(承前 エロスとしての国家2)
(4)衆議制
国家とカリスマである君主、階層性、生産単位エロスの培地である家族が定立された。信仰に支えられて君主は存在する。その下部には所有欲求を管理調整する装置としての衆議機構が展開する。自動的に展開する。君主が存在すれば衆議は必然的に生じる。物財への所有欲求は制度の安定要因であり、だから衆議機構はどんな社会にも存在する。信仰は取引できないが財貨は取引できるがゆえに。すべて一人あるいわ極少数の人間で国家を切り回すことは不可能であるのだから。あらゆる生産活動はこと人間に関する限り分業である。分業は衆議に基づき衆議の基盤をなす。例を挙げればロ-マ帝国には元老院があったし、鎌倉幕府には評定衆があった。皇帝や将軍だけで政治は行えないのである。
衆議機構の成員はどのようにして決められるのであろうか。君主による任命、同僚による推挙、同僚あるいわ部下による選挙などである。現在ほぼどこの国でも、完全平等な資格を前提とした無記名投票による選挙が一般的である。ただしこの方式が理想的であるとは必ずしも言えない。歴史の変遷の中で君主制をとる国は減少している。君主制を取らない国はほぼおしなべて大統領制を実施している。大統領に実権のあることもないこともあるが大統領は君主の代行である。肝要な事は現在君主制を取るか否かはともかく衆議機構、その発展した形である議会は君主制のもとでのみ生じたことである。逆に君主制を否定した国家は独裁制に陥りやすい。
現在極一部の国を除いて君主は政治に直接関与しない。君臨はするが統治はしない。君主の下に首相を置き、首相は国民の直接投票で選ばれた議員による選挙で選出され君主によって形式上任命される。この制度を議院内閣制という。首相という名称そのものが臣下であることを表している。議会あるいわ首相の仕事にはここでは触れない。それらの機構はいわゆる政治を行う。政治の内容は外交、軍事、財政、教育、学術、司法、治安などである。重要なのは財政と外交である。積極財政をとるか均衡財政を取るかは内閣議会の管轄事項である。またどこの国と同盟しどこの国と戦争するかも同様であり、ここで主要な論題となっている君主制の存在意義そのものとは直接関係はない。
私は国家形成の基軸は君主制にあると言った。ところで現在世界に略200の国家が存在するが君主制をとっている国は少ない。君主制は衰退するのだろうか。ここで熟考してみよう。200の諸国家の大半は欧州覇権国家の植民地であった地域である。植民地化の過程で土着の文化は破壊された、あるいは衰退させられた、あるいは二級文化とみなされた。そして脱植民地化による新興国家の続出。しかしこの種の国家では自生的文化の発展は幼弱である。安定した君主制は存在せず、その政治機構は宗主国のそれの都合のいい部分をとってきただけである。いわば寄せ集め継ぎ接ぎ国家だ。国家のまねをしているだけである。アフリカ、アセアン、中近東の諸国家がその例証である。共産主義国家も例外ではない。
特殊な例としてはアメリカ合衆国がある。この国は先住民族を虐殺して支配民族が侵入占拠した国である。無限といっていい土地を略奪し使用するのだから、利害調整の象徴としての君主制は成立のしようがない。カナダ、オ-ストラリア、ニュ-ジ-ランドも同様である。合衆国で四年に一回ほぼ半年強の時間をかけて行われる大統領選挙運動は私にはなにか戴冠式の挙行のように思える。
総じて文化の継続が一度絶たれた国では君主制が成立発展しにくい。
残るはロシアも含めた欧州と日本だけである。視野をこの地域に限定すると国家の半数以上は君主制である。フランス、ロシア、ドイツ、イタリアは何らかの革命で君主制を放棄したが、それに代わる体制として出てきたものは独裁制と政治的混乱であった。私はロシアなぞむしろ帝政時代の方が結果として良かったのではないかと思っている。なお欧州に関してはロ-マ教皇の存在は無視しえない。教皇は象徴的にそして実質的に君主として振る舞いえる。ロシアとロシア正教会の関係にも同様のことが言えるかもしれない。こう考慮してくると君主制が衰退したとは言えない。
では現在、世俗的統治から離れた君主あるいわ君主制の役割はどこにあるのであろうか。私は日本人であるから日本の皇室を中心に考えてみる。君主は文化の守護者である、文化の保持発展は君主制の維持において最大限の効果を発揮する。これが私の提示する主題である。ではどのように?主題は議院内閣制そして婚姻制度の根幹に触れる。
(5)文化
君主の最大の任務は血統の維持にある。血統は伝統であり、伝統の蓄積が文化である。従って文化は君主個人の中に体現される。少なくとも我が国にあってはそうである。一例をあげれば和歌や能楽はさかのぼれば古今和歌集や天皇主宰の歌合せそして神事芸能に連なる。アニメは明らかに浮世絵の系譜を引く。浮世絵は天皇が文化の守護者として隠然たる影響力を発揮した江戸時代の文化的雰囲気を度外視してはありえない。
