29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

数値評価が非効率を生み、目標達成を阻害する

2019-05-28 13:46:48 | 読書ノート
ジェリー・Z.ミュラー『測りすぎ:なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』松本裕訳, みすず書房, 2019.

  定量評価の戒め本。統計学の細かい話ではなく、数値評価の導入によってメンバーの行動が歪められてしまうケースを集めて紹介している。ただし、数値評価全般が批判されているというわけではなく、組織の目標達成が損なわれるような、誤ったインセンティヴを与える数値評価を止めよう、という限定された主張を行っている。原書はThe Tyranny of Metrics (Princeton University Press, 2018.)で、著者の専門は歴史(経済史)である。

  定量的評価の失敗例は、大学、学校、医療、警察、軍、ビジネス、慈善などの領域からとられている。手術の成功数で医者の報酬が決まるならば、医者は手術して治る見込みのある患者を優先し、状態の悪い患者を引き受けなくなる。重犯罪の発生数で警察署長の出世が決まるならば、そして児童生徒の成績で学校の先生の雇用維持が決まるならば、両者は数値を改竄して数値を誤魔かすようになる。大学の先生は、論文数で評価が決まるので、長期の研究はやり難くくなっている、などなど。

  著者曰く、専門家が自己反省のためにそうした評価を参照するならば問題は小さい。しかし、それらが、職員の給与や出世の情報源として使用される場合は問題が起こりやすい。数値化しにくいけれども重要だという業務が行われなくなり──それが職員間のコミュニケ―ションだったりする──、数値化されているが重要でない業務に職員のエネルギーが割かれるようになる。または、測定にはコストがかかるが、測定されたデータがそのコストに見合う価値がない場合もある、などと。

  以上。納得させられることは多いものの、以前に戻すわけにもいかないだろうというのが読んでの感想である。事前に組織のメンバーの行動の因果構造が分かっているわけではないので、定量評価はインセンティヴを歪める可能性があるというのはそうだろう。しかし、それを止めたらまた元にもどるのだろうか。そこがよくわからない。むしろ、適切なインセンティヴが働くように評価法を改良したほうが建設的だと思う。だが、それにはコストがかかりすぎるかもしれない、と再反論されるわけか。
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近い将来のことならば予測の精度を高めることはできる、と

2019-05-24 09:48:32 | 読書ノート
フィリップ・E.テトロック, ダン・ ガードナー『超予測力:不確実な時代の先を読む10カ条』土方奈美訳, 早川書房, 2016.

  未来を予測する能力を測定することを試み、平均より成績のよい人たちの特徴を分析するという一般向け書籍。著者のテトロックはカナダ出身米国在住の心理学を専門とする大学教授、もう一人のガードナーはジャーナリストである。原書はSuperforecasting: the art and science of prediction (Crown, 1995.)。2018年に早川書房から文庫版が発行されてる。

  話のネタは、米国のインテリジェンス機関の支援を受けた"The Good Judgment Project"なるテトリックによる予測コンテストから。コンテストでは、北米全土から参加者を募り、「北朝鮮は半年以内にミサイル発射実験を行うか」といったさまざまな事象に、起こりうる確率で答えてもらうというもの。その結果わかったのは、予測の精度は個人においてランダムとなっている、というわけではなくて、参加者の平均値よりもコンスタントに高い確率で正確に予測する人々を発見する。彼らは「超予測者」と名付けられる。「みんなの意見」よりもよりよい予測ができるのだ。

  では超予測者はどういう存在なのか。知的に謙虚で、問いをより細かい質問に分解して考え、情報を求めて調査をするも新しい情報に大きく左右されない、などの特徴を持つ人々だ。ずば抜けて頭がいいわけでも、数学がものすごいできるわけでも、超ニュースオタクでもないとのこと。ただ、それぞれ普通の人よりはできる方だとは言えそうだ。読んだ印象では、慎重な性格で・偏屈さの少ない・頭のいい人たち、という感じである。本書はさらに、そうした性格タイプへの批判(「重大な決断ができないのではないか」など)も折り込んで議論を展開している。

  個人的には、テレビに出てくるコメンテイターたちは、周囲から「予想を外した」などと言わせない言葉遣いをおこなっているという指摘は興味深かった。すなわち「大したことは何も言っていない」のだが、だからこそテレビにとって安全というわけなのだろう。読みやすく、中身も面白い書籍である。
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日本人は教育を私的なものと考える

2019-05-20 15:00:19 | 読書ノート
中澤渉『なぜ日本の公教育費は少ないのか:教育の公的役割を問いなおす』勁草書房, 2014.

