風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

狭間世代

2008-05-15 | 風屋日記
中学から高校時代にかけて好きで聴いていた
伝説のロックバンドはっぴいえんどは
聴き始めた当時はもう解散していて
大瀧詠一と松本隆が抜けたあとに
ドラムの林立夫とピアノの松任谷正隆が入り、
キャラメルママ(ティンパンアレー)というバンドになっていた。
ところでこの「キャラメルママ」、
今読んでいる本で初めてそのことばの意味を知ったよ。

「ハイスクール1969」四方田犬彦 著 新潮文庫 514円(税別)

私よりも7歳年上の映画評論家、明治学院大学教授が書いた
東京教育大駒場高の生徒だった頃の思い出記。
高度経済成長のまっただ中にいながら
日本の社会は学生運動や新しいサブカルチャーの洗礼を受け
嵐の時代を過ごしていた時期のことだ。
私が大学入学のために上京する10年近く前の東京がそこにある。

でもね、妙に懐かしく感じるのはどうしてだろう。
私が東京にいた時分には学生運動はすっかり下火となり、
生き残った新左翼の各セクトなどは
成田闘争などのほかは内向きの暴力の応酬を繰り返していて
社会的な支持をもう得られていたわけではなかったし、
よど号ハイジャックなどによって国外へ出た活動家は、
すでにパレスチナやシリア、北朝鮮などに拠点を移していた。
私たち世代にとって「艱苦生運動」そのものが歴史上の存在だったから
それらの活動に対する懐古感はまったくない。

新宿駅のフォークゲリラも、たむろしていたというフーテンも
私が上京した際にはもうすでにそこに存在していなかった。
自らのベクトルを芸術に求めていた人達のメッカ風月堂も
当時は過去の思い出として語られる存在だった。
渋谷の街は著者が出入りしていた頃の庶民的な町から
パルコや109を中心として若者が集う最先端の町になっていた。
百軒店や恋文横丁などという怪し気な盛り場も姿を消し、
渋谷のメインは公園通りやセンター街に移っていた。
だからそれらの若者文化や街が懐かしく感じるわけでもない。

読み進むうち、懐かしさを感じるいくつかのキーワードに気づいた。
仲間同士で集い、議論したり何となく時間を潰したりする喫茶店。
(「仲間」を形成するグループ毎に行く店が違ったり)
名画座、ガード下のレコード屋、軒を並べるラーメン屋やカレー屋。
喫茶店でも名曲喫茶やJAZZ喫茶、ロック喫茶などなど・・・。
友人達と夢を語り合い、アジり、本の受け売りに熱弁をふるい、
自分の内なるものに導かれるまま哲学書を読み、ビートルズを聴く。
授業をサボってタバコを試しつつ女の子たちを盗み見る。
なーんだ、私の高校・大学時代そのままじゃないか。
東京・田舎という区別なく、まだそういう文化が残ってたんだねぇ。
前世代の遺物のように、我々もそんな生活を享受したわけだ。
そこにはイデオロギーも文化的価値もうすでに無かったけれど。

前世代の残滓のような文化の中に身を置いた我々の世代。
それから10年近く後は新たな価値観を生み出すバブル世代となり
いよいよ日本全体は哲学や理念すら失うことになる。
2つの世代に挟まれた我々は、当時はシラケ世代と言われたけど
それは前世代の価値観が権力によって打ち砕かれ、
何を求めればいいのか、何を目指せばいいのかを失いつつ
四方田氏の言うルシファー・コンプレックスを心の内に隠した世代。
狭間世代と言えばいいのか、彷徨世代と言えばいいのか。
いずれにせよ谷間の世代であったことは間違い無いだろう。

ところでキャラメルママ。
東大の安田講堂に学生達が立てこもり始めた頃、
息子・娘達と機動隊とのガチンコ対決を避けようと、
東大正門を通る学生達にキャラメルを配りながら声をかけ続けた
エプロン姿のお母さん達のことなんだそうだ。
当時の学生達にとって母親に与することは唾棄すべきことだったろうが
今、親となった私は当時の母親達の気持ちが痛いほどわかる。
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8 コメント

