経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

景行天皇、成務天皇そして仲哀天皇

2009-10-25 14:11:49 | Weblog
  景行天皇と成務天皇および仲哀天皇

12代景行天皇記の内容の大部分は征戦です。古事記はこの記述を徹底して日本武尊個人の生涯に託して、描きます。対して日本書紀では日本武尊の記事はほぼ同一ですが、その前後で天皇ご自身の軍事行動も客観的に述べています。当然なのでしょうが、天皇の行動の記載は編年的であり散文的です。ここではまず日本武尊の行為を述べ、ついでそれをもう少し違う視野から眺めてみましょう。
景行天皇は垂仁天皇の皇子、和風では、おおたらしひこおしろわけのすめらみこと、と申し上げます。天皇の多くの皇子の中に、おおうすのみこと、おうすのみこと、という双子の兄弟がいました。みそめた女性を後宮に連れてくるよう、天皇はおおうすのみことに命じられました。おおうすのみことは、かの女性を欲しくなり、自分のものにしてしまいます。そのせいかどうか、おおうすのみことは朝夕の会食をさぼるようになります。会食は古代においては、重要な儀式であり、会食に参加する事は天皇への忠誠の証でもありました。天皇は弟のおうすのみことに、兄を連れてくるように命じられます。何日たってもおおうすのみことは現れません。おうすのみことに天皇が事情を聞かれますと、おうすのみことは、便所に入るところで待ち構え、手足を引き裂いて、こもに包んで捨てました、と平然として答えます。
おうすのみことの豪強というより乱暴に驚かれた天皇は、おうすのみことに、熊襲たける(九州の熊襲の頭目二人)の征討を命じます。熊襲とは現在の熊本県南部の地名です。おうすのみことは、熊襲に着くと女装して兄のたけるに近づきます。宴たけなわになった時、おうすのみことは短刀で、たけるの首から胸にかけて突き刺します。逃げる弟のたけるも突き殺します。兄のたけるは、おうすのみことの素性を尋ねます。そして、今までは西方の地域で我々二人に優る強者はいないと思っていました、その私達に勝った貴方に新たな名前を差し上げましょう、と言い、日本武尊(やまとたけるのみこと)の尊称を奉ります。
日本武尊は出雲のたけるも征伐します。これはペテンです。川で水浴していた出雲のたけるの刀を木刀に変えておいて、たけるに挑戦します。たけるは簡単に切られます。日本武尊はペテンにかかって負けた敵をあざ笑います。ここで「たける」とは「猛る」つまり荒々しい者・強者豪傑一般に与えられる普通名詞です。またこの言葉には指導者・頭目という意味もあります。やまとたけるのみこと、は大和の強者であり、熊襲とか出雲などの地方を越えた 日本全体の強豪である事、を意味します。
大和に帰った日本武尊はすぐ東国への征戦を天皇から命じられます。みこと(尊)は途中伊勢の斎宮である叔母、倭姫を訪ねます。この時みことは、天皇は自分が死ぬ事を願っている、と泣きながら訴えます。日本書紀ではこのような物語的・情緒的なくだりはありません。倭姫はこの時みことに、剣と袋を与えます。相模国(書記では駿河国)で土地の豪族である国造(くにのみやっこ)の謀にかかり、野原の中で焼討ちにあいます。この時みことは叔母からもらった剣で草をなぎ払い、同じく叔母から与えられた袋を開けて火打石を取り出し、草に火をつけて向火を放って敵をやっつけます。この故事から剣は、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれました。三種の神器の一つとして、名古屋の熱田神宮に奉納されています。三浦半島と房総半島の間の海峡、走水の海を渡る時、海は荒れます。海神の怒りをなだめるために、妃である弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が入水します。