たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

有りがたや梅雨明け

2016年07月30日 | 自然
突然の梅雨明けにあっちでもこっちでもモソモソと


あっち向いてホイ こっち向いてホイ




♪ みんなみんな生きているんだ友達なんだ

ご存知ですか? オケラ

今は余り見かけなくなりましたが絶滅してはいなかったんですね

手の平を太陽に~とかざすスタイルは

僕は一文無し、お手上げよォと意思表示している姿なんだって

それはまるで私じゃない


雨が好きなカエルも偶には日光浴

くれぐれも熱中症にはご用心!


♪ 貧しさに負けた~、いえ天気に負けた~

でも言ってます

力の限り踏ん張ったから未練などないわ


日本一辛い唐辛子




ピーマン


梅雨明けは我が家の畑に恵みをもたらします

人間の幸せってこんな時なんですね

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関東地方・梅雨明け・・・でしょうか?

2016年07月28日 | 日記
関東地方の梅雨明けが本日発表されました

本当に?


榛名山はちょっとだけ


赤城山はオヤ~どこにお隠れ?

気象庁さん、ここも関東なのですが・・・


天気予報を他所に狐のカミソリが咲きました

今年、九州の友人に戴き二ヶ所に分けて植えたところ葉が融けてしまい半ば諦めていましたが

ふと気づけば見事に

取り敢えず一本は根づいてくれました

来年が楽しみです

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(6) 信濃の旅・最終章  真田城下を歩く

2016年07月27日 | アウトドア
続き


象山地下壕を後に向かった先は旧樋口家住宅でした

樋口家は藩の目付役を勤め江戸時代末期には禄高230石だったそうです




昔の家は心が和みますね






此方は真田のお殿様の邸宅

真田邸は江戸時代末期に9代藩主、幸教が母・貞松院の隠居所として建てたもので

明治維新以降は真田家の私邸として使われていました

オッこの方は?

「撮影料300円頂きます」と冗談を言った、チョンマゲおじさん

観光客の一人でした



、、



部屋は用途によって造りや大きさ、唐紙や装飾などに違いが有るとの事ですが

結構、斬新な模様の唐紙ですよね




「水心秋月亭」と名付けられた庭園は狼煙山などの山を借景に奥行きの広さをみせています




この像は窮乏した藩を立て直した恩田木工民親(おんだもくたみちか)

上杉鷹山を何処か彷彿とする人物です

  



最後に向かった先は真田宝物館

寿三郎が作った真田人形のみ撮影は許されましたが後は撮影禁止です

古文書や武具、調度品など多数陳列され真田家の歴史を肌で感じる事が出来ました

像は真田家12代最後の藩主真田幸治氏です

S41年、代々に伝わる大名、道具類などを当時の松代町に寄贈されたため

後に目出度くこの真田宝物館が建てられたという訳ですね




帰路は志賀高原から帰る事に致します

火山活動がレベル2となった為、午後6時から翌午前8時までは草津へ抜ける事は出来ませんので

私達は鹿沢温泉経由(有料1100円)で帰りましたが

眺める白根山は本当に危険なのだろうかと思う程、静かな佇まいでした

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(5) 信濃の旅 佐久間象山そして象山地下壕へ

2016年07月25日 | アウトドア
続き



佐久間象山

松代藩士・佐久間一学の長男として文化8年(1811)に生まれる

23歳

江戸・佐藤一斎の塾に入門 詩文、朱子学を学ぶ

渡辺崋山・藤田東湖等と親交 3年で帰藩し藩の子弟に経書や漢学を教える

この頃、啓之助を地名の象山に改名

29歳

江戸お玉が池に象山書院を開く

36歳

帰藩し湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力し

大砲、電信機等の製作、実演をする

41歳

江戸木挽町に塾を開き勝海舟・坂本竜馬・吉田松陰・橋本佐内など維新の英才を輩出

ペリー来航国論沸騰の際、軍議役として横浜警備に当たる

開国論を唱え横浜開港を主張する

(ペリーは頭を下げる人間では無かったが象山だけには一目置いたと言う)

