経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

エロスとしての国家(1)

2018-01-23 19:45:53 | Weblog
 エロスとしての国家
(1)「和」そして「エロス」 
国家とは人間関係の集約でありその最高の実現形態である。では国家の基礎単位である人と人の関係とは何であろうか。答は簡単、その基礎単位は「和」すなわち「仲良くすること」である。聖徳太子は政治の原理を十七条の憲法の冒頭で、和を以って尊しと為す、と言われた。一見単純な常識のように見えるが、あるいわ高邁すぎて実現不可能な理想のようにも思われるが。この言明の背後には深遠な仏教の哲理がある。太子が編纂された三教義疏の三教とは維摩経、勝まん経、法華経だ。維摩経は利他、つまり人のために尽くすことを強調する。勝まん経は如来蔵、人間の中には如来になる可能性と必然性が存在する、人間は根本的には成道していると説く。法華経は人間の救済は常に共同体の中でしか実現されないし、共同体は人間の自己実現の媒体であると教える。聖徳太子は日本人として初めて仏教を理解した人であった。
利他性、救済可能性、そして共同性という属性に通底するものはエロスでしかありえない。エロスとは愛し愛されることである。そこには愛することによる利他性、愛されることによる安心と満足、愛し愛されることによる共感可能性の実現がある。あるいわ実現の過程がある。政治とは和である、和を目指し、和を実現することである。みながみな仲良く暮らせればそれ以上のものは要らない。和をエロスととらえその意味の内包する由縁を考えてゆくと、政治行為とはエロスであり、政治あるいわ国家はエロスの最高の実現形態であるということになる。なんとならば人は共同して集団でしか生きてゆけないのだから。そして集団維持のためには合意に基づく強制力が要る。だから国家とは人間が為す営為の最高の実現形態である。
エロスを国家共同体の基礎にすえるという試みはプラトンに始まる。しかし西欧近代の政治思想の出発点は異なる。マキャベリやホッブスは人を善なるものとしてとらえず、悪意や暴力の抑制操作をもって国家形成の起動力とした。ロックは私有財産への欲求を社会の根底においた。この欲求はエロスでもある。ヘ-ゲルで更に風向きが変わる。人間の営為は神の異称である絶対精神に向かって進歩するというのだから彼の国家哲学の基音はエロスであることになる。フロイトに至ってエロスは万物の奥底に据えられ、エロスの評価はここに極まる。
人間社会あるいわ国家の起源をエロスに求める事は神話に表現されている。代表が日本の記紀神話。荒筋、アメノウズメノミコトの裸踊り、神々の哄笑、天岩戸から誘い出されるアマテラスオオミカミ、政治秩序の再現。これらの事象は性的交合から国家が生み出されたことを意味する。さらに、天孫降臨、地上に降りた神々の世界。コノハナヤサクヤヒメとトヨタマヒメの受難は婚姻秩序形成の過程を表す。これほど鮮やかにエロスと国家形成の関係を表現した神話は他にない。比較する。ユダヤ教、エデンの園で性差に気づいたアダムとイヴは即楽園を追放される。性のモラルは峻厳にして苛烈だ。キリスト教もこの倫理を受け継ぐ。ギリシャ神話、神々の始祖ウ-ラノスやクロノスは妻を強姦同然に処遇し、生まれた子供は飲み込むか地底に監禁する。ここではエロスは暴力でしかない。ユダヤ教とギリシャ神話においてもエロスは社会と国家の起源に関与するが、その様態は極めて暴力的である。そこには円滑な秩序形成の片鱗も見られない。
(2)信仰
 ところでこの和あるいわエロスの実現はいかにしてなされるのであろうか。エロスを実現する方途は二つある。恋愛と信仰である。両者は密に絡みあい相互補完的である。前者に伴いがちな逸脱と争覇を避ける方途として後者が存在する。恋愛も信仰もともに強固な共同体を作る。共同体の中で、愛し愛されること、を維持しようとする。