文化は広義には社会のすべての事象を意味しえるが、狭義には以下の五つの要因すなわち神事祭礼、学術、遊戯遊芸、美意識、共感からなる。遊戯遊芸は神事祭礼の裏面であり、共感美意識も最終的には神事祭礼に集約される。
神事祭礼は遂行する行事を焦点としてそこに参加者の意識を集中させ、参加者の集団帰属性と一体化を図る。従って神事祭礼は共感の場であり媒体である。集団の最大なるものは国家であるから、神事祭礼の最終的主宰者は君主である。
神事祭礼は信仰である。信仰の原点と言っていい。信仰は突き詰めると一定の儀式を挙行しそこへ精神を集中して祈りをささげ集団と一体化することである。
神事祭礼は荘厳厳粛絢爛豪華に行われる。神事祭礼は美意識の原点である。あらゆる芸術芸能は神事祭礼を起点とする。能楽は天岩戸を起源とし、茶道は仏教儀礼の流れを汲み、造形美術も仏像作成に習い、文学は神話の系譜を引く。美意識は普遍的価値である「美」を多くの人が共有することにおいて成り立つ。従って美意識は共感の範疇に入る。
学術について。科学技術は真実を限りなく追及する。真実は原則として一つとされ共有される。また学術に従事する者は好きでこの行為に打ち込む。彼らは芸能者とその精神を等しくする。
遊戯遊芸は神事祭礼の裏面云々に関して簡単に説明しておく。神事祭礼の後には必ず宴会が開かれる。厳密には神事祭礼は、その挙行における集中緊張とその後の解放弛緩の両局面からなる。解放弛緩とは狂騒無礼講である。無礼講の内容は飲酒、舞踏、唱歌そしていちゃつきなどからなる。ここから舞踊、音楽、詩歌、管弦、演劇、絵画造形などの後年芸術あるいわ文化といわれる様式が出現する。
こう考えれば文化は神事祭礼に還元集約される。神事祭礼は共感の媒体であり、その対象の最大なるものは国家である。従って神事祭礼の最終的担当者が君主、我が国の場合天皇である。
神事祭礼はそれを主宰する者にとっては生活の一部である。ここで君主の生活と神事祭礼は融合する。神事祭礼は複雑なものであり、それを生活の場で遂行してゆくとなると君主の生活と神事及びそれを施行するための機構は世襲という形にならざるをえない。君主が血統により継承される由縁である。文化の起点が神事祭礼であればその主宰者である天皇の血統は文化の伝統の中軸を為す。
では君主は文化に対して如何に為すべきか。まず神事祭礼を執行する。天皇皇族が執行しない神事祭礼はそれを皇居あるいわその代理の施設において再現せしめ執行を援助し、執行を主宰する。全国の神社仏閣で行われている神事祭礼も主要なものは同様の形でその演出を主宰する。当然演出の場がなければならないであろうからそういう施設を作る。逆に地方の神事祭礼に天皇あるいわその代理としての皇族がおもむき演出を援助鼓舞する。行幸である。
神事以外の文化芸術の挙行を援助する。皇居で行ってもいいし、施行の場に皇族が出向かれてもいい。皇室主催の美術展などもする。お歌会のみならず、俳句川柳の演出も援助主宰する。洋楽雅楽の演奏演舞や詩小説随筆などの論評鑑賞も時として皇室主催で行う。囲碁将棋あるいわ相撲アニメ漫画などの庶民文化の演出も皇室で行う。能楽狂言歌舞伎漫才落語も然り。茶道華道日本舞踊などの家元制度はこれを保護しその文化活動を促進する。外国の文化芸術の輸入と日本の文化の輸出紹介も積極的に行う。世界の食文化の紹介展示解説などをしてもおもしろい。服飾文化も同様、ファッションはなにもパリとミラノだけの占有物ではない。皇族を文化特使として外国に派遣し外国の王室民間との交流を盛んにする。主宰するのみならず評価も行い表彰する。およそ創造的な文化なるものは多くの場合採算に合わない。そういう文化を保護し援助する。日本及び世界の文化の調査研究もする。要約すればあらゆると、言っていいほどの文化の中に押し入り、その執行演出を天皇は主宰する。
問題となることはこれらの文化行事を執り行う機構である。政府行政が行う従来の機構(たとえば文化庁)などとは別個に組織機関を作るべく法整備をする、予算をつける。仮にこの機構を皇室文化機構と命名しておく。皇室文化機構は天皇の直卒として天皇皇族の意志が反映されやすくする。ここで天皇は行為の象徴ではなく、行為の主体であり実権者となる。必要な専門家有識者の賛助助言機関を設置し、時にあっては彼らの中から直接の執行者を任命する。当然事務機構も整備されなければならない。予算は政府が出すが、個々の行事に対する予算ではなく、一か年全体の予算を組み金額の詳細は政府との交渉に委ねる。一言にして言えば天皇は日本文化の大半に実質的に関与する。ただし予算による一定の制約、内容への政府の拒否権は政府側に留保しておく。このようにして君主あるいわ天皇の存在に内包されている文化の守護者という機能を明示化顕在化させてゆく。天皇の任務の最大なるものはここにある。文化はエロスである。天皇はエロス演出の主宰者となる。
