経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、福沢桃介

2010-08-25 03:10:42 | Weblog
     福沢桃介

 「福沢」といえばまず「福沢諭吉」を思い出します。桃介は諭吉の養子です。彼は養父の教えにことごとく背き、しかも経済人として歴史に名を残しました。桃介の事歴で主なものは二つです。相場の神様、そして電力王です。桃介の生涯を語るに際しては諭吉以外に二人の人物を無視できません。生涯の相棒となった松永安左エ門と愛人川上貞奴です。安左エ門の列伝は既に読んでいただけたと思っています。貞奴はこの列伝の最後で少し詳しく触れる予定です。
 桃介の旧姓は「岩崎」です。1868年、武蔵国(埼玉県)横見郡荒子村に提灯屋の子として生まれました。岩崎家は代々村の庄屋を務める旧家でしたが、分家のサダ(桃介の母親、父親紀一は養子)の代になると落ちぶれ一反百姓になります。しかたなく提灯屋をすることになります。桃介は何事も大げさにいうので、どの程度貧乏であったかはわかりかねます。当時すべての人間が小学校に通えたとは思えませんし、慶応義塾に入るためにはそれなりの資金は要ります。桃介の伝では、小学校に通うにも下駄がなく、裸足で通学したそうです。神童といわれるほど成績は抜群でした。
 慶応義塾に入学します。運動会の競争でライオンの顔を描いたシャツを着て走り、衆目を集めます。自信家であり目立ちたがり屋です。多分諭吉は桃介の才能を高く評価したのでしょう、桃介を養子にとり、次女房子の婿とします。桃介が19歳の時のことです。交換条件が米国留学です。ここで不審な事が二つあります。諭吉には既に男児が二人ありました。養子は不要のはずです。加えて諭吉は大の養子制度反対論者でした。諭吉も桃介も個性は強烈です。二人は心底ではお互いを認め合っていますが、生き方は正反対で、ことごとく対立します。確実にいえることは、桃介は諭吉の実子達よりはるかに有能であったことです。そして諭吉は子煩悩でした。この結婚は典型的な政略結婚です。
 桃介は約束どおり米国に留学します。たちまち地が出ます。勉学などつまらない、それより実務だと思い、将来日本にとって必要かつ有望な事業である、鉄道経営に興味を示します。すぐフィラデルフィアに赴き、米国最大の鉄道である、ペンシルバニア鉄道の重役モリスと交渉し、入社を許可されます。事務見習いということでしたが、社員一名が秘書につき、ファ-ストクラスのフリ-パスという破格の条件でした。諭吉の令名が背景にあったとしか考えられません。ここで桃介は鉄道経営の一切を習得します。鉄道車両の造り、列車の運行状況、運転手や車掌の役割、運賃の算出方法、経営管理と労務管理などを短期間に貪欲に学び取ります。そのほかに、桃介は米国のあらゆる物に関心を示し、見て歩き見聞します。本を読んでいるのが馬鹿らしく、時間が惜しいのです。桃介が米国の家庭をみて一番関心をそそられたのは電燈でした。ある宴会で時の大統領クリ-ブランドと握手を交わします。
 1989年21歳帰国。諭吉の紹介で北海道鉄道炭鉱に就職します。月給は100円、これも破格の待遇でした。当時日本一の大企業であった三井銀行に入った池田成彬の初任給は30円、武藤山治のそれは25円です。会社の上役は桃介に向かい、60円は福沢家への支払いだ、と皮肉を言います。その通りでしょう。会社経営は不振でした。薩長藩閥人事で、経営に専念する有能な人物がいません。高島嘉右衛門(後に高島易断を創始)が社長になりました。この人は占いで経営します。びっくりするような話ですが、この種の逸話は時々あります。桃介は占いで姓名が宜しくないと判断され解雇されます。後に復職できますが。
 妻の房子が諭吉に嘆願して、桃介は東京支店勤務になります。石炭販売が主な仕事でした。パ-フォ-マンスは派手、頭と気分の切り替えは素早い、加えて図々しい桃介は販売には最適でした。販路をどんどん広げます。それまで九州炭の独壇場であった名古屋市場を北海道炭の方に引き寄せます。香港にまで石炭を売り込みました。日清戦争で輸送船が徴用されます。困った桃介はノルウェイ船をチャ-タ-してしのぎます。外国船のチャ-タ-は桃介が第一号です。一方内緒で福田商店を経営しました。社員一名を雇い、火災保険と黒ビ-ルを主として扱います。多分石炭の方にも手を出していたのでしょう。八面六臂の活躍ですが、過労で倒れ喀血します。結核です。当時の結核は死に至る病でした。1994年、桃介が27歳の時のことです。
