ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

携帯電話(iPhone)を換えた(携帯全体では6台(代)目、スマートフォン(iPhone)では4台(代)目)(購入編)

2022-11-30 00:00:00 | PC・通信・IT関係

私は、2012年にiPhone4Sを購入していわゆるガラパゴス携帯からスマートフォンに移行しました。それ以前に私が使用していた歴代の携帯電話は2台で、最初は、私が、職場でいちばん営業所が近かったので契約したauで、ただでくれた安普請のものでした。それはまさに「通話はできる。あと写真は撮れる」というレベルのまさに最低レベルの機能をクリアしているだけものでしたが、当時別に、携帯に何の期待をしていたわけでもないので、特に使っていて問題もなかったのですが、が、しばらくしてやはりかさが張るとかいろいろあって、よりスリムなものに替えました。これは、わりと使い勝手がよく、私もブリトニー・スピアーズの携帯ストラップ(別に、彼女の写真があるわけでもなく、単に「BRITNEY♡」だけのものです)をつけたりして喜んでいたのですが、これは電源ジャックに酷使による不都合が生じました。修理してもよかったのですが、さすがにそんなものに金をつかってまで修理することはないという結論に達し、2012年の7月にiPhone4Sを購入したわけです。

この時、iPhoneアンドロイド、どちらがいいかと少し考えましたが、当時の話では、iPhoneのほうが、アンドロイドより使いやすいとかいうことでしたので、そんなに迷わずiPhoneにしました。結果としては、この時の私の判断は、そんなにまちがってはいなかったとおもいます。

その後遺憾ながらiPhone4Sを紛失してしまい、15年の春にiPhone6を購入しました。これが、購入数日にして表面のガラスを割るという失態をしてしまい、おもいっきり失望しました。そして17年の暮れに突然バッテリーの進みが速くなり、画面に線が入った後黒くなってしまい、使い物にならなくなりました。私が自宅近辺のauの営業所に行き、「どんなもんでっかいな」と聞いたところ、店の男性は(苦笑しながら)「いや・・・iPhoneは、2年を超えたくらいで急に機能が悪化することがあるんですよ」という趣旨のことを私に語りました。というわけで、iPhone8を購入しました。この時は、6を下取りに出しました。私は車を持っていないので、下取りしてもらって商品を購入したのは、この時が初めてで、現段階唯一です。なお以上の記述は、不要電気製品や家具などを引き取ってもらったことなどは除きます。世の中中古が価値のある商品というと、車とカメラ、本、スマートフォンなどですかね。あとは、骨とう品とか家具とかのように古さが価値があるものになり、現役で今後も頑張ってもらう商品では、そうそうあるものではない。あとは、(本もそうですが)映像などのソフト関係でしょうか。VHSなどの、すでに過去のものであるソフト再生機のハード類も、それ相応の価値はありそうです。

余談が過ぎました。2018年1月に新しいiPhone8が届きました。256GBです。なお4Sは確か64GBであり、6の時は128GBでした。色は、6と8どちらもゴールドです。わりとこの色は好きでした。

これは私にとってかなり使い勝手が良くて、長きにわたって使うこととなりました。最初は、2021年いっぱいくらいでの買い替えを考えていましたが、分割で支払っていた購入費用を完済したので、電話料金が安くなり、これはいいやと思ってその後も使い続けました。

が、これも今年の5月あたりからいよいよバッテリーの減少がひどくなり、ドックコネクタもまずくなってきました。よって充電も、プレートのものでないとできなくなってしまい、さらには、256GBでもいよいよ容量もなくなってきたので、これは14(この時点では仮称。まだ正式名は発表されていない)購入は避けられないなと覚悟しました。もちろんこの時点でiPhone13を買ってもよかったのですが、もう例年の販売時期(9月)まで4か月というところだったので、これはそこまで待ったほうが得策であると判断したわけです。

これはどうでもいい話ですが、私が購入したプレートの充電器はこちらです。

Anker PowerWave 10 Pad ワイヤレス充電器 Qi認証 iPhone 14シリーズ / 13シリーズ Galaxy AirPods 各種対応 最大10W出力 (ブラック)

使い勝手が良かったので、自宅用のほかに職場用ともう1つ買ってしまいました。

結果的にはそれでよかったのですが、さすがにドックコネクタが悪くなった時点で、無理しないで交換したほうが良かったかなと今は反省しています。ちょっとタイミングを外しました。

それでだましだまし(文字通り「だましだまし」です)使い続けました。iPhone14発表が9月、そして先月(2022年10月)末に、ようやくauに行き、iPhone14の512GBを注文しました。品薄でしかも512GBなので、納品が遅くなるという話でしたが、いまさらどうということはないので、それは仕方ないといいました。色について聞かれたので、前の2品のゴールドが好きだったので、ゴールドはありますかねと聞きましたところ、設定がないとの話でした。一般のiPhoneでは、ブルー、パープル、ミッドナイト、スターライト、(PRODUCT) REDの5色、iPhone14 Pro/14 Pro Maxの色は、ディープパープル、ゴールド、シルバー、スペースブラックというもので、似たような色はありますが、つまりはすみわけができているということです。別に色にこだわる気もないのですが、青系統の色が好きなので、第1希望ブルー、第2はどうでもいいのですが、適当にパープルということにしました。基本パステル系の色で、そんなに強い色というわけではありません。

で、この日は、現品が来ないとこれ以上のことはできないので、そのまま帰宅しました。あとは、新しいiPhoneが来るのを待つだけです。

iPhone8は、10月末の、『小さな恋のメロディ』関係の写真で、最後の大役を務めてくれました。そして11月初旬、ついに私の携帯に、連絡が入りました。その電話には出られなかったので、あらためてかけなおします。

すると、明日に私が注文したiPhone14のブルー512GBが入荷するという連絡です。私はその日(平日でした)は休みでしたので、都合がいいわけです。その日の午後3時30分に、行く約束を取り付けました。