文化が豊潤であり安定していないと国家社会は安定しない。文化は共同体への帰属意識の基盤である。帰属意識がなければ政治も経済も空中の楼閣となる。文化を安定させる最大の要素は伝統、端的に言えば君主の血統である。
文化と国家の関係について一言。文化は国家に内在し、同時に文化は国家を超越する。文化はソフトで内面的間接的な統治であり強制力をともなわない。国家はハ-ドで強制力を伴う外面的直接的な統治機構である。神事祭礼を基軸とするゆえに文化は国家に内在し、共感と美意識の表出であるゆえに文化は国家を超える。
文化と国家の関係に関してさらにもう一言。文化は神事祭礼に集約される。神事祭礼は集団の帰属意識を涵養する媒体である。従って神事祭礼は文化であり同時に政治である。神事祭礼の主宰者は天皇(君主)である。ここで君主主権と祭政一致が導出される。
文化は政治であり同時に国家を超えうる。そうだとすると文化の守護者である君主の比重は今まで考えられた以上のものになる。少なくとも君主は国家の半分以上を握る。ここから君主制の反撃が始まる。既存の君主制を保守するのみならず、新しい君主制国家の創出は可能だろうか。考えてみよう。
思考の対象をアフリカ諸国に取る。サハラ砂漠以南のアフリカの国々では治安は悪く、部族紛争が絶えず、飢餓は慢性的で、汚職がはびこっている。後進国の最たるもので悲惨たることこの上ない。これらの国は君主制になった方がいいのではないのか、なれるのか。その手順を考えてみよう。
まずこれらの国家は農業を主産業として農業に重点的な投資を行うべきである。地下資源開発だ、外資導入だなどと安易でやくざな事は考えない。資源などはいずれなくなるしそれでなくとも先進国の収奪にあう。外資はただではない、利子を取られる。借金が払えなければその国の利権を取られる。外資企業は賃金が上がればさっさと他国に逃げてしまう。国内での資本蓄積は滞る。後進国あるいわ中進国の罠だ。外資は安い労働力と資源を喰い散らすのみだ。後進国では農業に結びつかない代替産業は当分の間控える。インフラはまず水利灌漑森林保全から始める。進歩した農業機械に飛びつかない。犂鍬鎌斧など古典的な農具を用いて農耕を進める。高価な農具の使用は採算を危うくする。手作業に徹する。一番豊富な資源である肉体労働を有効に使用する。自力更生に徹する。農作物栽培は米麦粟豆とうもろこし芋など主穀に重点を置く。まず「食える」ことから始める。主穀生産が一定の段階に達したら徐々に農業の比重を換金輸出用の作物に切り替える。同じく徐々に農作業の機械化と農産物加工を進める。「食える」ということを基盤にして換金作物の栽培加工さらに農機具製造へと進む。こうして農業を製造業に接続させる。「食える」分以上が蓄積された資本だ。飢餓水準にあっては医療など無力なのだ。
文化慣習宗教を共有すべく務める。特に宗教は重要である。宗教と慣習はある程度分離されるのが望ましい。慣習から分離されれば宗教は共有されやすくなる。豚を食べないとか酒を飲まないとかなどの刺のある(他の信仰者の実生活と共有され得ない)条項は破棄する。人は仲良く暮らせればいいのであって、他の宗教と相いれない枝葉末節の慣習の刺は切り捨てる。
異なる宗教宗派の長老代表者が集まり教義を審議し調停する。この会議は政治に直接の影響は与えないが頻繁に開く。宗教そしてそれに基づく慣習の摩擦はこの会議で協議する。このシステムが充分進行したら自ずと指導階層あるいは指導家系が現れる。この種の家系は会議指導を世襲とし、各指導家系は通婚する。ある程度共有された教義は民衆に告知宣伝する、説教宣教する。説教宣教を具体的可視的にして祭儀祭礼を挙行する。この会議は政治に直接の指示はしないが、説教宣教を通じて民衆の尊敬を集めるべく振る舞う。会議は政治的には極力中立を維持する。民衆を福祉教育活動に誘い啓蒙指導する。喜捨献金なども積極的に促進する。民衆をまとめるべく教義の一部を変更し共有可能なものとする。指導者の生活は布施で賄う。元来信仰とか宗教というものの根っこは同一であり共有可能を原則とする。この会議の指導者が君主(厳密には祭祀王)の元型である。君主の家系は複数でも構わない。交代で世襲すればいい。どうしても共有できない事情があればその部分を共同体から切り捨てる。神話を収集編纂する。その延長上に歴史を編纂する。