 入院中桃介は考えます。激しい労働はできない、体をあまり動かさずにできる商売は何かと考えます。答えは株式売買、いわゆる相場です。徹底的に研究し、貯金3000円を100000円にまで膨らませます。彼の相場での成功は、売り買いの速さと見切りの良さにあるといえます。見切りとは売り時の判断です。桃介の性格には冷徹さとある種の虚無性がありますから、他人にはできない、見切りの良さ、つまりとことんまで儲けようとしないで、山の六・七合目でさっさと引き返す行動は、他人よりしやすかったでしょう。しかし私は、実際はかなりな程度、現在で言うインサイダ-取引があったとにらんでいます。事実株で大儲けして生涯を全うできた人はいません。無事に人生を送ろうと思えば、適当なところで足を洗わなければなりません。大阪の岩本栄三郎や山一證券の大田収は、神様と言われましたが、最後は自殺しています。野村證券の生みの親である野村徳七は、銀行を作った時実弟から、兄さんは相場を張るから経営陣に入らないでくれ、と釘をさされています。
 ただ桃介がただものでないところは、相場に手を出したのは、結核療養中以後の5年間と後は日露戦争前後の1年だけです。儲かる状況の判断が的確だったといえます。勝てない戦いには手を出しません。しかし相場師の名称をえた桃介は、逆に相場嫌いの諭吉の不興を買い、両者の仲はややこしくなります。療養は幸運なことに短期間ですみ、入院8ヵ月後退院します。退院して義兄にあたる三菱財閥の実力者、中上川彦次郎の紹介で王子製紙に役員として務めます。視察にやってきた井上馨の不興を買い、解雇されます。就職早々で製紙に関して何も知らず、井上の質問にほとんど答えられなかったからです。井上はこれを自分に対する無視侮辱と受け取りました。井上馨という人物は人の面倒見は良い人物です。しかし徹底的に自分の意に従わせようとします。そして極めて復讐心が強い。桃介のような人物とは気が合いません。多分桃介もふてくされた態度で応対したのでしょう。
 1899年31歳、桃介は株で儲けた資金で、自前の会社を作ります。丸三商店です。諭吉も出資しました。慶応の後輩松永安左エ門を相棒に引き入れます。二人とも諭吉ゆかりの人物ですが、諭吉の教えに背くことはへっちゃらで、学問には身を入れない、女好き、遊び好き、相場好き、しかも無制限ときています。心配した諭吉は丸三商店に自分の意向を理解している者を社員として送り込み、桃介・安左エ門の行動を密かに監視します。アメリカの商社から満州の北清鉄道建設に使う木材20万円分の輸出の仲介という話が丸三商店に来ます。米国商社は一応丸三の信用調査を興信所に依頼ます。興信所の所長は諭吉の弟子でした。所長は諭吉にお伺いを立てます。諭吉は桃介のやり方に不満でした。商売上手の桃介に対する嫉妬もあったかも知れません。そして桃介夫婦の仲もしっくりとゆかず、妻の房子は父親諭吉に始終愚痴をこぼしていました。諭吉の不興は所長にすぐ伝わります。こうして興信所は「丸三商店の信用度はゼロ」という衝撃的な報告をします。また桃介がつなぎ融資を依頼した三井銀行も断ります。三井銀行の実力者は諭吉の女婿であり桃介の義兄に当たる中上川彦次郎です。ここにも諭吉の意志が働いていたようです。桃介は義父と義兄そして慶応人脈から裏切られます。そして再び喀血します。幸い病気は短期間で回復し、桃介はまた北海道炭鉱に勤めます。やがて日露戦争。この時期に乗じて相場をはり、300万円の大金を手中にします。
