経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人のための政治思想史(6) 摂関政治

2014-06-18 02:34:08 | Weblog
 摂関政治とは摂政関白が天皇に代って政治を行なう制度です。従来外戚の横暴とか、藤原氏による権力奪取とかあまり良いようには言われてきていません。が、私は摂関政治が日本の政治史の一大転機であり、以後の日本の政治的情操を現在に至るまで規定してきた重大な事跡であると思っています。摂関政治を語る前にどうしても律令制度に簡単に触れておく必要があります。律令制度は聖徳太子のころから大化の改新や壬申の乱をへて聖武天皇のころまで150年近くをかけて作られてきました。律令制の眼目は公地公民、つまり全国の土地は国有でありそれを人民に貸与して税金を徴収する体制、とこの政策を遂行するための官僚制度の整備です。それまでは政治は天皇家も含めた豪族達が土地と人民を私有して、彼ら豪族の連合の上に大王(おおきみ 天皇)が位置するという形で政治が行なわれてきました。官僚制は左右の大臣と大中の納言と参議(合議機関)、弁官外記少納言(事務局)そして中務式部以下の八省(行政の実務担当)により行なわれ、地方には中央政府から国の守が派遣されて政治をしていました。隋唐から学んで取り入れた中央集権的な制度です。
 この律令制は8世紀中葉からほころび始めます。まず土地の占有が始まります。地方の有力者は勝手に開墾してそれを占有します。更に彼らは中央の権門(皇族及び上級貴族)と結びついて地方官が私有田に入り込んで徴税するのに抵抗します。政府はこの事態に対応して地方官(国の守)に強い徴税権を与え同時に徴税請負制にします。このような地方官の形態を受領といいます。受領は請負額以上を取ればその分は個人の収入になります。中央では官職の重要な部分はほぼ藤原氏に独占され、その藤原氏の内部でも分化は進み、嫡流(権力を握った一門)が大臣などの高級官職を独占します。こういう時代状況に対応して出現した制度が摂関政治です。
 天皇が幼少なら摂政が政治を代行します。しかし天皇が成人しても関白が律令制の合議機関と天皇の間に介在して天皇の判断に干渉し制約を加えます。なぜこういう事が可能になるのかと言いますと、摂関になる者の多くは、自分の娘を天皇の後宮に入れ、生まれた皇子を次代の天皇とし、自らは天皇の祖父外戚として、権力を振るいうるからです。ここで入内した娘は天皇の母親になるのですが、この母后の存在も決して無視できません。というより外戚もこの母后の存在なくしては権力に介入できないのです。摂政関白は宮廷に自室を持ち、また気軽に母后や天皇の私室に入れます。天皇の外戚でない関白もいますが、こういう関白には実質的権限はありません。
 なぜ摂関政治のようなものができたのかと言えば、その理由の一つに政治の内廷化という現象があります。律令制の衰退と併行して行政機構は縮小してゆきます。地方は次第に荘園制に移行し受領制度と共に税収減をもたらします。正規の国家収入は減少し、せいぜい天皇家と極上級の一部の貴族を養える程度になります。地方行政にも軍事外交にも政府は積極的には関与しません。政治に参加できる貴族はだいたい100名内外になります。こうなりますと政府は天皇の家政機関のようなものになり、政治は一部の上級貴族の談合で行なわれます。天皇の私室である清涼殿で政治は行なわれます。こういう公から私への政治機構の縮小を内邸化と言います。摂関政治つまり外戚や母后がその血縁あるいは婚姻を介して天皇の権力に関与するという現象はこのような政治の内邸化、換言すれば政治のお茶の間化を背景として進行します。
摂政関白にはすべて藤原氏が就きます。なぜ藤原氏かと言えば長い藤原氏の権力樹立の歴史があります。藤原氏は以前中臣氏といい、古代には朝廷の神事を司ってきました。中臣鎌足は大化の改新で活躍し藤原の姓を与えられ、その子不比等は娘光明子を人臣の娘としては始めて、聖武天皇の皇后にし、死後太政大臣号を贈られています。光明皇后冊立と贈太政大臣は藤原の家を特殊なものにします。つまり他の豪族貴族とは一階違う家柄である事を保証されます。不比等以後藤原氏は天皇家との婚姻政策を進めます。なかなかに帝血の壁は固かったのですが、徐々に天皇家の姻族として食い込んでゆきます。
天皇家と藤原氏の関係は婚姻のみに留まりません。国家政策でも足並みをそろえます。律令制の整備そして仏教興隆には藤原氏は特に熱心でした。他の豪族がともすれば懐古的に保守に傾くのに対して天皇家と藤原氏は国家の革新で同盟関係を結びました。鎌足は自分の長男を唐に留学させるほど仏教摂取に積極的でした。光明皇后は夫聖武天皇を励まして、国分寺国分尼寺の建設や大仏建立に積極的に努力します。国分寺建設や大仏建立は国家の権威を示威すると同時に新興の経済勢力との提携をも意味し、国策としては非常に重大な事業でした。藤原氏の氏寺が興福寺です。興福寺は帰国後すぐ死去したこの長男の鎮魂の寺でもあり、大乗仏教理論の一方の雄である法相宗研鑽の寺でもあります。大宝そして養老律令の編纂には不比等が積極的に関わっています。要するに律令制という天皇の超越化を目指す政策遂行に一番熱心だったのが藤原氏でした。仏教興隆は律令制確立のためのソフト整備であると心得て下さい。藤原氏は国家建設という事業において天皇家の重要な共同者でした。