松陰密航事件で「若い者が外国へ学びに行こうとするのを勤めて何が悪い」と述べ

連座する形で投獄される

44歳

9年間、松陰に塾居される

この間、高杉晋作・久坂玄端・山形半蔵・中岡新太郎・石黒忠憲等が訪れ時世にについて激論


54歳

元治元年(1864)幕府の命で京都に上る

将軍家茂・一橋慶喜・山階官・中川官に公武合体開国を説いて活躍中

7月11日三条木屋町高瀬川沿いで攘夷派の河上彦斎の槍石となり非業の最後を遂げる

そして4年後明治維新の世を迎え象山の尊皇開国と言う憂国の至情が

そのまま具現されたのでした





象山お屋敷跡

象山、暗殺後 佐久間家は断絶し松代の屋敷も没収され建物も解体され

当時を偲ぶ事が出来るのはは井戸と長い塀のみとなってしまいましたが

敷地877.8㎡には母屋のほか槍・剣術道場・学問所・硝石製造土置き場が有ったそうです

こんなエピソードも有ります

子供の頃、目が異様に輝いていたためテテッポウ(ふくろう)という綽名を付けられていたとか

確かに肖像画で見る象山の目には鋭さが有りますよね

そんなテテッポウ少年は少々傲慢な面も有り藩に仕得る様になっても治まらず

家老に対しても食ってかかる場面も有り

長者に対して不遜で有るとそれが藩主・真田幸貫の逆鱗に触れ閉門を命じられた事も有った様です






象山地下壕の近道を川に沿って歩いて行きますと左に山寺常山邸が有りましたので寄ってみました

山寺常山は佐久間象山・鎌原桐山と共に松代の三山と称えられました

8代藩主真田幸貫信望も厚く藩政にも尽力した人物だそうです

現在は休憩所になっておりました






やって来ました松代象山地下壕です

係員の説明では天皇陛下を匿う為の壕であり風呂場まで計画されていたとのことでした

偶然にも後日、練習にやってきたお弟子が

「皇居の下には地下道が有るんですってね」と話していましたので詳しく聞きましたところ

その地下道の向かう先はどうやら長野県方面との事でした

それでガテンがいきました

松代は岩盤が固いため此処に大本営を置き皇居を移す計画が極秘の内に薦められていた様です

説明に寄れば天皇の部屋も風呂も作る予定だったそう

私達が見学した地下壕と皇居までを地下道で繋ごうとしていたのでしょうか




中は電灯は設置されているものの足元は殆ど見えません

しかも道が整備されているのは入口から数十メートル

当時のままなの荒削りの道が奥へ奥へと伸びています

私達は途中で引き返しましたが、とても回りきれるものでは有りません

今にして思えば随分無駄な事をしたものと言うのが感想でした






時刻は1時を回りましたがそれ程空腹も感じませんでしたので

手前に有ったお蕎麦屋を飛ばして象庵という喫茶で軽食を取る事に

店内に飾られた100体は超える小さな紙人形がいいですね

御夫婦共に感じの良い寄って良かったと思える茶房でした




私達は再び城下町の色濃い通りをノンビリ歩いて真田邸へと足を向けました

政治とは人で決まるものなのです

その才を有するものが一人おりますれば一国の政治は一気に好転致しましょう

(佐久間象山)

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(4) 信濃の旅 松代藩・文武学校

2016年07月23日 | アウトドア

人間の記憶と言うのは当てにならないものです

ここも二度目なんですが・・・記憶が・・・(私の海馬に問題ありか)

(切符売り場では此処と宝物館、真田邸の共通券がお得⇒こういう事に対しては脳が良く働いてくれる)






「西序」では休憩時間か作業の手を休め女性が二人廊下(縁側)で憩っていました




先ずは文学所を見学します

説明によりますと当時の時間割は一日を午前8時から正午迄、午後2時から5時まで

講義の内容は素読、質問、講義の3つの分けられ

習熟度別に初等、中等、高等に分けて受講する仕組みになっていた様です

生徒の数はどのくらい居たのでしょう

部屋は勿論、廊下まで畳敷きですから、さぞや補修も大変だった事でしょうね


  
廊下が長い


天上が高い


一部屋一部屋の間取りが広い

全てがゆったりとした造りです


この部屋は「大名の間」ですが何故此処に大名の間がと言う疑問が湧きました

調べたところによりますと嘉永6年、藩主の屋敷である「花の丸御殿」が焼失した為

御殿が完成するまでの約1年間、仮の御用部屋として当てられていたのだそうです






服装の違いこそ有れ勉学に励む者の心は今も昔も変わりないに違い有りません

廊下に立って外を眺めていますと、そうした若者の意気揚々とした姿や声が聞こえて来る様でした

  



此方は弓術所です

的までの距離が短いのは主に女性が使用していた為であると掃除をしていた女性が教えて下さいました

弓術と言えば叔父が教えていた関係で私も少しばかり齧った事が有りますが

その叔父も他界し今はその弓道場も閉鎖されてしまいました




上は柔術所

下は槍術所ですが天井の梁が力強いですね

まさに文武両道の世界を垣間見させて頂き再び十万石の城下町に足を向ける事に致します

  

町には今もなお往時の面影を偲ぶ事の出来る建造物が多く点在していますが

この間口20m余りの長大な門もその一つ「白井家の表門(松代藩の中級武士)」です

この門を潜りますと観光客も一服する事のできるボランティアさんの休憩施設が有りました

お茶を入れて下さったので、ここでしばし歓談

「山の麓には象山地下壕が有りますので是非、行かれる事をお奨めします」

そう仰られましたので折角ですので足を向ける事に致しました


白井家表門の向かいに筝曲「真田八橋流」の看板を見つけました

真田八橋流と言えば姪の連れ合いの母親が

弟子入りしていますので演奏会を聴きに行った事が有りますが

符点を入れずにそのまま弾くと言う、いわゆる曲の流れを優しく表現する

手法を用いているのが特徴でしょうか

八橋流と言えば筝曲の名手「八橋検校」は有名ですね

明治になって継承者が途絶えてしまったものを復活させ伝承者となったのが「真田しん」でした

その後、娘の淑子が次ぎ現在は門下生による「八橋流筝曲保存会」により伝承されているとの事です


この長屋門は御国御取次後並び御聞番役等を勤めた藩重役の表門です


直ぐ先に象山神社が見えて参りました

ここで一息入れて教えて頂いた地下壕に向かいます

何の為の地下壕なのでしょう!

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