29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

第三者委員会が本当に第三者だった件、および調査の焦点は隠蔽工作

2018-06-30 10:18:14 | チラシの裏
  昨日、日大の悪質タックル事件を調査していた第三者委員会が中間報告書を提出し、記者会見を行った。委員会は、内田前監督が反則指示をした、とはっきり認定した。関東学連の結論と同じではあるが、日大の中の人の一人としてこれはかなりの驚きだった。

  教員の間では第三者委員会はあまり期待されておらず、関東学連と異なる結論を出すために雇われた人たちであり、これまで日大本部が採用してきた立場「監督と選手の間のコミュニケーションの齟齬・言葉の解釈の違い」を繰り返すだけだろうと疑われてきたからだ。関学や被害者への疑義のある対応がすでに報道されていたこともある。委員会の報告は「再炎上案件」になる、というのが教員の間の予想だった。

  その予想は覆された。アメフト部の指示があったかどうかの事実認定だけでなく、隠蔽工作の存在まで明らかにし、現在行われている監督選考にまで意見する仕事ぶりで、聞いていて頼もしいものだった。お見それいたしました。おそらく調査に協力したアメフト部学生たちの正直な意見も影響したのだと思う。

  会見で明らかにされた事実のうち、隠蔽工作の存在はアメフト部の問題ではなく、ガバナンスの問題ということになる。経営陣のどのレベルで隠蔽工作の指示が行われ、どのレベルの人たちがそれを知っていたか、というの今後のガバナンスの正常化を考える上で重大な論点となる。第三者委員会でもこの点を中心に調査がなされることだろう。

  文理学部では、第三者委員会の記者会見の前日に、加藤直之・文理学部学部長兼アメフト部部長が臨時教授会を開いて、学部所属の専任教員に対して事件について説明を行っている。関学からの抗議を受けて日大でも5月中旬にアメフト部を調査していた。学部長の説明によれば「その調査は弁護士に依頼しており、内田前監督からも当該選手からも中立的なもの」ということだった。弁護士が何者だったかは明らかにされていないけれども、おそらく日大の顧問弁護士だろう。

  その調査で出された結論が、日大本部の見解となり、関学への回答書でも日大広報の対応でも学長の記者会見でも繰り返されたと思われる。先日の臨時教授会の段階では、学部長もその学内調査を根拠として内田前監督の言い分にいまだ理解を示していた。しかし、昨日の会見によって、調査対象となる部員に圧力がかけられていたということが明らかになった。5月に行われた学内調査は信憑性のないものだったのだ。経営判断に使われた肝心の情報が歪められていたわけで、この隠蔽工作こそが日大に大ダメージをもたらした原因だといえる。

  というわけで、いったい誰が隠蔽工作を指示したのか、というのが次の論点となる。実際に圧力をかけた人物の名は会見では明らかにされなかったが、別の報道ではある理事の名が挙がっている。他に誰が知っていたのだろうか。「上層部が示し合わせて」という可能性もなくはない。それとも学長や学部長は5月の学内調査に騙されていただけ、ということになるのだろうか。いずれにせよ、上層部の責任が問題となる話だ。そうなったとき、第三者委員会の提言に本部はきちんと対応できるのだろうか。どうなることやら。
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アメフト問題その後の学内の様子

2018-06-29 09:58:43 | チラシの裏
  5月6日に起こった日大アメフト部のタックル事件のその後。最近は沈静化しているものの、世間に流布した「日大=気持ち悪い大学」というイメージは払拭されないままである。先日訪問した教育実習生受入校の巡回先では、僕からアメフト部ネタを中学校の先生にふってみたのだが、向こうからの返答はうなずきだけで言及を避けているようではあった。腫れ物扱いだった。実習生が授業を行う教室に入ったところ、元気な中学生たちから「日大の先生?テレビに映った?」と好奇の目で尋ねられたけれども。

