いくらお金があっても、買うべき食べ物がなければ、飢えてしまう。それが現実である。また、サービスはもちろん、モノでさえも、ほとんど保存が効かない。それは常識であっても、ひとたび、お金に置き換えられると、時間を超え、いつでも使えるように思えてしまう。今日は、そんな話をしてみることにしよう。
………
若者に職がなく、日々あぶれている中で、政府が国債を発行し、保育所の建設を始めたとする。雇われた若者には、給料が支払われ、自活が可能になる。養っていた親は、自活してもらえた分、負担が減って貯金ができる。実のところ、その貯金は、政府が国債で吸収しているのだが。こうして、世の中には保育所と職が生まれ、政府債務が残される。
こうした政府の「ムダ使い」は、若者にとって、損なのか、得なのか。日本の財政当局は、政府債務の膨張は、将来の世代に負担を押し付けることだと主張し、緊縮財政を若者に焚きつけている。これは、筆者のような古い者にとっては、とても奇妙な話である。昔は、放漫財政で生じるインフレは、失うもののない若者には平気でも、高齢者の貯金を目減りさせる害悪と言われた。いつの間にか、緊縮財政は若者のためのものになったらしい。
財政当局の詭弁術は、政府の債務だけを取り上げ、それと対になっている「保育所と職」を無視することだ。「保育所と職」は、抽象的に言えば、物的、人的なものを包む社会資産である。本当の政策の選択肢は、政府債務と社会資産の組み合わせを取るか、政府債務を増やさない代わり、社会資産を生み出せる若者の能力をムダに捨て置くかである。
どちらを選択するかは、経済状況による。デフレで、人もカネも余っているのなら、後者が社会的厚生を高めることは明らかだろう。もちろん、それに伴って、政府の債務をどう始末するかの問題も生じるが、それには工夫の余地がある。これに知恵を絞るのが、経済運営をする者の真の役割である。「政府債務が増えたら、必ずアンコトローラブルになる」と脅すことしかできない者は無用だ。
………
さて、先の例で、国債の受け手が親世代であることに注目してほしい。親は無業の子供に衣食住を与えられても、職を与えられないから、政府が介入するだけの意味がある。介入がなければ、親世代は貯金ができなかったことも重要だ。政府の介入によって、貯金と国債が対になって発生しているのだ。国債の始末は悩ましいが、貯金もできないのは、それでまた困った問題のはずだ。
こうした国債の始末は、平たく言うと、親世代の貯金をどう吸い上げるかである。親世代が「うちのニートも自立してくれて、生活に余裕もできたわい」と消費を増やせば、需給が締まり、物価が上がるので、そうなれば消費増税をすれば良い。この場合、若者の職は、消費者全体が負担して支えたことになる。
では、親世代が後生大事とばかり貯金を抱えたままなら、どうするか。利子課税を20%から25%に引き上げたり、相続税の控除額を引き下げだりして、資産課税を強化することで政府が回収する手立てを考えれば良い。消費も増えてないのに、解決を消費増税だけに頼るのでは、何とかの一つ覚えだろう。
実際に、可能性が最も高いのは、親世代が老後になって使うことだろう。このときに、若者に職を与えたことが生きてくる。親が老後に消費するモノやサービスは、そのときまでに若者が働くことを通じて蓄積した、物的、人的な社会資産によって産み出されるからである。そうしたものが用意されていれば、貯金=国債が需要へと転化しても、経済は耐えられるのである。
例えば、保育所なら、直接、雇用を生むだけでなく、仕事と家庭の両立で女性の能力を活かせることにもなるし、それで出生率が向上すれば、文字どおり人的資産が増大する。むろん、国債でなすべき事業は、保育所や医療・介護施設のような福祉関係に限らない。新エネや省エネで、将来の資源輸入を減らすようなものでも良かろう。大事なのは、将来の生活に役立ち、需要にマッチするものを選ぶことだ。
逆に、国債を出さなければ、どうなるか。国債を始末する悩みだけはないが、貯金もない。子供はニートで役立たず。しかし、老いれば、生活に必要なモノやサービスの必要性だけは増してくる。結局、なけなしの貯金で、割高なモノやサービスを買うはめになる。国債の始末は政治的に厄介なものだが、その面倒を嫌うことが、もっと解決が難しい、根本的な経済上の問題を惹き起こしてしまうのである。
………
経済を成長させるということは、資本とともに、物的、人的な社会資産を蓄積するということでもある。すなわち、若者に職を与え、自活させ、家庭を持たせることは、経済成長と同じ意味を持っている。国債の始末という課題を背負うにしても、モノやサービスを産み出す経済社会システムを次世代に引き継げることも見落としてはならない。
「国債の始末はつけられない、国債でロクな事業はできない、だから、成長を捨てても消費増税」というのは、敗北主義である。たとえ、国債を増やさないで、将来世代の「借金」を避けられたとしても、経済社会システムが脆弱であれば、豊かさは得られない。お金のことだけを考えて、その裏打ちをするものの存在を忘れたがゆえに起こる悲劇である。
(今日の日経)
賃上げ促す法人減税を拡充。GDPデフレーター下落。AIGは一転して公的支援、ドミノ恐れる。トリチウム除去難しく。生物のスケーリング。
※2020年のオリンピックは東京になった。生きて見られるかな。楽しみだね。