新しい君主あるいわ国家を作るに際して肝要な条項は経済と信仰と言語である。前二者に関しては既に述べた。残るは言語問題である。私が想定している状況では複数あるいわ多数の言語が併用混用されていると見なされる。統一言語を作る必要がある。三つの案がある。現在使われている言語の中から最大の人口が用いている言語を公用語正式言語とする案が一つ。この方式は公用語となる言語人口が圧倒的である必要がある。でなければ言語戦争ひいては本物の戦争になる可能性が高い。二番目は旧宗主国の言語を公用語として使用する場合である。この案は簡便であるが、民衆と国家のプライドの問題が生じる。また全然系統の異なる言語を全国民が簡単に習得できるものでもない。言語格差が生じひいては経済格差の出現に通じる。全く異なる言語の採用はその国の歴史意識従って国への帰属性を損ねる。一番良いのは国民が使う各種言語から共通の部分を抽出し共通言語を新造し、これを公用語とすることである。なるべく共通部分の多い言語を有する部族が集合すればいい。従来の部族語を離れて新規の共通言語を作った例は私が知る限りではインドネシアがある。部族語は語彙が少ない。少なくとも現在国際交流に必要な語彙、特に抽象的な語彙は少ない。そういう部分は外来語を用いる。外来語は当然その国の新言語の発音書体に会わせて表記される。教育を通じて共通言語を育ててゆき語彙を増やし文法を整える。従来の部族語は方言ないし補助言語とする。語彙が少なく文法が不完全であるということは共通語を作りやすいということでもある。
共通言語作成に関して二三例を挙げる。明治以前の日本では各地方が方言を話し、口語は通じにくかった。政府は既存の文語を軸として方言を整除し標準語なるものを作った。欧州では各地でそれぞれの言葉が使われているがある意味でこれらは方言である。英語もイタリア語もオランダ語もドイツ語もフランス語も欧州方言とも言える。この方言群から似た語彙、似た用法を修正し整除して新しい言語が作られた。エスペラント語である。エスペラント語は易しく論理的で理解しやすい。
歴史はどう変動するか解らない。私は国家への帰属性は文化特に神事祭礼にあると述べた。この観点に従って君主制新生に関して一つの憶見を述べた。かなりの国で君主制が倒れた。この歴史事象に関して多くの人は君主制の崩壊は必然であったと考えているが、私はそうは思わない。君主制を倒した革命はどの革命をとっても必然ではなくむしろ偶然である。革命が必然だったなどの意見は革命の勝者がつけた後知恵刷り込み洗脳に過ぎない。君主制が倒れたのは君主自身の不手際によるところつまり偶然によるところが大きい。君主制は新しい形で再興可能である。繰り返すが歴史はどう展開するか解らない。
君主制再興の可能性について論じた。もう少し論を進めたい。君主制の対極にあるように見える制度は民主制である。私は「見える」と言った。君主制と民主制は必ずしも対立はしない。民主制の本質は、政治に対して従ってすべての社会事象に対して自由に意見を開陳しうることにある。実践的には無差別平等な選挙権に基づいて投票し代表を選ぶ権利が民主制の本質である。これを基本的人権という。それはそれでいい。ただ民主制それ自身には国民をまとめる機構はない。民主制の定義から国民の帰属性を保証する装置は出てこない。民主制がそれを否定するわけではないが、それを積極的に支持し構築するのでもない。純粋に民主的な政治が行われたとすると、それは単純に頭数の多さで政治的事項を決定することになる。民衆とは必ずしも賢明なものではない。彼らが所持する知識情報は少なく大局的な視野は乏しく小利に拘泥し扇動に乗せられやすい。過去の歴史において純粋な民主制を発展させたのは古代ギリシャのアテネだけである。この都市国家は衆愚主義に堕して自らの運命を閉じた。民主主義は信仰とは無関係である。民主主義は信仰を創造しないし、評価もしない。信仰を保持し擁護するのは君主制だけである。信仰は突き詰めると神事祭礼の演出に至る。この儀式を通じてのみ国家への帰属性が確保される。神事祭礼のないところに文化はない。もし完全に純粋な民主政治なるものが施行されたら国民は次第に愚かになり先祖の遺産としての文化を食いつぶし衆愚の果てに国家を衰滅させてしまうだろう。フェミニズムはその兆しである。帰属意識の媒体である信仰を保持し擁護する君主制の存在は必要である。民主制と君主制、この両者を円滑に連接する政治的装置はないのだろうか。答えは、君主は文化の保護者、という命題に包含されている。次章を参照されたい。
この章での内容を要約する。文化は相互共感従って集団帰属性の媒体である。文化の中核は神事祭礼にある。神事祭礼は世襲される。神事祭礼は同時に政治行為でもある。ここから君主主権と祭政一致という原則が導かれる。
(4)衆議制
