河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1430- 選挙日和 三折坂越え 不動尊 だる満

2012-12-17 20:20:00 | まち歩き

121216_2


2012年12月、本日選挙につき、三折坂を越えて投票にいってきました。4つ記入しないといけないので大変。

お不動さんはご覧のとおりお正月モード、近くの和菓子「だるま」は日曜だけどがんばってます。うなぎのにしむらもお店開いてますね。ほかにもちらほら。

だいたい日曜はお休み。28日が日曜のときは営業する店もあります。

目黒不動商店街のことです。



和菓子のだるま、レシートには「だる満」となってます。
投票の帰りちょっと寄ってみました。
おはぎ160
豆大福130
あんだんご100
大きくて柔らかくて新鮮でいいお味でした。
甘いもの好きなのでつい寄りたくなります。

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もう一個買いました。
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焼きたて直送、よろこんでいただきたくてササニシキ100%
厳選した原料と、永年培った職人の技術が練りあげた。
純粋せんべい、今だから本格派 370
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長い名前のおせんべいでした。





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1429- リサ・デラ・カーサ NYT追悼記事、それにCD

2012-12-17 20:10:00 | アート・文化

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オペラは生もの、舞台の時代を共有していないのであまり胃の底にズシリとくるものはないのですが、ニューヨークタイムズの追悼記事は長いものでした。
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ニューヨークタイムズ記事URL
http://www.nytimes.com/2012/12/13/arts/music/lisa-della-casa-opera-singer-dies-at-93.html?ref=music&_r=0
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Ldc

