ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

元と現役のアスリートの死によせて

2024-04-12 00:00:00 | スポーツ

昨日(2024年4月11日)は、2人のアスリートの死が発表されました。まずは曙太郎の件を。記事をお読みください。


大相撲の元横綱の曙太郎さんが死去 54歳心不全 闘病生活も今月に病状悪化、若貴としのぎ削る
[2024年4月11日10時27分]

大相撲の第64代横綱を務めた米国ハワイ出身の曙太郎さんが心不全で亡くなっていたことが11日、分かった。54歳だった。同期入門だった若貴兄弟としのぎを削り、2人より先に横綱昇進。かたき役になり膝の故障になきながら、長身を生かした突き押し相撲で11回の幕内優勝を遂げた。現役引退後は総合格闘家としても活躍。近年は闘病生活を送っていたが、今月に入り体調が急変していた。

曙さんはハワイの大学を中退し88年春場所、18歳で初土俵を踏んだ。後に兄弟横綱となる3代目若乃花と貴乃花の若貴兄弟、大関魁皇ら「花の六三組」。2メートルを超す長身を生かした突き押し相撲で、特に貴乃花とは熾烈(しれつ)な出世争いを展開。新十両、新入幕と新三役こそ貴乃花に2場所遅れながら、序ノ口から歴代1位の18場所連続勝ち越し。92年名古屋場所の新大関、そして93年春場所での横綱昇進は、いずれも貴乃花を4場所、11場所も先んじた。優勝決定戦も含めれば通算対戦成績も25勝25敗の好敵手だった。

92年夏場所で初優勝し場所後に大関昇進。93年初場所で2場所連続優勝を果たし、第64代横綱の座に就いた。北勝海(現八角親方)引退後の横綱空位を埋めるとともに、貴乃花の昇進まで一人横綱を11場所務め、横綱3場所目からは3連覇し年間最多勝も獲得。98年長野冬季五輪では、開会式で晴れの横綱土俵入りを披露した。

一方で膝のケガに悩まされた。初優勝から2年で7度優勝も、94年の両膝故障もあり以降はほぼ10場所で1度と優勝のペースも落ちた。00年は7年ぶりの全場所皆勤と年間最多勝と復活したが、年が明けた01年初場所を両膝悪化で全休し、回復が見込めないと判断。「もう優勝争い出来ない」「横綱として惨めな姿で土俵に上がれない」と現役引退を表明した。いかつい表情ながら、謙虚な態度に横審の内館委員長も「いつも曙の悪口を言っている自分が恥ずかしくなるほど礼儀正しさに感激」と述べた。

引退後は曙親方として東関部屋で後進の指導にあたっていたが、03年11月に日本相撲協会を退職。翌日には格闘技のK-1参戦を発表。大みそかのボブ・サップ戦、チェ・ホンマンやボビー・オロゴンとの対戦など話題を提供したが、総合格闘家としては芽が出なかった。

◆曙太郎(あけぼの・たろう)69年5月8日、米国ハワイ州オアフ島出身。出生名ローウェン・チャド・ジョージ・ハヘオ。パシフィック大を中退し63年春場所初土俵。90年春場所新十両、同年秋場所新入幕、91年春場所新三役。三役で3場所通算34勝を挙げ92年名古屋場所で大関に。4場所通過で93年春場所新横綱。横綱在位は48場所。通算成績は654勝232敗181休。幕内優勝11回、三賞6回、金星4個。96年4月に日本国籍取得。

このブログでも何回か彼について記事を書いています。

どうでもいい話かもしれませんが

元K-1プロデューサーの本を読んで、「どうもなあ」と思ったこと

下の記事から、『平謝り』という本での谷川貞治氏の話を。曙を、K-1にスカウトしようとした際のものです。


僕は石井館長を交えて、格闘技界のこと、曙をどうやって練習させ、スターにしようと思っているか、必死に口説きました。

(中略)

でも、ここで重要なことがあります。その時に僕が曙に言ったのは、

「横綱、やる気があるんだったら奥さんにだけ相談して決断して下さい。相撲関係者に相談したら絶対に反対されるに決まっています。賛成する人は一人もいませんよ。反対の意見を聞きたいんだったら相撲関係者に相談して下さい」

そうしたら、

「いや、相撲関係者には相談しません。家内と相談します」と、曙は言ってくれた。やったと、心の中で僕はガッツポーズをしました。

(中略)

