ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

自然がすべて人間に有益なわけではないし、「反自然」(?)が人間を常に害するわけでもない(当たり前。そもそも砂糖は、「反自然的物質」ではない)

2024-04-09 00:00:00 | 書評ほか書籍関係

本多勝一著『遥かなる東洋医学へ』(単行本)を読んでいると、往々にして「大丈夫か、この人(たち)」とか、「これはさすがに本多氏まずいんじゃないの」と思える記述が多々あります。今日はその1つを。なお手元にあるのが文庫本なので、文庫本からの引用で。


恐るべきことだが、妊娠中や出産の仕方を始め、毎日の食物から日用品や生活習慣・移動手段(交通)にいたるまで、ほとんどすべてが反自然的なもので充満しているではないか。(P.127)

前にも書きましたが、それは「人間に必要な自然もあれば、そうでないものもある」としか言いようがないですね。本多氏のいう「妊娠中」「出産」というのが、具体的にどのようなことを指摘しているのか(書いていないので)わかりませんが、緊急時における帝王切開ほかの医療は、「反自然」ではありますが、当然非常に有益なものでしょう。不妊治療も、もちろんこれは、「反自然」ではありますが、「不妊治療は反自然的なものであるから、するべきでない」とは本多氏も公言はできないでしょう。すくなくともこの本ではそういう主張はされていない。

ここでいう本多氏の、「反自然」とは、おそらく分娩促進剤の(不要な)投与などによる分娩時刻の調整とかそういうことを言っているのでしょうが、それならそういうことを指摘すればいいわけで、「反自然」などという抽象的な総論で一刀両断しても、上で私が書いたような無様で無残な始末になるだけです。だいたい自然といったって、毒草も毒キノコもあるし、地震や津波、落雷など、人間にとっていろいろ障害になることはたくさんあるでしょう。

そもそも本多氏がやたら称賛する「東洋医学」だって、ぜんぜん「自然」ではないのですが、そういうことを本多氏に指摘しても、たぶん反応はないのでしょう。

それで、この本を読んでいて、私が「この人大丈夫か!?」と思ったのが(そんなのはたくさんありますが)、こちら。


子どもの身になって考えてもみよう。離乳期になってなんでも口にしたがる赤ん坊に、たとえば砂糖のような反自然的物質でつくられた菓子のたぐいをどんどん与えたら、まず味覚からして反自然的になり、真に「身体の欲する」食物への欲求が鈍感になることは目にみえている。(P.128)

砂糖は、「反自然的物質」ではないでしょう(苦笑)。人工甘味料とかを持ち出すのなら、話としては分からんでもありませんが(そもそも本多流の「センサー理論」なら、子どもはそれを食べないのではないか。下でご紹介する本多氏の孫の話では、そういう主張を本多氏はしています)。いや、これ精製した白砂糖が悪い、とか言っているの? 本を読んだ限りでは、そういうことでもなさそうです。

ていうかさあ、これ文庫本なわけで、単行本の段階で「これまずいですよ」と指摘した人、本多氏の周囲にいなかったんですかね(呆れ)。なにをこんな愚劣な話をするのか。

本多氏とこんなことで議論してもしょうがありませんが、『遥かなる東洋医学へ』とほぼ同時期(1996年)に出版された古典的名著を。なお著者は、英国史の研究者であり、農学者や農業経済学者ではありませんが、非常に面白い本です。現在でも新刊本が買えます。とっくの以前に単行本も文庫本も品切れ重版未定である『遥かなる東洋医学へ』とはえらい違いです。

砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書 276) 

Amazonの紹介文を引用します。


茶や綿織物とならぶ「世界商品」砂糖.この,甘くて白くて誰もが好むひとつのモノにスポットをあて,近代以降の世界史の流れをダイナミックに描く.大航海時代,植民地,プランテーション,奴隷制度,三角貿易,産業革命―教科書に出てくる用語が相互につながって,いきいきと動き出すかのよう.世界史Aを学ぶ人は必読!

