経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

  経済人列伝 石坂泰三

2021-05-30 20:44:12 | Weblog
経済人列伝  石坂泰三

 戦後三等重役という言葉が流行しました。戦前の会社重役は、資本家そのものであり、従って一般庶民とはかけ離れた資産の持ち主である事が多かったのですが、戦後の公職追放のため正統派財界人が退場し、彼らの下にあった部長クラスの中堅管理職が重役(役員)になるケ-スが激増します。こうして出現した戦後派の重役、サラリ-マン重役を、皮肉って三等重役と言いました。日本は欧米と違い、資本と経営の分離が行われやすい環境にあり、戦前から経営者資本主義は盛んだったのですが、戦後になりこの傾向は一気に加速されます。この点で戦後という時期は経営方法の革命期であったといえましょう。
 石坂泰三という人は、この種の三等重役の代表かも知れません。彼は自分で企業を起こしていません。その点では豊田佐吉や鮎川義介あるいは堤康次郎とはかなり異なる人生を歩みます。彼自身、自らをサラリ-マンとして強く自覚していました。この自覚のもとに、第一生命を育て上げて社長になり、戦後は請われて東芝社長として大争議をおさめ、昭和31年から4期8年第二代経団連会長として、特に池田内閣の所得倍増論を強力に支持し、高度成長期の経済界をリ-ドしました。泰三は経団連会長時代、財界総理と呼ばれるほどの影響力を持ちます。しかし経団連つまり経営者団体連合会は、その名の示すとおり、企業集団の連合と合議を前提として機能します。ですから泰三の役割も、この集団の総意をどうくみ上げ、遂行させるのかにありました。彼は明治19年の生まれですが、この点では戦後型経営者の典型を示しています。
 石坂泰三は明治19年に埼玉県大里郡奈良村(現熊谷市)に生まれました。家は35ヘクタ-ルの田畑を所有する大地主です。父母はどういうわけか、早くから上京して生活します。子供が多く、教育費がかさみ、そう裕福な生活でもなかったようです。泰三は父母特に母親から漢籍の特訓を受けます。母親は家事の傍ら、四書五経、文選や唐詩選などの訓読を泰三に教えます。この教養は泰三の将来にとって有益なものになりました。彼は始め陸士を目指したようで、陸士コ-スの代表と言われた城北中学を受験しますが、不合格になります。家計に余裕がなかったので、商家への丁稚奉公の話も出ます。泰三は父母に懇請して、もう一年の猶予を乞い、翌年東京府立一中に合格し、更に一高、東大(法学部)というエリ-トコ-スを進みます。一中時代の同級生には谷崎順一郎、東大時代には河合良成や五島慶太がいます。卒業後逓信省に入ります。この間部下の汚職の責任を問われて戒告処分を受けています。汚職は前任課長時代の事ですから、泰三は不満でした。
 逓信省は4年で退職することになります。第一生命の社長矢野恒太が、泰三の恩師岡野敬次郎に、だれか良い人材はいないかと相談します。岡野は逓信省の知人に候補推薦を頼みます。こうして「本人の知らないところで、人身売買が行われて(泰三自身の言葉)」彼は第一生命に転職するはめになりました。本人にはあまり抵抗感はなかったようですが、妻は「私は官吏の嫁に来たのであって、保険屋の嫁に着たのではありません」と愚痴をこぼします。妻の言葉の方が正直で、東大法科卒のお役人が保険会社の一サラリ-マンに転職とは、当時の感覚では御殿からゴミ箱へ放り込まれたようなものでした。実際いざ勤務すると、逓信省時代との待遇の格差にさすがの泰三もびっくりし、後悔もします。きちんとした洋服を着て、涼しい部屋で威張っていた者が、丁稚同様の環境の中で駈けずり廻らなければなりません。後悔はするが、そう深刻に取らないところが、泰三の泰三たる由縁かも知れません。
 第一生命という会社の創設には面白い話があります。創立者である矢野恒太は医師として日本生命に勤務していました。会社に勤務する医師の待遇が悪いので、待遇改善を矢野は要求します。待遇は改善されましたが、矢野は解雇されます。そこで反発し奮起した矢野は、日本生命に劣らぬ会社を作ってやれと思い、第一生命を立ち上げます。そういう会社ですから、泰三が転職した当時、第一生命は業界では三流の上クラス、30数社中13位、社員は70名内外、まあ中小企業と言ってもいいでしょう。
加えて社長の矢野は、会社創立のエピソ-ドからも推察されるように、個性の強いくせのある人でした。泰三は矢野に秘書としてまた役員として仕えます。気苦労が多かっただろうと、周囲の者は想像しています。矢野の方針で社内重役は矢野と泰三だけ、社内重役を増やしても、結局は社長の意向を迎えるような意見しか言わないから無駄だということです。残りの役員はすべて社外重役です。これが財界の錚々たる大物陣、大橋新太郎、服部金太郎、森村市左衛門、松本健次郎、さらに小林一三などの面々です。彼らに泰三は社長の矢野ともども鍛えられます。ここで泰三は財界人の操縦法を会得したのだ、とも言われます。
転職後しばらくして、約束どおり、矢野は泰三の欧米留学を許します。2年間欧米に滞在し、特にニュ-ヨ-クのメトロポリタン保険会社で、みっちり保険の勉強をして帰国します。帰路は第二次大戦のさ中、連合国の船はドイツの潜水艦の標的になります。そのため比較的安全な喜望峰まわりで帰国しますが、暗い海を暗い船で(灯火管制)ひやひやしながらの帰国は、泰三に強い印象を与えたようです。潜水艦の魚雷を一発食らえば、確実にお陀仏ですから。
 35歳取締役、48歳専務取締役、そして昭和13年、52歳で泰三は矢野から社長職を譲られます。この間第一生命は躍進し、業界2位の順位を獲得し、日本生命に迫ります。泰三は矢野の懐刀として、共同経営者として、また社長として活躍します。泰三のこの間の業績は以下のようにまとめられています。
  IBM式会計器の導入による作業能率の増進
   保険は統計確率の世界ですから、この種の計算機は必須の武器です。しかし多くの社員は購入には反対でした。
  新社屋建設
   社長就任と同時に落成、地上8階地下4階、総工費1600万円。戦後マッカサ-がそこに住むことになります。それほど立派なビルでした。
