経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  菊池寛(一部付加)

2020-04-24 15:51:27 | Weblog
経済人列伝  菊池寛(一部付加)

 菊池寛は作家です。同時に彼はジャ-ナリストであり、なによりも「文言春秋」はじめ多数の雑誌の発行者つまり経営者でもあります。寛は頭がよく活発で茶目でいたずら好きの性格でした。そのために進学にずいぶん苦労しています。彼は現実的なことへの関心が強く、かつ一度頭に浮かんだらそれを言葉にして語らなくてはならない、自由な放言が好きな男でした。多作家です。私が概算したら200に近い作品がありました。テ-マも多分野にわたります。彼が作家になったのはこういう性格や行動の延長上にあるのでしょう。文芸春秋創刊のいきさつについて彼は、あらゆる方面の現実を自由に生きた言葉で語ってみたいと、言っています。話好き、世話好き、遊び好きでした。この性格ゆえに、彼は一作家に留まることなく、文壇の垣根を越えて進出し、諸々の組織を作り、いろいろな企画を打ち出します。彼の経営者としての態度は独得でした。出勤は夕刻、社長室には将棋板が置いてあり、彼はしょっちゅう客や社員と将棋をさしていました。社員達も彼にならって奔放にふるまいます。経営者としては遅刻や社内での遊びは困るので、禁止しますが、この禁令の一番の被害者は寛でした。こういう経営者もいるということです。文芸春秋を日本一の総合雑誌に育て、売上を伸ばして経営を安定させ、一つの文化を作り、併せて多くの後進を育てました。キャノンの御手洗毅が医師出身の異色経営者なら、菊池寛は作家出身の経営者です。
 菊池寛は1888年(明治21年)香川県高松市で生まれました。父祖は高松藩の藩儒でした。父親はかなり零落して小学校の庶務係で薄給でした。ために寛は小学校時代、遠足にも修学旅行にも行けませんでした。成績は優秀でした。小学校から高等小学校へ、中学に行くか行かないかで、家の者が迷い、ずるずる4年間過ごして、中学校に上がります。いたずらがひどく、教師の評判は散々でした。この時代英語の辞書を丸暗記します。読書が好きで、読み出すとまるで催眠にかけられたように、本の中に溶け込みます。寛はこの傾向を、読書随所浄土と言っています。高松に図書館ができた時、真っ先に通い、蔵書2万冊を読破します。特に彼は井原西鶴が大好きでした。
 東京高等師範学校に入ります。歴史の授業中忘れ物をとりに帰ります。途中で仲間がしているテニスに加わり終日プレ-して、授業をサボ(本人は完全に忘れていました),
そして退学になります。法律家になるべく明治大学に通います。やがて文学に転じ、徴兵のがれのために早稲田に入ります。この間郷里の金持ちと養子縁組をします。第一高等学校に入学します。養子縁組解消。以後の学資は親の借金でまかないます。高等学校時代、マント盗難事件に巻き込まれ、退学します。このため希望した東京帝大文学部には入れず、京都帝大文学部に入ります。この前後から作品を発表します。
 大正3年、寛26歳時、「第三次新思潮」が設立されます。芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、山本有三、土屋文明、豊島与志雄、山宮充が同人でした。寛も勧められ喜んで同人になります。この新思潮に載せた「玉村吉弥の死」が寛の処女作品になります。第一次新思潮は小山内薫によって設立されたもので、同人誌としてはブランドでした。第二号の作品が「弱虫の夫」です。大正5年京都帝大を卒業し、上京して時事新報の社会部記者になります。この間結婚。金持の娘と結婚して生活を楽にしたいと思いその通り実行します。こういう極めて世俗的で勘定高い結婚でしたが、夫婦は円満でした。以後寛は続々と作品を発表します。大正7年から8年にかけて「無名作家の日記」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」などを書きます。寛の作家としての評価が定まります。大正8年時事新報を辞めて、大阪毎日新聞社に勤めます。同年「藤十郎の恋」が中村鴈治郎により、「父帰る」が市川猿之助により上演されます。こうして劇作家としての地位は定まり、生活も安定します。同業者の組織作りにも活躍します。作家という職業に伴う生活の不安定さを少しでも和らげるために、相互扶助組織として、劇作家協会や小説家協会と作ります。二つの組織はやがて合同し文芸家協会になります。
 1923年(大正12年)雑誌文芸春秋を発刊します。寛35歳の時のことです。初刊は3000部、一冊10銭という破格の廉価、表紙に目次という特異の装丁です。あっというまに売り切れます。自油な言葉で、あらゆる方面に関心を向け、現実を生きた言葉で語ってみたい、というのが発刊の志しです。寛の、話好き人間好きの延長に、作家活動そして雑誌創設があります。
もう一つ見逃せない要因もあります。当時漱石や鴎外以来の文学は行き詰まっていました。そしてプロレタリア文学からの激しい攻撃があります。人民の労苦を忘れて、高踏的インテリの遊びにすぎないと、攻撃されます。寛の意向は、こういう左翼の攻撃から文学を護ることにもありました。高踏的でなく、内に閉じこもらず、文学と政治を混同することなく、生きた現実に向かおうとなると、勢い大衆文学ということになります。文芸春秋の誕生には、文学とリベラリズムの危機への対処という、意味もあります。寛の多くの作品の中には大衆文学といいきれないものが多数あります。芥川龍之介の自殺は文学の危機ゆえともいわれます。寛の多くの組織作りの活動には文学と文士の存在を護ろうとする意図があります。