  電話を通じて実家の母は、息子が上司の目に怯えて仕事をしているのではないかと心配していた。「報復人事」の話が広まったせいだろう、教職員は日大本部(学内では経営部門をそう表現する)が怖くて大人しくしている、と。あのねえ、そんなことはないから。あまり話題になってはいないが、文理学部では理事長宛に「事態の早期打開と根本的解決に向けて」という要望書を出してかつネット上で公開している1)。この件に関しては、すでに教職員組合が表に出てアピールしているけれども、教授会での議論も活発だし、個人名義で本部に向けて提案書を出している教員もいるようだ。だいいち、教員の所属の異動など簡単なことではないし、仕事を干すといっても学務や講義が減らされたら研究時間ができてラッキーという話でしかない。

  日大に異動してきて3か月の僕が見聞きしたかぎりでは「日大が暴力や恐怖によって経営されており、このために学内の動きが鈍い」というのは当たらない。教員としては学務が少なくて楽であり、待遇もとてもよい。労働組合への加入率が5%以下と低いのもそのせいだろう。事務職員のほうはわからないけれども。徒党を組んで声をあげるという動機が乏しくなる程、これまでの学校経営は上手くいってきた(ように見えてきた)のだ。だからこそ、教員たちがスポイルされてしまった、とみるのが正確だろう。いつの間にか彼らは本部のやっていることを気にしなくなった。いざ危機が起こってみると、効果的な組織の動かし方や世間へのアピールの仕方がわからない、という状況に陥っているのである。

  今回の件は、報道などで「日大は学生を犠牲にして組織を守ろうとしている」と説明されることがある。日大の教員としてはこの表現はまったく的外れと言わざるをえない。教職員らは「日大本部は、これまで築き上げてきた日大の信用を破壊してまで、特定の個人を守ろうとしている」とみなしている。組織の利益とは無関係な、私的利益のために日大のリソースが使われたのだ。犠牲にされたのは件の学生だけでなく、日大そのものである。本部は大学経営を忘れた。もはや経営上の合理的な判断ができなくなっている本部から、どうやって大学を守るか、これが日本大学の教職員の現在の課題となっている。


1) 日本大学文理学部担当会からのお知らせ
  https://www.chs.nihon-u.ac.jp/other/2018-06-20/8552/
 ちなみにこの要望書の名義「担当会」とは学部長・次長など文理学部の管理職教員のこと。教授会名義とすべきという議論もあったのだが、教授会にこのような内容の文書を議題にする権限がないということで担当会名義になった。内容がヌルいのではないかと教授会で激論になったが、まずは受け容れやすい形で理事長に伝えようということで現状の文言となっている。



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全体の主張は平凡、個々のトピックは秀逸

2018-06-26 10:28:48 | 読書ノート
ダンカン・ワッツ『偶然の科学』青木創訳, 早川書房, 2012.

  社会科学論。著者は根が理系だが興味の対象は人間行動という人のようで、オーストラリア出身で軍人(!)をやっていたという。その後北米で学者生活を経たあと、ヤフーやマイクロソフトで研究員をやっているとのこと。なんだかよくわからないがすごいと思わせる経歴である。原著はEverything is obvious : Once you know the answer (Crown Business, 2011)で、邦訳では2014年に文庫版が出ている。

  書籍全体でなされている主張は目新しいものではない。常識を疑え、社会全体に循環論法による説明がはびこっている、社会科学は物理学のように法則を明らかにするものではなく、複雑で偶発的な要因を探ってゆくものである、などなど。読んでみて「そうだよね、でもそんなこと言い立てて何になるの?何か改善策があるわけ?」という気分になる。しかしながら、説明のために使われるエピソードや研究は面白い。特に著者自身によるものが優れている。

  印象に残るのはミュージックラボ実験である。特定の曲がヒット曲になるかどうかは、偶然であって音楽的な質によるものではない、ということを証明しようとする。ネットで14000人の実験参加者を募り、9グループに分ける。1グループは何の情報も無しに無名バンドの曲を聞いてそれを採点する。他の8グループは、同じグループ内の他人の採点結果を知ることができる。それぞれグループ内で評価が経路依存的となる。結果、得点ランキングは各グループで違ったものになったという。ただし、普遍的に平均より高い評価を受ける曲・低い評価を受ける曲というのも存在していて、曲の魅力はまったく価値相対的というわけでもなかったようだ。

  このほかツイッターを使った実験や、スモールワールド実験も報告されており、それらが本書の魅力だろう。面白いネタに触れて、参考文献に載っている論文を探して詳しく知るという使い方がよろしいと思う。
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遺伝学の批判だが、まずは遺伝学の議論を理解してから

2018-06-22 21:34:41 | 読書ノート
ダルトン・コンリー, ジェイソン・フレッチャー『ゲノムで社会の謎を解く:教育・所得格差から人種問題、国家の盛衰まで』松浦俊輔訳, 作品社, 2018.