で、当日その営業所に行き、購入手続きと契約の変更手続きをしました。前回の購入申し込みの際に担当してくれたのは、わりと感じのいい女性でしたが、今回は違う女性でしたが、たぶん同じくらいの年齢(20代後半?)くらいの女性でした。これくらいの年齢の人が、わりと人当たりなども慣れていて良いのですかね。

それで購入の関係で、2年間なにがし円の金をはらい、2年後でもし機種変するのならそこまででよく、しないのならあと2年間払うという契約となりました。ほかにセキュリティソフトもいれてもらいました。私は、使っていないPontaポイントがあったので、これで一定額(結構馬鹿にならない金額でした)iPhoneの代金と、セキュリティソフト(ノートン)も購入できました。Pontaポイントなんて、何の興味関心もなかったのですが、世の中こういうものも馬鹿にしたものでもない。

それで、今までは20GBという(私にとっては)やや少なめの電波量の設定でしたが、これをもう少しでかくするなど、いくらかの契約変更をしました。といいますが、私が今までしていた契約は、現在の機種を利用している限りでのものだったので、機種変更をする限り契約変更は必須だったわけです。

そういうわけで、新しいiPhoneを入手できて、この日は意気揚々と帰宅します。そのあといろいろまた問題が生じたのですが、これはまた明日ということで。

なお本日の記事は、過去に執筆・発表している下の記事と内容が重複しているところがあることをお断りしておきます。

そろそろスマートフォンの時期かなと思う・・・または海外でSIMフリーのiPhoneを買おうか

ついにスマホに移行した・・・iPhoneを買った(ブルック・シールズの乳首すけ写真あり)

iPhone5が発売されてちょっと感じたこと

iPhoneが壊れたので買いかえた(今日から毎日更新)

2020年秋以降あるいは21年にiPhoneの5G対応機種を購入したい(SIMフリースマートフォンあるいはタブレットの購入も必要だ)

iPhone12を買うべきかどうか、それが問題だ

iPhone13を買うことになると思う

たぶん9月に、次のiPhoneを購入する予定だが、価格高騰はさすがに不安だ

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崔洋一監督が亡くなった(2013年に監督と握手をしていただいたことがある)

2022-11-29 00:00:00 | 映画

映画監督で、俳優をしたこともある崔洋一監督がお亡くなりになりました。記事を。

>映画監督の崔洋一さん死去 「月はどっちに出ている」など
2022年11月27日 20時40分 

「月はどっちに出ている」や「血と骨」などの作品で知られる映画監督の崔洋一さんが、27日ぼうこうがんのため亡くなりました。73歳でした。

崔洋一さんは長野県で生まれ、大島渚監督の映画「愛のコリーダ」の助監督などを務めたあと、1983年に「十階のモスキート」で劇場映画の監督としてデビューしました。

1993年、在日コリアンのタクシー運転手を主人公に日本に住む外国人などの姿を描いた「月はどっちに出ている」で注目を集め、ビートたけしさんが主演を務め、2004年に公開された映画「血と骨」では、日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞しました。

また、2004年からことしまで、日本映画監督協会の理事長を務めました。

崔さんはことし1月、ぼうこうがんを公表し、闘病していましたが、崔さんの事務所によりますと27日午前1時、東京都内の自宅で亡くなったということです。73歳でした。

記事にもあるように、崔監督は、今年1月に自分の病気を公表していました。では公表時の記事も。

>崔洋一監督が闘病中のぼうこうがんとは――痛み伴わぬ血尿や血塊…喫煙などが主な発症要因
[ 2022年1月12日 22:01 ]

 映画「十階のモスキート」「月はどっちに出ている」「血と骨」などで知られ、日本映画監督協会の理事長も務める崔洋一監督(72)がぼうこうがんと闘病中であることを12日、本紙に明かした。20年4月に全摘出手術を受けたが、1年後の検査で右腎、リンパ、肺に転移していることが判明。今月4日から新たな治療をスタートし、寛解を目指す。

 崔監督が闘病中のぼうこうがんは、ぼうこうの粘膜に発生する悪性腫瘍。ぼうこう内部を覆う尿路上皮にできる「尿路上皮がん」が9割以上といわれる。発生初期から症状が出やすく、痛みを伴わない赤や茶色の血尿や血塊が出ることもある。頻尿や排尿の際に痛み、残尿感が続く場合もあり、ぼうこう炎と症状が似ている。がんの大きさや、ぼうこうの壁にどれくらい深く及んでいるか(深達度)によって、手術などの治療法が選択される。初期の場合は内視鏡手術が一般的だが、進行するとぼうこう全摘となる。ぼうこうを摘出した場合は、人工的に腹壁に作った排泄口(尿路ストーマ)を使った尿路変更が行われることもある。50歳以上で罹患(りかん)することが多く、男女比は3対1。

 発症の主な要因の一つとして喫煙、化学物質への慢性的な接触などが挙げられる。

人様の生死にかかわることですのでめったなことは書けませんが、遺憾ながら、

>1年後の検査で右腎、リンパ、肺に転移

ではちょっとこの時点でどうしようもないという感がありますね。残念です。

ところで崔監督は、NHKの引用記事にもありますように、大島渚監督の『愛のコリーダ』でチーフ助監督を務めました。この時主演を務めた 藤竜也を大島監督に推薦したのが、じつは崔監督(当時はもちろんまだ監督ではありません)でした。女優のほうが無名の松田暎子だったので、男優のほうは知名度の高い俳優を起用したいのはやまやまでしたが、どの俳優も出演したがらない。それで崔監督が、助監督をしていた『新宿警察』に出ていた藤がいいのではないかと大島監督に推薦、製作記者会見前日に大島監督と崔監督が藤と面談、シナリオを読んでもらいます。最後は、プロデュースを担当した若松孝二監督と一緒に説得(というか、一緒に酒をのんで)、ついには藤から

>出る気がなければ、今ここで、若松さんとも崔さんとも飲んでませんよ

という言葉をもらい、

>記者会見の7、8時間前でした。若松さんが泣き、僕も泣いて、その隣に平然と飲み続ける藤さんがいて……。昼ごろ、藤さんはそのままの格好で帝国ホテルに現れ、僕と控室へ。大島さんは大変緊張しつつも、抱きかかえんばかりに喜んでいました。キャストが紹介された会見場の、あのどよめきが忘れられません。

