たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

(5) 信濃の旅 佐久間象山そして象山地下壕へ

2016年07月25日 | アウトドア
続き



佐久間象山

松代藩士・佐久間一学の長男として文化8年(1811)に生まれる

23歳

江戸・佐藤一斎の塾に入門 詩文、朱子学を学ぶ

渡辺崋山・藤田東湖等と親交 3年で帰藩し藩の子弟に経書や漢学を教える

この頃、啓之助を地名の象山に改名

29歳

江戸お玉が池に象山書院を開く

36歳

帰藩し湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力し

大砲、電信機等の製作、実演をする

41歳

江戸木挽町に塾を開き勝海舟・坂本竜馬・吉田松陰・橋本佐内など維新の英才を輩出

ペリー来航国論沸騰の際、軍議役として横浜警備に当たる

開国論を唱え横浜開港を主張する

(ペリーは頭を下げる人間では無かったが象山だけには一目置いたと言う)

松陰密航事件で「若い者が外国へ学びに行こうとするのを勤めて何が悪い」と述べ

連座する形で投獄される

44歳

9年間、松陰に塾居される

この間、高杉晋作・久坂玄端・山形半蔵・中岡新太郎・石黒忠憲等が訪れ時世にについて激論


54歳

元治元年(1864)幕府の命で京都に上る

将軍家茂・一橋慶喜・山階官・中川官に公武合体開国を説いて活躍中

7月11日三条木屋町高瀬川沿いで攘夷派の河上彦斎の槍石となり非業の最後を遂げる

そして4年後明治維新の世を迎え象山の尊皇開国と言う憂国の至情が

そのまま具現されたのでした





象山お屋敷跡

象山、暗殺後 佐久間家は断絶し松代の屋敷も没収され建物も解体され

当時を偲ぶ事が出来るのはは井戸と長い塀のみとなってしまいましたが

敷地877.8㎡には母屋のほか槍・剣術道場・学問所・硝石製造土置き場が有ったそうです

こんなエピソードも有ります

子供の頃、目が異様に輝いていたためテテッポウ(ふくろう)という綽名を付けられていたとか

確かに肖像画で見る象山の目には鋭さが有りますよね

そんなテテッポウ少年は少々傲慢な面も有り藩に仕得る様になっても治まらず

家老に対しても食ってかかる場面も有り

長者に対して不遜で有るとそれが藩主・真田幸貫の逆鱗に触れ閉門を命じられた事も有った様です






象山地下壕の近道を川に沿って歩いて行きますと左に山寺常山邸が有りましたので寄ってみました

山寺常山は佐久間象山・鎌原桐山と共に松代の三山と称えられました

8代藩主真田幸貫信望も厚く藩政にも尽力した人物だそうです

現在は休憩所になっておりました






やって来ました松代象山地下壕です

係員の説明では天皇陛下を匿う為の壕であり風呂場まで計画されていたとのことでした

偶然にも後日、練習にやってきたお弟子が

「皇居の下には地下道が有るんですってね」と話していましたので詳しく聞きましたところ

その地下道の向かう先はどうやら長野県方面との事でした

それでガテンがいきました

松代は岩盤が固いため此処に大本営を置き皇居を移す計画が極秘の内に薦められていた様です

説明に寄れば天皇の部屋も風呂も作る予定だったそう

私達が見学した地下壕と皇居までを地下道で繋ごうとしていたのでしょうか




中は電灯は設置されているものの足元は殆ど見えません

しかも道が整備されているのは入口から数十メートル

当時のままなの荒削りの道が奥へ奥へと伸びています

私達は途中で引き返しましたが、とても回りきれるものでは有りません

今にして思えば随分無駄な事をしたものと言うのが感想でした






時刻は1時を回りましたがそれ程空腹も感じませんでしたので

手前に有ったお蕎麦屋を飛ばして象庵という喫茶で軽食を取る事に

店内に飾られた100体は超える小さな紙人形がいいですね

御夫婦共に感じの良い寄って良かったと思える茶房でした




私達は再び城下町の色濃い通りをノンビリ歩いて真田邸へと足を向けました

政治とは人で決まるものなのです

その才を有するものが一人おりますれば一国の政治は一気に好転致しましょう

(佐久間象山)

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コメント (14)
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