  現在の遺伝学の水準はどの程度か、また遺伝を考慮したとき社会はどうなるか・どうあるべきか、を論じる内容。一般向けと著者らはいうが、予備知識がないとけっこう難しい。行動遺伝学とエピジェネティクスの簡単な理解を持っておいた方がいいだろう。原書は The genome factor : What the social genomics revolution reveals about ourselves, our history, and the future (Princeton University Press, 2017.)である。

  最初に行動遺伝学が批判される。一卵性双生児と二卵性双生児の比較によって推定される遺伝率は、環境の影響を誤って多く取り込んでいる、というのだ。理由の一つとして、遺伝子を一部サンプリングしてカウントした場合の遺伝率の値はもっと低くなることが挙げられる。とはいえ、そのような方法もいろいろ問題はあるらしい。著者らは、遺伝の影響を小さくは考えず、ある程度はあるものとして議論をすすめてゆく。エピジェネティクスも視野に入れてはいるが、環境の影響を過大視はしていない。中盤以降は、人種概念の扱い方、国によってなぜ経済発展度が異なるか、遺伝子に合わせたオーダーメイド医療などについて論じられる。未邦訳のBell Curveや『国家はなぜ衰退するのか』が議論の俎上にのせられる。明快な結論というものはなく、「遺伝の話を絡めるのなら、正しい議論の立て方はこうなる」というような論じ方である。

  前世紀とは異なって、今世紀になると人間行動が遺伝によって制約を受けていると論じることはタブーではなくなってきた。遺伝の研究も進んでおりその成果に飛びつきたくなるところだが、「まだまだわかっていないことは多いんだよ」と冷水を浴びせるのが本書の役割だろう。本書を楽しむには順序が重要である。橘玲の『言ってはいけない』などを読んで、まずは近年の遺伝をめぐる議論の洗礼を受けてからのほうがいい。
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明智光秀の動機はいまだ謎である、と

2018-06-19 22:01:05 | 読書ノート
呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書, KADOKAWA, 2018.

  ベストセラー『応仁の乱』に続く呉座先生の新著。歴史解釈の領域で時折現われてくる陰謀論を、実証研究と合理的な推論でいちいち論破してゆくという内容である。扱われるのは、平清盛の登場、源頼朝と義経の確執、鎌倉幕府のごたごた、建武の新政から室町幕府成立、日野富子、本能寺の変、徳川家康などである。

  陰謀論にはパターンがあるという。「結果から逆算した推測」というもので、最終的に得をした人物が敵を陥れるためにはかりごとを仕掛けたかのようにみなしてしまうのである。例えば、室町幕府の成立。足利尊氏が最初から野心に突き動かされて行動していたかのよう考えてしまうと、彼の行動はまるで一貫性がなく精神の病を抱えているかのように見える。このような解釈は合理的ではない。足利尊氏は「そもそも幕府を作る野心を持っていなかった」と考えればすべてつじつまがあう。室町幕府の設立は彼の当初からの目標ではなく、戦乱を経て結果的にそうなっただけであるのだ。

  本書では徳川家康の評価も変わる。家康が石田三成に挙兵させるためにわざわざ会津の上杉討伐に向かったという話は知っていた。フィクションで繰り返し描かれる「狸親父」のイメージのせいだろう。だが、大阪城で第一人者として政治をコントロールできていた人物が、一か八かの戦闘勝負に賭けるという、そんなリスクの高い選択をするわけがないと著者はいう。上杉討伐は家康の慢心が原因であり、石田三成の挙兵は想定外だった。ただし、危機が起こった後の対応において臨機応変で「敵よりミスが少なかった」点が、関ケ原における家康の勝因だという。
  