恋愛における共同体は二者の関係において閉じられ凝縮されている。それ以上の拡大発展はなくエロスは相互間を直線的に二方向に交錯しあう。従って恋愛において幻滅は必然である。幻滅がなければ殺害情死しか結末はない。幻滅しそして性懲りもなく恋愛を繰り返す、これが人間というものなのだ。恋愛つまり個人間のエロス的関係においても最高の実現の形として諦念と他者への自己放棄はありうる。これは既に信仰である。信仰という脱出口があるから恋愛は成立する。もちろん恋愛がなければ信仰もあり得ない、人間間の強力な牽引力なくしてなんで信仰がありえようか。繰り返す、恋愛と信仰は相互補完的関係にある。さらに繰り返す。信仰がなければ恋愛は成立しない。例証を二つだけ挙げる。日本では歌人西行法師であり欧州ではアベラ-ルとエロイ-ズだ。
エロスはその起源を母子間の絆に持つ。母子間の愛情は強固であると同時に排他的である。母子間のエロスには生存競争が伴う。エロスが万人に共有されるためにはエロスは脱生殖化されなければならない。エロスの脱生殖化された結果生じるものが信仰である。エロスを信仰という形で万人共有とするから、エロスは安定する。信仰を持つことによって人は人たりうる。信仰によってのみ人は心の平安を獲得しうる。
信仰共同体は同胞同心者獲得のために共同体を外に向かって開き拡大しようとする。信仰においてはエロスが成員相互間に横に共有され、同心者としての和が実現される。そして共有されたエロスは縦に上に一個の人格に集約される。団体のエロスを集約し保持受容する存在をカリスマという。信仰集団の最高指導者である。カリスマは尊敬されるだけでなく愛される。カリスマは愛されなければならない。カリスマはエロスの実現受容において成員全体に対して完全に平等にふるまう。各成員も同様あくまで他の成員と平等な立場でカリスマに対する。各成員が平等であるからカリスマが存在し、カリスマが存在するから成員は平等である。こうしてエロスは集合化され非生物化あるいわ非生殖化され逸脱と嫉妬争覇は回避される。くりかえすがカリスマはエロスの最終的受容体であり、エロスの最高の実現である。
信仰は国家形成の動因でありまた国家社会形成の反映でもある。
(3)君主と家族
信仰共同体はそれ自身だけでは存続できない、生き延びられない。信仰共同体は生産活動に直接関与しない。自らの存続を維持するためには信仰共同体はその組織全体を俗社会に投射しその類似物を作らなければならない。カリスマとエロス的関係全体が俗社会において再現される。こうして出現するものが俗な意味での社会、具体的には政治経済機構、発展すれば国家である。世俗社会それ自身はカリスマを作れない。世俗共同体は信仰共同体からカリスマを借りる、あるいわ模写する。信仰カリスマは君主を作る。このような経緯からして国家社会は原則として君主制である。また強調すべきことであるが、社会の成員は原則として平等であり、君主は愛されなければならない。私はこれまでの叙述で信仰共同体から世俗社会が派生したように述べたが、事実において両者は同根であり、歴史の経緯において信仰共同体と世俗共同体は併行し相互に影響を与えつつ分化したものと考えられる。未開太古の社会においては祭儀祭礼(信仰)と生産は不可分離の関係にある。
なぜ信仰共同体を作るのか、エロスによる結合のためである。なぜ世俗社会を作るのか、生産生存のためである。信仰には能率も格差もない。生産活動には所有をめぐっての能率、競争、強制そして格差がある。従って国家社会には階層と位階は必然として生じる。この階層と位階の頂点にカリスマである君主が位置する。君主は血縁によって相続される。なんとならば所有物は血縁を介してしか相続され得ないから。カリスマである君主の下に能力により配別された組織が位階階層である。同時に国家社会の成員は原則として平等である。世俗社会は信仰共同体を背景にせざるをえないのであるから。
 エロスと生産は必ず結合する。エロスなき生産は弱肉強食であり無政府と独裁を結果する。生産なきエロスは空想夢想でしかなくその延長上には餓死しかない。エロスと生産が結合した基本的単位が家族である。なんとならばエロスの原点は母子間の絆にあるのであるから。原初的母子関係を信仰と国家権力により整除し規律を与えた結果家族という機構が生じる。家族の中で、家族を介してエロスがはぐくまれ、生産活動が行われる。家族は国家社会に対して正反二様の態度を取る。家族は家父長制という形の階層の縮小形態であり、同時に国家社会の階層構造への防波堤迎撃装置でもある。
