経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人のための政治思想史(5) 神仏習合

2014-06-14 02:22:25 | Weblog
(5)神仏習合
 800年前後最澄と空海が唐に渡り天台真言の二宗を日本に持ち帰ります。これを転機として仏教は日本という国に相応しい独自の展開をしてゆきます。変化の相貌は大きく三つになります。仏教は実践化されます。同時に経済制度の変化と平行して寺院は私企業になります。奈良時代までの仏教では、寺院は国営であり、僧侶は寺院の中だけで修行するべく定められ、その任務は護国のみにあり個人救済は二の次でした。これが当時の仏教の公式見解であり建前でした。法華経及び真言密教は個人救済を強調します。実践化、私営、個人救済が平安仏教の奈良仏教に対する大きな特徴です。
 ここで仏教に関して概略を解説しておきましょう。釈迦の教えが竜樹により一回転されて大乗仏教というそれまでとはかなり異質な宗教が出現しました。大乗仏教の大乗仏教たる由縁は大衆救済にあります。この実践者を菩薩と言います。菩薩道を根幹とする大乗仏教は大きく二つの流れに分かれます。華厳経を基礎とする流派と法華経を尊重する流れです。前者は世界のすべての存在に仏性が宿っているとして、だから万人は既に救われていると解きます。この流れの中に禅宗、浄土教、真言密教があります。後者では、信仰共同体を維持しつつ共同で社会的行為を重ねることにより、自らの救済を確信してゆくと説きます。同じ菩薩でも、華厳経系の菩薩道は緩やかで受動的ですが、法華経系になりますと積極的で戦闘的です。最澄は法華経の解説体系である天台宗を、空海は華厳系の真言密教をもって帰国しました。
 私は法華経をもって第一の仏典とする立場に立ちますが、正直平安時代の人々の中でどれほどの人が法華経の意味を解っていたのかなという疑問を抱きます。法華経に内在する弁証法的構造と、社会性そして政治行為の意義の論証などは非常に見えにくいし解りにくいのです。平安時代に確かに法華経は尊重されました。しかし私は、法華経の意味を始めて発見し実践したのは450年後の日蓮であると思っています。とまれ法華経はあまり解らないまま護国の経典として尊重されていました。天台宗の本山が比叡山延暦寺です。
 対して真言密教は非常にわかり易く良い意味でも悪い意味でも実践しやすいのです。密教はインドで仏教が土地の呪術信仰と結びついて発展しました。華厳的思考に呪術が加わったものです。呪術とは信じればこの世の福徳を直接に授けてくれるというある種の技術です。ですから密教が日本に輸入されると密教信仰は爆発的に広まりました。子供を授かる、雨を降らす、病気を治す、などという人間の世俗的な欲望が、呪術あるいは加持祈祷でかなえられるのですから、平安時代の貴顕紳士そして一般庶民はなんらかの意味で密教信仰に走りました。密教信仰では修行する僧侶はともかく受益者である俗人にはお布施は別としてたいした努力は要求されません。ただ拝んでもらえばいいのです。密教の本山は高野山の金剛峰寺と京都の東寺です。延暦寺はこのような趨勢に非常に不安を抱き、最澄の弟子達が唐に行き別系統の密教をもって帰り、密教信仰を説きまた密教の加持祈祷に専念しました。延暦寺は法華経が看板ですが、法華経理解の進展はあまりありません。ありていに言えば密教呪法の方が儲かるのです。とまれ平安時代の前半で一番人気があったのが密教です。ついでに言いますと時代の後半には密教の変形としての浄土信仰が盛んになります。
 密教ではインド土着の神様方がご利益を授けて下さいます。もちろん呪術の力で。そうなると日本に来た密教信仰は容易に日本古来の神様と融合します。根本的方法が呪術ですから、この呪術を介して容易に仏と神とが重ね合わされます。日本の神様も人間を罰したり福徳を授けるという事を行います。仏と神とが融合し重ねあわされる現象を神仏習合といいます。神仏習合はなにも密教だけを介して行なわれたのでなく、他の宗派も同様に神仏習合に走りましたが、いちばん顕著な効果は密教を介しての道でした、ちなみに異国の神が土地の神と融合する現象は世界のどこにでも見られます。
