経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、竹鶴政孝

2011-09-14 02:34:17 | Weblog
    竹鶴政孝

 竹鶴政孝は1894年(明治27年)、広島県竹原市に生まれています。家は代々の造り酒屋でした。兄弟は多く、四男六女、政孝は三男でした。子供の頃は非常に腕白で、二度大怪我をしています。二階から階段を転げ落ちて、意識不明になり奇跡的に助かった、と本人は言っています。お蔭で鼻のところに七針も縫う傷跡を残しました。母親は、無事育つかと心配でした。向こう意気が強く、独立自存の気風でした。頑固ともいえましょう。彼の生涯を概観しますと、やりたい事をやる、という傾向を強く感じさせられます。忠海中学に進みます。後輩に後に首相になった池田隼人がいます。池田は往時を振り返って、柔道の強い寮長の竹鶴さんが竹刀をもって回ってくると怖かった、と述懐しています。
 大阪工業高等学校(現大阪大学)の醸造学科に進学します。日本中で醸造学科があるのはこの学校だけでした。ここで日本酒より洋酒に興味を持ちます。結果として家業を継がないのですから、父母ともめました。結構親不孝をしています。1916年(大正5年)卒業して、摂津酒造に入ります。この会社はみりんや合成酒以外に、ウィスキ-、ぶどう酒、リキュ-ルなども製造し、当時洋酒メ-カ-として有名でした。摂津酒造は昭和39年に宝焼酎に合併されています。社長は阿部喜兵衛、事務5-6人、工場30人前後の規模でした。
当時のウィスキ-について若干の説明をします。政孝はそれをイミテ-ションウィスキ-と言います。原酒(モルト)をイギリスから輸入し、それにアルコ-ルを適宜混ぜて少し味付けして、売り出します。原酒の割合は1%くらいでした。原酒が0-10%のウィスキ-を三級ウィスキ-と言います。政孝の終生の願望は、こういう三級品ではなく、本物のスコッチを日本で造ることでした。当時スコッチはスコットランド以外ではできないとされていました。
入社後2年社長から、スコットランドに留学して、本格的にスコッチの製造法を学んでこないか、と言われます。政孝が見込まれたのでしょうが、望外の幸運です。そして当時は第一次大戦の真最中、日本は戦争景気にわいていました。どこの企業でも使うに困るほどのお金を持っていました。ウィスキ-造り一筋にかける政孝には三人の恩人がいます。摂津酒造の阿部喜兵衛、壽屋(サントリ-)の鳥井信治郎そしてアサヒビ-ルの山本為三郎です。このうちの誰一人欠けても政孝の生涯はなかったものと思われます。彼の人柄もあるのでしょうが幸運な人生といえましょう。
 スコットランドに行きます。大正7年から10年までの3年間在英し勉強します。太平洋を渡ってアメリカに行き、そこでカリフォルニアワインの工場を見学します。大西洋を船で渡らなければなりませんが、ドイツの潜水艦が怖くて、なかなか船がでません。ウィルソン大統領に電報をうって、理解を求め船出します。途中僚船が沈没するという惨事に出会います。ベルギ-皇太子の発案で犠牲者への義援金を政孝が集めることになります。彼が乗船者中一番若かったからです。
 グラスゴ-大学で聴講します。講義自体はありふれていて、知ったことばかりで、おもしろくなく、図書館でウィスキ-関係の本ばかり読んでいました。肝心な勉強はウィスキ-を造っている工場の見学と実習です。ここでウィスキ-、もちろん本格的なスコッチですが、その造り方を説明します。まずモルトウィスキ-を造らねばなりません。大麦を発芽させ、それを草炭(ビ-ト)で乾燥させます。これに酵母を加えて発酵させます。こうしてできたものをポットスティルで蒸留します。何回も何回も蒸留をくりかえして、アルコ-ル濃度を70%にします。これを樫などの硬い材質の樽に入れて、5-10年寝か(貯蔵)します。樽の中の酒は、木材を通してゆっくりと酸化されます。同時に酒は少しづつ外に蒸発します。10年寝かせると、量は半分になります。こうして原酒ができます。原酒自体はおいしいものではないそうです。
 原酒はアルコ-ルを加えられて味のいいものになります。このアルコ-ルの作り方により味が違ってきます。スコットランドではこのアルコ-ルをグレ-ンウィスキ-と言っていました。大麦、小麦、カラス麦、コ-ンなどを発酵させて、連続蒸留装置で蒸留してこのグレ-ンウィスキ-ができます。グレ-ンウィスキ-を混ぜることにより風味がでます。ウィスキ-造りには、もう一つの難関があります。原酒のブレンド(混合)です。いろいろな原酒をブレンドして、それにグレ-ンウィスキ-を混ぜて、本物のスコッチができます。厳密に言えば本物のスコッチは30%以上の原酒を必要とします。ブレンド如何によりそれぞれのウィスキ-の味と特徴が決まります。ブレンドの能力は経験とそしてなにより才能、嗅覚の才能によります。
 政孝は工場見学と実習を重ねてゆきます。原酒の工場は小規模なので、気安く見学させてくれますが、グレ-ンウィスキ-の方は大工場になり、秘密厳守で実習はなかなかできません。ある工場の老蒸留主任が、政孝のひたむきな態度に感じ入り、蒸留の機微を仔細に教えてくれます。アルコ-ル濃度が何%というのなら機械的に蒸留すればいいのでしょうが、蒸留する温度や速度も風味に関係してくるようです。またある工場では、日本酒の麹(こうじ)に興味を持つ技術者に麹を日本から取り寄せて渡し、交換にウィスキ-製造法を教えてもらいます。こういう縁はすべてグラスゴ-大学のウィリアム教授の紹介によるものです。イギリス人は赤の他人には冷淡で心を開きません。しかし一度紹介されたり昵懇になると非常に親切にしてくれると言われています
