壇上から日本共産党を語る

 議員最後の議事録から

最後の一般質問 日本共産党を語る ……………………………………………………

「原子力発電所の安全対策の強化等を求める意見書」に対する「賛成討論」. 

 

あとがきにかえて …… 

 

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向日神社1300年祭に思う!

2018-10-28 | 「私がお話し」します。

 

 

 27日28日、向日神社が1300年祭:長い間この地域の変化を見続けてきたことになるが、いろいろな資料から、住民にとってなくてはならない場所だったことがわかる。中でも六人部さん一家の努力は長年にわたる功労者といえる。さらに次の時代にわたっても色々なご苦労があろうかと思うが、この写真の人々が引き継ぎ新しい「向日神社」を作っていかれることだろう。

 

 私の本「世直しご一緒に」の最初に向日神社を取り上げたのは、そのためだったことを理解してくれる方は、あまりないと思うのだが…旧乙訓・戦国時代の西の丘衆は、向日神社に集まり、諸問題の解決のため合議制で、(住民自治の始まり)解決していった。  今に生きる向日市気質?なのだ。

 

 大鳥居の補強工事が大層なことだった。何度もの地震で少しづれていたのが肉眼出もわかるほどだった。土台も改修された。数十センチ高くなったのだろう!以前の土台石は本殿の裏におかれている。

 

       多くの氏子と言われる人々のご先祖さんが努力をされたからこそ1300年がむかえられたのだ。

 

 

 

 

                            向日神社                          

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N0.20 昆虫や小動物は、きっと私が近づいていったら、「害人」が来たと逃げていたにちがいない。

2017-01-22 | 「私がお話し」します。

せみとりは、私の得意技だった。木に登って手でつかむ。

 自分で大きな虫かごをつくりいっぱい取ってくるのでやかましいとしかれれたものだ。しんだらら鶏のえさになった。

夏の初めにはコゼミでニイニイとなく、だからニイニイゼミともいう。次に出てくるのは、油蝉、親ゼミといっていた。最盛期にはクマゼミ、

かたびらといっていた。彼は、シャンシャーンと泣く。秋口には、つくつくぼーしが出てくる。本当にツクツクボーシと泣くから面白い。

 せみを取るのは虫取りの網と決まっているが、私は木に登って手でつかんでとった。神技ならぬせみ技である。

それは大人になってからも技は衰えていなかった。東京出張で虎ノ門の近くのホテルに宿ったとき朝早く皇居の周りを散歩した。

散歩道の木にクマゼミににているミンミンゼミというのがたくさん留まっているのに気がついた。そうと近づいて手で取った。

東京の子供は蝉取りなどしないのか、このあたりは取ってはいけないのか・・・ すぐに逃がしてやったが・・・

 穴ゼミを探すのは夕方である。向陽校の中庭や、向日神社の周辺は穴場だった。近くのお寺の庭にもたくさんいた。

夕方から出てくるので地面にある小さな穴を見つける。小枝を拾って穴を広げると、中に何か動くものがある。穴ゼミだ。

前足で細い枝をつかむのでそーと引き上げて取る。とってきてカーテンに引っ付けておくとだんだん孵ってくる。

神秘的なもので小さかった羽がだんだん大きくなる。色も変わってくる。朝になると外へとばしてやった。

夏休みの宿題で10匹ほどとってきて時間ごとに注射して生まれるまでの標本を作って出したことがある。

 せみは目の上横に小さな触覚がついている。そのひげがついているからまっすぐ思い道理に飛ぶことができる。

なぜそれをしっているかというと、ひげを取って飛ばしたことがある。ブーメランのように元の所にかえってきたりふらふらと変な飛び方をして

地面に落ちてしまう。昔の子供は、平気で昆虫いじめをしていた。

 かぶと虫やゲンジ、などもとりにいった。あり地獄は向日神社の細かい砂のところにいた。

 昆虫や小動物は、きっと私が近づいていったら、「害人」が来たと逃げていたにちがいない。

 (これで20回の連載を終わる。)

 