東京のホテルに部屋を取って、祝杯のシャンパンをあらかじめ用意して、ちゃんとした契約書も用意して曙を待ちました。奥さんも呼んでもらって。曙に関しては十分脈があったので、この日はとにかく奥さん一本に絞って説得しようと思いました。

「奥さん、もう一度、横綱がスポットライトを浴びる舞台に立たせましょう。奥さんは横綱がOKなら、認めてくれる人ですよね」

「ええ・・・・・、まぁ私はこの人がよければ」

「じゃあ、新しい門出を祝して乾杯!」

ほとんど、考えさえる間を与えませんでした。

(中略)

今度は「夜逃げ」の話しを持ち出しました。

とにかく、僕は周りから引き止められることだけが怖かった。まず曙を相撲の世界から切り離すことに必死になりました。(中略)ちょうど東関部屋全体で出稽古に出る日があったので、その日を狙って荷物を持ち出してもらったのです。(引用者注:2003年)11月5日に帰京、その足で北の湖理事長に辞表を提出してもらい、曙の決心が揺らがないうちにすぐ翌日に記者会見を開きました。ここまでやれば、相撲協会ももう追って来られない。(p.122~p.124)

やっていることがまるっきり悪徳商法じゃないですか(苦笑、他人事だから笑います)。


ほとんど、考えさえる間を与えませんでした。

って、こんなの誇らしげに書くことではない。考える間もなく付け込まれて最後は自殺するまで追い込まれた女性の話は下の記事を参照してください。

詐欺というのは、現在から過去へ逆算していけば、だれも引っかからない(が、その場での判断を余儀なくされるのが厳しい)(追記あり)

それにしても曙の奥さんからすれば、ほんと踏んだり蹴ったりですよね。彼女は、おそらく曙に負い目があったと思われます。彼女と結婚して後援会が解散したりして、金銭が潤沢にならず年寄株を取得できず、また所属していた東関部屋も、東関親方(元高見山)から経営能力を評価されず後継者になれずと今ひとつ能力不足でした。だから、奥さんは、相撲協会を退職した際に離婚するということができなかったのでしょう。また彼は、かなりの酒豪だった。こちらでも、


来日当初は、日本人の酒好き、たばこ好きが不思議だったそうだが、本人もある時、1980円で飲み放題の店に入り、チューハイをジョッキで40杯飲んだ。翌日も顔を出すと店主が青ざめ、その店は力士の飲み放題お断りになったという。相撲部屋の近所では、しばしばある話。昭和の力士たちと違い、日本酒やウイスキーではなくチューハイなどが多いので、酒豪と言っても少し割り引く必要はあるが、エピソードとしては豪快で面白い。

とあるくらいです。これでは身体にいいはずがない。曙が最後に表舞台に姿を見せたのは、早逝した潮丸元康の葬儀の際ですかね? これが2019年12月18日とのことで、それから3年半弱ほぼ外に出ることも難しかったのかもしれません。先日記事にした山本弘のように、心肺停止が続いた時点で再起は無理だったでしょうが、やはり節制していれば、そしてこれは言ってもしょうがないことですが、相撲協会を退職しなければ、こんな死に方はしなかったかもしれませんね。その可能性は高かったと思います。

