三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

説明文案2

2009年09月13日 | 紀州鉱山
■9月6日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会第2回集会で検討された説明文案2は、つぎのとおりです。
 来年3月28日に除幕する追悼碑のそばに、2枚の説明板を置こうと計画しています。これは2枚目の説明板の案文です。


 紀州鉱山と石原産業四日市工場への朝鮮人強制連行

 紀州鉱山で、朝鮮人が働かされていました。紀州鉱山は、1934年7月に石原産業が経営をはじめた銅鉱山でした。石原産業は、1938年10月に、紀州鉱山の銅鉱石精錬をおこなうために四日市に精錬工場を建設しました。この四日市工場でもおおくの朝鮮人が働かされました。
 朝鮮人のおおくは、故郷の村や町から連行されてきた人びとでした。
 1939年2月に、日本軍が海南島に侵入すると、石原産業は、海南島南部の田独鉄山の鉱石を日本海軍とともに奪い、奪った鉄鉱石を日本八幡製鉄所に送りました。
 1939年7月に日本政府は、「朝鮮人労働者募集要綱」を決め、「募集」方式の朝鮮人強制連行を開始しました。
 1940年から、三重県は「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづき、1939年度に200人、1940年度に300人の朝鮮人を紀州鉱山に連行することを承認しました。
 その後、日本敗戦まで、石原産業は、紀州鉱山と四日市工場に、朝鮮人を強制連行し、強制労働させました。
 その間、1941年5月24日には、紀州鉱山の朝鮮人労働者130人が、米穀の増配を要求してストライキをおこなったこともありました。
 日本軍のフィリピン占領後、1942年に石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山の鉄鉱石、アンチケ鉱山の銅鉱石、ピラカピス鉱山銅鉱石などの略奪を始めました。
 この年2月、日本政府は、「朝鮮人労務者活用に関する方策」を閣議決定し、「官斡旋」形式の強制連行を開始しました。
 この年9月、アンチケ銅山にトラックで向かう石原産業の従業員24人が抗日ゲリラ部隊に攻撃され、石原産業社長石原廣一郎が日本軍に空爆を依頼し、日本陸軍航空隊が爆撃をおこないました。
 1943年に日本軍がボルネオ島占領すると、石原産業は、ボルネオのラウト炭鉱の石炭掠奪を開始しました。
 1944年7月に、紀州鉱山板屋の朝鮮人宿舎「八紘寮」で、朝鮮人労働者143人が病人への待遇改善を要求してたたかい、「送局」された8人全員が、8月15日に木本区裁判所で懲役8か月などの有罪判決を受けました。
 この年9月、日本政府は「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」を閣議決定し、「徴用」という形式での朝鮮人強制連行を開始しました。
 この年の秋、紀州鉱山の坑道の入口に、「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられていたといいます(許圭氏証言)。
 1944年12月末で、三重県に住む朝鮮人は25160人で、そのうち鵜殿警察署管内の朝鮮人は2288人であったといいます(1945年4月付三重県『知事引継書』の「朝鮮人及外国人ノ取締状況」の項。ここには、1944年末までの「国民動員計画二依ル移入朝鮮人労務者」の数は、紀州鉱山では1225人で、そのうち「逃走者」376人、「不良送還者」76人、帰国者302人、現在員471人であり、四日市工場では178人で、そのうち、「逃走者」20人、「不良送還者」3人、現在員155人であると書かれています)。
 1945年8月14日、日本敗戦。
 1945年11月20日、紀州鉱山の朝鮮人労働者、帰国を求めて争議(大林日出雄・西川洋『三重県の百年』(山川出版社、1993年)に、1945年11月20日に紀州鉱山で朝鮮人労働者約760人が帰国費用や食料を要求して決起し、要求を貫徹し、家族をふくめ約1300人が12月18日までに帰国したと書かれています。石原産業が1946年9月に三重県内務部に提出した報告書には、12月24日に、紀州鉱山から朝鮮人324人が帰国したと書かれています)。
 紀州鉱山は鉱毒を流しつづけ、1978年5月に閉山しました。1995年4月に、紀和町は、石原産業が提供した紀州鉱山事務所の跡地に鉱山資料館を設立しました。その資料館は、いま熊野市が管理していますが、そこには、紀州鉱山における朝鮮人強制連行・強制労働の事実を伝える資料がまったく展示されていないだけでなく、紀州鉱山でおおくの朝鮮人が働いていたという事実すら、入館者がはっきり知ることができるような展示がなされていません。
 紀和町は、1993年3月に紀和町史編さん委員会編『紀和町史』下巻を発行しましたが、ここにも紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働の事実はほとんど書かれていません。
 紀州鉱山で朝鮮人労働者が何人働き、その家族が紀和町に何人すんでいたかも、いまなお、熊野市も石原産業も明らかにしようとしていません。

  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
  2010年3月
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