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思い出してしまいました (たまびと)
2008-05-16 20:52:41
風月堂の中に入る勇気はなくて、お店の前で「は~、ここが風月堂ね」って言ってました。
新宿の裏道にはいろんな喫茶店があって、おいしいコーヒーを出してくれるお店もありましたが、もうすっかり名前も忘れてしまいました。
新宿の街が催涙ガスで死の街のようになったこともありました。
フーテンにからまれたり抱きつかれたりフォークもいっぱい歌いました。
渋谷公会堂に、しばしばクラシックを聴きに行きました。
恋文横町は火事で無くなったのではなかったかしら。
とっても細い路地でした。
今渋谷に行くと人ごみの中で息が苦しくなるような気がしますが、昔はもっとラクに呼吸ができたような気がします。
返信する
ちょっと気になった事実のあやまり (水屋)
2008-05-16 23:47:00
風屋さんこんばんは。
いつも,楽しく拝見しています。

ちょっと気になった事実の誤りがあるので,
彼らの「名誉」のために指摘します。

「反帝学評」と「革労協」は,
同じ党派です。
前者は学生グループ。
後者は政治部門。

「全共闘の中の最も過激グループ」

とありますが,

全共闘は,文字どおり共闘する大衆団体
であり,党派ではありません。

ですから,全共闘から「日本赤軍」
という党派が所属していたわけではないのです。

また,
「大手町のビル爆破事件を起こした一部のメンバー」とは,日本赤軍ではなく,
東アジア反日武装戦線という党派です。
彼らはアナーキストですから
左翼である日本赤軍とは
政治路線がまったく異なります。

また,日本赤軍は爆弾事件を起こしていません。

また,日本赤軍とは,
共産同赤軍派の重信らがアラブに行って
新たにパレスチナ人ら共闘して作った
党派ですから,日本赤軍が
「パレスチナやシリア、北朝鮮などに拠点を移していた」事はありません。
北朝鮮に行ったのは,
同じく共産同赤軍派の田宮らのグループで,
彼らは日本赤軍ではありません。

私は,
風屋さんが
彼らのことを
「社会的支持をもう得られていたわけではなかった」
というので,批判的認識をもっていらっしゃると
推測します。

私も企業爆破等の闘争方法を指示するわけではありませんが,
私が聞くところ彼らは当時それが正しい政治路線と
考えて行い,
今では真摯に反省しているということを
聴いたこともあるので,

私たちが彼らとは別の考え,
批判を持っているとしても

せめて,
政治党派の名称や歴史的事実を間違えることは,
すべきでない
と思います。

そうでないと,彼らの反省を
正しく聞き入れられないことになると思います。



・・・長文ですみませんでした。
お気に触ったら削除してください。



返信する
>たまびとさん (風屋)
2008-05-16 23:48:43
酔流亭さんもそうですが
リアルタイムでこの頃の東京を経験している方々を
私はとてもうらやましく思えるのです。
永島慎二の「漫画家残酷物語」や「フーテン」などのマンガに
高校時代染まってしまった私は、
同じ空気が吸いたくて東京に出て行きました。
・・・が、残念ながらもうそんな季節は通り過ぎていて
私が体験したのは
「何となくクリスタル」の時代の東京だったのです。
フーテンも全学連もボヘミアン風の芸術家もおらず
爽やかなサーファーやハマトラの女の子がたくさんいました。
まぁすぐに私もそれに染まってしまったわけですが(笑)
返信する
>水屋さん (風屋)
2008-05-16 23:57:55
すみません(^^;
今回この記事を書くに当たって
実は名称等にあまり自信がありませんでした。
ご指摘の通りと反省します。

実は私は小学生の頃から学生運動に憧れがあった分、
実際に見た頃には内向きの暴力に向かっていた新左翼に
幻滅したところが大きかったのです。
「君らの向かうべきはそっちじゃなくて権力だろう」と。
その頃はいろいろ本を読んだりもした積もりでしたが
いつの間にか体制に日和ったオヤジに成り果ててしまい
何でもゴッチャにしていた自分がいました(^^;
やれ、情けなや。

あとで修正してみます。
関係者の皆さん、どうも済みません(*_ _)人ゴメンナサイ
返信する
いえいえ,そんなことありません。 (水屋2号)
2008-05-17 00:19:33
風屋さん,ふたたびこんばんは。

いえいえ反省には及びません。
どうか
お気になさらないでください。


最近,公にこの種の誤りが多いのですね。

連合赤軍の死刑囚である
坂口弘が,
以前,朝日新聞に,いい短歌を投稿してました。

そのころ,
事件当時,坂口らを追い詰めた警察の親分
が本を書いて,その中で,
坂口のことを
企業爆破事件に関与したかのように
誤って記述し,
確か,坂口は獄中から某を訴え,
勝訴したのではなかったかな。