 在英中政孝はホ-ムシックにかかります。こういう中招待された医師の家でのパ-ティで、そこの娘ゼシ-・リタを知ります。政孝は積極的にプロポ-ズします。一目ぼれです。結婚しリタを日本に連れて帰ることになりますが、それを知った父母は大騒ぎそして大反対です。阿部社長が渡英し、リタを見て、両親に結婚を許可してもらいます。日本への帰路はハネム-ンになりました。
 さて日本に帰ります。戦争は終わって潜水艦の心配はありませんが、戦後不況です。ウィスキ-生産の計画は役員会の反対で立ち消えになります。ウィスキ-は製造を開始して少なくとも5年は発売できません。ある程度の品質を保とうとすればです。膨大な資金を寝かせることになります。不況時、そんな冒険はできない、というのが多数の意見でした。そういうことでしょう。政孝はあっさり辞職します。しばらく帝塚山学院で、化学をおしえます。妻のリタは同院で英語を教えます。
 1923年(大正12年)壽屋(サントリ-)の鳥井信次治郎からウィスキ-製造主任として招かれます。鳥井は始めイギリスからム-アを招聘して、ウィスキ-製造を一任するつもりでした。ム-アの来日が不可能になり、白羽の矢が政孝にたったわけです。年俸はム-アと同じ4000円です。当時の首相の年俸が3000円でした。鳥井は赤ダマポ-トワインで稼いだ金をウィスキ-造りに投入しました。政孝の在任期間は10年と契約されます。工場設置の場所として政孝は北海道を望みましたが、鳥井は流通の便宜上近畿圏内を望みます。こうして天王山の山崎が選定されました。この事以外の案件はすべて政孝に一任されます。途中で蒸留に際しての、かまどと火の距離が解らず、再度スコットランドに渡ります。1929年(昭和4年)白札サントリ-ウィスキ-が発売されます。当時としては一番本格的なウィスキ-でした。一本3円50銭、輸入品のスコッチが5-6円でした。以後も普及品を発売しますが、売れ行きは芳しくありません。壽屋の中で、ウィスキ-部門は金を食うだけの極道者だと、白眼視されます。この間税金問題で税務庁の星野直樹とやりあいます。酒は製造して在庫にしておくとすぐ課税されます。ウィスキ-にこれを適用されると、寝かせる期間が長いので、利益なきまま税金を払わねばなりません。結局庫出税にしてもらい難を免れます。鳥井がウィスキ-製造にかけた資金は250万円でした。鳥井がいなければ政孝はウィスキ-造りの経験を得られなかったことになり、以後の彼の生涯はなかったでしょう。壽屋には2年延長して12年在社しました。
 1934年(昭和9年)政孝は独立し、加賀正太郎と芝川又四郎の後援で、大日本果汁株式会社を立ち上げます。資本金は政孝が2万円、加賀と芝川二人で7万円、柳沢伯爵が1万円、の総計10万円です。本社は東京ですが、工場は政孝の念願どおり北海道の余市に建設しました。北海道には草炭(ビ-ト)があります。石造りの工場を建て、すべてスコットランド方式にします。本格的なウィスキ-は最低5年間寝かせて熟成させなければなりません。資金がいります。経営は苦労の連続でした。昭和15年始めてニッカウィスキ-を発売します。極力原酒の割合を多くします。あくまでスコッチに近づく努力をします。
 戦後は苦難の時代を迎えます。サントリ-は本格的なウィスキ-を金持の占有物と批判して、昭和21年三級ウィスキ-の発売に踏み切ります。トリスウィスキ-です。サントリ-はお得意の宣伝で、販売を促進します。政孝はあくまでスコッチに近い本格派のウィスキ-造りにこだわります。ニッカの経営は悪化します。政孝は節をまげずがんばりますが、税金が滞納されるようになります。国税庁の説得に負けて、昭和25年三級ウィスキ-の発売に踏み切ります。昭和27年社名をニッカウィスキ-とします。「大日本果汁」から「日果」を取りそれをカタカナにしました。
 1953年(昭和28年)大株主である加賀正太郎の死に際し、加賀は自己所有の株式を山本為三郎のアサヒビ-ルに渡します。山本は政孝の経営に理解を示してくれました。政孝の判断で経営をすることを容認する一方、政孝があまりにも技術一辺倒であることを心配して、販売部門の担当に弥谷醇平を専務として送り込みます。弥谷は販売網の整備と価格切り下げ、そして宣伝に活躍します。それまでの政孝のやり方は、宣伝嫌い、品質第一、だから高くてもいい、でした。以後ニッカの販売額は増加の一途をたどります。昭和31年ブラックニッカ発売、これは好評でした。
 山本は政孝に、カフェ式グレ-ンスピリッツの設置を提案します。そのために朝日酒造という新会社を造り、西宮の工場に、このグレ-ンウィスキ-製造装置を購入し設置します。こうして1966年(昭和41年)日本で始めての日本産スコッチ、つまりもっとも本格的なウィスキ-が出て、新ブラックニッカとして発売されます。政孝がスコットランドに留学し帰朝して46年後に、始めて彼の意図した製品が世に出たことになります。この間昭和37年彼の最愛の妻、リタは他界しています。1979年(昭和54年)死去、85歳。現在ニッカウィスキ-は非上場になっており、100%アサヒビ-ルが株式を所有しています。

  参考文献  ヒゲと勲章  ダイヤモンド社

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