 1909年、41歳松永安左エ門のたっての懇請で、桃介は福博電気軌道に出資し社長に就任します。実質的な社務は専務の安左エ門が取り仕切ります。翌年の1910年、経営不振の名古屋電燈の経営を依頼され引き受けます。桃介も安左エ門も電力事業と石炭には関係が深く、また桃介の資産は有名でしたから、経営を依頼されたのでしょう。しかし株売買による会社乗っ取りを疑われ、また名古屋閥の狭量さに嫌気がさして、桃介は半年で経営からおりています。2年後再び請われて、名古屋電燈の株の半数以上を握り、社長になります。桃介が名古屋電燈に執着したのは木曽川の水力に魅力を感じたからです。木曽川の水量は豊富、流れは急峻、そしてなによりも消費地名古屋に近い、また京阪神もそう遠くはありません。桃介は名古屋電燈を関西電気と改称し、木曽川の水利権をこの会社で握り、関西方面へ電力を送るために大阪送電を造ります。そしてこれらの諸会社を合併させて、大同電力を設立し、社長におさまります。事業のほとんどは安左エ門と二人三脚で行われました。安左エ門も、地元の九州と関西・名古屋の電力会社を合併させて、東邦電力を作ります。安左エ門は東京電燈(東京電力の前身)の筆頭株主でしたから、桃介と安左エ門の両名で日本の電力の70%近くを支配下に置いたと思われます。彼らから完全に独立していたのは宇治川電力(後の関西電力)とその子会社に相当する、日本電力くらいのものです。日本電力は北陸方面の電力を開発し送電する目的で、宇治川電力により設立されました。こうして日本の電力業界は、東京電燈、大同電力、東邦電力、宇治川電力、日本電力の5社に集中されてゆきます。この間代議士になり3年間勤めています。1928年60歳、事業から引退し後身に道を譲ります。1938年(昭和13年)死去、享年69歳でした。桃介の終生の事業は木曽川大井発電所の建設でした。1000万円を投資したところで、関東大震災が起こります。融資が行き詰まります。桃介は渡米して外債を募ります。2800万円の債権はすべて外国で売りさばけました。民間で外資を使ったのは桃介が最初です。
 養父の諭吉とは終生確執していました。諭吉が特に桃介を憎んだのではありません。両者は思想心情において異なります。諭吉には社会主義的傾向があり男女同権論者でした、桃介は自由競争を重んじ富国強兵に傾き、女は抱くものという考えです。妻の房子との折り合いは悪くなります。房子は子煩悩の諭吉を敬愛し、したがって親離れができていません。桃介と房子の仲は冷えて行きます。諭吉はそういう桃介を許せなくなります。共通点もあります。その一つが、けちなことです。
 桃介は浪費を防ぐ心がけを説いています。以下参照。
必要以外のものを買わない。
小買いする。
手元にある金額は貯金し、使うに際し苦痛を感じやすくする。
金を使うときには、その状況を考える。
大金は考えずに使ってもいいが、小さい金は綿密に注意して使う。
(この意味は読者の方で考えて下さい)
桃介は昭和初年度の日本経済を評して以下のように言っています。日本には農業を中心として労働力が過剰だ、だから新しい産業を育成するしか不況から抜ける方策はない。この方向がダメなら外国資本を輸入するべきだと。現代でも通用する意見です。大所高所からものを見ています。
 福沢桃介の人生と事業を語るに川上貞奴の存在は欠かせません。貞奴は1871年(明治4年)の生まれ、生家が没落して芸妓置屋浜田屋に入ります。日舞に優れ、美貌で才色兼備の名妓として有名になり伊藤博文や西園寺公望にひいきにされます。23歳川上音二郎と結婚します。アメリカ公演中、女形が急死し、貞奴が代役を勤めます。以後舞台女優になります。日本の近代演劇での女優第一号です。経済観念が全くない夫音二郎に苦労して仕えます。1911年、貞奴40歳の時音二郎は死去します。この時から桃介との旧情が復活します。桃介が慶応在学時、乗馬中に野犬に襲われた貞奴を助けた事から、二人は恋仲になります。もっとも野犬云々の話は音二郎との縁であったという説もあります。桃介が福沢家と縁組したので、貞奴は去ります。木曽川大井発電所建設中は、両名は常時一緒でした。馬に乗る貞奴の真紅のシャツが有名でした。名古屋市内に二葉御殿を造り二人は住みます。そこは政界財界の名士のサロンになりました。「双葉」とは極めて暗示的な名称です。桃介の死去まで二人は恋愛感情を抱き続け、それを楽しみました。桃介夫妻の仲が冷え切るのは当たり前です。貞奴、1946年(昭和21年)75歳で死去、「奴」の名は東京の妓界では伝統ある名だそうです。
  参考文献 鬼才福沢桃介の生涯

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