 神仏習合により日本の仏教土着は強固なものになりました。同時に信仰は地方分権的なものになります。仏教は大乗と小乗をあわせれば極めて多彩な教義を内包しております。日本の神様は八百万(やおよろず)と言われるくらい多数です。世界中のいたるところに神様がおられるようなものです。このように神仏習合によって極めて多伎多彩になった仏教信仰は、当時興隆しつつあった新興土地所有者である田堵名主に受け入れられます。この連中が後世武士という階級に育っていきます。奈良時代の律令制では土地の私有は原則として容認されません。公地公民です。しかし民衆の土地私有への願望は強くなんらかの形で土地は集積されてゆきます。更に土地所有者は免税も要求します。この結果が荘園の発展です。これらの過程はすべて非合法なのです。ここで神仏習合により多元化された仏教信仰の効き目が出てきます。仏教はその性格から言っても、外来宗教という立場からいっても、信仰を国教の形で独占できません。独占できないとは言いきれませんが、それははなはだ難しいのです。現に日本では信仰の主流は仏教ですが、すべての寺院は私営であり、宗派はそれぞれ独立しています。あえて国教と言えば後世神道と言われるものですが、神道だけでははなはだ弱く、神道は神仏習合により支えられる形で存続できました。結論から言えば日本では信仰を国家が独占できないのです。仏教を受容することにより為政者の思惑とは別にそうなってしまいました。逆に言えば民衆はかなり自由に信仰を選択できることになります。新興の土地所有者(占有者というべきですが)はこうして自らの判断で信仰を選び、土地に寺院を作り寺院に土地を寄進しました。信仰を独占する機構がない分、信仰は自由でありその分国家権力から独立した立場をとりえます。こうして発展してきた階層が武士という集団です。
 武士とは本来土地の非合法的占有者であり土地開拓者経営者です。律令体制から言えば一種の反逆者です。最澄や空海の作った寺院もその意味では同じで非常に非合法くさい代物です。そしてこの寺院から聖(ひじり)とか先述した菩薩僧が出現し寺院から独立していろんな社会活動を繰り広げます。重要な活動の一つが土地開発です。ここで武士と僧侶聖菩薩僧は重なります。武士は結構僧侶に近いのです。
 ここで僧兵という存在について考えてみましょう。僧兵とは面白い存在です。従来は僧侶のくせに武器を携えて武力を行使する、信仰の堕落の典型的な象徴だと悪く言われてきました。私はそうは思いません。日本の寺院はすべて私営でありそれなりの財産を持っています。寺院を護る武力がなければ寺院は亡びます。平安時代は大きな戦争のない時代でしたが、なんのかんのと言っても実力がものをいう時代でした。自らは自らで守らなければなりません。僧兵という存在があったればこそ、仏教は全体として国家に対して独立しまた自己の経営を安定させえました。僧兵は特別の存在のように言われますが、基本的には武士です。僧兵と武士との境界はかなり流動的です。もう一つ僧兵に関して言えば、当時の寺院では皆武装でした。学術ある僧侶も雑役に携わる下級僧侶も、俗人であって寺院で働くものもすべていざという時には武器を取ります。また寺院の最終決定は大衆セン議という集会で決められていました。極めて民主主義的な運営が為されていました。武士とは自分が集積した土地を護るために武装した集団であり、僧兵は寄進された土地を護るために武装した集団です。同じようなものです。ここで肝要なことは寺院が武装できるから寺院の信仰を護持できるのであり、だから国家が精神的価値を独占することなく、だから権力は遠心的に働き、武士層が興隆するということです。
 神仏習合により仏教と神道は結ばれます。この事は仏教が国家と同盟するに際して重要な契機を与えます。なぜなら外来の仏が日本固有の神々と融合するのですから。神道と融合することにより、仏教は日本の文化と体制に定着でき、日本という国家の守護神となりえました。端的な例を挙げましょう。後七日修法と大元帥法という密教の加持祈祷があります。前者は天皇の玉体を後者は国家そのものを護る呪法です。朝廷の奥深くで行なわれました。しかし神道と仏教の間には溝はあります。仏教では死を扱います。死にどう対処するかを説くことが仏教の役目です。逆に神道では死を穢れとして忌み嫌います。この点に関してだけは両者の溝は埋まりません。源氏物語で桐壷更衣が帝の寵愛にも関わらず宮廷を去らなければならない情景がありますが、これは更衣が病気になり死期が迫り、宮廷に置いてはおけないと判断されたからです。

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