という次第になったわけです。そりゃマスコミも驚きますよね。なにしろ情報がもれていなかったわけですから。決まっていなかったんだからもれるわけもない。

というわけで、この映画で助監督を務めた以外では、崔監督は大島映画にスタッフとして参加したわけではないのですが、やはりこの時の経験がきわめて彼の映画人生に影響を与えたのでしょうね。この映画に参加しなければ、のちの崔監督は存在しなかったのかもしれない。いや、わかりませんが、彼の様々な能力がこの映画での経験で極端に伸ばされたのは確かではないか。のち(1999年)に、彼が大島監督の遺作となる『御法度』で近藤勇を演じたのも、そういったからみなのでしょう。もちろん大島監督も、崔監督への絶大な信頼をしていたはず。

それで崔監督のフィルモグラフィをみると、劇映画だけをWikipediaから引用しますと(注釈ほか削除)、

映画

ということになります。20世紀までは割合コンスタントに作品を発表してくれていますが、やはりご年齢(1949年生まれ)からすると、ラストの作品が2009年というのは残念ですね。21世紀になっても、『カムイ外伝』までで5本発表しているので、お亡くなりになるまでの13年間に、3本~4本くらいの作品を発表することは可能だったのではないか。山田洋次監督や新藤兼人監督のような超人のようなことを要求するつもりはありませんが、やはりもう少し作品を発表していただけたらなあとあらためて思いますね。大島監督も、『戦場のメリークリスマス』とか製作されなかった『ハリウッド・ゼン』のような海外を巻き込んだ製作費の高い映画にのめりこんで寡作になってしまいましたが、崔監督も、大島監督同様日本映画監督協会の理事長を長きにわたって(2004年~22年。大島監督は、1980年~96年)務めていましたが、崔監督も論客になり、ある意味大島監督と同じ轍を踏んだということもあるかもしれません。実は山田監督も理事長を務めたことがあるのですが、2003年~04年の間であり、そこで崔監督にバトンタッチしたわけです。山田監督が理事長を引き受けたのは、大島監督の後をついだ深作欣二監督が03年1月にお亡くなりになったための一時的なものだったのでしょうが、やはり崔監督には、論客だけでなく映画を撮ってほしかったというのが、私の正直なところです。

それで、私は、崔監督のお姿を1度だけ生で見て、しかも握手までしていただいたことがあります。

「私のべレット」を観た

2013年1月に長期の闘病中だった大島監督がお亡くなりになり、同じ年の3月に池袋で大島監督の追悼上映が催されました。その時、当時の記事から引用すれば、

>なお、同じ日、現日本映画監督協会理事長(大島もかつて長きにわたって理事長でした)である崔洋一のトークショー(崔監督と握手しちゃいました。私感激)が開催され

というわけです。映画が始まる前に、私の目の前に崔監督がいたので、握手を求めてしまいましたら、しっかりしていただけました。あの時の崔監督の柔和な表情を忘れることはできません。

崔洋一監督のご冥福を祈ってこの記事を終えます。

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今週土曜日から京都の紅葉の写真をお見せします(12月3日追記:4日日曜日からになりました)

2022-11-28 00:00:00 | フォトログ

諸事情あって1日だけということになったのですが、京都で3か所の紅葉を見物することができました。場所については、他では写真を発表しているのでここで書いてももちろんいいのですが、一応記事になってのお楽しみということで。

今回は、新しい機種の携帯電話(iPhone14)のデビューとなりました。たしかに写真は相当きれいになったかと思います。このあたりもお楽しみに。

それにしても、黎明期の携帯と比べると、昨今の携帯(スマートフォンのカメラも当然ふくむ)の性能の良さには驚かんばかりですね。素人でも容易にいい写真が撮れてしまうわけで、これでは、プロはさらにいい写真を撮らねばいけないわけで、それは当然の話ですが、しかしなかなか大変だと思います。今度の土曜日(12月3日)から記事にする予定です。

12月3日追記:すみません。時事ネタの記事(下の記事)を書かなければならなくなり、紅葉の記事は日曜(12月4日)からとなりました。乞うご容赦。

やはり人工透析まで行くとかなりまずい(渡辺徹の死に寄せて)

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韓国人であると考えられる美女モデルたちの写真をご紹介(16)

2022-11-27 00:00:00 | 美女探求(韓国人と思われる美女モデル)

驚異的な脚の美しさです。

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言いえて(書きえて)妙だとは思った

2022-11-26 00:00:00 | あまりに初歩的なところから粗雑すぎる

毎年秋から年末にかけて、プロ野球選手の「戦力外」の話題がテレビ、雑誌、ネットなどで取り上げられます。普段は野球を見ない人でも、これは毎年注目するという人もいるのではないか。私も、野球のテレビ等の中継を見たりスタジアムで観戦するということは、ここ最近ありませんが、この件は、ネットなどではチェックをしています。

さてさて、この記事には「おいおい」でした。

>元横浜の古木克明、元阪神の仲田幸司の後反省

後反省」ですか(苦笑)。たしかに言いえて(書きえて)妙ではありますかね。

それはともかく、やはり野球に限らずプロスポーツの選手たるもの、引退後を考えて貯金はしておいた方がいいと思います。多くの選手は、現役を退いた後いろいろ苦労をするのでしょうから、そういう時に助けになるのは、最後のところ金です。

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はしごを外されたようなものだったのだろう(元アイドル・橋本美加子)

2022-11-25 00:00:00 | 美女探求

番組は見ていないので、書いていることが実際の番組の内容とややはずれている可能性がありますことを最初に断っておきます。

先日(11/22)ネットをあさっていて気づいた記事を。

>森口博子の同期アイドルの今 バセドー病、子宮系の病気乗り越え「今が一番幸せ」
[ 2022年11月16日 20:14 ]