引用にもあるように、砂糖というのは、誰もが好むといっていい商品です。うんなもん本多氏の主張するような怪しい話で語れるようなものではない。そして本の本文から引用すれば、次のようになります。最初の行は、見出しです。


生まれつき砂糖を嫌いな人はいない

砂糖の消費が生活水準の基準になるといわれたのには、もうひとつ理由があります。それは、ほかでもない、砂糖は世界中のだれからも好まれるということです。あとでこの本の主な話題のひとつになる、近代初期の世界で広く取り引きされた商品―「世界商品」とよんでおきます―となった食品のなかでも、たとえば、コーヒーやお茶は、はじめて飲んだときにはおいしいというより、苦いと思ったりする人もいるでしょうし、とくに子どもはそうでしょう。また、同じ時代に世界にひろがったタバコなどでは、はじめて吸ってみて快適に感じる人は少ないはずです。お酒のたぐいも同じでしょう。

これに対して、生理学的な理由はいまだによくわからないようなのですが、砂糖の甘味は、赤ちゃんをふくめて、はじめて口にした人がすべて好きになってしまうのです。お酒の好きなお父さんなので、「甘いものは嫌い」という人もたくさんいますが、あれは大人になって、しきりにお酒を飲むようになったせいで、味覚が変わっただけです。あの人たちも、子どものころは、砂糖が大好きだったはずなのです。こうして、砂糖は、おおかたの人びとに好まれますから、とくに「世界商品」になりやすい性格をもっていたのです。(P.3~4)

以上振り仮名の記載・段落の一字下げは省略。段落には、1行空けをしています。

いずれにせよ本多氏自身も本多氏のご両親やお子さん、奥さんほかも、甘いものはすきだったはず。そういえば、刑務所で服役していた人(後藤真希の弟である後藤祐樹)が、こんなことを述べていました。

刑務所の食事というのは、糖尿病対策にいいらしい(禁酒禁煙間食不可労働きっちりだから、たしかに身体にはいいのだろう。ただしストレスは問題)


「みんな甘いものに飢えている」
刑務所に入ったら、とにかく甘いものが欲しくなる。以前、取材した元受刑者達は強く主張していた。内の一人は元々お酒が好きで、甘いものはそんなに食べる方ではなかった。それでも―――

「中にいたら、酒が呑みたいとかは特に思わないんです。それよりとにかく甘いものが食べたい。本当にそうなります」

(中略)

「僕の周りを見てみても、普通は男性、甘いものはあまり食べない、って人も多いじゃないですか。特にお酒呑みの人はそうですよね。でも中に入ると真逆なんです。みんな甘いものに飢えている。出されると、むしゃぶりつくように食べてます」

「とにかく甘いものが食べたくなる」という後藤祐樹さん

出所したら、お菓子を買いまくって食いまくる
後藤氏は元々、お酒はそんなに呑む方ではなかったそうだ。ただ、ヘビースモーカーではあった。日に何箱も吸っていた。タバコの禁断症状はどうだったのか。

「それが、タバコも別に吸いたいとは思わないんですよ。それよりとにかく甘いものが食べたい。お酒よりもタバコよりも、甘いもの。それが実感でしたねぇ」

こういう証言を聞くにつれ、我々は普段の生活で必要以上の糖分を摂っているのだろうな、と思い知らされる。それに身体が慣れている。だから刑務所に入って、必要最小限の糖分しか与えられないと無性に欲しくなってしまう。そういうことなのだろう。

というわけです。つまりは、砂糖を食して喜ぶ子どものほうが、「自然」なわけであり、娑婆では甘いものを特に好まない人間でも、刑務所では甘いもの大好き人間になるわけです。何を本多氏は、こんなデタラメかつ非常識なことを書いているのか。正直これを読んだ際私は、あまりのひどさに絶句しました(苦笑)。それにしても川北稔氏の冷静な筆致と本多氏の説教じみた筆致、きわめて対照的です。もちろん川北氏の方がずっと上、本多氏の方は下の下の下の下の下です。

ところでここで心配になったのですが、本多氏の初孫の女の子「Mちゃん」は、まさか「反自然だから」と砂糖の摂取を禁じられる、あるいはそうとまではいわずとも必要以上の制限をされたりはしなかったでしょうね。ただ本多氏といい、孫の親(本多氏の息子とその奥さん)といい、本多氏がやたら傾倒する境信一氏がほざいている「センサー」なんて与太を本気で信じているようなので、そういう可能性も空想次元でありえないということもないでしょう。私の杞憂であったことを願うばかりです。

何の論証もなく勝手なことをほざかれていては、東洋医学全体も迷惑だろう(本多勝一『はるかなる東洋医学へ』)