  外交員の待遇改善
   保険会社の主力は外交員です。彼らの待遇を改善し、彼らの中から役員を任命します。
  資金運用
   株式と社債を購入し、それを運用して稼ぎます。泰三は投機の才に恵まれていたようです。兜町の飛将軍山一證券社長大田収も顔色無しではなかったかという、風評もあります。
 昭和21年、60歳、泰三は第一生命を退職します。公職仮追放の立場でしたので、退職金もでません。当時大企業の経営者は皆公職追放に脅えていました。占領軍の当初の意向は、日本を農業国にする事であり、企業の生産設備で優秀なものは、すべて東南アジアに持って行くつもりでした。そして大企業のトップのほとんどは退陣させられました。アメリカの思惑に反して、結果は日本の産業に吉とでます。代った三等社長、三等重役達は先輩以上に優秀でした。
泰三は退職後しばらく浪人します。そして公職仮追放は免除されます。そこへ降って湧いたような東芝社長就任の話が出ます。仲介は三井銀行頭取の佐藤喜一郎、昭和24年石坂泰三は正式に東芝社長に就任します。東芝は日本の電気機械製造の代表的企業ですが、一時期10万名を越す社員を擁した東芝も、戦後は2万8千名にまで社員が激減し、彼らは鍋や釜を作って糊口をしのいでいました。優秀な機械設備は封印され信州の工場で使用禁止になっていました。そして東急、読売、トヨタの項で述べたのと同じく労働争議の嵐が東芝をも襲います。労働組合の外部には共産党員がいて、争議を指導し先導します。共産党は、少なくともこの時点では、日本の企業をすべて潰し日本の資本主義にとどめを刺すつもりでした。
泰三の仕事は、労働争議の終結です。どうしても6000名の解雇が必要になります。まだ社長でない取締役の時、泰三は単身で組合事務所に出かけ、「今度社長になる予定の石坂です」と挨拶します。三分の侠気が彼のモット-です。こうして交渉相手との意思疎通の可能性を築きます。後はどうすれば会社を再建できるかの案を組合に提示します。大多数の組合員にしても、生活は大事です。会社を潰したくはありません。泰三は政府が容認し融資を斡旋するような、再建案を作ります。そのためにはどうしても6000名の解雇が必要であると組合幹部に説きます。誠実に数字を突きつけられれば、どのような条件で会社再建ができるかどうかは、判断できます。できるものはできるし、できないものはできない。ですから後は極力頑張るしかありません。こうして労組の主流派を納得させ、過激派を孤立させて、再建案(6000名解雇を含む)を労組に飲ませます。名門東芝の大争議を終結させ、会社の経営を軌道に乗せた、泰三の名は上がります。この間吉田首相から蔵相就任の打診がありましたが、泰三は断っています。後任の東芝社長に岩下文雄を選びます。もっとも泰三は岩下の経営には不満で、昭和40年に、意中の人である土光敏夫を東芝の社長になるべく尽力します。
昭和31年、70歳、経団連会長に就任。4期8年会長職を務め、財界総理の異名を取ります。泰三の経団連会長として方針は、
  業界の最大公約数の意見集約、個別企業の利害を代表しない
  財界の自主性確立、政府や政党の干渉は排除する、リベラリズム
  豊になろう、日本の産業の潜在力を信頼して、経済の成長と拡大の提唱
  対米協調
  中国との交渉の要、一方ソ連との交渉は急ぐべきでない
だいたい以上のようなものです。
経団連会長時代泰三は、日本商工会議所会頭藤山愛一郎と共同で、鳩山一郎内閣に退陣要求を突きつけています。鳩山内閣の経済政策が曖昧であり、経済を放置して日ソ国交回復に専念し過ぎていた、と両名は判断したようです。
反面池田内閣の所得倍増政策には大賛成で、山一證券が危機に陥った昭和38年にあっても拡大政策を支持しています。
また早くから貿易自由化を唱え、関税撤廃を主張し、財界の多数から批判されます。泰三が会長を退いて数年後から日米経済摩擦が激しくなります。泰三の先見の明と言うべきでしょう。彼がこういう主張をした(できた)背景には、日本の経済力への高い信頼があるからです。潜在的能力が充分あるのだから、貿易は自由化し、円は切り上げ(こう言ったかどうかはしりませんが、論理的にそうなります)をした方が、長い目で見れば日本経済の体力を強くするのだ、という信念です。
昭和39年経団連会長職を副会長の植村甲午郎に譲ります。しばらくして三木武夫通産相の依頼で、大阪万博の会長になります。昭和45年春、大阪万博は開催され、秋を迎えて大盛況のうちに終わります。
石坂泰三はこういう人ですから、交友知人にはこと欠きません。内3名を挙げておきましょう。山下太郎、彼は戦前満州太郎として鳴らし、戦後にはアラビア石油を立ち上げて、アングロサクソン主導のメジャ-に立ち向かいます。この時すでに経団連会長であった、泰三は90億円の個人補償にすぐ判を押しています。この時泰三が言った言葉は「山下のような山師でなければこんな仕事はできない」です。泰三が東芝社長就任を引き受けた時、周囲の声に反して、就任に賛成したのは山下太郎だけだったとも言われています。
小林中(あたる)とはツーカ-の仲で、泰三が表の、小林が裏の財界総理と言われ、吉田内閣や池田内閣の政策に協力します。二人は極めて対照的な育ちを背景に持っています。
土光敏夫を泰三は最も高く評価しました。惚れたと言ってもいいでしょう。土光を東芝の社長に推します。小林と土光についてはすぐ後の列伝で取り上げます。
泰三は経済人であると同時に、優れた文人でした。和歌を詠み、漢籍を愛し、シェ-クスピアやゲ-テを原文で読み、80歳を超えてなおフランス語を勉強しました。昭和37年、76歳から、和漢の原典の筆写を開始します。四書五経や万葉集などを筆写します。
昭和50年心疾患の悪化で聖路加病院に入院し死去。享年89歳。
泰三は多くの放言をしています。その語録もおもしろいものですが、最後に彼が述懐した言葉をあげてみます。彼は言います、高校・大学と多くの事を学んだ、文学や哲学にも親しんだ、今振り返れば、大学の授業で習った実際的な知識はどんどん変わって役に立たなくなったが、教養それ自身は変らず、自分をはぐくんでくれた、と。Das stimmt so.