 歌手でタレントの森口博子(54)が16日放送のテレビ朝日系「あいつ今何してる?」2時間SP(後7・00)に出演。森口と同じ85年にデビューした人気アイドルの現在に迫った。
 森口の「会いたい人」は、お互いに励まし合った同期アイドル「橋本美加子ちゃん」と名前を挙げた。橋本さんは15歳の誕生日に「メロウ・シーズン」でデビューし、当時は早見優と同じ事務所。「まつげちゃん」の愛称で親しまれ、数々の新人賞を獲得した逸材。

 森口は「めっちゃ仲良しで、ご飯も行ったり、カラオケとかも一緒に行っていて。めっちゃいい子」と振り返った。現在は「連絡先とかもわからなくなって。お互い引っ越し、引っ越しで連絡もつかなくなった」と明かした。スタッフは橋本さんと連絡を取り、東京都江東区の東陽町駅近くで待ち合わせた。橋本さんがVTRに登場すると森口はうれしそうな表情を見せた。

 橋本さんはデビュー翌年から女優業にシフトして舞台やドラマを中心に活動してきたが25歳の時に大きな決断をした。それは、海外の映画の話がなくなり「次、私、何したらいいんだろう?」と悩み抜いて出した結論は「そうだ!普通に働いてみたい」と芸能界から遠ざかった。

 その後はカフェバー、ケーキ屋さん、料亭の仲居さんなど数々の仕事を経験。忙しい日々を送っていた橋本さんは、40歳過ぎに体に異変があった。「どんどん痩せてくる。で、みんなが会うたびにビックリする。“これはおかしい”と思って病院に」と診察の結果は「バセドー病」だった。それでも通院しながら薬の服用を続けて6年ほどかけて症状が寛解した。

 また、47歳の時に「今度は子宮系の病気になりまして」と、仕事もできないような状態になったものの、無事に手術を終えて半年ほどかけて仕事復帰。およそ4年前に今の職場「日本鉄塔工業」に転職し営業事務を担当している。

 現在は素敵なパートナーとともに暮らし、休日は趣味の釣りに没頭しており「今が一番幸せじゃないですかね」と振り返った。

Wikipediaによれば、彼女が活動していたのは1985年から95年とのこと。彼女は1970年の早生まれとのことなので、現在52歳ですかね。

それで、番組内では、そこまでは触れていないのかもですが、彼女が芸能界をやめた背景には、彼女がヘアヌード写真集を発表したことがあります。記事中

>25歳の時に大きな決断をした。それは、海外の映画の話がなくなり「次、私、何したらいいんだろう?」と悩み抜いて出した結論は「そうだ!普通に働いてみたい」と芸能界から遠ざかった。

とありますが、Wikipediaでは、

1994年橋本美加子に芸名を戻す。海外女優デビューするため、ヘアヌード写真集を発売したが、これを最後にデビュー時から所属していたサンミュージックを退所した。

とあり、上で彼女が語っていることと話が合致しますね。

その話がそれなりに実体のあるものだったのか、彼女にヌードを決断させる方便にすぎなかったのか、そのあたりは私の知るところではありませんが、たぶん彼女としては「話が違う」「騙された」「はしごを外された」という気にはなるでしょう。彼女も芸能生活が10年くらいとのことで、自分の人気も限界も理解していたのでしょうから、「そろそろかな・・・」という気にもなったのかもしれません。

それにしても、やはり彼女も、使いつくされた、消費されつくされた芸能人という感が否めませんね。彼女自身がヌードになったのは24歳の時だし、それ以前にセミヌード写真集も発売されているので、グラビア系、ヌード系への抵抗は少ない方だったのかもですが、やはり「ルビコン川を渡る」ような覚悟はあったはずで、そんな彼女が、写真集を発表した後、当然予想されたセクシー系の仕事をせずに芸能界を去ったのも、彼女なりの抗議の側面があったのだろうなと思います。上の

>次、私、何したらいいんだろう?

というあたりが、まさにそういうことでしょう。

実は彼女は、Wikipediaによれば、

2014年5月17日、新宿のOSCARにてクラブイベント《IDOL 80's VOL4》にゲスト出演し、約20年ぶりに公の場に姿を現す。デビュー当時からのファンが殺到し、音楽関係者、テレビ関係者をはじめ、橋本の大ファンだったお笑い芸人の坂本ちゃんも客として訪れた。

とのことで(注釈の番号は削除)、引退後まったく表にでなかったということでもないのですが、そこからでも8年経過していますし、今回テレビ局のオファーを受けて出演したのも、たぶん時間も精神的にも「時効」というところもあったかと思います。現在彼女は勤め人もしているようですし。おおせの通り

>今が一番幸せじゃないですかね

であるのなら、たいへん良いことかと思います。やっぱり、彼女からしても、芸能生活には、必ずしもいい思い出が多くなかったのかな…という気はしますね。実際すぐやめる人も多いわけだし。文字通り未熟な未成年の時代は、いろいろな点で無理なこともありすぎたでしょうしね。同じ事務所で彼女の先輩である岡田有希子 も、理由はともかく彼女が現役時代の1986年に自ら命を絶っています。

最後に、橋本美加子さんのデビュー当時の写真をはって、この記事を終えます。

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翻訳のヴァージョンを比較してみる(おこがましいが、私の訳もご紹介)(『動物農場』『悲しみよこんにちは』編)

2022-11-24 00:00:00 | 書評ほか書籍関係

前にこのような記事を発表しました。

翻訳のヴァージョンを比較してみる(おこがましいが、私の訳もご紹介)

では今回はその第二弾を。フランス語と英語の翻訳にチャレンジします。刊行されている本の翻訳をご紹介し、拙訳を書き添えます。なお記事中の本の写真の大きさは、すべてAmazonの大きさのままですので、特に他意はないので乞うご容赦。

フランス語のほうは、私が大好きな小説、フランソワーズ・サガン著『悲しみよこんにちは』より。この小説は、Wikipedia(サガンのWikipedia)によれば、

というわけで、3種の訳が出ているようですが、安東訳は入手できないので、朝吹訳と河野訳を比較し、同時に私の拙訳もお見せします。なおサガンが亡くなったのは2004年であり、著作権が満了していませんので、原書もAmazonにリンクしておきます。