  というわけで相変わらず面白い。『一揆の原理』『戦争の日本中世史』で見られた「煽り」気味の主張を提示するのは避けられており、『応仁の乱』と同様の落ち着いた筆致となっている。歴史上の偉人たちはすべてを見通していたわけではなく、限られた情報と資源をもとに決断を積み重ねていき、それが歴史になっていった、著者が言いたいことはそういうことだろう。
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一人ひとりは無知なので、チームで考えよう、と

2018-06-15 12:41:30 | 読書ノート
スティーブン・スローマン, フィリップ・ファーンバック『知ってるつもり:無知の科学』土方奈美訳, 早川書房, 2018.

  無知についての認知科学。一般向けではあるが、各種実験・調査の話がてんこ盛りで著者らが何を言いたいのかなかなかわかりづらい本である。「各種実験・調査の話」はそれなりに面白いので、それらを目的に読むといいのかもしれない。原書はThe knowledge illusion : Why we never think alone (Riverhead, 2017.)である。

  主となる主張は「個人は基本的に無知。思考は集団で行われる」ということである。その手段が知人でもgoogleでもいいが、簡単に情報にアクセスできて知識を引き出せると考えている個人は、実際には理解できていないことを「知っている」と錯覚しやすい、という。また、疑似科学の信者に科学的知識を与えても彼らは考えを変えない。なぜなら、彼らの思考は個人のものではなく、属している集団から来るものだからだ、という。これらの問題についていろいろ事例が提示され、最後に人間の認知構造に合わせた教育が説かれる。たくさんのことを知っている人たちを集めて作業させるよりも、狭い専門知識を持った人たちでチームを組ませて作業させたほうが生産的になる。なので、集合知を活かす社会制度設計を、ということのようだ。

  納得させられることは多い。だが、疑問も起こる。知らないことを知っているように思い込むバイアスは普遍的に見られる。こうした勘違いが欠点ならば、なぜそのような傾向が人間に埋め込まれているのだろうか。すなわちそれは進化的なデメリットとはならなかったのだろうか。おそらくならなかったのだろうし、知的に謙虚でないことはメリットさえあったのだろうと、個人的には推測する。こうした疑問に対する説明が抜けているので、無知に関する多面的な検証とは言い難く、残念ながら浅い議論に終始しているという印象が残る。
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「内なる子ども」に突き動かされた作家として

2018-06-12 09:42:42 | 読書ノート
尾崎真理子『ひみつの王国:評伝石井桃子』新潮社, 2014.

  石井桃子(1907-2008)の伝記。世間的には著作『ノンちゃん雲に乗る』や『ピーターラビット』『うさこちゃん』の翻訳など、児童文学作家・翻訳家として知られているのだろう。図書館関係者の間では、東京子ども図書館の前身となるかつら文庫での活動や、著作『子どもの図書館』、リリアン・スミスの『児童文学論』の翻訳などで、児童図書館サービスの先駆者として敬意が払われている。

  これ以上のことはそれほど知られていなかった。読売新聞の記者である著者は、まだ存命中の石井桃子本人に断続的なインタビューを試み、関係者を訪ね、書簡を入手し、彼女の101年にわたる生涯に波乱万丈があったことを明るみにしている。浦和の中流家庭に育ち、日本女子大を卒業した後、文藝春秋社で働いて編集者として頭角を現す。戦時中に同僚女性と宮城へ移住して農地を開墾、戦後しばらくは出版活動のために時折上京する生活だったという。その後はまた東京に戻って活躍を続けることになる。

  この間に出てくる関係者が、菊池寛、吉野源三郎、犬養毅、太宰治などなどそうそうたるメンツで驚かされる。ただし、これは前半生の話。後半生になると取り巻きが女性ばかりになる。文庫版の川本三郎による解説では石井桃子の男性嫌いが示唆されている。子どもにも厳しい人だったようだ。また著者によれば、本人は特に児童文学を専門としたかったわけではなく、大人も読むような小説作品でも評価されることを望んでいたという。さらに、かつら文庫は読書普及のための施設というだけでなく、絵本の翻訳文の選択で子どもの反応を試す機会としても考えられていたという。石井桃子はまず第一に作家であった、というのが著者の見解である。