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NO.19 やわらかい地面の上で、10センチくらいの釘の頭を逆さに持って地面にたてて遊ぶ。

2017-01-21 | 「私がお話し」します。

メンコはおもちゃ屋で売っていたが、強いものは買わなくてもいっぱいたまった。

めんこ。

 べったんともいう。丸いのや、長方形のものがあったが、地面において順番にめくりあって勝負する。

自分のメンコで相手のものをひっくり返せば自分の物になる。地面にうちつけたときに、裏向けになったり、半分石の上に乗ったりすると、

次のものがめくり安くなるので、地面にうちつけるときに、相手のものがめくれなくても、自分のがめくられないようにすることが、

勝利のかぎである。5~6人で順番にかわるがわるやっていく。メンコはおもちゃ屋で売っていたが、強いものは買わなくてもいっぱいたまった。

 くぎさし。

 やわらかい地面の上で、10センチくらいの釘の頭を逆さに持って地面にたてて遊ぶ。5人で遊ぶときは、地面の5角形の絵を書いて

それぞれ自分の出発点を決める。5角の近くに釘を立て自分の出発点からそこまで線をひく。釘がこければ次のものに交代し準順に進める。

くもの巣のような模様になっていくのだが、相手が書いた線を越えることができないのでできるだけ前にある線の近くに釘を指し、

後で来るものが来にくいようにする。相手の線を越えて外にいきたいときは、線の真上に釘を立てると外に出られる。

そういう場所があると後に続くものは必ず線の上にたてなければ外に出られない。どんどん順番にすすむとまさにくもの巣のような模様になる。

ぐるぐる周囲を廻って自分が書いた線の上に釘を立てればリーチで最後に5画形の中に釘を立てれば上がりである。

それを競うのだが、リーチをかけてから上がりの場所に釘をさすことができなければ、逆転されることもある。2人から5人くらいで遊ぶ。

ドッチボール

 現在も行われているのでルールはご存知のとおりである。

私は作戦をたてた。外に出ている人にボールを送るときに相手チームのターゲットの1メートル横にボールを送る人が位置するよう伝えておいて、

強いボールを外の人に送る。ターゲットはボールをとることも逃げることもできない。当てるときは足を狙う。

失敗しても味方の陣地にボールが帰って来る。その繰り返しで相手をやっつける。狙った人は絶対逃げられない。

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N0.18 下手をすれば味方が落馬するが馬がこければ何度でも乗ることができる。

2017-01-20 | 「私がお話し」します。

これらの遊びは学校の休憩時間でも、みんなでわいわい言いもってやったものだ。

Sケン、

地べたに大きな2重のSの字を書いて、2組に分かれて中にはいる。細い出口から出て相手陣地の入りぐちまでケンケンで進み相手の陣地の

中まで入って行って、隅にある宝を先にふんだほうがかちである。

細い出口を通る相手を押し出すとアウトになる。2箇所避難所が作ってあって、押されないように入る。人数が多いときはSの字が大きくなるので

ケンケンする距離が長くなる、外にも何箇所か丸を書いて休憩できる島をつくり、そこにはいると両足でたってもよい。

これは学校の休憩時間でも、みんなでわいわい言いもってやったものだ。

 

童馬?胴馬―どう馬―どんま

馬になるほうと乗るほうの2組に分かれてやるのだが、一人が塀を背にたって股を広げ、そこに頭を突っ込み両手で取れないようにたっている

人の足をつかみ馬の胴体をつくる。お尻りのところに次々と首を突っ込み5~6頭つながった馬ができる。

もう一方の組が順番にその上に乗るのだが、早い順に遠くまで飛んで乗らなければ後のものが乗れなくなり落ちてしまう。

落ちたら負けで、まけた組が銅になり他方が乗る番になる。全員がうまく乗れたら。先頭のものと、塀を背にしてたっているものが、

じゃんけんをする。勝ったらまた乗るほうになる。もし途中で馬になっているものが、しんどくてこけてしまえば、もう一度乗ることになる。

落ちてもだめでつぶれてもだめである。そこで作戦を練って、弱そうな子が馬になっている上に2~3人重なって乗る。

下手をすれば味方が落馬するが馬がこければ何度でも乗ることができる。

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N0.17 バケツがいっぱいになるほど取れることがある。おかずになるときや、鶏のえさになる。