悲しみよこんにちは

悲しみよ こんにちは

Bonjour Tristesse

原書は、これもいろいろなヴァージョンがありますが、私が見て安そうなものを。なお実は、私もこの本のテクストがネットに上がっていたのを見つけたのですが、一応それは著作権違反になると思うので、ここではリンクは張らないこととします。ていうか、私もかなり昔に見つけたサイトなので、たぶん現在では切られているかもしれません。

最初に第1章冒頭の部分をご紹介します。朝吹訳、河野訳、拙訳の順で。

>   Sur ce sentiment inconnu dont l'ennui, la douceur m'obsèdent, j'hésite à apposer le nom, le beau nom grave de tristesse. C'est un sentiment si complet, si égoïste que j'en ai presque honte alors que la tristesse m'a toujours paru honorable. Je ne la connaissais pas, elle, mais l'ennui, le regret, plus rarement le remords. Aujourd'hui, quelque chose se replie sur moi comme une soie, énervante et douce, et me sépare des autres.

朝吹訳

>ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから、私はこれまで悲しみというものを知らなかった。けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私に蔽いかぶさって、私をほかの人たちから離れさせる。

河野訳

>ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。その感情はあまりに完全、あまりにエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみというのは、わたしには敬うべきものに思われるからだ。悲しみ――それを、わたしは身にしみて感じたことがなかった。ものうさ、後悔、ごくたまに良心の呵責、感じていたのはそんなものだけ。でも今は、なにかが絹のようになめらかに、まとわりつくように、わたしを覆う。そうしてわたしを、人々から引き離す。

拙訳

けだるさと甘さがつきまとうこの見知らぬ感情に、悲しみという、重々しいが美しい名前をつけることを私はためらう。その感情は、あまりに完全で、あまりに利己的なので、ほとんど恥ずかしく感じているくらいだが、悲しみは、私にはいつも立派なものと思われるからだ。私は悲しみをわかっていなかった。しかしけだるさ、悔恨、稀には自責の念は感じていた。今では、絹のようにいらだたしく、またなめらかに、私に何かがまとわりつく。そして他人から私を引き離す。

ではもう1つ。最後の第12章の冒頭のところを。

> A Paris, il y eut l'enterrement par un beau soleil, la foule curieuse, le noir. Mon père et moi serrâmes les mains des vieilles parentes d'Anne. Je les regardai avec curiosité: elles seraient sûrement venues prendre le thé à la maison, une fois par an. On regardait mon père avec commisération: Webb avait dû répandre la nouvelle du mariage. Je vis Cyril qui me cherchait à la sortie. Je l'évitai. Le sentiment de rancune que j'éprouvais à son égard était parfaitement injustifié, mais je ne pouvais m'en défendre... Les gens autour de nous déploraient ce stupide et affreux événement et, comme j'avais encore quelques doutes sur le côté accidentel de cette mort, cela me faisait plaisir.

朝吹訳

>パリで、美しい太陽のもとで、埋葬が行われた。物見高い群衆、喪服……。父と私とはアンヌの親戚の年取った婦人たちと握手をした。私は好奇心をもって彼女たちを眺めた。彼女たちは年に一度くらい、きっと家にお茶に来ただろうに。人々は同情をもって父を眺めた。ウェッブが結婚のニュースをまき散らしたに違いない。シリルが出口で私を探しているのを見た。私は彼を避けた。私が彼に対してもっている恨みの感情は、全く不当ではあったが、私はどうすることもできなかった。周囲の人たちが、この馬鹿々々しい、恐ろしい事件を嘆いていた。私は、過失死だという点にまだいくらかの疑いをいだいていたので、このことは私をよろこばせた。

河野訳

>葬式はパリで行われた。美しい太陽のもと、物見高い群衆に囲まれ、喪服の黒に覆われて、父とわたしは、アンヌの親戚の老婦人たちと握手した。わたしはその人たちを、好奇心とともに眺めた。きっと年に一度は、アンヌの家にお茶を飲みに来ていたことだろう。みんな同情の目で、父を見つめていた。ウェッブが、結婚の話を広めたからにちがいない。シリルも見かけた。出口でわたしを探していたが、わたしは避けた。彼に対して感じていた恨みは、まったく不当なものだったが、どうすることもできなかった……。周囲の人々は、この愚かしくも恐ろしいできごとを嘆いていたが、わたしは事故死だということにいくらかまだ疑いをもっていたので、内心おもしろく感じもした。

拙訳

パリで、美しい太陽のもと葬儀があった。好奇心のある大勢の人たち、喪服に囲まれて。父と私は、アンヌの年老いた親戚女性たちと握手した。私は女性たちを興味深くながめた。1年に1回きっと彼女らは、お茶をしに家に来ていたのだろう。誰もが同情の念をもって父を見た。ウェッブが、結婚の話を広めたに違いない。出口で私を探しているシリルを見かけた。彼を避けた。彼に対して私が感じる恨みの感情はまったく根拠のないものであるが、差し控えることができなかった。周りの人たちは、この愚かしく恐ろしい事件を嘆いていたが、その死が事故死であるという側面にいまだ何らかの疑いを私は持っていたので、それは私を喜ばせた。

私のつたないフランス語の能力で申し上げますと、河野訳のほうがやや意訳が多いですかね。英語でしたらもう少し自信をもって訳を論じられるのですが、フランス語ですとまだまだです。

それでは次は、英語の小説を。ジョージ・オーウェルの『動物農場』です。これも有名な小説ですので、かなりたくさんの訳がでています。Wikipediaのスクリーンショットを。

また日本の出版社からも原文の本が発売されています。Wikipediaから引用しますと、

  • 「動物農場」講談社英語文庫講談社インターナショナル、2007年
  • 「動物農場」ラダーシリーズ:IBCパブリッシング、2013年
  • 「動物農場」雑賀忠義・坂口昇注釈、南雲堂、1990年