坂口としては,
反省するにしても,
事実をでっち上げられては
みもふたもない,
と思ったのではないかな。

その気持ちわかるような気がします。

「批判」するにしても,
事実を間違って「批判」
したのでは,
お互い生産的ではないなあ・・・。
返信する
>水屋2号さん (風屋)
2008-05-17 13:31:07
いろいろとご心配おかけしてます(^^;

私は心情的には新左翼に近いところにはいたのですが、
ただ一般的に組織というものは
ストイックになればなるほど、理念を突き詰めれば詰めるほど
だんだん方向性を失っていくものだと思います。
あさま山荘や妙義山の事件もそうなのですが
クメール・ルージュもナチスもオウムも典型だと思います。
幸か不幸か、
私が上京して新左翼の活動に手が届くようになった時
すでにそれらは迷走を始めていました。
この本にも書いていましたが
当時著者の高校でバリ封が行われた時、
盛んに(偉そうに)仲間すらアジっていた先輩を見て
昔の帝国陸軍の将校の影を見た・・・とか。
私も私の考えについて自由発言したいクチでしたから
組織の考え方が絶対であり、命令に従うべき・・・
というのはカンベンした欲しいと思いました。
そういう、ある意味彼らが最も嫌った「絶対主義」が
当時の組織を虫歯んでいったのではないでしょうか。

ところで東アジア反日武装戦線は
もちろんイデオロギー的にはアナーキストでしたが
赤軍派と人的に繋がってはいませんでしたか?
もちろん本から得た知識しか持ち合わせていませんので
実際のところは私にはわからないのですが。
返信する
多分・・・ (水屋3号)
2008-05-17 18:05:24
風屋さん,こんにちは。

みたび,ですみません。

東アの諸君が
赤軍派と人的つながりが
あったということは
聴いたことがないです。

多分,風屋さんは,
日本赤軍と共産同赤軍派を
混同されているかと・・・?

両派は,別のものです。

重信らが共産同赤軍派の路線によって
アラブに行きましたが,
共産同赤軍派は,連合赤軍になったときに,
重信らのアラブの活動家は,
それと切れてしまい,
仕方なく,
アラブで,PLOの援助で,
まったく別個の日本赤軍を結成したのです。

テルアビブの事件は,
連合赤軍事件の同志粛清にショックを受けた
日本赤軍による闘いだったようです。
これで,日本赤軍はアラブの英雄となったので,
日本の報道の違いが
印象的でした。

東アの獄中者が
日本赤軍のハイジャックで
奪還されたことがあって
彼ら彼女らが日本赤軍に合流したらしい
事は聞いて事がありますが・・・。
だから日本赤軍とは人的つながりがあるといえば
いえない事はないですね。
でも赤軍派と日本赤軍とは
別の組織です。

東アのキャップの大道寺は
小樽の高校を出て
H大文学部で,全共闘になり,
H大の文学部自治会が
青ヘル(反帝学生評議会,解放派)
だったので,
青ヘルをかぶってたようですが,
解放派ではなかったようです。

H大全共闘が封鎖解除で
大学を追い出された後,
自らの思想的決着がつかず,
大学に戻らず,
そのような人々が
東アの原型です。

確か,宮城県出身の
姉妹の内
おねえさんが
急行十和田から飛び降りて
自殺しましたね。
その妹も,
H大全共闘でした。

もう一人,
パクられたとき
青酸カリを飲んで自殺した
人は,
北海道出身の
都立大全共闘でした。

北の方の方が多かったので,
印象深く,
記憶に残っています。

返信する
>水屋3号さん (風屋)
2008-05-18 19:59:04
すみません、記憶が色々混同してると思います。
以前読んだ本に、森氏や大道寺氏は
共産同赤軍派から途中で離れていった一派・・・
という記述を読んだことがあったように思ったので。
それを読んだのは確かあさま山荘で逮捕された友人のことを
昔からの友人・同士が書いたものだったと思いました。
加藤登紀子さんも
あさま山荘や妙義山の方々が仲間だったようですね。
事件で夫婦共に大きなショックを受けたと
少し前に本に書いてありました。

いずれにせよ、私が小学生時代のこと。
リアルタイムでそれらのイデオロギーに触れたわけではなく
机上で知った(つもりになってた)知識しかありません。
・・・が、風化させてはいけない歴史だとは思ってます。
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