河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

完全無欠のアンビリーバブル・ホルン ニューヨーク・フィル2006年来日公演 -2-

2006-11-19 00:01:00 | 音楽

さて河童にとっての第2夜はこんな感じ。

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20061110()7:00P.M.

東京オペラシティ

コンサート・ホール

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コダーイ/ガランタ舞曲

リスト/ピアノ協奏曲第1

 ピアノ、ユージャ・ワン

ベートーヴェン/交響曲第3

(アンコール)

ワーグナー/マイスタージンガー前奏曲

ワーグナー/ローエングリン第3幕への前奏曲

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ロリン・マゼール指揮

ニューヨーク・フィルハーモニック

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エロイカのホルンはすごかった。全く明晰であり、ヨーロッパや日本のオーケストラにありがちなもたついた鈍重さなど微塵もない。3管のホルンが明確な音で音楽を縁取っていく。

1楽章の三拍子の変則アクセントの心地よさ。第2楽章のブルーな響き、そして第3楽章トリオの爽快感。この響きは快感。みごとなホルンのハーモニー。

4楽章コーダ、舌も唇も指も全員ぴったりあった水際立った粒立ちに脱帽。ベートーヴェンもカタルシスを感じてくれたことであろう。

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今日の席は3階席前より。斜め下、前方に舞台がある。覗き込むと一昨日はわからなかった舞台の形がよくわかる。思いのほか奥行きがあり、楽器感が前方後方に余裕がある。木管・弦はブラスやパーカッションから距離をおける。

音響は全く推測通りで土間のオーケストラ席の極悪な飽和感がなく、引き締まったサウンドが淀みなく響く。2階席、3階席のほうが透明感ある明晰な音である。ことによると3階席正面が一番音が良いのではないだろうか。

ところがである。視界が最悪なのである。この直方体のホール。横の席に座り正面を見ると反対側の横の席がきっちりと対照的に見ることができる。ここまではまだ許せる。斜めになれば舞台を見ることができるはずであるから。

しかしである。背もたれに背をもたれると何も見えない。3階の背もたれに沈みこむと反対側の木材のような壁が見えるだけである。舞台はどこ?オーケストラはどこへいったの?

極度の前傾姿勢をとらないとオーケストラが視界にはいらない。誰が設計したホールか知らないが、人は何度でも過ちを繰り返す生き物なのであろう。なぜ、こんな簡単なことがわからないのであろうか。完全な設計ミスである。

3階は角度が悪いのを知ってか知らずか不人気、それとも主催者が故意に間引いているのか、閑散としている。2列しかないから盲腸席なのかもしれない。値段は土間とたいしてかわらないくせに。

河童がすわった席も左が空席、かつ斜め後方も空席であったため、左上方から思いっきりジャンプのラージヒルなみの前傾姿勢でようやくオーケストラの四分の三を見ながら聴いた。うつぶせ、と言えるかもしれない。完全な設計ミスだが、これ、直しようがないのかもしれない。角度をつければ見えるようになるが、そうすると絶壁状態。防護柵がないと危なくて怖い。

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ガランタ舞曲はチェリビダッケも昔、好きで振っていたが、いきなりホルンから始まる、調性があるような無いようなコダーイ独特の、渋さ前面、の曲であるがニューヨーク・フィルが演奏すると彼らの‘腕’で聴かせてしまう。上下に音が深い曲よりもこのような水平に拡がり感のある曲のほうがこのオーケストラにあっているのかもしれない。エロイカを聴くまではそう思っていた。

リストは、伴奏がマゼールの棒も含めやはり大人の音楽である。リストの一見ぎこちない音構成を完全に大人の余裕の音楽に変える。大きな幅の表現である。そんななか、二十歳に満たないきゃしゃなユージャ・ワンが見かけによらず骨太に弾いていく。人は見かけによらないものだ。あの細い腕のどこからあんな力強いタッチが生まれるのか。まさか筋トレ。

オケともども火花散るみごとなリストを久しぶりに満喫した。こんな巨大な曲だとは本当に目から鱗が落ちた。

後半はエロイカである。マゼールは昨今はやりのベートーヴェンの学術的な趣向に背を向けて、というよりも関心がないといった風情で、エンターテインメントの極致をこのエロイカで展開して魅せた。これはこれで見事というしかない。

まず、二つの打撃音の痛快さ!!