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若者に職がなく、日々あぶれている中で、政府が国債を発行し、保育所の建設を始めたとする。雇われた若者には、給料が支払われ、自活が可能になる。養っていた親は、自活してもらえた分、負担が減って貯金ができる。実のところ、その貯金は、政府が国債で吸収しているのだが。こうして、世の中には保育所と職が生まれ、政府債務が残される。
こうした政府の「ムダ使い」は、若者にとって、損なのか、得なのか。日本の財政当局は、政府債務の膨張は、将来の世代に負担を押し付けることだと主張し、緊縮財政を若者に焚きつけている。これは、筆者のような古い者にとっては、とても奇妙な話である。昔は、放漫財政で生じるインフレは、失うもののない若者には平気でも、高齢者の貯金を目減りさせる害悪と言われた。いつの間にか、緊縮財政は若者のためのものになったらしい。
財政当局の詭弁術は、政府の債務だけを取り上げ、それと対になっている「保育所と職」を無視することだ。「保育所と職」は、抽象的に言えば、物的、人的なものを包む社会資産である。本当の政策の選択肢は、政府債務と社会資産の組み合わせを取るか、政府債務を増やさない代わり、社会資産を生み出せる若者の能力をムダに捨て置くかである。
どちらを選択するかは、経済状況による。デフレで、人もカネも余っているのなら、後者が社会的厚生を高めることは明らかだろう。もちろん、それに伴って、政府の債務をどう始末するかの問題も生じるが、それには工夫の余地がある。これに知恵を絞るのが、経済運営をする者の真の役割である。「政府債務が増えたら、必ずアンコトローラブルになる」と脅すことしかできない者は無用だ。
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さて、先の例で、国債の受け手が親世代であることに注目してほしい。親は無業の子供に衣食住を与えられても、職を与えられないから、政府が介入するだけの意味がある。介入がなければ、親世代は貯金ができなかったことも重要だ。政府の介入によって、貯金と国債が対になって発生しているのだ。国債の始末は悩ましいが、貯金もできないのは、それでまた困った問題のはずだ。
こうした国債の始末は、平たく言うと、親世代の貯金をどう吸い上げるかである。親世代が「うちのニートも自立してくれて、生活に余裕もできたわい」と消費を増やせば、需給が締まり、物価が上がるので、そうなれば消費増税をすれば良い。この場合、若者の職は、消費者全体が負担して支えたことになる。
では、親世代が後生大事とばかり貯金を抱えたままなら、どうするか。利子課税を20%から25%に引き上げたり、相続税の控除額を引き下げだりして、資産課税を強化することで政府が回収する手立てを考えれば良い。消費も増えてないのに、解決を消費増税だけに頼るのでは、何とかの一つ覚えだろう。
実際に、可能性が最も高いのは、親世代が老後になって使うことだろう。このときに、若者に職を与えたことが生きてくる。親が老後に消費するモノやサービスは、そのときまでに若者が働くことを通じて蓄積した、物的、人的な社会資産によって産み出されるからである。そうしたものが用意されていれば、貯金=国債が需要へと転化しても、経済は耐えられるのである。
例えば、保育所なら、直接、雇用を生むだけでなく、仕事と家庭の両立で女性の能力を活かせることにもなるし、それで出生率が向上すれば、文字どおり人的資産が増大する。むろん、国債でなすべき事業は、保育所や医療・介護施設のような福祉関係に限らない。新エネや省エネで、将来の資源輸入を減らすようなものでも良かろう。大事なのは、将来の生活に役立ち、需要にマッチするものを選ぶことだ。
逆に、国債を出さなければ、どうなるか。国債を始末する悩みだけはないが、貯金もない。子供はニートで役立たず。しかし、老いれば、生活に必要なモノやサービスの必要性だけは増してくる。結局、なけなしの貯金で、割高なモノやサービスを買うはめになる。国債の始末は政治的に厄介なものだが、その面倒を嫌うことが、もっと解決が難しい、根本的な経済上の問題を惹き起こしてしまうのである。
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経済を成長させるということは、資本とともに、物的、人的な社会資産を蓄積するということでもある。すなわち、若者に職を与え、自活させ、家庭を持たせることは、経済成長と同じ意味を持っている。国債の始末という課題を背負うにしても、モノやサービスを産み出す経済社会システムを次世代に引き継げることも見落としてはならない。
「国債の始末はつけられない、国債でロクな事業はできない、だから、成長を捨てても消費増税」というのは、敗北主義である。たとえ、国債を増やさないで、将来世代の「借金」を避けられたとしても、経済社会システムが脆弱であれば、豊かさは得られない。お金のことだけを考えて、その裏打ちをするものの存在を忘れたがゆえに起こる悲劇である。
(今日の日経)
賃上げ促す法人減税を拡充。GDPデフレーター下落。AIGは一転して公的支援、ドミノ恐れる。トリチウム除去難しく。生物のスケーリング。
※2020年のオリンピックは東京になった。生きて見られるかな。楽しみだね。
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