関東を平定して西に向かう時、みことは碓氷峠から関東の地を見下ろし、弟橘姫を偲んで、あづまばや、と言います。あづまとは吾妻、つまり私の妻、の意です。ここから関東の地を東(あずま)と呼ぶようになったと言われます。甲斐国(山梨県)の酒折宮で、火の番をする老人と歌を交換します。これが連歌の始まりになったと後世の連歌師達は言います。尾張ではみやずひめと結ばれます。草薙の剣を姫のもとにおいて伊吹山に向かいます。山の中で牛ほどもある大きな白い猪(書紀では大蛇)に出会います。これは山の神でした。山の神は大氷雨を降らします。それがもとでみことは病気になります。伊勢国の三重村まで来た時みことは、私の足は三重に曲がってしまった、と言います。さらに進んで能煩野(のぼの、現在の鈴鹿市周辺)に至り、ここでそれ以上進めなくなります。みことはすぐ隣にある大和を偲んで、
倭は 国のまほろば たたなずく 青垣 山こもれる 倭しうるわし
と歌います。日本書紀ではこの歌は景行天皇が九州に遠征された時日向国で故郷を偲んで歌われた歌となっています。日本武尊は能煩野で亡くなります。その地に葬られますが、この御陵から一羽の白鳥が現れ、大和の方へ飛んで行きます。白鳥は河内国(大阪府)磯城に留まります。この地にも陵が造られ、白鳥の御陵と言われます。日本書紀では享年30歳となっています。
 以上が古事記による日本武尊の征戦の記述です。この記述ではみことのみが征戦を遂行した事になっていますが、日本書紀の記載は違います。九州遠征はまず景行天皇が行われ、再び反乱が起こったので未だ青年にも達しないおうすのみこと(日本武尊)が派遣された、と書かれています。また天皇とみことの関係も決して悪くはなく、大王と将軍の信頼できる関係が述べられています。命の死後天皇は、大切な武将を失って以後征討戦をどのように行えばいいのか、と歎かれています。命の死後、天皇ご自身が東国に遠征されています。天皇の征戦は日時と場所の記載の連続で、ロマンに欠けます。が、次の話はなかなか興味をそそられます。熊襲たけるを征伐される時、天皇はたけるの娘を騙して寵愛される振りをされます。娘は父親に酒を飲ませます。酔った時、娘と同行していた天皇配下の兵(つわもの)がたけるを殺します。娘は父親を裏切ったとして天皇に殺されます。ここのくだりは、ギリシャ神話のメディアの物語に似ています。また娘と兵を併せた像を作れば、古事記の日本武尊の像になります。
 日本書紀の景行天皇記では、日本武尊の記事が古事記とほぼ同様の形で真中に置かれ、前後が天皇の九州と東国への遠征の記述になっています。
 13代成務天皇(和名、わかたらしひこのすめらみこと)の記述はまことに短く内容も乏しいのが目立ちます。記紀ともに、記載は10行に達しません。内容としては武内すくねを大臣(おおおみ)に任命した事くらいです。もっとも大臣職の設定は統治にとって重要な事ではあります。ちなみに武内すくねは景行天皇の子供ですから、成務天皇にとっては異母兄弟になります。武内すくねは以後代々の天皇に大臣として仕えます。
 14代仲哀天皇記の事実上の主役は神功皇后です。肝心の天皇の行為はわずかばかりです。仲哀天皇が熊襲を征討されるために九州に行かれます。ここで夢を見られます。夢のお告げは、なにも熊襲などの辺境に行くより、海の彼方に肥沃な土地があるではないか、それを征討して領土とせよ、でした。天皇は岡から海を眺められて、何もないじゃないか、変なお告げだなあ、と夢告を無視されます。その夜天皇は頓死されます。夢告の実行は天皇の妻である神功皇后に引き継がれます。仲哀天皇は日本武尊の子供です。
 景行・成務・仲哀天皇記の特色から推察しますと、まず成務天皇の実在が疑われてきます。もう少し想像をたくましくしますと、三輪王朝の景行天皇の事跡に後の河内王朝のそれが混入されているとも言えましょう。この事は応神天皇と仁徳天皇について述べる時振り返ってみましょう。