 なによりも藤原氏は少なくとも道長の代までは優秀な人材を輩出し続けています。無能な人は嫡流にはいません。称徳女帝死去後藤原氏は道鏡による帝位簒奪を阻止し、素早く光仁天皇を擁立し、その次代には桓武天皇を押し立てます。どちらも陰謀事件がらみですが、人材発掘の眼の付け所は優秀です。長岡平安遷都も藤原氏主導で行なわれています。内邸機構の核心である蔵人所が設定されたら内麻呂が長官に任じられています。良房は幼帝清和天皇の摂政、人臣で始めての摂政になりました。基経は光徳宇多天皇の即位の事情ゆえに始めて関白になりました。基経の孫である師輔、その子兼家、その子道長の三代が摂関政治の全盛期です。この三人はすべて自分の娘を后として天皇の後宮に入れ次代の天皇を生ませています。
 摂関政治は天皇と天皇の母方の姻族との共同統治です。これには長い前史があります。実証的には卑弥呼と男弟の、神話の世界ではアマテラスとスサノオの男女による共同統治があります。この男女の共同統治制を姫彦制と言います。律令制完備以前には、大兄(おおえ、大王の後継者ないしそれに準じる存在)が大王の代行として大王と共同統治をしました。聖徳太子や中大兄(後の天智天皇)が代表です。蘇我氏が滅ぼされる以前の大臣は臣下の豪族一同を代表して大王と共同統治しました。左右の大臣はこの大臣(おおおみ)の伝統を引いていますから、左右の大臣には共同統治者という性格があります。律令制の影に隠れていたこの共同統治性は政府の内邸化の過程で摂関政治としてその相貌を新たな露なものにしたといえます。
 摂関政治は天皇家と藤原氏、首位の家と次位に徹し決して首位を目指さない家柄による共同統治であり婚姻同盟です。同時に男性である天皇と女性である母后による男女の共同統治でもあります。姫彦制の再現ともいえます。一見臣下による権力簒奪のようにも見え、また政治の弛緩のようにも見えます。お爺さんがのこのこ娘や婿や孫の私室に入り込んで政治という公的な案件を相談するという情景なのですから。しかし摂関政治には重要な長所があります。結論から先に言えば権力の安定と部族の解体です。天皇家と藤原氏は恒久的な同盟を組みます。両者は首位と次位として決してお互いの地位を侵さないという暗黙のしかし歴史的には強固な約束あるいは契約をしています。両者は権威と権力を適当に分担し合います。首位と次位は直接つながるのではありません。そうなら両者には衝突が絶えません。両者の間には300年の歴史の中で形成された婚姻同盟、男女の共同統治という安定したバネが挿入されています。統治の裏側に女が一枚噛みますから権威と権力の関係は柔らかいものになり、両者の間には深刻な衝突は起きません。ないといえば嘘になりますが、他国の歴史と比べればこの種の摩擦衝突は著しく穏健で血なまぐさくないのです。そして首位と次位の関係が安定すればこの安定は下位の層にも自動的に波及します。権力の安定、これが摂関政治の第一の特質です。
 第二の特徴は部族の解体です。部族とは擬制的な血縁で結ばれた集団です。どこでも初期の政治体制は部族制です。部族の長の連合で政治が決められます。しかし摂関政治では首位と次位が強固な同盟関係にあるために、他の部族はその下に甘んじなければなりません。つまり部族による権力交代、これには必ず戦争が伴います、は消滅し、部族の存在意義自体が自動的になくなってしまいます。平安時代に入ってからも藤原氏は他の家柄が政治に進出する事を巧に阻止してきました。大伴氏、紀氏という古代からの名族は政治的には没落します。皇族は政治に参加できません。賜姓源氏も頭を押さえつけられます。学者が頂点に立とうとしたら追放されます。これらの事件には必ず陰謀が伴います。だから藤原氏は人気が悪いのですが、ここで特記すべきことは藤原氏の時代になってからは権力交代に伴う流血事件は全くないということです。9世紀初頭の薬子の乱から12世紀半ばの保元の乱までの350年間少なくとも堂上貴族で死刑にあったものはいません。平安時代とは死刑のない時代だったのです。こんなことは、徳川300年の平和と並んで、世界史上では稀有の例外です。
 摂関政治が頂点を極めたのは兼家から頼道までの約100年間です。摂関政治は院政に取って代わられます。院政とは引退した天皇が、上皇とか法皇とか呼ばれます、わが子である天皇を後見し実質的に権力を握る体制です。ここで現役の天皇は儀式の執行者になります。この制度も権威と権力の分離という意味では摂関政治の続きです。院政の次には鎌倉、室町、徳川という三つの幕府による武家政治が続きますが、ここでも実質的権力は将軍、最終的権威は天皇と分業が成立しています。武家政治の内部だけでは最終的に権力の争闘を避けられないのです。天皇の権威が形式化しても最後は天皇の仲裁調停は必要でした。そして強調すべきことは日本の歴史では、争闘はありますが、その規模は他国に比し著しく少ないのです。少なくとも流血量においては比べ物になりません。権力を安定させてその交代を円滑平和にする政治装置の範形は摂関政治により作られました。
 摂関政治は婚姻同盟であり、男女の共同統治です。権威と権力の間に女性が一枚噛むことにより、権威と権力は分離され、権力行使は非常に柔らかなものなりました。

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