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民衆保健学への展望

2020-04-05 | 時評

各種の感染症パンデミックに際して、前面に出てくる知的体系が公衆衛生学である。この学問は、広い意味では医学の系列だが、患者個人の治療法を研究し、実践する臨床医学とは異なり、公衆を対象とした保健衛生政策とその実施に関わる学術とされる。

そうした学術内容からして、公衆衛生学は政治行政との結びつきが強い。患者よりも為政者に向けた学術と言える。そのため、公衆衛生学は生命科学の一分野でありながら、科学より統治の学の色彩が強い。その結果、公衆衛生学は為政者に利用されやすい性格を否めない。

その歴史的な最悪の例が、ナチスの障碍者大量殺戮計画T4作戦である。これは、優生学という公衆衛生学の応用的亜種とも言えるもう一つの知的体系が前面に出て、劣等的遺伝子を根絶し強靭な遺伝子のみを残して健康的な国民を育成するという趣意から実行された犯罪的政策であった。

これは極端な例であるが、今回のCOVID-19対策に関しても、公衆衛生学は為政者の望みをかなえている。多くの国では、ウイルス封じ込めを理由とした外出禁止、移動制限、都市封鎖といった強権措置を発動したい為政者の望みに答え、それを有効な策として提言している。

他方、日本では五輪開催に最後まで執着し、業界利益を擁護する為政者の意志を忖度してか、経済活動に打撃を与える非常措置は回避しつつ、検査数を抑制し、統計上感染者数を低く保ち、「持ちこたえている」ように見せることに公衆衛生学が助力してきたのであるが、五輪延期決定を境に反転し、そうした統計操作自体が持ちこたえられなくなっている。

どちらが正しいかは問題ではない。強権措置をとって短期的な「封じ込め」に成功したとしても、完全にウイルスを撲滅できるわけではなく、新規患者数の減少というある種の統計操作による暫定的な解決をもたらすだけである。そこへ行きつくまでの外出制限の長期化は生産活動・社会活動の停止による窮乏を招き、その状態で何か月も持ちこたえられるはずはない。

他方、日本式寡少統計操作は、国民の油断を招き、不用意な対人接触による感染者を急増させている。ありがたくも温情ある政府がマスク二枚を国民に下賜しても、もはや事態の悪化にマスクは被せられない。

いずれにせよ、民衆は置き去りである。これを機に、公衆衛生学に代えて、為政者でなく、民衆に寄与する民衆保健学のような知的体系の台頭が要請される。民衆保健学は、臨床医学と同様に、科学的根拠を重視し、人々の暮らしを守りつつ、疾病の予防策を提示する学問であるべきである。

パンデミックに際しても、基本的な生産活動・社会活動を維持しながら、ウイルスに対して最も脆弱な人々を守るために有効な策を提示することである。現下の問題で言えば、リスクが高いとされる高齢者や基礎疾患の有病者、乳幼児を守るために有効な策の提示である。同時に、治療の最前線にいて、自身が感染しやすい病院スタッフの安全策も忘れてはならない。

公衆衛生学の歴史の長さとそれが持つ権威の壁を破ることは容易でないだろうが、今回の手ごわいCOVID-19パンデミックが民衆保健学の創出に向けた陣痛となることを願うものである。

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