です。一応Amazonにリンクしておきます。

動物農場- Animal Farm【講談社英語文庫】

動物農場 Animal Farm (ラダーシリーズ Level 4)

動物農場

ただオーウェルの本はすでに版権が切れているので(1950年死去。当時の著作権経過期間(50年)に、戦時加算10年強(3794日)を加算し、2011年で日本国における著作権は満了)、ネットでテクストは入手できます。上のような本は、注釈がついているので学習の際に手助けとなるという点での価値ということになりますかね。

また外国で出版されたヴァージョンですと、Amazonで確認した限りでは、こちらが安そうです。

Animal Farm (Collins Classics)

私が調べた時点で、ペーパー バックで529円です。ただし、Kindleでは(当然ながら)もっと安く読めます。ただKindleで読むのなら、ネットで流れているテクストをダウンロードして読むほうがいいと思うので、それなら金を使う意味がありません。

というわけで、テクストをダウンロードできるサイトをご紹介。こちらこちらなど。

では今回ご紹介する翻訳です。本来なら、現在最新の翻訳であるハヤカワepi文庫山形浩生訳をご紹介したいのですが、あいにく今回入手できませんでした。買えばいいのですが、わざわざこのためだけに買う気にならなかったので、今回は、開高健訳と川端康雄訳をご紹介します。開高が翻訳をしていたなんて知らなかったのですが、ほかにロアルド・ダールの翻訳もあるようです。現段階未読ですので、読んで面白そうならまたご紹介します。本の出版は開高本のほうが後ですが、翻訳は初出が1984年につき開高訳のほうが早いので、川端訳より開高訳を先にします。

動物農場: 付「G・オーウェルをめぐって」

動物農場: おとぎばなし

と思ったのですが、ちょうど(たぶんウクライナ戦争のからみで?)、上記の表にある吉田健一訳が9月に発売されたので、それもご紹介します。ちなみに「なにをいまさら」の話をすれば、吉田は、吉田茂の息子で、麻生太郎の伯父にあたります。ついでに書けば牧野伸顕の孫で、大久保利通の曾孫です。初出は1966年とのこと。大物保守政治家を複数身内にもつ彼が、共産主義社会を批判する意図があるとされる本を翻訳したことに他意があるかどうかについては、知識がありません。

動物農園

では作品の冒頭の部分を。

  >Mr. Jones, of the Manor Farm, had locked the hen-houses for the night, but was too drunk to remember to shut the popholes. With the ring of light from his lantern dancing from side to side, he lurched across the yard, kicked off his boots at the back door, drew himself a last glass of beer from the barrel in the scullery, and made his way up to bed, where Mrs. Jones was already snoring.

 開高訳

>荘園農場のジョーンズさんは、鶏小屋の夜の戸締りをしたが、飲み過ぎていたので、くぐり戸を閉め忘れてしまった。ランタンの光の輪を右に左にぶらぶらさせながら千鳥足で中庭を横切り、裏口で長靴を蹴って脱ぎ、台所のビール樽(引用者注:「だる」のルビあり)から本日最後の一杯をひっかけてから、二階の寝室へあがっていった。ベッドでは、奥さんがすでにいびきをたてて眠っていた。(p.7)

川端訳

>荘園農場(引用者注:「マナー・ファーム」のルビあり)のジョーンズさんは、にわとり小屋にかぎをかけて夜のとじまりをしましたが、ひどくよっぱらっていたので、くぐり戸を閉めるのを忘れてしまいました。ランタンからもれでるまんまるの明かりを左右にゆらしながら、中庭をふらふらとすすみ、裏口でブーツをけっとばしぬぎすて、台所のビヤだるから寝しなの一ぱいをごくりと飲んで、二階のベッドにあがってゆきました。ベッドのなかではおくさんがすでにいびきをかいてねむっています。(p.7)

吉田訳

>旧農園の主人のジョーンズ氏は鳥小屋の戸に鍵を掛けはしたのだったが、すっかり酔っぱらっていて、鶏の出入り口を閉めるところまではいかなかった。彼は提燈の明りを左右に飛ばしながら中庭をぐらついて行き、家の裏口で長靴を振り脱ぎ、流し場の樽から最後の一ぱいのビールを注いで飲んで、その妻がすでに鼾(引用者注:「いびき」のルビあり)をかいている寝部屋に上がって行った。(p.6)

拙訳

荘園農場のジョーンズ氏は、鶏小屋に夜中、鍵をかけたが、飲みすぎてしまっていたので戸を閉め忘れてしまった。ランタンからの光の輪を左右にゆらして、彼は中庭をふらふらと歩き、長靴を裏口で蹴っ飛ばして脱ぎ、台所のビールの入った樽から今晩最後の一ぱいを飲み込んで、上の寝室に上がっていった。ベッドでは、すでに奥さんがいびきをかいていた。

次は、第6章の冒頭部分。

 > All that year the animals worked like slaves. But they were happy in their work; they grudged no effort or sacrifice, well aware that everything that they did was for the benefit of themselves and those of their kind who would come after them, and not for a pack of idle, thieving human beings.

開高訳

>その年の間ずっと、みんなは奴隷のように懸命に働いた。働くことが喜びだった。この労働のすべては、自分たちと後輩の動物たちのためであって、怠惰にして泥棒のようなあの人間どものためではないと、よくわかっていたからである。(p.64)

川端訳

>その一年間、動物たちは奴隷(引用者注:「どれい」のルビあり)のようにはたらきました。それでもみんなしあわせな気持ちで仕事をしていました。どのような努力も犠牲も骨惜しみしたりしませんでした。自分たちのおこなうすべてのことが、自分たち自身のためになり、のちに生まれる動物たちのためになるということ、なまけてぬすむだけの人間どものためではないということがよくわかっていたからです。(p.75)

吉田訳

>その一年間、動物たちは全く奴隷も同様に働き続けた。しかしそれでも幸福で、どんな犠牲を払ってどれだけ苦労しても、それが人間という怠け者の泥棒のためでなしに、すべて自分たちと、自分たちの後に来る自分たちと同じ生きもののためであることがわかっていた。(p.70)