2017-01-19 | 「私がお話し」します。

学校が終わると、手提げかばんをほっぽりだして夕方まで遊んでいた。

 南から順番にいくと、阪急西向日駅を越えて上植野の川西君(向日区から転居した。)林田君の家に3日に一度は行っていたように思う、

それからカイデの大嶋君とこの田んぼ、森本の清水君、金魚屋の池、

 じゃこ取り。

田んぼや小川に魚や貝やいろんな生き物がいた。えび蟹、どじょう、フナ、鯉、からす貝、かえる、あか腹、アメンボー、などなど、

バケツがいっぱいになるほど取れることがある。もって帰るのが大変で、じゃんけんで敗けたほうがもつ。と言っても次の電柱までだ。

そこで交代する、また電柱まで持つ。左右に電柱があるのですぐ変われるときと、長く持たねばならないことがある。それは時の運だ。

おかずになるときや、鳥のえさになる。魚とりで困ったのはヒルだ、時にはテンピルという大人の一指し指くらいのひるで、

牛の足に吸い付いているのが、人間につくことがありそれには困った。小学生の頃の春はたいがいその辺の小川で遊んでいた。

あとは滝ノ町の中川君と槻木君、それから小畑川と向日神社、暑い日は4月でも小畑川でおよいだ。


さらに、向陽小学校の運動場や雨天体操場、あたりが私の世界だった。何をして遊んでいたのだろうかと思い出すと、

 かんけり。かくれんぼ

表の道路は勿論未舗装、車も通らない、たまに自転車、牛車、人が歩いて通る程度だから、空き缶一つあれば10人以上遊べる。

かくれんぼの変形で、鬼になったものがかくれているものを探し、全員見つかれば、ジャンケンで次の鬼を決める。

隠れていたものが鬼にみつからずに、缶をければ、見つかってつかまっていた者も、再びいきかえって隠れることができる。

その繰り返しなのだが、それだけで1時間以上あそんでいたと思う。見つからないところに隠れると、最後まで缶がけれない。

鬼に見つからない程度のちかくにかくれて、缶を蹴りに走る、そうしてつかまっている子を助ける、・・・・

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N0.16 大西さんは一際大きな家で3人姉弟妹だったが、姉が小学校1年のときに同じ組だった。

2017-01-18 | 「私がお話し」します。

タバコ屋の次は郵便局だったが火事で燃えてしまった。

その跡にパチンコ店と肉屋ができた。

 

「紅葉屋」という下駄や服を売っている結構大きな店があった。3歳上の娘さんと随分上の兄がいた。

次が南真経寺へ行く道だ。子供の頃、この道に集まった井上電気の労働者のデモがあったが、向かいの警察に不当逮捕された人を

取り返しに来ていたのだ。

角のタバコ屋は五十棲さん。三人姉妹がいた。中の妹が同級生だった。

次は郵便局だったが火事で燃えてしまった。その跡にパチンコ店と肉屋ができた。当時の肉屋は坂井さん、同級生の息子がいた。

かごとら乾物屋、家の中に井戸があった。向陽小学校の正門前に長谷川本屋、学校の教科書等を売っていた。大分年上の兄弟がいた。

入り口の狭い吉川薬局があった。そして「わた仁・仕出し屋」である。はるこさんという近所で一番太いおばさんがおられた。

辻井さんという 刺繍やがあるがあまりしらない。 万源という酒、醤油屋があった。次は高橋写真館・向日神社御用達だ。

 

 木村紙屋・文房具も扱っていた。上田電気、大西タバコ屋だったが、ここは同級生のT君がいた。きく亭と言う肉やがあったが、このあたりの記憶はあまりない。

富永屋、滝本炭屋、大西さんと続いていた。

大西さんは大きな家で3人姉弟妹だったが、姉が小学校1年のときに同じ組だった。

田中おもちゃ屋があったがそれ以上遠くには行かなかったが、大きな油問屋があった。

ちょっと上に松下のおもちゃ屋だけは知っていた。ここも兄弟がいて下の子が同級だった。

 

