29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

経済成長のメカニズムはわからないのだから再分配を、という

2020-07-30 09:47:11 | 読書ノート
アビジット・V.バナジー, エステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学:社会の重大問題をどう解決するか』村井章子訳, 日本経済新聞, 2020.

  一般向けの経済学書籍。バナジーとデュフロは、ランダム化比較試験を使った貧困の研究で知られており、2019年にノーベル経済学賞を受賞している。このコンビには、すでに『貧乏人の経済学』という邦訳があるが、本書はその視野を先進国にも広げて論じた第二弾ということになる。原書は Good economics for hard times: better answers to our biggest problems (Allen Lane , 2019.)である。

  本書で繰り返し提示される認識として、人間はそうやすやすと生活スタイルを変えたりしない、というのがある。経済的に上昇する機会が開かれていたとしても、失敗した場合のリスクがどれほどかもわからないので、人々は仕事を変えたりしないし、住む土地を離れたりしない。たとえ失業や貧困の中にあっても、これまで築いてきた人的ネットワークの利用が見込める現状の方に留まりがちである。世間で考えられるほど途上国から先進国への移住は頻繁ではないし、国際貿易の進展やテクノロジーの発達によって失業した先進国の住民も、期待されるほど新しい仕事探しに熱心ではない。経済学が想定するような均衡状態への移行は、けっこうな長い時間がかかるのだ。

  一方で、経済成長を促進する政策について経済学は特定できていないという。すなわち、パイの分け前を増やす方法についてはわからない、ということだ。途上国ならばある程度はキャッチアップによって発展する余地があるけれども、将来のいつかの時点で頭打ちになると予想されている。では先進国の政府は経済政策として何をしたらよいのか。国の幸福度を高めること、そのための分配方法の付け替えである。超富裕層から多くを取って、貧困層に与える。ただし、分配はデリケートに行わなければならない。富裕層に対しては、所得だけでなく資産にも課税する。でないと、格差の拡大は止まらない。貧困層に対しては、彼らを不利な状態に留めおいていたいた要因──スティグマをもたらす福祉制度など──を取り除き、彼らの尊厳を回復して社会に貢献してもらう、と。

  以上のようなストーリーの合間に、経済をめぐる論争や経済学の実証研究の紹介、著者が経験した事柄、具体的な政策提言などが挟まれ、それらが全体をふくよかなものにしている。例えば、投資の合理性についてははしばしば問題になるけれども、良い投資先を見つけるのは難しく、民間でも政府でも同じように失敗がある。民間の投資機関はリスク回避であるからこそ、知らない人が経営する企業ではなく、不効率であるもののよく知っている親族の企業にお金を回す。また、著者らによればベーシック・インカムは日雇い的な仕事に就労する層の多い途上国では機能するという。しかし、安定的な雇用労働者の多い先進国には適していないとし、失業給付と労働訓練・再就職支援のセットの方を勧めている。

  で、邦訳タイトルのように希望を感じられる内容だったか。これは読む人が属する社会層によるだろう。読者の大半が属する中間層に対しては、北欧並みの税金が課されるのを受け入れるよう提言される。そのメリットは、失業したときにスムーズに転職や住居移動ができる(生活水準が維持できるとは言ってない)、平等化によって現状のような国内の社会対立を避けることができる、という二つである。これは、悪いとは言わないが、喜びたくなるようなものでもないというのが率直なところだ。日本の失われた二十年をめぐる議論では、分配方法の変更こそが政治的に困難であり社会対立を呼び起こす──日本では高齢者が多くの資産を持っている──ので、2%程度の経済成長を目指そうという方向になったのではなかったか。
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米国人でも人口の半分から1/3ぐらいは内向型人間だという

2020-07-26 07:00:00 | 読書ノート
スーザン・ケイン『内向型人間のすごい力:静かな人が世界を変える』(講談社+α文庫), 古草秀子訳, 講談社, 2015.

  自己啓発書。著者は現ライターで元弁護士。自身の内気な性格と積極性が尊ばれる米国文化との折り合いに苦労してきたために、この主題で調査したとのこと。原書はQuiet: the power of introverts in a world that can't stop talking (Crown, 2012.)で、最初の邦訳は『内向型人間の時代:社会を変える静かな人の力』(講談社, 2013.)である。この文庫版は二つ目の邦訳版となり、さらに抄訳版として『内向型人間が無理せず幸せになる唯一の方法』(講談社+α新書, 2020.)が発行されている。

  「内向型人間」を理解し、彼らに対して生き方を、そうでない読者に対しては彼らとの付き合い方を指南する内容である。内向型の子どもを持った場合の指導法の話もある。記述は、心理学系の文献と、研究者やカウンセラーへのインタビュー、自己啓発セミナーの取材などが材料になっている。著者はビッグファイブの知識を持ちながらも、敢えて「人間は「内向型」と「外向型」の二つに分けられる」というざっくりした分類だけで話を進める。刺激に敏感(だから大勢の前は苦手)という性格と、物事をコツコツと粘り強くやり抜くという性格は、ビッグファイブでは別の特徴として描かれる。だが著者は、内向型はその二つを併せ持っているとする(外向型はその逆として描かれる)。「シャイでかつ怠惰」という人もいるんじゃないの?と疑問に思うところだが、そこは自己啓発書である。読み手を慰撫して前向きな気持ちにさせれば成功なのだろう。

