河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1537- ブラームス3番1番、小林研一郎、日フィル2013.11.1

2013-11-01 22:49:57 | インポート

2013-2014シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
2013-2014シーズン
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2013年11月1日(金)7:00pm サントリー
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ブラームス 交響曲第3番
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ブラームス 交響曲第1番
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小林研一郎 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
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この指揮者はコンサートでたまに近くの席に座っているのを見かけます。棒を見るのはかなり久しぶり。
曲の演奏に角(かど)が無い。滑らかなのとは違う。不揃いでブサーと鳴っている感じ。一言で言うと粗末な演奏。的確な練習とかスキル意識の高揚といったあたり忘れ去られているのかな。残念な演奏でした。
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指揮姿を見ていると、上半身が頻繁に大げさに動くので、それに追い付いていっていない腕の動きが余っているように見える。一小節の中で、腕の動きが手持無沙汰の様に見える時間が長い。これだとプレイヤーのほうが音を揃えにくいのではないか。あうんの呼吸とか、練習を沢山している、といった特殊要因があれば別だが。特に理由がなければ不要な体の運動をやめて音楽表現の正確性を要求することのほうが、優先度が高いと思う。これは日本人の他の踊り系の指揮者たちも同じ。
フリッツ・ライナーの真似をしろとは言わないが、最近の、外国の有能な若手指揮者たちを見てみたらいいと思う。ドゥダメル、ハーディング、他、有能な誰でも。棒さばきが、まるっきり違う。
自身の感情表現の前に正確な音楽表現を実現することのほうが先だと思います。
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それともうひとつこの指揮者で非常に気になったのが、演奏後の各プレイヤーに対する異常に手厚すぎるスタンディング要求。何故、指揮者があすこまで平身低頭、頭を下げきって一人ずつプレイヤーに立っていただけなければならないのか。あれじゃまるでプレイヤーが金を払っているような錯覚に陥る。この指揮者にとってのお客様は演奏者であるのだろう。聴衆はどこに行ったのか。別に金が全てとは言わないけれど、あれじゃぁ、作曲家の音楽、表現者、聴衆、この三者の愛の共同体は、フルトヴェングラーが何十年も昔言った事の意味合いを改めて認識させるに十分すぎる反証的な欠落具合であり、ものの見事に瓦解している風景のようにしか見えない。あのスタンスだと、あまい演奏の音しか出てこないのは当然の帰結。音楽に対する非常に残念な風景でした。
オーケストラは自ら、次のステップに前進するしかない。
おわり