経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

 経済人列伝 鴻池善右御門

2009-07-29 00:54:55 | Weblog
   鴻池善右衛門

 鴻池と言えば大阪では知られた金融資本です。精確には、でした、と言うべきでしょう。幕末までは日本一の金持ちと言ってもさしつかえない商人でした。鴻池家は4代目から当主は隠居するまでは「善右衛門」を名乗ります。ですからここで鴻池善右衛門と言う場合は、個人と言うよりむしろ集合名詞を意味しています。
 鴻池家の先祖は戦国時代の豪傑山中鹿之助幸盛に遡ります。山中家は宇多天皇を始祖とする源氏です。まあこの系譜は三井家のそれよりは確かでしょう。鹿之助は山陰の雄尼子氏の家老でした。尼子と毛利が中国地方の覇権をかけて争い、尼子は敗れます。鹿之助は主家の再興を願って東奔西走します。1577年上月城で毛利の大軍に囲まれ、同盟軍である羽柴秀吉からは見捨てられ、尼子勝久は自刃し、降伏した山中鹿之助は謀殺されます。
 鹿之助の長男、新六幸元は摂津伊丹在の鴻池に住み、酒造業を営みます。武士から商人に転向しました。鴻池は「国府の池(こふのいけ)」というくらいの意味で、律令制の頃には攝津国府が置かれていました。私はそこから近いところに住んでいますが、六甲山系に西端にあり六甲水が出て酒造りにはいいところです。鴻池の酒が清酒の元祖だとも言います。それまではみな、濁酒を飲んでいました。評判が良いので酒を江戸に送ります。はじめは陸路、馬の背で、やがて海路を取るようになります。現在の大阪市内九条あたりから自前の船で運びます。帰りの船にも荷物を積む事が多く、海運業にも進出します。主として西国の大名の藩米を運んでいました。畿内の酒を関東に送ったのも、鴻池の酒が濫觴(もの事の始まり)だともいわれています。ともかく鴻池の酒は非常に美味くて評判が良かったのでしょう。
 新六幸元の子が善右衛門正成です。彼を鴻池の初代とし、幸元を始祖とします。この前後から両替にも進出します。両替商の方が儲かるのでしょう、段々海運業からは手を引きます。正成の子の代には両替一筋になりました。大資本の両替商は本両替と言いました。仕事は、金銀売買、貸付、為替取り組み、手形振り出し、預金などです。金銀売買は金貨と銀貨の交換です。大阪商人は江戸へ商品を送り、江戸から金貨(小判)で支払いを受けます。大阪では金貨はあまり通用しません。銀貨(丁銀、五モンメ銀)と交換します。この時金1両を銀に換金する手数料が、1モンメでした。金1両は銀50-60モンメに相当します。(付 1モンメは3.75グラム)ぼろい儲けです。
 貸付には大名貸しと商人貸しがあります。両者とも年利はだいたい10%前後以上でした。大名貸しは踏み倒しの危険があり、リスクの高いものです。潰された商人も沢山います。金額が大きいので利も大きい、一種の賭博でした。こういう中鴻池は生き残るどころか、繁栄します。大きいところは潰せません。現在で言う、too big to fail,です。江戸中期、融通した藩は32藩になります。苗字帯刀と殿様へのお目見えを許され、町役を免除され、扶持米ももらいます。鴻池本家だけで合計1万石を扶持されていたと言いますから、小大名並みです。大名貸しでは元本を返してもらおうと、貸す方は思いません。ずっと利子だけ頂くのです。10年すれば元は取れます。経済学で言うコンソル公債みたいなものです。
 商人貸しもしました。大阪の商人は余った金は必ず両替商に預けました。信用を得るためです。そして預金には利子はつきません。借りると利子を取られます。1704年、鴻池の貸付残高は約15000貫(17-20を掛ければ小判の数が出ます)、内大名貸しは74%でした。
 手形には預かり手形と振り出し手形がありました。預かり手形は預金の証明書で、これはそのまま貨幣として流通しました。大資本の両替商への信用がものを言いました。ある商人が物を売ったとします。その代金を両替商が支払い、商人はその旨の手形を出します。当時(江戸時代中期以後)事実上の手形交換機能はありましたから、両替商はこれを江戸からの手形と相殺すればいい事になります。