この辺までが子供の世界で、小学校5~6年にもなると向日町中に行動範囲が広がったが遠いから物集女まではあまり行かなかった。

 

次からそのあたりのことを思い出すままに書いておこう。 

 

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NO.15 前に常夜灯があった。子どもが紙芝居を見る場所だった。

2017-01-17 | 「私がお話し」します。

銀行の電話番号が、1番、辻山久養堂が9番、大橋が12番、滝仁が13番だった。

 

五辻の隣は理髪店築山三郎さん、おじいさんがめずらしい小動物を飼っていた。男の子が一人Mといった。

吉田さんは、向かいの戸政の職人だった。その前に常夜灯があった。子どもが紙芝居を見る場所だった。3つ上のM君がいた。

左に曲がると阿部電気店、太郎さんというおじさんが、当時としてはハイカラな人だった。娘が2人いたが姉Mちゃんが2つほど下だった。

小山ふとん店があり男の子がいた。その隣が警察だった。

 

片山塩やがあって松本文具店、男の子が2人いたが弟が3年上の子清さんだった。今里屋、小山さんには同級の娘と弟がいた。

そうして向陽小学校の正門と中に役場があった。役場には、安田さんという小使いさんがおり4年上の弟とその兄がいた。

太神楽・獅子舞が廻ってきたときは役場前で少し長い間踊りをした。安田さんが祝儀をはずむからだ。

学校の隣は朝田さんと言う家だった。小野の時計や、中埜の理髪店・3人姉妹、辻山久養堂というお菓子屋があり源氏巻が代表作だった。

ここの3男が同級だった。その兄が二人いた。向日神社、三和銀行、上田、戸川と並んでいた、

Kという同級生がいた。木村豆腐あたりまでしかしらなかった。

 

五辻から東の並びは戸政ガラス、ふーちゃんというおばさんがいた。ガラスが割れたらなおしに来てくれた。右のほうに川島、狩野、岸上と言う家があった。

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NO.14 人体模型を作る家があった。恐いものみたさに、そおーと覗きながら通ったものである。

2017-01-15 | 「私がお話し」します。

 北東の運動場の隅に農協があった。

山田さんという人が住んでいたが2年上の姉Tさんと2年下の妹がいた。

 花久の向かいが片山・はちらはん(八郎)魚屋だった、乾物も置いてあった。男4人兄弟だった。

小林傘屋は今も店を開けている。昔のまま残っている珍しい店だ。 裏に荒木さんの家があった。

その横に乙訓中学校の正門で、正面には、いかにも昔の学校の校舎で趣があった。

今は民家がたっている。その隣の(洛西医院)があるところに人体模型を作る家があった。恐いものみたさに、そおーと通ったものである。

塩崎さん、(野村さん)片山さん そのむこうが石塔寺。

  五辻から東へ

野村酒屋には男の子が3人、最後に女の子が一人いた。3番目が同級でTと言った。子供の私には用がなかったので余りのぞいたことはない。

その隣に田渕さんと言う家があった。お父さんは京都大丸に勤めていたらしい。姉妹と弟が一人いた。妹が同級でAっこさん、3つほど上の姉は

近所でも有名なおてんば娘だった。

 増田自転車やさんも時々覗いて仕事を見ていた。

次に中学校の横門があった。入ったところに蓋のついた井戸があり、新田さんと言う小使いさんがすんでいた。男の子がいた。

校舎が並び北東の運動場の隅に農協があった。山田さんという人が住んでいたが2年上の姉Tさんと2年下の妹がいた。

南北の道を挟んで向日町教会(幼稚園)があるが、学校に行くまでここに通っていた。お爺さんたちが作った教会だ。

森安という牧師が住んでいたが、兄妹がおり妹が同級だった。教会の話をしたら長くなるのでやめておくが、日曜日には礼拝にいていた。

献金を入れるビロウドで作った杓をもって、いすの間をまわって集めた。

コメント
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