  教育社会学。日本における教育への公的支出は諸外国に比べて低い。タイトル通り、なぜそのような現状となったのか理由について探っている。結論としては、日本国民が教育の社会的メリットを理解しておらず、教育への公的負担を強く支持していない、ということになる。一方、副題の「教育の公的役割」は十分検討されているわけではなく、それを前提として教育費の増額を求めているという印象だ。その検討は次著『日本の公教育』に詳しい。本書は、学術書ながら一般の人にも読める内容ではある。ただし、公会計における教育費や日本人の意識における教育費の地位を探るような細かい議論が続く。

  政府支出における教育費の割合の国際比較から議論を説き起こし、教育の社会的機能を確認した後に次のようにトピックが展開する。近代教育制度発展の歴史、教育費と社会保障関連支出との比較、政府財政と教育費をめぐる戦後史、民主党政権に至るまでの国民の公教育に対する意識。このうち日本人の意識についてだが、日本では教育が親の責任と見なされ、政府自治体の役割と考えない傾向にある。また、教育費への公的支出への賛否については、年齢が高いほど賛成、子ありも賛成、自営業者やブルーカラー層・無職者は反対、学歴が低い層も反対、性別や収入は無関係とのことである。

  上の賛否の話で、高等教育に限った話ではないのに、ブルカーラー・低学歴層が反対する理由はよくわからない。学校でいい思いをしなかったというの個人的経験が理由となっているのではないだろうか。あと、年齢が上がると賛成になるというのも不可解で、おそらく教育で若者をしつけてやろうという教育幻想が年配者にはあるのではないだろうか。教育はこういう過剰な否定や過剰な期待が寄せられがちで、アカデミックな教育学者の何人かは「教育にできないこと」を説いている。本書の著者もそうだ(『日本の公教育』)。ただし、教育にできないことをうるさく言いすぎると、じゃあ予算減らしてもいいよね、ということになりそうで、話の持って生き方が難しい。
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セルフタイトルの作品が二枚あってややこしい

2019-05-17 17:20:22 | 音盤ノート
Reverie Sound Revue "Reverie Sound Revue" self-released, 2003.
Reverie Sound Revue "Reverie Sound Revue" Boompa Records, 2009.

  カナダのカルガリーのロックバンドらしいが詳細不明。すでに活動を止めているみたいだ。ネットで探すと「Broken Social SceneのメンバーであるLisa Lobsingerが在籍していた」という紹介がなされているが、そもそもBroken Social Sceneを知らなかった。Youtubeで偶然見つけて気に入ったので、全作品を聴いてみた。

  2003年のセルフタイトルの作品は、もともと6曲入りEPとして発表され、2009年に2曲追加されて8曲入りCDとなり、さらにその後1曲削られて7曲収録の作品としてレーベルBoompaからダウンロード販売されている。ストリーミングでも聴けるようだ。音は1980年前後のスカスカした空間的ニューウェーブ系サウンドを想起させるもので、クリーンな音色のギターがコロコロと展開し、薄いシンセサイザーが隙間を埋めていくというものだ。リズム隊はストップ・アンド・ゴーを多用するが、ひねったリズムとなっているわけではない。女性ボーカルの声質がThe Cardigansっぽくもある。ただ、大人しく落ち着いたサウンドでありながら、時折ボーカルが力強く声を張り上げることもあり、お洒落にはならない。

  2009年のセルフタイトルの作品はアルバムである。ただし、バンドは一旦解散しており、メンバーがカナダ全土に散り散りになった状態で作成された(おそらく上記EP時代はカルガリーの学生バンドだったということなんだろう)。鍵盤の担当者がメンバー間でメールをやり取りしてバンドの各パートの演奏を録音・編集し、最後にボーカルを録れて完成したとのこと。2003年EPとバンドの編成は同じだが、シンセ音が目立たなくなって──正確にはオルガンやエレピに近い音色で弾くようになり、機械的でなくなった──ニューウェーブ感が後退した。ボーカルはウィスパーではないものの小さな声で歌い、楽曲も内省的である。コーラスのお経っぽいところはStereolabのようだ。落ち着いていて地味だが、暗さや重さはなく、ほのかな暖かみがある。

  発表されているのは以上の二作品のみである。感情表現に抑制的な女性ボーカルは好みなので、個人的に2009年のアルバムについてはとても素晴らしいと感じる。ロックバンドながら、知性と洗練を感じさせる。
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米国20世紀後半の出版業の変遷の回顧録

2019-05-12 20:04:16 | 読書ノート
アンドレ・シフレン『理想なき出版』勝貴子訳, 柏書房, 2002.

  米国出版事情および回想録。著者はユダヤ系でフランス出身、幼いころの第二次大戦期に家族とともにニューヨークに移住している。父が出版業を営んでいた縁もあって、出版業の世界に身を投じたとのこと。原書はThe business of books : how the international conglomerates took over publishing and changed the way we read (Verso, 2000)である。20世紀後半になると、大手出版社の吸収合併によって、米国では良心的な小規模出版が難しくなっているというのが大筋の話である。

  すでに多くの書評が出ているので詳しい内容については割愛。僕が疑問に感じたのは、著者が記すような「それほど経営に苦しくなく、過去のカタログの販売で細々とやっていけるような小出版社」が、なぜ身売りするのか、という点である。著者は、子会社部門の収益は黒字だったが、オーナー側が利益率をもっとあげようと締め付けてきて、少部数だが長期の需要のある本が発行できなくなってきた、というパターンを描いている。けれども、そもそも単独で食っていけるならば、大手の傘下に入らなくてもよいではないか、と思うのだが、その理由は本書を読んでもよくわからなかった。儲け主義が嫌ならば「インディーズ出版社」を続けていればよいはずで、実際そうしている多くの小出版社がある。