国家とカリスマである君主、階層性、生産単位エロスの培地である家族が定立された。信仰に支えられて君主は存在する。その下部には所有欲求を管理調整する装置としての衆議機構が展開する。自動的に展開する。君主が存在すれば衆議は必然的に生じる。物財への所有欲求は制度の安定要因であり、だから衆議機構はどんな社会にも存在する。信仰は取引できないが財貨は取引できるがゆえに。すべて一人あるいわ極少数の人間で国家を切り回すことは不可能であるのだから。あらゆる生産活動はこと人間に関する限り分業である。分業は衆議に基づき衆議の基盤をなす。例を挙げればロ-マ帝国には元老院があったし、鎌倉幕府には評定衆があった。皇帝や将軍だけで政治は行えないのである。
衆議機構の成員はどのようにして決められるのであろうか。君主による任命、同僚による推挙、同僚あるいわ部下による選挙などである。現在ほぼどこの国でも、完全平等な資格を前提とした無記名投票による選挙が一般的である。ただしこの方式が理想的であるとは必ずしも言えない。歴史の変遷の中で君主制をとる国は減少している。君主制を取らない国はほぼおしなべて大統領制を実施している。大統領に実権のあることもないこともあるが大統領は君主の代行である。肝要な事は現在君主制を取るか否かはともかく衆議機構、その発展した形である議会は君主制のもとでのみ生じたことである。逆に君主制を否定した国家は独裁制に陥りやすい。
現在極一部の国を除いて君主は政治に直接関与しない。君臨はするが統治はしない。君主の下に首相を置き、首相は国民の直接投票で選ばれた議員による選挙で選出され君主によって形式上任命される。この制度を議院内閣制という。首相という名称そのものが臣下であることを表している。議会あるいわ首相の仕事にはここでは触れない。それらの機構はいわゆる政治を行う。政治の内容は外交、軍事、財政、教育、学術、司法、治安などである。重要なのは財政と外交である。積極財政をとるか均衡財政を取るかは内閣議会の管轄事項である。またどこの国と同盟しどこの国と戦争するかも同様であり、ここで主要な論題となっている君主制の存在意義そのものとは直接関係はない。
私は国家形成の基軸は君主制にあると言った。ところで現在世界に略200の国家が存在するが君主制をとっている国は少ない。君主制は衰退するのだろうか。ここで熟考してみよう。200の諸国家の大半は欧州覇権国家の植民地であった地域である。植民地化の過程で土着の文化は破壊された、あるいは衰退させられた、あるいは二級文化とみなされた。そして脱植民地化による新興国家の続出。しかしこの種の国家では自生的文化の発展は幼弱である。安定した君主制は存在せず、その政治機構は宗主国のそれの都合のいい部分をとってきただけである。いわば寄せ集め継ぎ接ぎ国家だ。国家のまねをしているだけである。アフリカ、アセアン、中近東の諸国家がその例証である。共産主義国家も例外ではない。
特殊な例としてはアメリカ合衆国がある。この国は先住民族を虐殺して支配民族が侵入占拠した国である。無限といっていい土地を略奪し使用するのだから、利害調整の象徴としての君主制は成立のしようがない。カナダ、オ-ストラリア、ニュ-ジ-ランドも同様である。合衆国で四年に一回ほぼ半年強の時間をかけて行われる大統領選挙運動は私にはなにか戴冠式の挙行のように思える。
総じて文化の継続が一度絶たれた国では君主制が成立発展しにくい。
残るはロシアも含めた欧州と日本だけである。視野をこの地域に限定すると国家の半数以上は君主制である。フランス、ロシア、ドイツ、イタリアは何らかの革命で君主制を放棄したが、それに代わる体制として出てきたものは独裁制と政治的混乱であった。私はロシアなぞむしろ帝政時代の方が結果として良かったのではないかと思っている。なお欧州に関してはロ-マ教皇の存在は無視しえない。教皇は象徴的にそして実質的に君主として振る舞いえる。ロシアとロシア正教会の関係にも同様のことが言えるかもしれない。こう考慮してくると君主制が衰退したとは言えない。
では現在、世俗的統治から離れた君主あるいわ君主制の役割はどこにあるのであろうか。私は日本人であるから日本の皇室を中心に考えてみる。君主は文化の守護者である、文化の保持発展は君主制の維持において最大限の効果を発揮する。これが私の提示する主題である。ではどのように?主題は議院内閣制そして婚姻制度の根幹に触れる。
(5)文化
君主の最大の任務は血統の維持にある。血統は伝統であり、伝統の蓄積が文化である。従って文化は君主個人の中に体現される。少なくとも我が国にあってはそうである。一例をあげれば和歌や能楽はさかのぼれば古今和歌集や天皇主宰の歌合せそして神事芸能に連なる。アニメは明らかに浮世絵の系譜を引く。浮世絵は天皇が文化の守護者として隠然たる影響力を発揮した江戸時代の文化的雰囲気を度外視してはありえない。