  その秘められた恋愛経験も含めて、なかなか興味深い作品だった。かなり長いけれども読みごたえはある。NHKの朝ドラとかにもなりそうな題材だよね。なお2018年に新潮文庫になっている。『日本図書館情報学会誌』61(2)号に児童図書館サービスに造詣の深い汐崎順子先生による書評があるよ。
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日本社会にも学歴による分断線があるという

2018-06-08 09:54:04 | 読書ノート
吉川徹『日本の分断:切り離される非大卒者(レッグス)たち)』光文社, 2018.

  社会学。世代(壮年/若年)・性(男/女)・学歴(大卒/非大卒)を基準に、日本人を8グループに分け、それぞれが就いている職の業種や雇用形態、所得、婚姻状況、社会参加や文化活動などの志向を探っている。データはSSM調査とSSP調査を使っているとのこと。後者のSSP調査は初耳だが、著者が科研費を使って始めた意識調査のようだ。第一回が2015年である。

  さまざまなグラフが出てきて「若年女性グループは、学歴と無関係に生活満足度が高い」「若年大卒男性はイクメン意識が高い」などの事実が示される。しかし、もっとも重要な知見は、大卒/非大卒のところで日本人の分断線があるらしい、ということである。非大卒者の客観的境遇は大卒者のそれと比べて劣っている。特に若年非大卒男性は、厳しい境遇に置かれているにもかかわらず、政策的に無視されやすくなっている。日本政府の教育・社会保障政策は「大卒者優遇」になっている(例えば「給付奨学金」など進学の私的負担の軽減策など)。しかしながら、若年層を比較すると、非大卒者は男女ともに大卒者より多く子どもを産み育てている。日本の将来のために、彼ら軽学歴男性(lightly educated guys略してLEGs)が、大卒者と比べて不公平とならない政策を採るべきだ、と議論が展開してゆく。

  学歴による社会の分断に関する議論としては、パットナムの『われらの子供』を踏襲するものである。しかしこの地点から、社会が投資すべき対象は大卒者ではなく非大卒者である、と議論が展開する点がなかなか斬新だった。非大卒者はそもそも進学を望んでいないというのと、彼らのほうが子どもを作るという二つの理由からである。大学進学を不平等の処方箋としがちな最近の言説のカウンターとして興味深い。ただ、支持者を広げるには彼らの代弁者となる人物が出てくる必要があるのだが。
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告解装置としてのGoogle、庶民の隠し事を握る

2018-06-04 07:22:14 | 読書ノート
セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている:ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性』酒井泰介訳, 光文社, 2018.

  いわゆるビッグデータ分析本。Googleに打ち込まれる検索キーワードやFacebookに記入される個人データや記載内容をもとにして、米国における差別の現状や米国人の隠された性的嗜好を明らかにするという書籍である。著者の研究だけでなく、テレビ広告の効果やエリート高校入学の効果などについての他人の研究にも言及があり、あちらこちらに話が飛んでゆく盛りだくさんの内容である。原書はEverybody lies: Big data, new data, and what the internet can tell us about who we really are(Dey Street, 2017.)である。著者は博士号を持つものの大学人ではなく、Googleの元社員で今はライター稼業をやっているとのこと。

  いろいろネタがあるのだが、個人的に衝撃を受けたやつをまず紹介。「人を特定のチームのファンに変えるものは?」と題された節では、フェイスブックを用いて「生涯のいつ頃に好きな球団が形成されるのか」を探っている。ニューヨーク・メッツに対して「いいね」を押しているファンの出生年の分布を調べると、1960年代初めと1970年代後半の二つの山が現れるという。メッツは1969年と1986年にワールド・シリーズで優勝している。他チームのケースも総合すると、8歳前後に身近なチームの優勝があるとその魅力が刷り込まれて生涯のファンになる、と推測されている。心当たりがありすぎる。僕は、あまり熱心ではない中日ドラゴンズファンだが、それでも1982年の優勝は記憶に残っていて、そのとき9歳だった。多くの例外があるので確率の問題ではあるけれども。