即座に思い浮かんだのが10年ぐらい前に出たレヴァイン指揮メトロポリタンオペラを振ったCD(未完成とカップリングされたもの)。それこそ目から鱗が落ちるような圧倒的テンポで迫るいきなりの第一主題、そして目の覚める録音。フレッシュ以外の言葉が見つからない。あのときの爽快感、突き抜け感がこのマゼールのエロイカにも共通する。

しかし、ニューヨーク・フィルにはそれ以上のものがある。大編成、超へヴィーで機能的なオケを圧倒的な指揮力(シキリョク)でジェット機なみに動かしていくさまは聴いていて気持ちがよい。

そしてこの大音響である。音がでかい。シカゴ交響楽団、ベルリン・フィルなどなみいる強豪は音がでかい。ニューヨーク・フィルは昔は特別大きな音ではなかったように思うが、このエロイカは尋常ではない。編成はベートーヴェン初期中期であるため増管してはいるもののあまり大きくはない。中声部の充実度、特にホルンの充実度が異常であるため全体に音が膨らみを保つことができ、その上に金管、木管、そして透徹した弦がガラスのハーモニーを響かせる。全体のピッチが完璧であるため、強奏しなくても自然に鳴るのであるが、さらに呼吸をひと乗せするので圧倒的なビック・サウンドとなる。本格的な大人のフル・サウンドを満喫・堪能できる。キングコング・オーケストラがそこらへんのこまかいオーケストラを踏み潰して疾走している感じだ。

マゼールも自国アメリカではこのような感じでエンタメを満喫しているように思える。音楽の方向性という点では、ウィーン・フィルを自由自在に操るマゼールもいるが、ニューヨーク・フィル相手に肉体的快感を追求するようなマゼールもいる。どちらもマゼールであるが、思いっきり鳴らすのはオーケストラ自身の一つの方向性ではあるが、さらにマゼール自身の昨今の方向性のあらわれなのかも知れない。彼にとって経験を経た年齢による年輪の数など意味のないものなのだろう。

葬送行進曲は深刻なものではなく、やや早めのテンポで音一つずつの意味合いよりも流れ、ミックスされた響きを重視、ソロ楽器による主旋律は思い切り目立たせるが、ハーモニー主体の旋律では、ときとしてなじみのないバランスで響いたりする。奇を衒うというのではなく楽譜がそうなっている、という再認識・再確認の意識のほうが強いので説得力がある。

スケルツォのオケの刻みの正確さ、変則アクセントの見事なまでの的確さ、トリオにおけるアンビリーバブルなホルンの響き。これは断然見事。これと第4楽章コーダのホルンは今日の白眉。

4楽章のコーダ前のテンポをおとした最後の変奏曲の雄大な音の鳴り、オーボエから始まり弦にその艶が乗り移り、そしてコントラバスとブラスによる強大な変奏の響きはもたれることなく完全に鳴り渡る。アンビリーバブル・ナイト。

巨大なエロイカの像がそこに屹立した。

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しかし、今日のビック・サウンドはまだ終わらない。

アンコールがあった。エロイカが終わるや控室で腕を鳴らしていた奏者たちが満を持してゾロゾロと入ってきた。今日は演奏の始まる前の音出しでマイスタージンガーを吹いていた人がいたのであらかじめアンコール曲はわかっている。3管編成のオケが一気にフルオーケストラとなり、マイスタージンガー前奏曲が始まった。ティンパニの蓋が飛び、天井のガラス窓が宇宙に飛び散り、炸裂したブラス・セクションはラッパを百倍にし、ホールの屋根はアルミ鍋のふたのように銀河の屑になり、大音響のスリルと鳥肌が聴衆の心臓を木端微塵に料理する。もうアウトだ。

でもさらにアンコールは続く。

ローエングリン、第3幕への前奏曲。これでもかこれでもか。これでもまだ死なないか。君たち聴衆。このサウンドの媚薬で死ね。でもこの媚薬大量すぎる。効く前に窒息死だ。

強烈なブラスの音に息も絶え絶え帰路についた。

おしまい

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