拙訳

その年ずっと動物たちは奴隷のように働いた。しかし動物たちにとっては働くことが幸福だった。努力や犠牲も厭わない。自分たちのなすことすべてが、なまけものでよそのものを盗んだりする人間どものためでなく、自分たちと自分たちより後の動物たちのためであることをじゅうぶんにわかっていたからだ。

これは好き嫌いの問題ですが、川端訳は「ですます」文体になっているので、やや個人的にはとっつきにくいというのが正直なところです。個人的な意見を書きますと、吉田訳がいちばんいい訳のように思いましたが、用語は、やや古さを感じますので、ちょっとわかりにくいところがあります。「旧農場」「寝部屋」など。

なお、この連載で取り上げるものとしては、2種類以上の翻訳があり、また版権切れでネットにテクストがあがっているものならそれに越したことはないという精神で、対象となるものを探したいと思います。

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明日仕事の後関西に向かって紅葉を楽しむ

2022-11-23 00:00:00 | 旅(国内)

本日は祝日ですが、明日仕事をしたあと新幹線で関西に向かい、京都あたりで紅葉を楽しみたいと思います。今回は、金曜日に仕事を休んで紅葉を見物、土曜には都内にもどるので、土曜はほぼ観光する時間がないと思うので時間としては不十分ですが、たっぷり写真を撮る所存です。12月3日から、写真をお見せできると思いますので乞うご期待。

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2022年には、新規の死刑の確定者が出ないかもしれない(死刑判決自体も、地裁では現段階なし)

2022-11-22 00:00:00 | 社会時評

最初に断っておきますと、私は死刑反対論者ですが、以下の記事は、私のそういった考えや立場とは無関係です。事実を書いているということでご了解ください。

現在日本で、最後に死刑が確定したのが、私がいろいろ勉強させていただいているサイト「犯罪の世界を漂う」によると、関西青酸連続死事件の犯人とされる筧千佐子死刑囚が最後のようです。彼女の上告が最高裁判所で棄却されたのが、2021年6月29日ですので、たぶん7月中に死刑が確定したかと思われます。

で、現在最高裁に上告中の死刑判決を受けた被告人は、「最高裁係属中の死刑事件リスト」によると、4名いる被告人たちは、現段階2022年中に最高裁での上告棄却はないと思われますので、そうすると暦年としての2022年は、死刑確定者が出ない年になる可能性がありますね。

それで、こちらの表によると、新たな死刑確定者が出なかった年は、戦後では1986年のみとのことです。とすると、もしかしたら今年は、戦後2回目の、死刑確定者ゼロの年になりそうです。そして現段階地方裁判所では、今年死刑判決が出ていません。高等裁判所では、川崎老人ホーム連続殺人事件の控訴が棄却されたのが2022年3月9日で、現在上告中です。高裁では、現在(この記事を書いている11月20日時点)4人が控訴中です。現段階最後の1審死刑判決が出たのが、何かと話題になった特定危険指定暴力団・五代目工藤會総裁である野村悟被告に下されたものであり、これが2021年8月24日のものであり、地裁ではすでに1年以上死刑判決が出ていないわけです。なおこの裁判は、裁判員への危険をかんがみ、裁判員裁判の対象から除外されています。

ところで先日あった事件の判決についての記事を引用します。長い記事ですが、後のためにも全文引用することをご容赦ください。

>女性殺害事件で無期懲役 新潟地裁 別事件で無期懲役の被告に
2022年11月18日 18時01分 

新潟県新発田市で女性を相次いで襲ったとして無期懲役が確定している被告が、一連の事件とは別に20歳の女性を殺害した罪に問われた裁判で、新潟地方裁判所は無期懲役を言い渡しました。

喜納尚吾被告(39)は、▽新潟県新発田市で女性4人を相次いで襲い、このうち1人を死亡させた罪や、▽逮捕後に裁判所から逃走した罪などで、2018年に無期懲役の判決が確定していました。

その後一連の事件とは別に、2014年に同じ新発田市内で当時20歳の会社員の女性が運転する車に乗り込み、わいせつ目的で連れ去って殺害したなどとして服役中に逮捕・起訴され、あらためて殺人などの罪に問われました。

裁判では、検察が「すでに確定した罪を再び処罰することはできないが、刑の重さを判断する際に考慮することは許される」と主張し、「身勝手極まりない犯行で、立ち直りは期待できない」として死刑を求刑していました。

一方、被告と弁護士は無罪を主張していました。

18日の判決で新潟地方裁判所の佐藤英彦裁判長は、「被害者の車から検出されたDNA型などから被告が犯人と認められる」と指摘しました。

そのうえで、「被害者に落ち度はなく、強い殺意に基づく犯行だったことは明らかで身勝手極まりない。被害者の恐怖や絶望は筆舌に尽くすことができず結果は重大だ」と述べました。

一方で「遺族が死刑を望む気持ちは厳粛に受け止めなければならないが、過去の同じような事件は、ほとんどが無期懲役で死刑を選択することはできない」として無期懲役を言い渡しました。
被告の弁護士「控訴するかどうかは被告と検討」
判決の言い渡しのあと、被告の弁護士は「控訴するかどうかは、今後被告と検討して決める」と話しました。
新潟地検「内容を検討し適切に対応」
判決について新潟地方検察庁は「今後判決内容を検討したうえで適切に対応していきたい」としています。
被害者の母「判決の結果に納得できない」
判決のあと、女性の母親が弁護士を通じてコメントを出し「被告が自らの言葉で真実を語ることもなければ、娘の死を重んじることもなく、ひたすら自分の保身だけを心配し、最後まで否定し続けました。本当に許せないし悔しい気持ちでいっぱいです」と心情を明らかにしました。