参考文献  堂々たる人生、石坂泰三の生涯  講談社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


「中共」という呼称の使いにくさ

2021-05-30 18:30:52 | Weblog
「中共」という呼称の使いにくさ

 ブログで「中共」という呼称を使おうとしても非常に使いにくい。「中共(ちゅうきょう)」とは言うまでもなく「中国共産党」の略称である。かって毛沢東時代には「中共」という言葉は盛んに使われた。現在かなりの本やネットでも使われている。しかし「中共」という語彙を打つには「なかとも」を漢字変換するか、「中国」と「共産党」から他の字を消して合成するほかない。まことに不便である。「中共」という言葉を使う人たちはこの言葉で意味する国に悪意を持つ人が多い。かくいう私もその一人なのだが。現在の中国を統治するのは中国共産党であり、一党独裁であり国家の上に党があるのだから、現在の中国=中国共産党である。その略語としての「中共」の意味するところは充分通じるはずだ。日本では自民党の一党政権が続いているが、自民党は国家の下の私的団体なので「自民党」という名称でもって日本を表記することはできない。
 通常ワ-ドなどで文字を打つと、最初は変換に苦労する語彙も使い続けると簡単に変換できるようになるのだがこと「中共」になると直接には打てない。国内外で言論統制の厳しい国だから、ネットの用語にも変な圧力がかかっているのかと邪推(?)してしまう。
                     2021-5-30
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社