で、なんで本多氏が、こんな支離滅裂なことを主張するかというと、たぶん本多氏がやたら依拠する境信一氏の主張をそのまま垂れ流しているからでしょうね。こんな馬鹿な話は、とても本多氏が考えつくようなものではないでしょう。仮にそうでなくったって、あまりの馬鹿らしさに「晩節を汚す」としか言いようがないのではないか。さらに砂糖ではないがこちらはどうか。


イニュイ民族は生肉だった。アルゼンチンその他ほとんどの「文明国」は焼き肉をはじめとする火食です。極地探検家が壊血病で苦しんでも、イニュイ民族が平気だったのは生肉だったからでした。ビタミンその他が、火食という反自然的行為だと摂取されない。(P.155~156)

これまた「おいおい」ですよね。「」というのは、人類にとってもっとも基本的なものであり、さまざまな文明や文化の淵源でもあり象徴でもありました。Wikipediaにも

人類は古来、火を照明調理暖房合図のために用いており、また近代以降は動力源としても火を利用してきた。「火の使用により初めて人類は文明を持つ余裕を持てた。」と考える人もおり、火を文明の象徴と考える人もいる。これはギリシャ神話における「プロメーテウスの火」の話を思い起こさせる。その後も火は人間の生活の中で非常に大きな地位を占め、火を起こすための燃料の確保は全ての時代において政治の基本となっている。とくに20世紀中盤以降はもっとも広く使用される燃料は石油であり、石油を産出する産油国はその生産によって莫大な利益を上げ、また石油価格の上下は世界経済に大きな影響を及ぼす。

というわけです。まさか人間が、あらゆる食品に火を通さないで食べることができるというものでもないでしょう。極地探検家の事例などはかなり特異なものであり、一般論で論じるべきものでもないでしょう。壊血病などは、原因がわかったらそれに苦しむこともなくなったし、また食物に火を通すことにより衛生面ほかの効用がある。そもそもそこまで言うのなら、本多氏は、「火食」をしないのかよ(そんなことないだろ)です。と考えたら、ご当人


それに生の西洋野菜より、ミソ汁などにギッシリ入れて煮た日本的なものの方が大量に食べれますよ。(P.158)


ここで境信一氏の解説する玄米の食べ方を紹介しておきましょう。(P.169)

と書いています(苦笑)。おいおいですよね(苦笑)。いったいいつから東洋医学の境氏は、玄米食のコンサルタントになったのか(呆れ)。味噌汁を飲んだり玄米を炊くのならやっぱり火を使っているじゃないですか。「本多さんは、火を使って調理したものを食べているようですが、これらはあなたの『火食という反自然的行為』という主張と矛盾しませんか」と問われたら、本多氏はどうこたえるのか。まともに応答できずに逃げるだけでしょう。要するに愚にもつかない与太や出まかせをほざくからこうなるのです。

さすがにこの本を読んで、よし自分も、本多氏が推奨する食生活をしてみようと実行する人はあまり多くないでしょうが、たぶんそれは挫折する可能性が高い。本多氏自身文庫版あとがきで、


また「あとがき」のなかで食養生に関連して私の玄米食のことが触れられていますが、すでに七〇代となった今さすがにこれは変わって、白米(時に麦飯)と蔬菜と補助食品になっています。(P.254)

と書いている。

つまりあんただって、継続できないようなもんじゃねえかよ(苦笑)!!!

というわけです。あまりのひどさにお話にもなりません。

ていうかこれは、今後執筆する予定の続きでまた論じたいのですが、この本多著書って、まともな医者や管理栄養士、栄養学者などに取材、あるいは内容の校閲をしてもらっているんですかね。本多氏には、日本の医学界でも幹部クラスの医学者が同級生や友人・知人でいる(執筆時。現在ではその多くは故人でしょう)ようですから、そういう人たちからまともな指摘なりなんなりを受けるべきではないか。もしそうしていれば、たぶんみな「その境とかいう人物は信用ならん」「相手にしないほうがいい」というような忠告をしたのではないですかね。まともな医者や栄養学者、管理栄養士らが、こんな人物のほざくことに賛同するとは思えない。そもそも本多氏は、やたら食生活を重視しますが、当の境氏が、さほどの高齢でなく(死因は不明ですが)亡くなっているわけであり、これまたほぼ悪い冗談のレベルのお粗末さです。

というわけでこの本については、今後も断続的に批判をしていきますので読者の皆さまにおかれましては乞うご期待。


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