河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1607- マーラー、9番、エリアフ・インバル、都響2014.3.17

2014-03-18 00:26:01 | インポート

2013-2014シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2013-2014シーズン
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2014年3月17日(月)7:00pm サントリー
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マーラー 交響曲第9番 27′15′13′26′
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エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団
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このオーケストラの監督としての最後の公演なのだろうが、個人的には思い入れは全くない。国内オケに関しては好みのオケというのは無くて、曲目が第一義的。好きな曲を聴きたいというのが一番なのだが、それとは別に原体験のようなものがある。一つは国内オケは昔はかなり下手だった。1980年代初めの頃まではあまりに下手で聴いていられないということもありました。当時は来日オーケストラとは明白な差があって、2流の団体でも国内オケの5倍ぐらいのありがたみがあったと思います。ですから個別の演奏団体に入れ込むということはありませんでした。曲がメインの原体験です。(昨今、世に出ている昔の音源は演奏がうまくいったもの、というファクター抜きにはありえません)
もう一つは、音楽監督、常任指揮者などと名前は立派だがその人がシーズン通してどれだけそのオーケストラを振るかというとだいたいスズメの涙程度、あまりに少ない。何年間やったとか言っても横の流れは分断されており、名ばかりではないか。この指揮者のもとで成長した、色が変わったみたいな話は失礼ながら笑えるケースもある。つまり実態が伴っていない場合が多く、このての話も興ざめ。
逆に言うと自分はあちこちのオーケストラを聴いて歩く渡り鳥みたいになってしまって、昨今のように国内オーケストラの性能がアナログ的な向上を越えたスーパーデジタルモードでスキルアップしても自分の動きは昔の原体験のままという癖が治らない。
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この日のような演奏会でも外的な要因に左右されることなく、というよりもほとんど無関心で、いつも通り聴いているのはそんなことがあるからだ。早い話、どうでもいい。(ちょっと言い過ぎかもしれんが)
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この期に及んでまたインバルを理解したのかなと我ながら思ってしまった。
インテンポという言葉はちょっと舌足らずで、微妙に動く律動は意識されたインテンポによって確実にコントロールされている。それがインバルの棒だ。
大きく動かさず、緩めず、確実なテンポで、マーラーのカオスに突き進む、正面突破攻撃、分散したアンサンブルがそれぞれの束で強弱濃淡のパレットになって迫る。音色の分解リズムの進行が程よくバランスしている。その思いをいかに100%に近く表現できる演奏団体がいるかどうかがポイントになる。フランクフルトはクリアで独特の音色と高性能スキルで表現できていた。そのあとのN響との一連のマーラーはちょっと正三角形過ぎた。都響は高性能でデジタル録音向きのサウンドになった分、インバルの解釈との相性はいいと思う。オーケストラ自身の解像度の高さがあるため、それ以外のことに集中すればいいのだ。意識してコントロールされたマーラーの演奏は簡単ではないかもしれない。それができるのがこの指揮者としての才覚の所以という話だろう。アメリカでは名前がほとんど出てこない指揮者だが、いたるところにある高性能オケを目の前にしてインバルの思うような演奏解釈がより可能になると思うのだが。時すでに遅しということか。
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ということで、第1楽章展開部のあたり弦がモヤモヤと曖昧模糊となりわけのわからない鳴りになってしまう演奏も多いが、この日のインバル&都響はマーラーが作り上げたカオスを見事な縁取りで明確なフレームを構築しながら正面突破。ここの分解度の高さはそれこそ100%に近いものであったと思う。この第1楽章が頂点でした。
全4楽章の速度バランスが奇をてらうところがまるで無く、バランスの良い演奏となりました。最後のコーダは気持ちを込めるあまりそこだけで第5楽章を成すといった演奏もあるなか、インバルは冷静沈着に比較的あっさりとよどみなくジ・エンド。見事な平衡感覚の演奏でした。もし足りないものを一つ探すとすれば、それは有機的なつながりの強調ということになるかと思います。
おわり