また、無期懲役という判決について「娘の無念を思えば、判決の結果に納得できない気持ちもあります。検察庁には控訴することを検討していただきたいと思っています」としています。
今回の判決のポイント
被害者が1人の殺人事件で死刑が言い渡された例は限られていて、今回の裁判では、刑の重さを判断するうえですでに無期懲役が確定している、過去の事件のことをどこまで考慮するのかが焦点となっていました。

すでに確定した罪を再び処罰することは憲法で禁じられていますが、最高裁判所は「確定した事件を今回の犯行に至る重要な経緯などとして考慮することは許される」という考え方を示しています。

今回の裁判で検察は「過去に確定した罪を再度処罰することはできないが、刑の重さを判断する際に事情として考慮することは許される」と主張し、死刑を求刑していました。

判決は今回の事件がすでに確定している事件から間もない時期に起こされた経緯を踏まえ「常習性が非常に高い」と指摘した一方、「過去の同種の事案で死刑が言い渡されたケースとは、残虐性や犯行後の状況が異なり、同列には論じられない」として、死刑は選択できないと結論づけました。
判決の詳細
裁判では別の事件で無期懲役がすでに確定していることが、刑の重さを判断するうえで考慮されるかどうかが焦点となっていました。

検察は「すでに確定した罪を再び処罰することはできないが、刑の重さを判断する際に考慮することは許される」と主張していました。

これについて裁判所は18日「すでに無期懲役が確定している事件のあと、間もない時期に犯行に及んでいて常習性が非常に高い。被害者の恐怖や絶望は筆舌に尽くすことができず結果は重大だ」と述べました。

一方で「過去の同じような事件はほとんど無期懲役が出ている。死刑を選択されたものは犯行の悪質さが抜きん出ているため、同じように論ずることはできない。そのため死刑を選択することはできない」と指摘しました。
元刑事裁判官「二重処罰を禁止する原則は大事なもの」
判決が無期懲役だったことについて、元刑事裁判官で法政大学法科大学院の水野智幸教授は「死刑を言い渡す基準は非常に厳しく、被害者が1人であれば無期懲役という判断が定着している。検察はすでに無期懲役が確定している余罪があることを理由に死刑を求刑したが、改めて前の事件を考慮するとなると、『二重処罰』を禁止した憲法に反する。悪質な前科はあるが、それをもって今回の事件を死刑と判断するのは無理がある」としています。

すでに確定している事件と同時に審理されていれば判断が変わった可能性があることについては「非常に難しい問題で、この事件だけを見るとやりきれない思いを抱く人も多いと思う」と述べた一方、「法律は規定に従って用いる必要があり、恣意的(しいてき)な運用はできない。二重処罰を禁止する原則は大事なものだ」と指摘しています。

そのうえで「こうしたケースは判例が少ないため、まだ論理が深まっていない部分もある。控訴された場合は引き続き議論になるだろう」と話していました。

この事件での判決の妥当性についてはここでは論じませんが(私は死刑反対論者なので、死刑判決でなくてよかったと思いますが、私の意見はこの際どうでもいい話です)、この判決は、やはり死刑に対するハードルが、現在の裁判所にとってだいぶ高くなっているところが影響していると思います。

2000年から2007年まで、日本では、1審で毎年10件以上の死刑判決が出て、死刑確定者も、2004年から2012年まで、2010年を除き、二けたの死刑確定者が出ました。2010年は8名の確定者が出ています。

そして、2017年から2021年までの1審死刑判決は、2017年と20年、21年が3件、18年が4件、19年が2件です。新確定者数は、17年と19年、20年が3件、18年が2件、21年が4件です。確定者だけに話を限ると、2006年の20人、07年の23人、11年の24人などと比べると、たいへんな減り方です。

なお死刑の確定自体は、死刑判決を受けて控訴中、上告中の被告人がそれを取り下げれば、それで確定します。ということは、その年が終わる瞬間まで、新規死刑確定者が出る可能性はあるわけです。だからどうなるかはわかりません。が、今年の死刑確定者数は1名出るかどうかといったところではないかと思います。来年は、2つくらい最高裁で弁論→判決が出る可能性があります。前述したように、上訴中の被告人の取り下げによる死刑確定は、つねにあり得ます。

そう考えると、検察や法務省はそうは考えてはいないのかもですが、少なくとも裁判所は、「あんまり積極的に死刑判決を出したくはない」という考えではありそうですね。何かで読んだ話によると、裁判官の研究グループみたいなところが、裁判員制度になったら死刑判決は減るであろうと予想していたら、実際にはむしろ激増したので、裁判官がそれを抑止する方向で動いたというのです。URLは記録しなかったので、事実はどうかはあまり強いことを言えませんが、実際には、1審の死刑判決は、2007年が14人、08年が5名、裁判員制度開始が09年の8月でこの年9名、10年が4名、11年が10名となっていて、12年以降は、3名、5名、2名と続き、それ以降は4名が最高です。また高裁で裁判員裁判の死刑判決が減刑されているケースもあります。日本の治安は、殺人事件の被害者なども減っているので、そうなるとあんまり重罰を科すのが妥当ということはないのかなと思います。ひところは日本の刑務所も収容数が激増しましたが、最近はだいぶスカスカになっているのも確かです。

いずれにせよ死刑判決は漸減傾向にあるというのは事実かと思います。これは長期にみていかないといけないので、今後も私なりに観察していきます。

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ロミー・シュナイダーの写真をご紹介(映画『離愁』より)

2022-11-21 00:00:00 | 美女探求

前にこのような記事を発表しました。

ロ三ー・シュナイダーの特集をしている(今後地方にも回るし、名画座などでも上映されるはず)

で、ロミー・シュナイダーの映画が公開されていますが、彼女の代表作である『離愁』から、彼女の美しい写真をお見せしたいと思います。なお一緒に映っている男性は、ジャン=ルイ・トランティニャンです。1973年の映画ですので、1938年生まれの彼女にとっては、35歳くらいの時ですかね。

以下撮影時のオフショット。

当然ながらお二人とも表情の柔らかさが違いますね。トランティニャンは、『男と女』の印象が強い俳優ですが、今年(2022年)お亡くなりになっています。

離愁 UHDマスター版

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