1 コメント

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真の神域 (三浦祐之)
2017-02-11 19:58:39
 古代日本において王権という場合に、天皇制が唯一の王権であるとして、王権論は天皇制の問題として論じられることがほとんどである。あるいは、天皇制は日本の特殊な制度としてあり、王権とは区別すべきだというふうに論じられることもある。その場合には、どこがどのように本質的に違うのかということを厳密に論じてゆく必要があるわけで、ここではその問題を措いていえば、古代天皇制の基本的な構造は一般的な王権と同じものだったはずだと認識してよいのではないかと考えている。もし天皇制が他の王権と違うとすれば、古橋信孝がいうように、「この世におけるさまざまな責任から免れうる位置」に立つための「祓え」という祭祀体系をもったことなのかもしれない(「王権と天皇制」)。しかし、すでに王権の段階で、具体的な祭祀実行者である巫者と王とが分離し、王が血筋によって継承される存在であったとみれば、そうした体系は何らかの形で、すでに王権の段階にも現れていたはずなのである。
 古代国家の統一により天皇は唯一の支配者となり、それぞれの在地豪族たちは古代天皇制のなかに組み込まれていったのだが、それ以前には、彼らもまた王あるいは首長として存在していた段階があったはずで、天皇制こそが古代日本の唯一の王権であったと考えるべきではない。そうでありながら、我々が目にすることのできる文献、記紀や風土記によると、すべての民や土地は天皇家に隷属するものとして整序され、唯一の歴史であるところの天皇家に隷属する存在として中央や地方の豪族たちはいる。古代天皇制はそれだけ強固な制度を確立していたということになるのだが、それでも、注意深くみてゆけば渾沌とした前代が見えてくるのである。
 いうまでもないことだが、王権が確立し存続し、王あるいは天皇が恒久的な支配権を保証されるためには、その制度を支えるための構造をもたなくてはならない。それは、具体的には、神話をもつことであり、シンボルとしての神宝をもつことであり、血筋を保証する系譜をもつことであり、人々の生活を可能にする呪的な力能をもつことであった。
 始源的な共同体にその共同体を統括する者が発生する段階を想定していえば、その統括者は、首長としての権力を持つとともに呪力を行使できる者だったはずである。つまり、首長=シャーマンであることが共同体を統括する力だったのであり、その首長が王になる段階が、王権の発生する時であった。そして、そこで王とシャーマンの役割は分離し、両者は別の存在になってゆくのである。
 王は、天皇の場合もそうだが、王権の成員一般とは区別された存在でなければならない。だから、多くの場合に王は神の子として幻想されてゆく。神に繋がる者であることにおいて、王あるいは天皇は存在自体として擬制的な共同体=国家を統括する力をその内部に保証されるのである。王あるいは天皇が宗教的な存在であるのはそのためである。そして、その王の力は、具体的には神話や系譜や神宝によって示される。どのような神から生まれ、どのような歴史によって王となり、代々の王はどのように繋がり、他の人々とはどのような関係性をもつかというふうな秩序が、系譜や神話として語られるのである。それが共同体全体の成員にとって確かな幻想になるために、神話や系譜は語り継がれなければならず、そこに、語部という制度化された存在が要請されてくる。語部は、王と分離された巫者的存在であった。彼らは人間の言葉ではない神の言葉を、神の立場で伝えることのできる力をもたなければならないのであり、だからこそ巫者的な存在でなければならなかったのである。たとえば、出雲国風土記意宇郡安来郷条にみえる語臣一族は、そうした王権に隷属する語部の性格をよく示している。
 また、神宝は人である王が神の子孫になるための呪具であり、語り継がれる神話や系譜の事実性を保証するための証拠である。天皇家に受け継がれる三種の神器だけが神宝だったのではない。日本書紀の崇神天皇六十年条・垂仁天皇八十八年条あるいは肥前国風土記彼杵郡・豊後国風土記速見郡などに、もともと王として存在していたであろう在地豪族が自らの神宝を天皇に献上するという伝承が伝えられており、その背後に古代王権の存在が暗示されている。そして、それらの神宝献上譚は、前代の王権が天皇制のもとに吸収解体されてゆく、その象徴的な神話であった。また、諸国の語部が古詞を奏上する天皇の即位儀礼としての大嘗祭は、それらの王権がもっていた神話や系譜を捧げて天皇への服属を誓うための神話的な場でもあったのである。

〔参考文献〕古橋信孝「王権と天皇制」(現代のエスプリ別冊『天皇制の原像』至文堂 一九八六年)、三浦佑之「王権の発生」(同前書)、赤坂憲雄『王と天皇』(筑摩書房 一九八八年)

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