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NYT2012.12.12記事意訳.
Lisa Della Casa, Soprano, Dies at 93
By JONATHAN KANDELL
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リヒャルト・シュトラウスの主要なオペラの歌い手で、とびぬけた声、美貌、ずば抜けた舞台度胸を併せ持っていたスイス生まれのソプラノ、リザ・デラ・カーサがこの月曜日(*河童注2012.12.10)にスイスのミュンスターリンゲンで亡くなった。93歳でした。
彼女の死は、生前頻繁に出演していたウィーン国立歌劇場からアナウンスされました。
デラ・カーサは、ヨーロッパ1940年代の戦争世代に見いだされたソプラノの一人です。
シュトラウスのアラベラで、深い気品と熱い情熱を兼ね備えていたデラ・カーサは「やさしくて、行儀作法がないといったある種、弱な部分を魅せつけた」と、音楽学者のJ.B.スティーンは自著「The Grand Tradition: 70 Years of Singing on Record」に書いている。(*河童注:マクミラン出版1974/6)
同じくモーツァルトのオペラでの役も絶賛された。
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彼女自身が数えたところによると、こんくらい歌った。
200回以上歌ったのは、
アラベラ、
ドンナ・エルヴィラ、
アルマヴィーヴァ伯爵夫人、
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100回以上歌ったのは、
アリアドネ
フィオルディリージ
パミーナ
マルシャリン
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ヨーロッパの主要オペラハウスにおけるデラ・カーサの美貌とカリスマ性は、カラヤンのような著名指揮者でさえ、彼女の声を越えた魅力にやられてしまった。
「カラヤンはあたしをマルシャリンと思っていたし、信じて!彼の棒のもと、タンホイザーに出てくれないか頼み込んできたわ。」こんな感じで、たとえヴェーヌスのようにドラマチックソプラノか高声域のメゾのような彼女に相応しいとは思えないものまで。と、彼女は、ランフランコ・ラスポーニの著「The Last Prima Donnas」のインタビューに答えている。
「カラヤンはこう言ったのよ。カーサ、愛の素晴らしき女神たる正しきセクシーさをあなたは持っている。」
彼女は断りました。
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メトロポリタン・オペラでは別の不満を持っていたのよ、と彼女は話している。
総監督のルドルフ・ビングは彼女に同じ役をつけた。
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アルマヴィーヴァ伯爵夫人
ドンナ・エルヴィラ
マルシャリン
アラベラ
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メトでの147回の出演のうち114回がこれら4つの役だった。
「メトで歌っていた15シーズンは幸せではなかったわ。」デラ・カーサはラスポーニに語っている。
「だって、ビングさんはモーツァルトとシュトラウスのオペラに不可欠なものをあたしが繰り返し歌う、それ以外何かできることは無かったのよ。イタリアものフランスものは事足りていたしね。」
でも、彼女はめったに口論はしなかったし、オフステージでの約束もしなかった。
エゴやライバル意識むき出しで悪名高きオペラ界において、彼女の仲間たちはこのような彼女の行動を称賛した。
1940年代、アラベラ役で有名だったルーマニアの美貌のソプラノ、マリア・チェボターリは、若いデラ・カーサにズデンカの役を歌わせるよう宣伝してくれた。
「あたしがおせっかいやきますわ」チェボターリは、まだあまり知られていないデラ・カーサの才能に懐疑的だったウィーン国立歌劇場の総監督に言った。
デラ・カーサは、また魅惑的な美貌でもみんなのあこがれのまと。ドイツのソプラノ、アンネリーゼ・ローテンベルガーなんか、彼女をエリザベス・テーラーと比べた。
それにもかかわらず、彼女はその経歴の頂点55歳、1974年のウィーン国立歌劇場でアラベラを歌い終わったところで突然引退を発表した。
その後、彼女はスイスのコンスタンス湖の近くの城に、夫のDragan Debeljevicと健康に問題があった娘Vesnaとともに退きました。公に説明することもなくまた、リサイタルやマスタークラスも行うこともありませんでした。
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リサ・デラ・カーサは1919年2月2日にベルンの近くのブルグドルフで生まれた。父はイタリア・スイス人で眼科医、母はバイエルン生まれでレストランを経営していた。両親は音楽になじみ、オペラの経歴を積み重ねるよう彼女を応援した。
15歳の時、マルガレーテ・ヒーザーのもとチューリッヒの音楽院で声楽を学んだ。ヒーザーは彼女の唯一の先生で、ベルカントとシュトラウスの融合ということを教えた。
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デラ・カーサは1941年、スイスのSolothurn-Biel Municipal Theaterで蝶々夫人のタイトルロールでデビューした。それからほんの2年後、チューリッヒ市オペラハウスのメンバーとなりそこでは、メゾ役のばらの騎士のアンニーナでデビューした。
チューリッヒ・オペラでは魔笛の夜の女王とコジ・ファン・トゥッティのドラベッラを多く歌った。
第二次世界大戦後、彼女の活躍はオーストリアのオペラ舞台に移っていった。1947年にザルツブルク音楽祭にアラベラのズデンカ役で初登場した。彼女の初登場を聴いたリヒャルト・シュトラウスは「この小さなデラ・カーサはいつかアラベラを歌うなぁ。」
1947年の秋に、彼女は、これから27年アンサンブル・メンバーとなるウィーン国立歌劇場でリゴレットのジルダを歌いデビューした。
最初の結婚は短く終わったが、ユーゴスラビアのジャーナリストでヴァイオリニストのDebeljevicにあう。彼はカーサの仕事を管理し、さらに唯一の娘Vesnaの世話をすることに専念した。
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1953年にデラ・カーサはメトロポリタン・オペラにアルマヴィーヴァ伯爵夫人でデビューした。メトでは1968年まで歌い続けることになる。
最初の頃はドンナ・エルヴィラや蝶々夫人を歌っていたが、ニューヨークの批評家を惹きつけることはなかった。しかしアラベラ役で能力発揮。
「ウィーンの雰囲気ワイルドなものを感じさせるような彼女の登場、そこには感動と美貌のなかに若さがあった。」と、1957年、ニューヨークタイムズのハワード・トーブマンは書いた。「そして、その歌唱はいつも美しく正確で、よく歌いこまれ、フレーズも敏感に表現されていた。」
1960年代後半、デラ・カーサは出演を減らし始めた。特に彼女の娘が1970年にかろうじて致命傷をまぬがれた動脈瘤にかかった後は、さらに減っていった。
しかし、4年後引退を宣言した時はオペラ界は茫然とした。彼女は、お城とスペインの地中海の海岸の別荘とで、家族と過ごしました。
「歌手の運命に関する奇妙なもの」、彼女はラスポーニに言っている。「目的のためにすべてを捨て去らなければならないということなの、そしてそれは閃光の中ですべて終わるんですわ。」
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意訳おわり
以上、拙訳で申し訳ございません。だいたいの輪郭をつかんでいただければと思います。
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Scan10697