 鴻池は十人両替に任命されていました。お上が信用できる大資本の両替商です。彼らは大阪にある諸藩の蔵屋敷の蔵元になり、藩米の売買を代行しました。江戸からの為替(商品の支払い)は(藩米を売った)金の送金用の為替で相殺されます。三井の場合と同じです。三井は幕領の米を主として取り扱い、鴻池は諸藩の米を取り扱っただけの違いです。大阪の経済力と江戸の政治力の交換とも言えます。
 以上の作業は両替商個人の商いですが、両替商はもっと公的な機能も果たしていました。果たすべく強制されたと言う方正しいかもしれません。まず新旧金銀の引き換えがあります。これらはすべて巨額な資本を持つ両替商を介して行われました。金銀市価の調整もあります。金の価値が下がりすぎると、両替商の集団が金を買うのです。現在中央銀行がする為替価格への介入と同じです。事実当時の大阪と江戸は、一種の外国貿易を営んでいたようなものでした。さらに米価超調節もさせられます。米価が下がれば米を買えばいいのです。そして最後が御用金です。これには2種ありました。直接なんぼなんぼと指名される御用金と御買米といって、市価より高く米を買わされる仕事もありました。これで得た金を幕府は困窮した諸藩への財政援助にしたわけです。まあ所得移転です。天保14年ですから1840年前後、水野忠邦の改革の時、大阪商人は総額114万両の御用金をおおせつかります。内10万両が鴻池本家の負担分です。御用金はいやですが、皆が御用金を課されているのに、一部の商人が免れる事を免れた商人達は、御用金を支払う以上におそれました。あそかは、支払い能力が無いとお上が認めたようなものですから。信用不安に繋がります。幕末大阪商人が新撰組に支払った御用金は銀6600貫です。当時の新撰組はすでに藩のようなものでしたから。
 鴻池は徹底して金融資本に留まり続けますが、その中でやや異色な事は新田開発です。1704年から3年がかりで、中河内郡の湿地を開拓します。開発した総面積は約120町(ヘクタ-ル)、内田は36町、畑が81町、屋敷地が2町弱でした。分配は肥料代を収穫高の30%とし、残り70%のさらに30%を小作取り分、とします。総計で小作と地主である鴻池は51対49の比率になりました。鴻池はこの中から年貢を払います。残りが年の利潤になります。封建時代、産業の進展が抑えられると資本はどうしても土地と農業に向かいます。これを資本の脂肪化と言う学者もいます。
 1829年の富豪番付では東の大関が鴻池善右衛門、西の大関が加島屋久右衛門でした。当時の相撲では大関が最高位でした。鴻池は大阪一多分日本一の金持ちと民衆から認知された事になります。
 明治になり庶民にも苗字が許されます。この時鴻池は今橋と和泉町の2家のみ、鴻池の姓を許し、他の同族には山中氏を名乗らせました。維新後の明治10年鴻池は第13銀行を作ります。大正8年株式会社に組織変えして鴻池銀行になります。やがて他の銀行と合併して、三和銀行になり、平成不況でさらに東京三菱銀行に吸収合併されました。維新の時、藩が出していた債権は、例えば無利子で50年年賦で償還、というような具合にされました。これは事実上の借金取り消しです。この時72の藩に金を貸したいたのですから、鴻池としては大打撃です。また鴻池は金融(利食い)資本一本できました。三井のように呉服商」をするでもなく、住友のように銅山を経営するでもありません。金融以外の商業や産業への経験がなかったのです。また人材にも事欠きました。住友の広瀬宰平、三井の三野村利左衛門、益田孝、中上川彦次郎のような人材が輩出しませんでした。こうして鴻池は金融資本の名門というある種の貴族になり、経済への影響力を失ってゆきます。しかし資本が生き残るのは簡単ではありません。大阪には住友や鴻池の他、加島屋、平野屋、天王寺屋などの富豪がありました。また東京には三井以外に小野組、島田組などの資本がありました。しかし彼らは没落します。私が属している参議院選挙区から鴻池の名称を持つ人が参議院議員として出ておられます。多分鴻池家の方だろうと、思っています。

 参考文献
  鴻池善右御門   吉川弘文館

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