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共産論(連載第34回)

2017-05-19 | 共産論[改訂第2版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育
Chapter 6  The Aspects of A Communist Society (5) :Education

 共産主義社会では、社会に産まれ出た子どもたちは社会が育てる。そこでは、構想力と独創性を重視した義務教育と生涯にわたっていつでもやり直せる成人教育が充実するだろう。しかし、“洗脳”が不安?


(1)子どもたちは社会が育てる:All children are to be raised by society.

◇親中心主義からの脱却
 ドイツ憲法に次のような印象的な条文がある。

 子の養護及び教育は両親の自然の権利であり、かつ何よりも両親の負うべき義務である。その履行に際しては、国家共同社会がこれを監督する。

 この規定が印象的であるのは、それが資本主義国家における教育のあり方を明確に語っていると同時に、そこから抜け出す出口をも指し示しているからである。
 規定前段は、「子の養護及び教育」すなわち子の養育全般を両親の「自然の」権利及び義務であると宣言することによって、子の養育を私事化している。これは極端に言えば、子は親の私物―まさに「我が子」―と認めるに等しく、ここに子どもにまで及ぶ資本主義的な私有の観念がにじみ出ている。
 しかし、そうした両親の私事たる子の養育に対して「国家共同社会(の)監督」という形でクギを刺そうとするのが規定後段である。なぜそのようにクギを刺すのかと言えば、いかに子が両親の私物であるといっても親の勝手気ままを許したのでは、資本主義が婚姻家族に期待する次世代労働力の再生産機能が働かなくなる恐れがある。そこで「国家共同社会」は両親が我が子を勤勉な労働力―賃金奴隷―に育て上げてくれるように見張っていなければならないわけだ。
 以上はいささか毒気を含んだ“憲法解釈”であり、ドイツ国民にいささか申し訳なく思うが、筆者の真意はドイツ憲法を揶揄することにあるのではなく、むしろ先の規定後段を共産主義的教育への突破口としてとらえてみたいのである。
 結論から行くと、共産主義的教育は社会に産み落とされたすべての子どもたちの養育の権利と責任を、両親でなく「共同社会」―再三述べたとおり、共産主義社会に「国家」は存在しない―に認める。つまり、子どもたち(複数形)は社会が育てるということである。
 では、両親は?かれらは、個々の子ども(単数形)の言わば「製造元」として、共同社会による子どもたちの養育に協力する責務を負い、その限りで自ら作った子を成人するまで養護する権利という意味での親権を持つ。
 こうした構成は一見逆さまと思われるかもしれないが、元来養育の力量にばらつきのある親たちに養育の全責任を押し付けることが無理なのである。「児童虐待」や「育児放棄」は―通常は「虐待」に分類されないが、過干渉や過保護も同様―、そうした無理の悲劇的な現れにほかならない。
 女が妊娠した後に婚姻届を出す男女を「出来ちゃった婚」などと揶揄する風潮も見られるが、誰しも「出来ちゃったら親」である。親になるための特別な訓練も、まして免許試験もあり得ない。そして重要なことは、子は良い親を選んで産まれ出ることはできないということである。
 となれば、社会に産まれ出た子は基本的に社会が養育すべきだということも、見やすい道理と理解できるのではないか。ただし、この場合、社会は子どもたちを将来の労働力として養育するのではなく、何よりもまず社会的な「人間」として、そして社会の担い手たる素養を備えた将来の「市民」として養育するのではあるが。

◇義務保育制
 「子どもたちは社会が育てる」という共産主義的原則が最初に現れるのは、義務保育制である。今日、資本主義諸国でも義務教育制は普及しており、その限りで「子どもたちは社会が育てる」は資本主義の下でも中途半端には実現されていると言える。
 しかし、「鉄は熱いうちにうて」のたとえどおり、就学年齢前の保育は社会的な人間の育成という点では、教育に匹敵する重要性を持っている。そこで、教育のみならず、保育に関しても全員の義務とする必要性は高い。
 この義務保育制は生後6ヶ月から後で述べる一貫制義務教育の就学年齢(標準では5歳ないし6歳)に達するまでの全乳幼児に適用される。その保育内容は単なる託児とも、いわゆる“英才教育”とも違う。“英才教育”とは子の本来的な適性や趣向を無視した親の自尊心を満たすための、こう言ってよければ親による子の可能性の搾取にほかならず、まさに子どもの私物化の表現なのである。
 義務として課せられる保育は、上述したように社会的な人間の育成を目的とする早幼児養育であって、単なる福祉ではないが、“英才教育”でもない。従って、その内容としても、まずは社会性の本質である対他関係、すなわち他者との不和・対立といった否定的な関係をも含んだ他者との関わり方を身につけさせることに主眼が置かれる。
 とはいえ、保育には託児という生活福祉的要素も認められるため、義務保育を担うのは生活関連行政に当たる市町村となる。市町村は当然、管内の全該当乳幼児を受け入れられるだけの保育所を用意しなければならないが、前章でも見た「財源なき福祉」と同様に、およそ財源から解放される共産主義社会にあって、市町村が必要な数の保育所を用意することは十分に可能である。いわゆる「待機児童」が生じる余地はない。

◇地域少年団活動
 「子どもたちは社会が育てる」という原則は、一般に保育所なり学校なり広い意味での教育機関を通じた教育という形をとりがちであるが、そうしたフォーマルな教育だけでは社会性を備えた人間の育成には限界がある。そこでよりインフォーマルな教育として地域をベースとした「地域少年団」が導入される。
 これは満9歳から15歳までの子どもたちを対象に、地域で年齢混合・男女混合の少年団を編成し、訓練を受けた指導員の下、週末や祝日を利用して、月に数回程度の割合で行う野外活動である(宿泊を伴う場合と伴わない場合とがある)。その目的は、社会性の本格的な発達が促進されるべき年代の子どもたちを対象に、学年別に編成される学校教育では限界のある社会性教育を施すところにある。
 核家族化―その基本線は来るべき共産主義社会でも変わらないであろう―の相関現象でもある少子化は、全般にきょうだいが少ないか一人っ子の子どもたちを増やし、最初の対他関係であるきょうだい関係―「きょうだいは他人のはじまり」ともいう―を通じて社会性を身につける機会を大幅に減少させていることから、地域をベースとして言わば「擬似きょうだい関係」を形成するのが地域少年団だと考えれば、その趣旨が読み取れるかもしれない。
 そうした趣旨に照らして、該当年齢の子どもたちは、医学的な理由から参加が困難な場合を除き、全員加入を義務付けられる。その活動内容は教科学習やスポーツのような技芸でもなく、自然観察などを通じて自然環境の中で自由に遊ぶ形式で、インフォーマルながら環境教育を兼ねたものとする。
 その実施主体は保育と同様に、市町村である。市町村では地区ごとに少年団を編成し、指導員を養成・配置する。第4章でも言及し、本章でも改めて詳しく触れるように、義務教育の公立学校の運営は中間自治体としての地域圏のレベルで担われるため、市町村は保育のほか、こうしたインフォーマルな教育の分野に注力できるのである。

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