  身売りする一つの理由は、米国では寡占気味の取次がないことの問題だろう、と推測する。つまり、小出版社は大手出版社への身売りによって販路が広がるわけだ。ただ、販路を広げたところで買収した側が期待するほどその種の「良心的な本」の売り上げは伸びない。そこでオーナー企業はもっと利益を上げろと迫ってくる──こんな感じなのだろう。そう考えてゆくと、全国津々浦々の書店に販路をめぐらせている大手取次の存在は日本の小出版社にとっての僥倖、と言っていいのだろうか。微妙な気もするな。
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さまざまな領域の統計予測をめぐる長めの考察

2019-05-08 21:23:26 | 読書ノート
ネイト・シルバー『シグナル&ノイズ:天才データアナリストの「予測学」』川添節子訳, 日経BP社, 2013.

  統計分析を根拠とした「予測」の問題点や限界について、事例を使って説明する一般書籍。ベイズ式が出てくるが、それ以外の数式はない。著者は在野のアナリストで、MLBや大統領選のデータを集めてブログで分析結果を発表してきた人であるとのこと。特に、2012年の大統領選でオバマが勝つ州と得票差を完璧に当てたことで知られているらしい。もともと野球のデータ集めが趣味で、趣味が高じてというやつらしい。ただし、シカゴ大の経済学部出身である。

  挙げられている事例は、野球、天気予報、地震、経済、インフルエンザ、チェス、ポーカー、地球温暖化、テロ、である。それぞれの領域での予測における問題点が採りあげられ──相関と因果の混同、モデルの過剰適合など──シグナル(予測に貢献するデータ)とノイズを見分けることの難しさが説かれる。ただし、ある程度は改善可能でもあり、ベイズ的に考えることが勧められる。(けれども、解説を書いている西内啓は、本書で批判されている伝統的な統計学にも利点があると留保を付けている。)

  500頁と長いが、理屈を展開する部分は半分程度で、あとは取材にもとづいた各領域の専門家の発言で構成されている。かなりの量がインタビューにもとづいて書かれているのである。この点を、読みやすくなったと評価するか、冗長に感じるかだが、個人的には後者だった。タメになった知見も多いのだが、統計の戒めの本だとしたらもっと短く書けたとも思う。だが、各領域の動向を報告する本だと考えれば楽しめるだろう。
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知られざる明治の大衆文化は極度に野蛮だった

2019-05-04 10:53:38 | 読書ノート
山下泰平『「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』柏書房, 2019.

  明治大衆文学史。タイトルの面白さに惹かれて読んでしまった。著者は、国立国会図書館のデジタルコレクションを使って明治の大衆向け小説を読み漁り、ブログ1)を通じて紹介してきたとのこと。

  読む前は著者の興味に従って目立つ作品をチェリーピッキングして紹介するだけの内容かと想像していたが、予想以上に体系的な歴史書となっている。とはいえ、著者の踏み込みすぎた解釈や言及もあり、真面目な研究書という感じでもない。明治の大衆娯楽物語には、著者の見立てによれば講談速記本、最初期娯楽小説、犯罪実録の三種類あって、それらは現在まで残っている純文学作品とはまったく異なるものだったという。これらは大正期にちゃんとした大衆小説が誕生することで一掃されたとのこと。

  で、当時の大衆娯楽物語の内容がいくつか紹介されるのだが、ほぼすべてが豪傑が悪い奴を殺すか痛めつけておしまいというストーリーである。もちろん、時代につれての変化もあるし、犯罪者について伝える犯罪実録はまた趣きが異なるけれども。当時はまだ読者のレベルが低くて、推理小説が翻訳・紹介されても人気が出なかった。超人的な腕力を持つ豪傑が正義の暴力を行使することで読者はカタルシスを得ていたようだ。『舞姫』の主人公も洋上で鉄拳制裁を受ける。

  一方で、明治はリアリズムの時代であり、江戸の妖術といった荒唐無稽は許されない。というわけで、作品の中で豪傑たちの「力」の理由が合理的に追求されるようになる。一人で軍団を壊滅させるような豪傑は時代が進むにつれて読者にウケなくなり、リアルな喧嘩での強さが主人公の属性になる。そうした文脈で、幽霊や忍術を合理的に説明しようとした作家として三宅精軒という作家が再評価される。その結果、忍者は子供向け作品に受け継がれる。

  内容は上のようなものだが、そこからはみ出す指摘も多く、明治の混沌ぶりを知ることができて面白いだろう。ただし、紹介された大衆娯楽物語を読んでみたくなるかと言えば、そうはならないだろう。正義でコーティングされているとはいえ殺人と暴力が跋扈する殺伐とした無法世界であり、当時のインテリがこのような大衆の文化を軽蔑したのはよくわかる。本書は、これら大衆娯楽物語が今では顧みられない理由(少年漫画にのみ受け継がれた理由)もうっすらわからせてくれる。

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1) 山下泰平の趣味の方法 http://cocolog-nifty.hatenablog.com/
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