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愛聴CDで追悼
HISTORIC
LISA DELLA CASA SINGS RICHARD STRAUSS
1990年頃買ったものです。だいぶ古くなりました。どこで買ったものか、六本木WAVEの輸入盤はロゴ入りの値段シールが付いているのでわかるので、これはそうではないですね。おそらく東急本店通りのビルの一角にあったころのHMVかも。
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4つの最後の歌
アラベラから3曲
アリアドネから1曲
カプリッチォ
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オペラは断片を聴いてしまうと全部聴きたくなる。
4つの最後の歌を聴いてみました。
1953年録音
カール・ベーム指揮ウィーン・フィル
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3.「眠りにつくとき」 Beim Schlafengehen
1.「春」 Fruhling
2.「九月」 September
4.「夕映えの中で」 Im Abendrot
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通常の並びを数字で示しましたが、このCDの収録順は上記のとおりで、「眠りにつくとき」が一番最初に歌われます。中間部の極めて美しいヴァイオリン・ソロが一曲目で、なんとなくもったいないというか、味わうには冒頭すぎる雰囲気もある。
これを聴きながら追悼します。
もちろん、アラベラ、アリアドネ、カプリッチォ、聴きます。
おわり


1428- マーラー 交響曲第9番 尾高忠明 読響2012.12.14

2012-12-17 20:00:00 | インポート

2012-2013シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
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2012年12月14日(金)7:00pm
サントリーホール
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マーラー 交響曲第9番
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尾高忠明 指揮
読売日本交響楽団
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第1楽章27分
第2楽章16分
第3楽章13分
第4楽章27分
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この曲の情念とか、ドロドロしたもの、手垢にまみれたもの、といったあたりは横に置いといて、尾高流の比較的さわやかマーラーであり、一発公演ゆえの機能的要素の優先、結果、純音楽的に響いた。ということになると思います。
つきつめていうと結局、尾高らしさが前面にでた演奏内容になっていたと思います。
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練習不足があったと感じました。以前のブルックナー8番もそうでしたが、シーズン予定されているとはいえどちらかというと唐突感がある。シーズンプログラムの流れや指揮者の配置などを考えると、分断されるような雰囲気。シーズン中、この日は例外的なイベントの日なのだ、という雰囲気もない。
マーラーのオーソリティーではないし、一発だと練習も限られていると思うし、曲解釈の日常的な意思疎通や、解釈の移植をしにきたということもない。
だから、よりどころは、両者ともにスコアが第一義です。楽譜の中からのみ音楽が湧き出てこざるをえない。つまりスキル的な機能優先でありそれで曲は出来上がる。練習不足というのは、そのスキルレベルの流れの中で、勘どころを今ひとつとらえていない。指揮ぶりは、ロボコップ風にギク、シャク、昔と変わらない、そんな感じで流れも少し引っかかったりするようなところがあり、それが練習不足によるものと思えました。
ただ、十分な時間があり尾高の解釈がこのオーケストラに浸透したとしても、情念やギトギトした演奏になるかといったら、そうではない。この日の演奏スタイルが研ぎ澄まされる方向に進むのであって、結局、尾高さんの方向感覚だったんですね。深刻さからはかなりの距離がある。
専門家でないのでよくわかりませんけれど、例えば低弦とヴァイオリンが同時にでるフレーズで、よく聴かれるマーラー演奏だと、低弦がまず先にしっかり音を出して、ちょっとおくれて高弦がはいるといったことがたびたび聴かれます。スコアに「ん、パー」というところもあるにはあるのですが、尾高だとこうはならず、上も下もなくバーンと一斉に音を出す。こうゆうことがドロドロ感とかモヤモヤ感を無くしていく。純器楽的でピュアな響きになるんですね。
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プレイヤーは今、曲がどこらへんのあたりにいて、だからここはこうゆうふうに表現しなければならない、といったありのことまで深く考えて演奏するのは難しいと思います。それは指揮者の仕事。全部指揮者にゆだねて思いっきり演奏すればいいとおもうのですが、そこまで達していたかというと、なにか、冷たいときのN響みたいな感じで、気持ちの一体感より両者の乖離を少し感じました。純音楽的、器楽的に響かざるをえない。確信棒、確信演奏ではない。例えば、第1楽章終結部の奇妙なホルンのソロ、線細く、もともとあのような空虚な響きなうえに、奏者と指揮者の間にはクレバス的な歴史の断絶があるように思いました。
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尾高の棒はわりとドライに流れる。接ぎ木のようなところはなく、線がすれすれのところでつながって進んでいる。もしかして指揮する回数が減っているのかなぁ。
もしかしてブルックナーもマーラーもあまり得意ではないのかも。
おわり

ご参考

2010年5月15日 ブルックナー7番 N響
1978年5月20日 N響定期

エルガーとかはまた別途。書くのが追いついていないので。


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