文化は広義には社会のすべての事象を意味しえるが、狭義には以下の五つの要因すなわち神事祭礼、学術、遊戯遊芸、美意識、共感からなる。遊戯遊芸は神事祭礼の裏面であり、共感美意識も最終的には神事祭礼に集約される。
神事祭礼は遂行する行事を焦点としてそこに参加者の意識を集中させ、参加者の集団帰属性と一体化を図る。従って神事祭礼は共感の場であり媒体である。集団の最大なるものは国家であるから、神事祭礼の最終的主宰者は君主である。
神事祭礼は信仰である。信仰の原点と言っていい。信仰は突き詰めると一定の儀式を挙行しそこへ精神を集中して祈りをささげ集団と一体化することである。
神事祭礼は荘厳厳粛絢爛豪華に行われる。神事祭礼は美意識の原点である。あらゆる芸術芸能は神事祭礼を起点とする。能楽は天岩戸を起源とし、茶道は仏教儀礼の流れを汲み、造形美術も仏像作成に習い、文学は神話の系譜を引く。美意識は普遍的価値である「美」を多くの人が共有することにおいて成り立つ。従って美意識は共感の範疇に入る。
学術について。科学技術は真実を限りなく追及する。真実は原則として一つとされ共有される。また学術に従事する者は好きでこの行為に打ち込む。彼らは芸能者とその精神を等しくする。
遊戯遊芸は神事祭礼の裏面云々に関して簡単に説明しておく。神事祭礼の後には必ず宴会が開かれる。厳密には神事祭礼は、その挙行における集中緊張とその後の解放弛緩の両局面からなる。解放弛緩とは狂騒無礼講である。無礼講の内容は飲酒、舞踏、唱歌そしていちゃつきなどからなる。ここから舞踊、音楽、詩歌、管弦、演劇、絵画造形などの後年芸術あるいわ文化といわれる様式が出現する。
こう考えれば文化は神事祭礼に還元集約される。神事祭礼は共感の媒体であり、その対象の最大なるものは国家である。従って神事祭礼の最終的担当者が君主、我が国の場合天皇である。
神事祭礼はそれを主宰する者にとっては生活の一部である。ここで君主の生活と神事祭礼は融合する。神事祭礼は複雑なものであり、それを生活の場で遂行してゆくとなると君主の生活と神事及びそれを施行するための機構は世襲という形にならざるをえない。君主が血統により継承される由縁である。文化の起点が神事祭礼であればその主宰者である天皇の血統は文化の伝統の中軸を為す。
では君主は文化に対して如何に為すべきか。まず神事祭礼を執行する。天皇皇族が執行しない神事祭礼はそれを皇居あるいわその代理の施設において再現せしめ執行を援助し、執行を主宰する。全国の神社仏閣で行われている神事祭礼も主要なものは同様の形でその演出を主宰する。当然演出の場がなければならないであろうからそういう施設を作る。逆に地方の神事祭礼に天皇あるいわその代理としての皇族がおもむき演出を援助鼓舞する。行幸である。
神事以外の文化芸術の挙行を援助する。皇居で行ってもいいし、施行の場に皇族が出向かれてもいい。皇室主催の美術展などもする。お歌会のみならず、俳句川柳の演出も援助主宰する。洋楽雅楽の演奏演舞や詩小説随筆などの論評鑑賞も時として皇室主催で行う。囲碁将棋あるいわ相撲アニメ漫画などの庶民文化の演出も皇室で行う。能楽狂言歌舞伎漫才落語も然り。茶道華道日本舞踊などの家元制度はこれを保護しその文化活動を促進する。外国の文化芸術の輸入と日本の文化の輸出紹介も積極的に行う。世界の食文化の紹介展示解説などをしてもおもしろい。服飾文化も同様、ファッションはなにもパリとミラノだけの占有物ではない。皇族を文化特使として外国に派遣し外国の王室民間との交流を盛んにする。主宰するのみならず評価も行い表彰する。およそ創造的な文化なるものは多くの場合採算に合わない。そういう文化を保護し援助する。日本及び世界の文化の調査研究もする。要約すればあらゆると、言っていいほどの文化の中に押し入り、その執行演出を天皇は主宰する。
問題となることはこれらの文化行事を執り行う機構である。政府行政が行う従来の機構(たとえば文化庁)などとは別個に組織機関を作るべく法整備をする、予算をつける。仮にこの機構を皇室文化機構と命名しておく。皇室文化機構は天皇の直卒として天皇皇族の意志が反映されやすくする。ここで天皇は行為の象徴ではなく、行為の主体であり実権者となる。必要な専門家有識者の賛助助言機関を設置し、時にあっては彼らの中から直接の執行者を任命する。当然事務機構も整備されなければならない。予算は政府が出すが、個々の行事に対する予算ではなく、一か年全体の予算を組み金額の詳細は政府との交渉に委ねる。一言にして言えば天皇は日本文化の大半に実質的に関与する。ただし予算による一定の制約、内容への政府の拒否権は政府側に留保しておく。このようにして君主あるいわ天皇の存在に内包されている文化の守護者という機能を明示化顕在化させてゆく。天皇の任務の最大なるものはここにある。文化はエロスである。天皇はエロス演出の主宰者となる。