  検索のトレンドから効果的なコミュニケーションの方法がわかるというのも面白かった。オバマ大統領が演説しているのと同時間帯の検索キーワードを拾った研究が紹介されている。イスラム教徒によるテロに対して「イスラム教徒への差別は止めましょう」と説くと、「イスラム教徒を殺せ」などの検索が増えたという。お説教は反発を呼ぶのである。しかし、イスラム教徒のスポーツ選手、軍人、警官、医師、教師がアメリカ社会に多く存在することを訴えた演説スタイルを大統領がとると、ヘイト的な検索は減少したという。このほか、米国人の性の悩みや、エリート校進学の影響、ビッグデータを使った消費者の操作、アマゾンのカスタマーレビューを使った本を読了する確率の推定などについての話も興味深い。

  時折「分身分析」なる語が出てくるのだが、いったいどういう統計手法なのだろうか。似たような属性の集団を探してきて、同じ属性を持つ人物の経過・その後を予測するという。これはいわゆる傾向スコアマッチングを使った分析のことなのだろうか(ただし僕もその手法についてよくわかっていない)。こうした分析手法については詳しい記述はなく、一般読者向けに平易にまとめている。
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エレクトリック・ギター発展の紆余曲折史。日本のメーカーも登場

2018-06-01 11:27:35 | 読書ノート
ブラッド・トリンスキー,アラン・ディ・ペルナ『エレクトリック・ギター革命史』石川千晶訳, リットーミュージック, 2018.

  エレキギターについて、楽器そのものの発明・改良の歴史を中心に置きつつ、著名なギタリストを軸にした奏法およびサウンドの発展史を加えながら、ふたつを絡めて論じている。ジョージ・ビーチャムによるピックアップの発明に始まり、チャーリー・クリスチャンとレス・ポール登場の影響、フェンダーとギブソンの二社による開発競争とその没落、マディ・ウォーターズのエレクトリック・ブルース、ビートルズとリッケンバッカー、ボブ・ディランの電化、ジミ・ヘンドリクスらによるエフェクトの探求、PRSや日本製品など新興メーカーの参入、ヴァン・ヘイレンの自作ギター、ジャック・ホワイトが使う安物ギター、などなどと話が展開する。原書はPlay it loud : An epic history of the style, sound, and revolution of the electric guitar (Doubleday, 2016.)である。

  面白かったのは、ヴィンテージ化のパラドクスを匂わせる部分である。ギターヒーローが使用するものと同じ機種は、例えば「エリック・クラプトン愛用のレス・ポール(こちらは人名ではなく機種名)」というように、憧れの対象となってプレミア価格がつくようなる。一方で、それを買うお金のない若者は反発して、世代の差を示すために敢えて安物ギターを抱いてバンドを始めるという。1970年代半ばにエルビス・コステロやテレビジョンがフェンダーのジャズマスターを用いていたのはそういう意味であり、1960年代に主流だったテレキャスターやストラトキャスターは年寄りが使うダサいものになった、と。しかし、かつては安物欠陥ギターとされたジャズマスターも、ソニックユースやマイブラ御用達となって今では「名機」化している。そこでもっと若いホワイト・ストライプスはさらにわけのわからないメーカーのおもちゃのようなギターを手にしてグラミー賞に登場したという具合である。

  全体として、かなりロック寄りの記述であり、しかもハードロック/へヴィメタル寄りに見える。ジャズ系のギタリストとして上記クリスチャンとレス・ポールは一章分使って大きく取りあげられているけれども、その後のジム・ホールやパット・メセニーは一箇所で言及されるだけ、ウェス・モンゴメリーとビル・フリゼルについては記述無しである。ポップ・ミュージックの領域でも、リズム・ギターの名手には冷淡で、ナイル・ロジャースやウィルコ・ジョンソンには言及されない。日本人としてはベンチャーズをもっと、加えてぞうさんギターにも触れてほしいところである。邦訳で500頁を超える長尺なのでやむをえないとも言えるが、そうした偏りもある。とはいえロック好きならばかなり楽しめること請け合いである。
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