やはり最初の脳梗塞で、事実上山本弘の物書きとしての命脈は断たれたのだろう

では次に現役アスリートの死を。騎手の藤岡康太が、競技中の事故で亡くなりました。記事を。


藤岡康太騎手死去 35歳 6日の阪神競馬場でのレースで落馬
2024年4月11日 14時43分 

JRA=日本中央競馬会は今月6日のレースで落馬し、病院で治療を受けていた35歳の藤岡康太騎手が亡くなったと発表しました。

藤岡騎手は今月6日に阪神競馬場で行われた第7レースで手綱をとっていた馬が第3コーナーを回る際に前の馬と接触して落馬し頭と胸を負傷して病院で治療を受けていました。

JRA=日本中央競馬会は藤岡騎手が10日午後7時49分に亡くなったと発表しました。35歳でした。

藤岡騎手は、滋賀県出身で父が調教師で兄が騎手という競馬一家で育ち2007年にJRAの騎手としてデビューしました。

3年目の2009年にはNHKマイルカップでジョーカプチーノに騎乗し、思い切った先行策から早めに先頭に立つ積極的なレース運びで初めてのG1勝利をあげました。

その後も堅実に勝利を重ね、去年秋のマイルチャンピオンシップでは14年ぶりとなるG1勝利も果たし、通算勝利を803勝まで伸ばしていました。

藤岡騎手は、ことし最初のG1レースで勝利した兄の佑介騎手とともに兄弟そろってのさらなる活躍が期待されていました。

JRAの騎手がレース中の事故で死亡したのは2004年に障害レースで落馬した竹本貴志騎手以来、20人目となります。

武豊騎手「まだ信じられない」
日本騎手クラブの会長を務める武豊騎手は「こんなにつらく、悲しいことはありません。まだ信じられないです。今後、康太の思いを胸に乗っていきたいと思います」とコメントを発表しました。

実は藤岡は、つい先日通算800勝を達成したばかりです。記事を。


阪神10R・仲春特別】藤岡康太騎手がJRA通算800勝「いろんな関係者、馬に支えられて達成できた」
2024年3月30日 15時54分スポーツ報知 # 競馬

 3月30日の阪神9R・仲春特別(4歳上2勝クラス、芝1200メートル=15頭立て)で藤岡康太騎手=栗東・フリー=がタツダイヤモンド(牡4歳、栗東・鮫島一歩厩舎、父サトノダイヤモンド)で制し、JRA通算800勝を達成した。JRA史上58人目で、現役では27人目。2007年3月にデビューし、1万745戦目での達成となった。重賞は22勝で、G1を2勝(2009年NHKマイルC=ジョーカプチーノ、2023年マイルCS=ナミュール)している。

 藤岡康騎手「数多くの騎乗依頼をいただき、いろいろな関係者、馬に支えられて達成できた数字だと思います。ナミュールでG1(昨年のマイルCS)を勝つことができ、注目していただいているなかで、いい流れでくることができています」

当然ですが、まさかねえ、この時にほんの数日後の悲劇を予想はできません。亡くなった日の午前に、兄である藤岡佑介が次のような談話を発表していました。


たくさん心配されている方もいらっしゃると思うので現状をお伝えしておきたいと思います。落馬でご迷惑、心配をお掛けて申し訳ありませんということと、まだ意識が戻っていない状態で、本人の頑張りに期待するしかないというところで、僕ら家族も見守っている状態です。ファンの方もたくさん心配されている方がいらっしゃると思うので、何とか帰ってこられるように願ってあげてほしいと思います

私もこれを読んで、「たぶんかなり厳しいのだろうな」と思わざるをえませんでした。他人様の命のことなのでめったなことは言いませんし言えませんが、非常に悪い状況であることは容易に予想はできるというものです。中央競馬の騎手は、2004年に死亡した竹本貴志以来殉職者は出ませんでしたが、つい先月高知競馬塚本雄大が落馬事故により死去したばかりです。あらためてレースの協議というのは危険だなと思います。競輪の競技中の死亡者競艇の競技中の死亡者オートレースの競技中の死亡者などのカテゴリーもWikipediaにありますし、公営競技でなくてもカーレーサーのアイルトン・セナのようにカークラッシュで死亡したレーサーはたくさんいますし、「ツール・ド・北海道」は、昨年の事故で今年は開催を見送られたくらいです。

いずれにせよ機械や動物などに乗って速さを争う競技は非常に危険ですね。1歩間違うと死が近い。ほんと、みなぎりぎりのラインで勝負していますから、どんな名手であろうと事故とは無縁でない。セナが事故を起こすのだから、誰だって事故を起こします。

私は正直競馬はよく知らないので、藤岡のことも知っているとも言えないのですが、曙に関しては、さすがにそれ相応には知っています。正直藤岡は、危険な競技をしているのだから、死をも覚悟しないと騎乗はできませんが、曙は、ハワイから日本にやってきた当初、自分がこのような死を遂げるとは想像していなかったでしょうね。するわけもありませんが、相撲界を引退した後の曙の人生は、とても苦しいものだったでしょうね。格闘家やプロレスラーになるより、もう少しまともな人生を送ることはできなかったか。やはりこの人も、あまり器用に生きられる人間ではなかったのでしょう。

曙太郎さんと藤岡康太さんのご冥福祈ってこの記事を終えます。

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