文化が豊潤であり安定していないと国家社会は安定しない。文化は共同体への帰属意識の基盤である。帰属意識がなければ政治も経済も空中の楼閣となる。文化を安定させる最大の要素は伝統、端的に言えば君主の血統である。
文化と国家の関係について一言。文化は国家に内在し、同時に文化は国家を超越する。文化はソフトで内面的間接的な統治であり強制力をともなわない。国家はハ-ドで強制力を伴う外面的直接的な統治機構である。神事祭礼を基軸とするゆえに文化は国家に内在し、共感と美意識の表出であるゆえに文化は国家を超える。
文化と国家の関係に関してさらにもう一言。文化は神事祭礼に集約される。神事祭礼は集団の帰属意識を涵養する媒体である。従って神事祭礼は文化であり同時に政治である。神事祭礼の主宰者は天皇(君主)である。ここで君主主権と祭政一致が導出される。
文化は政治であり同時に国家を超えうる。そうだとすると文化の守護者である君主の比重は今まで考えられた以上のものになる。少なくとも君主は国家の半分以上を握る。ここから君主制の反撃が始まる。既存の君主制を保守するのみならず、新しい君主制国家の創出は可能だろうか。考えてみよう。
思考の対象をアフリカ諸国に取る。サハラ砂漠以南のアフリカの国々では治安は悪く、部族紛争が絶えず、飢餓は慢性的で、汚職がはびこっている。後進国の最たるもので悲惨たることこの上ない。これらの国は君主制になった方がいいのではないのか、なれるのか。その手順を考えてみよう。
まずこれらの国家は農業を主産業として農業に重点的な投資を行うべきである。地下資源開発だ、外資導入だなどと安易でやくざな事は考えない。資源などはいずれなくなるしそれでなくとも先進国の収奪にあう。外資はただではない、利子を取られる。借金が払えなければその国の利権を取られる。外資企業は賃金が上がればさっさと他国に逃げてしまう。国内での資本蓄積は滞る。後進国あるいわ中進国の罠だ。外資は安い労働力と資源を喰い散らすのみだ。後進国では農業に結びつかない代替産業は当分の間控える。インフラはまず水利灌漑森林保全から始める。進歩した農業機械に飛びつかない。犂鍬鎌斧など古典的な農具を用いて農耕を進める。高価な農具の使用は採算を危うくする。手作業に徹する。一番豊富な資源である肉体労働を有効に使用する。自力更生に徹する。農作物栽培は米麦粟豆とうもろこし芋など主穀に重点を置く。まず「食える」ことから始める。主穀生産が一定の段階に達したら徐々に農業の比重を換金輸出用の作物に切り替える。同じく徐々に農作業の機械化と農産物加工を進める。「食える」ということを基盤にして換金作物の栽培加工さらに農機具製造へと進む。こうして農業を製造業に接続させる。「食える」分以上が蓄積された資本だ。飢餓水準にあっては医療など無力なのだ。
文化慣習宗教を共有すべく務める。特に宗教は重要である。宗教と慣習はある程度分離されるのが望ましい。慣習から分離されれば宗教は共有されやすくなる。豚を食べないとか酒を飲まないとかなどの刺のある(他の信仰者の実生活と共有され得ない)条項は破棄する。人は仲良く暮らせればいいのであって、他の宗教と相いれない枝葉末節の慣習の刺は切り捨てる。
異なる宗教宗派の長老代表者が集まり教義を審議し調停する。この会議は政治に直接の影響は与えないが頻繁に開く。宗教そしてそれに基づく慣習の摩擦はこの会議で協議する。このシステムが充分進行したら自ずと指導階層あるいは指導家系が現れる。この種の家系は会議指導を世襲とし、各指導家系は通婚する。ある程度共有された教義は民衆に告知宣伝する、説教宣教する。説教宣教を具体的可視的にして祭儀祭礼を挙行する。この会議は政治に直接の指示はしないが、説教宣教を通じて民衆の尊敬を集めるべく振る舞う。会議は政治的には極力中立を維持する。民衆を福祉教育活動に誘い啓蒙指導する。喜捨献金なども積極的に促進する。民衆をまとめるべく教義の一部を変更し共有可能なものとする。指導者の生活は布施で賄う。元来信仰とか宗教というものの根っこは同一であり共有可能を原則とする。この会議の指導者が君主(厳密には祭祀王)の元型である。君主の家系は複数でも構わない。交代で世襲すればいい。どうしても共有できない事情があればその部分を共同体から切り捨てる。神話を収集編纂する。その延長上に歴史を編纂する。