ちなみに日本では厳密な意味での家父長制は展開されていない。平安時代つまり古代末期まで続く潜在的女権優位は日本社会の特徴である。換言すれば日本では国家の基盤が形成されるまで女権が優位にあったことになる。厳格な家父長制下においてはこのようなことは起こりえない。家父長制が強固に固まると信仰の円滑な展開を妨げる。このことは古代ロ-マやシナ民族の宗教的情操とその機構をみればあきらかだろう。ロ-マにおいては諸々の宗教の雑多な混在しかありえなかったし、キリスト教が容認された時はすでに帝国の滅亡寸前であった。シナ民族の宗教は旧慣墨守と迷信以上のものにはならなかった。
 信仰共同体と国家社会は常に不即不離相互補完的関係にあり、共同かつ対立しつつ相互に監視しそして牽制する。信仰を無視して国家の機能を遂行しようとすれば、それは単なる暴力集団か無政府状態になる。国家社会なき信仰集団は統制を失い分裂し異端が続出し最後は反社会的カルトとなる。信仰共同体と国家社会は相互補完相互抑止の関係にある。
この点に関して一言。信仰者は同じ信仰を持つ限り融和的協調的である。しかし異宗派異教徒間においては極めて非妥協的でしかない。お互い自己を絶対とするから原則としてはそこに妥協はない。国家の役割には実利の調停が含まれる。宗教は国家に保護監視される事によって宗派闘争が過熱し泥沼に陥ることから逃れ得ている。宗教が国家を作ると同時に国家は宗教を作る。両者はあくまで相補相反的関係にある。
信仰と国家の相補的関係の好例は西欧のキリスト教社会と日本の仏教において典型的にみられる。西欧社会はその発生の当初古代ロ-マ帝国ですでに制度と教理をほぼ完成させたキリスト教の協力のもとでその国家を成長させた。またキリスト教も自らの存続の保証を新しく成長するゲルマン民族の国家による保護に求めた。国家と教会は相互に依存しつつ時として対立する。ローマ教皇と神聖ロ-マ皇帝との間で為された聖職叙任権闘争は信仰と国家権力間の相互補完相互牽制の典型例である。
日本では仏教伝来以来、王法仏法は車の両輪とされ仏教は国家の手厚い庇護下にあり同時に国家の監視下にあった。世界宗教である仏教により律令政府は自らを形成し維持できた。同様に政府の庇護援助により仏教は繁栄した。政府に弾圧された行基が弟子たちを率いて聖武天皇の東大寺大仏開眼供養に尽力したことは信仰と権力の典型的な対立そして協力関係である。
仏教はシナでも一定の役割を果たしている。シナ仏教が興隆した魏晋南北朝及び隋唐の国家の支配者は胡族遊牧民であった。彼らは漢族を支配し統一を維持する媒体として仏教に頼り仏教を利用した。同時に仏教は国家の保護下で繁栄した。クマラジ-バの法華経漢訳、敦煌などの石仏はその記念碑である。
 信仰共同体と国家機構は相補的関係にある。両者が共存し交差する場が家族家庭である。家族においてエロスと、それは既述した通り信仰でもある、生産は生殖により結合される。家族はエロスの培養器である。しかし一定の制限がなければならない。家族内部のエロスを放置すれば、そこに生じるものは近親相姦である。近親相姦関係にあっては財貨の所有が極めて曖昧になる。従って経済機構は消滅しその上部機構である政治行為も実行不可能になる。家族は消滅し社会も崩壊する。逆にエロスなき経済政治活動は暴力無政府独裁でしかありえない。政治経済を主宰する世俗国家にあって家族制度は不可欠である。安定したエロスの享受と安定した生産単位は家族制度によってのみ維持される。同時に家族制度は国家機構によって形成される。エロスは生産所有という事項と結びつかざるを得ないがゆえに。こうしてカリスマと一夫一妻制を基幹とする家族が連なる一定の階層構造、つまり国家が出現する。