文芸春秋の初刊の第一ペ-ジに芥川龍之介の「シュ儒の言葉」が載せられています。企ては当たりました。すぐ数万部売れきれの段階に進みます。ここで大災難がやってきます。関東大震災です。東京は壊滅、寛は一時大阪に移住しようかなと思います。なんとか踏ん張って対象14年には5万部の発行にもってゆきます。
 寛はアイデアマンでありいろいろな企画を思いつきました。思いついたらすぐ実行するのは寛の性向です。地方講演会を催します。雑誌に、自社の会計報告を載せます。雑誌
「文芸講座」を発刊します。ついで同じく雑誌「演劇新潮」「映画時代」。劇団、新劇協会の設立。文芸創作講座、の開始。文筆婦人会、設立、これは女性の文学への進出を促進するためです。文芸春秋社倶楽部を作り、文学者の相互交流を計ります。昭和5年には、「オ-ル読物」と「モダン日本」という雑誌を創刊します。御手洗辰雄にペンネ-ムで「政界夜話」として政界の裏話を語らせます。言論が自由でなくなりつつある時代でした。文芸春秋相談所を開設します。産児制限の相談のためです。「現代百家小事彙」というすぐ役に立つ百科辞典のようなものを作ります。読者が、買って損をしなかった、という気にさせることが、寛のモット-でした。文芸懇話会を作り、作家と当局の意志の疎通を計ります。思想弾圧の時代でした。愛読者大会を各地で開きます。文士劇も開催します。この辺になると、寛の楽しみか仕事か解りません。
 1925年(大正15年)社屋と菊池邸を分離します。昭和3年社会民衆党から第一回普通選挙に立候補し次点で落選。同年文芸春秋社を株式会社にします。額面20円、2500株、資本金5万円でした。昭和4年には、ある実話を載せて文芸春秋は発禁処分になります。昭和6年、社内の粛清を行います。寛の経営方針には杜撰なところがあります。それをいい事にして、多くの課が独立した動きをします。広告部では特に規律が乱れ、広告収入のかなりの部分が個人の収入になっていました。管理すべき経理部もたるんでいました。思いつくと即実行の社長のもとにいるのですから、事業は多岐にわたり、散乱しがちで、雑誌特に文芸春秋は売れているのに、会社は赤字、というより赤字か黒字かわからない、状態でした。社員総数は69名でした。一部のまじめな社員が佐々木茂索を立てて、寛に社内粛清を進言します。広告部員5名を解雇し、社員給与を3ヶ月にわたり半分にしました。すぐ経営は立ち直ります。以後佐々木は暴走しがちな寛のお目付け役になります。昭和6年には「話のくずかご」をもうけて、雑談・漫談・情報公開・裏話・批判などなどをすべてを籠めた欄を文芸春秋に設けます。
 昭和8年雑誌「話」を創刊します。以下のような内容です。これを見れば寛の意図がわかります。
講談社とはどんなところか
水谷八重子に愛人はあるか
野依秀市とはどんな人物か、
松竹王国を動かす者は誰か
大本教は果たして没落したか
人の道教団の正体
岐阜浅野屋とはどんなところか
円宿ホテルの客調べ
国維会とはどんな会か、
日本のメッカ長野善光寺を裸にす
三原自殺者の実況を弔う
などです。水谷八重子は新派の有名女優、大本教はそのころ盛んだった宗教団体で、天皇に対する不敬罪とかで、ものすごい弾圧をされました。
 1935年(昭和10年)寛は芥川賞と直木賞を創設します。前者は純文学、後者は大衆文学の新進作家に与えられます。賞の創設にはいきさつがあります。芥川龍之介も直木三十五も寛の親友でした。芥川は昭和2年に自殺し、直木は昭和9年に病死します。彼ら 二人の才能ある親友の追憶をも籠めて、両賞を作りました。第一回の受賞者は石川達三と川口松太郎です。昭和11年日本文芸家協会の初代会長になります。前後して日本映画協会の理事にも就任します。
 1936年(昭和11年)に2-26事件が起こります。この時寛は、自由を束縛されないか不安だ、知らせないでおいて非常事態を認識せよというのはおかしい、と述べます。また「軍に直言する座談会」も開いています。しかし昭和13年以後は段々と、軍のいう国策に協力して(させられて)ゆきます。「皇軍慰問全集」発行、雑誌「航空文化」創刊、日本文学振興会創立、作家を代表して南京にゆき汪兆銘に挨拶、文士部隊20数名を引き連れ大陸にわたり軍を訪問、日本文学報国会設立などなどの事跡があります。
 終戦。昭和21年寛は文芸春秋社を解散します。同時に昭和17年に就任した映画会社大映の社長も辞任します。やがて追放になります。創作活動は衰えず、「新今昔物語」を執筆しています。1948年(昭和23年)心筋梗塞で死去、享年61歳でした。なお現在の文永春秋社は寛と行動を共にした人達の一部が新たに立ち上げた会社です。寛の会社とは経営上の縁は切れています。

  参考文献  菊池寛  時事新報社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


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