新しい君主あるいわ国家を作るに際して肝要な条項は経済と信仰と言語である。前二者に関しては既に述べた。残るは言語問題である。私が想定している状況では複数あるいわ多数の言語が併用混用されていると見なされる。統一言語を作る必要がある。三つの案がある。現在使われている言語の中から最大の人口が用いている言語を公用語正式言語とする案が一つ。この方式は公用語となる言語人口が圧倒的である必要がある。でなければ言語戦争ひいては本物の戦争になる可能性が高い。二番目は旧宗主国の言語を公用語として使用する場合である。この案は簡便であるが、民衆と国家のプライドの問題が生じる。また全然系統の異なる言語を全国民が簡単に習得できるものでもない。言語格差が生じひいては経済格差の出現に通じる。全く異なる言語の採用はその国の歴史意識従って国への帰属性を損ねる。一番良いのは国民が使う各種言語から共通の部分を抽出し共通言語を新造し、これを公用語とすることである。なるべく共通部分の多い言語を有する部族が集合すればいい。従来の部族語を離れて新規の共通言語を作った例は私が知る限りではインドネシアがある。部族語は語彙が少ない。少なくとも現在国際交流に必要な語彙、特に抽象的な語彙は少ない。そういう部分は外来語を用いる。外来語は当然その国の新言語の発音書体に会わせて表記される。教育を通じて共通言語を育ててゆき語彙を増やし文法を整える。従来の部族語は方言ないし補助言語とする。語彙が少なく文法が不完全であるということは共通語を作りやすいということでもある。
共通言語作成に関して二三例を挙げる。明治以前の日本では各地方が方言を話し、口語は通じにくかった。政府は既存の文語を軸として方言を整除し標準語なるものを作った。欧州では各地でそれぞれの言葉が使われているがある意味でこれらは方言である。英語もイタリア語もオランダ語もドイツ語もフランス語も欧州方言とも言える。この方言群から似た語彙、似た用法を修正し整除して新しい言語が作られた。エスペラント語である。エスペラント語は易しく論理的で理解しやすい。
歴史はどう変動するか解らない。私は国家への帰属性は文化特に神事祭礼にあると述べた。この観点に従って君主制新生に関して一つの憶見を述べた。かなりの国で君主制が倒れた。この歴史事象に関して多くの人は君主制の崩壊は必然であったと考えているが、私はそうは思わない。君主制を倒した革命はどの革命をとっても必然ではなくむしろ偶然である。革命が必然だったなどの意見は革命の勝者がつけた後知恵刷り込み洗脳に過ぎない。君主制が倒れたのは君主自身の不手際によるところつまり偶然によるところが大きい。君主制は新しい形で再興可能である。繰り返すが歴史はどう展開するか解らない。
君主制再興の可能性について論じた。もう少し論を進めたい。君主制の対極にあるように見える制度は民主制である。私は「見える」と言った。君主制と民主制は必ずしも対立はしない。民主制の本質は、政治に対して従ってすべての社会事象に対して自由に意見を開陳しうることにある。実践的には無差別平等な選挙権に基づいて投票し代表を選ぶ権利が民主制の本質である。これを基本的人権という。それはそれでいい。ただ民主制それ自身には国民をまとめる機構はない。民主制の定義から国民の帰属性を保証する装置は出てこない。民主制がそれを否定するわけではないが、それを積極的に支持し構築するのでもない。純粋に民主的な政治が行われたとすると、それは単純に頭数の多さで政治的事項を決定することになる。民衆とは必ずしも賢明なものではない。彼らが所持する知識情報は少なく大局的な視野は乏しく小利に拘泥し扇動に乗せられやすい。過去の歴史において純粋な民主制を発展させたのは古代ギリシャのアテネだけである。この都市国家は衆愚主義に堕して自らの運命を閉じた。民主主義は信仰とは無関係である。民主主義は信仰を創造しないし、評価もしない。信仰を保持し擁護するのは君主制だけである。信仰は突き詰めると神事祭礼の演出に至る。この儀式を通じてのみ国家への帰属性が確保される。神事祭礼のないところに文化はない。もし完全に純粋な民主政治なるものが施行されたら国民は次第に愚かになり先祖の遺産としての文化を食いつぶし衆愚の果てに国家を衰滅させてしまうだろう。フェミニズムはその兆しである。帰属意識の媒体である信仰を保持し擁護する君主制の存在は必要である。民主制と君主制、この両者を円滑に連接する政治的装置はないのだろうか。答えは、君主は文化の保護者、という命題に包含されている。次章を参照されたい。
この章での内容を要約する。文化は相互共感従って集団帰属性の媒体である。文化の中核は神事祭礼にある。神事祭礼は世襲される。神事祭礼は同時に政治行為でもある。ここから君主主権と祭政一致という原則が導かれる。
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