近親相姦とは親子兄妹間の性的関係という狭義の関係のみならず、不倫売春同性婚などすべての婚姻外性関係を包括する。非血縁者間の、制度によって容認された婚姻以外の性的関係はすべて近親相姦関係とみなされる。不倫一つをとってもそれが所有関係に及ぼす影響は憶測できる。肝要な事は近親相姦とは社会にとって不可欠な前提である所有関係に甚大な悪影響を及ぼし得る性関係を意味することである。逆も言える。所有欲求があるから近親相姦は防止される。所有欲求を安定させるためには近親相姦を阻止しないといけないのだから。人類は本来対人欲求であるエロスを対物欲求すなわち所有欲へと転化させることによって近親相姦の歯止めとした。私はすべての近親相姦的関係が不可と言っているわけではない。人間である以上この敷居を超えることはある。要はこの関係が公然と容認されないことであり、また違反に対する一定の懲罰を肯定することである。なおこれらの諸行為の中で一番罪の軽いのが売買春である。
 信仰における平等と世俗においての不平等が社会存続の前提である。世俗における完全平等は不可能である。あえてそれを試みようとすれば独裁に頼るほかはない。そして完全な平等は家族制度を崩壊させる。なんとなれば家族は所有そして一度所有したらさらに所有したいという欲望を実現しようとする機構であるのだから。
完全平等を求めて独裁に至った好例は共産主義である。ソ連のソフォ-ズ・コルフォ-ズ、共産シナの人民公社や文化大革命など幾多の例証があるが、最も酷烈で典型的なものは1970年代後半におけるカンボジアのポルポト政権であろう。ポルポト政権下では単なる財貨のみならず、技術も家族もすべて否定され、国民は完全無所有完全平等な存在にさせられた。結果は人口の半分を超えるとかいう人民の大量殺害である。当然のことながら独裁は偽善を呼ぶ。
完全平等の夢想という点ではフェミニズムも同様である。フェミニズムは男女の性差という天賦の資質の差の存在を拒絶する。男女の区別を否定するフェミニズムは情愛と生殖を無関係、完全独立つまりばらばらなものとする。生殖という義務の否定はあらゆる義務の否定につながる。信仰は否定され、家族は消滅する。社会の帰属性は弛緩し人間関係は揮発し希薄で極めて不安定なものになる。最大限に人権なるものが追及され主張される。どんな我意をも押し通し得、またどんな我意をも容認しなければならない。フェミニズムは共産主義の極地極北である。
 世俗における不平等、信仰における平等、これが自己自我主体といわれるものの背景である。世俗における不平等を前提としてのみ信仰における平等、独立不羈の自意識は生じうる。平等であるから自己でありまた不平等であるからまた自己である。不平等を背景としてのみ主体である自己は明晰判明に覚知される。
この点で一番明瞭な教理を持つ宗教は仏教とキリスト教である。両宗教は無所有乞食喜捨という形で世俗的次元の自己を一度絶対的に否定しつつ、反転して信仰においては強烈な自意識を発露させる。日本においては鎌倉室町時代に民衆仏教が盛行したのと並行して経済活動は盛んになったし、キリスト教世界にあってもプロテスタントの台頭は明らかに産業を賦活した。日蓮親鸞はパスカルデカルト同様に透徹した自意識を持っていた。逆にイスラム教、ヒンヅ-教、ユダヤ教そして儒教にあっては教義が世俗社会と距離を取りえていない。その分経済社会の形成には混沌とした未分化なものが残り、紛争が絶えない。
教義が部族民族など特定の集団と密な関係を持たず、その関係を超えて成立した宗教を世界宗教という。厳密な意味での世界宗教は仏教そしてキリスト教である。仏教においては「縁起無我」、キリスト強にあっては「原罪と復活」という形で、世俗的な自己は一度徹底的に否定され、完全平等なものとなる。世界宗教のみが国家形成の基盤となりうる。世俗的自己を絶対否定しいわば叩き潰さないと、強力なカリスマは現れない。従って変容されたカリスマである君主君主制は幼弱になる。
 信仰における平等と世俗における不平等は決して完全に独立不可侵の関係にはない。世俗における不平等は信仰における平等により必ず一定の制約を受ける。信仰における平等は社会の絶対的な安定装置である。信仰における不平等を示唆する宗教の存在はその宗教とそれが属する社会の自殺を意味する。