  そういう強引さを脇においておけば、個々のエピソードで興味深いところがないわけでもない。例えば8章。米国でもアジア系の家庭は内向型を理想とする文化を保持していることが多い。しかし、そうした文化は、自己主張を至上とする米国においてアジア系の評価(主に学校での)を低めているかもしれないという。ここは、個人的にはそういうことか、とかつての経験を思い出して納得したところ。

  かつて英文科に所属していたときのこと。日本人学生が米国に語学留学する際、英文でエッセイを書かせて先方に送ることがある。日本人学生は「英語はまだまだ未熟だけど頑張ります」みたいな謙虚なことを書くのがデフォルトだ。だが、それを読むと向こうの先生は出来の悪い学生を押し付けられるのかと心配するようだ。一方で、「私は他人よりできる。もっと上を目指したい」みたいな自信過剰気味なことを書く学生はあっちでは喜ばれる。日本人からからみれば、たかが作文のハッタリにコロッっと騙される先生にうちの学生を評価させて大丈夫かという気にはなる。これはけっこうカルチャーショックだった。米国でもそういう風潮に違和感を感じている人がいることがわかって、少々安心した。
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2010年代の米国産ポップカルチャーの動向まとめ

2020-07-22 07:00:00 | 読書ノート
宇野維正, 田中宗一郎『2010s』新潮社, 2020.

  2010年代の洋楽と洋画をめぐる対談本。著者二人ともロキノン系の編集者としてキャリアをはじめた評論家で、独立して田中宗一郎は『スヌーザー』という雑誌の編集長になり(2011年に廃刊)、宇野維正は『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書, 2016.)などの本を書いている。いわゆるサブカル本であり、僕には言及される固有名詞の2/3ぐらいがわからず、そのうえ2010年代を象徴するものとして本書で挙げられた作品のほとんどを鑑賞していない。以下は、こういう、まったくわかっていない人の感想である。

  2010年代はメインストリームで面白いことが起っていた、というのが宇野の主張。メジャーの網をかいくぐるように、ヒップホップがSNS経由で台頭し、映画やドラマの領域ではネットフリックスが大きな影響を持つようになり、社会問題を巧みにエンタテイメントに昇華した長編ドラマが盛んになった。メジャーすなわち大資本の領域でも変化があり、ポップミュージックでは女性やマイノリティからかつて以上に多くのスターが輩出し、白人男性の市場占有度は落ちているとのこと。また、映画やドラマにおいては、作り手が広いファン層を包摂するべく、異なるアイデンティティを持ったさまざまなキャラクターを登場させ、競わせるようになったとのことである。

  固有名詞がわからないながらも読み進めたのは、3章や4章で扱われるスポティファイとネットフリックスの位置づけについて知りたかったから。スポティファイ登場以前の00年代に、ライブ会場がメジャー系列の子会社となってインディーズバンドの参入が難しくなったとか、日本における洋楽プロモーション方法が変化して新人アーティストを紹介し難くなったなど、この辺りの話は興味深かった。また、ネットフリックスなどネット配信会社に過去の作品へのアクセス機会を期待してはいけない、といった洞察もある。一方で、映画館などの末端は、「既得権益のために抵抗する利権団体」みたいな言及のされ方がなされている。

  日本は2010年代に大衆文化はドメスティックになり、ガラパゴス化していったという指摘もある。個人的に大学生を観察していてもそう思う。だが、本書でその理由については十分考察されていない。本書で紹介された音楽をいくつか聞いてみたが、ラップについては英語がわからないとどうしようもないよなあ、という感想を持つ。音数も少なくスカスカだ。2010年代の映画やドラマを大して知らないのだが、本書で紹介されている『ブレイキングバッド』を見た限りではやっぱり人を選ぶ、という印象だ(面白かったけれども)。日本人にとって、2010年代の米国の音楽やドラマのメインストリームは米国ドメスティックすぎる。というのが、僕の印象である。
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進学叶わなかった若年労働者の教養への憧れ

2020-07-18 11:50:16 | 読書ノート
福間良明『「働く青年」と教養の戦後史: 「人生雑誌」と読者のゆくえ』(筑摩選書) , 筑摩書房, 2017.
福間良明『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書) , 岩波書店, 2020.

  それぞれ、1940年代後半から1960年代にかけての時期に見られた、中学卒または定時制高校卒の若い非エリート少年少女の「教養」熱を扱っており、その後の衰退の話もある。どちらも主題は同じで扱われる材料もかぶる。『「働く青年」と教養の戦後史』は彼らの教養熱を支えた「人生雑誌」の栄枯盛衰からアプローチしているのに対し、『「勤労青年」の教養文化史』は非エリート読者の境遇を詳しく描くというアプローチをとっていること、また「人生雑誌」の行く末が前者と異なったニュアンスとなっていること、これらが少々の違いである。

  『「働く青年」と教養の戦後史』によれば、1960年代前半までまだ高校進学は一般的ではなく、成績優秀であるにもかかわらず実家の貧困を理由に就労せざる若者が多くいたという。彼らのうち、自分の「生き方」を真面目に考えてしまうような、内省的で文学を好むようなタイプを惹きつけたのが、「人生雑誌」というカテゴリである。『葦』や『人生手帖』といった雑誌は1950年代後半にかなりの数の読者を獲得していた。「人生雑誌」は、学歴へのアンビバレントな態度をとりつつ、実利や地位とは切り離された教養のあり方を模索した。また、その読者が置かれていただろう、悪辣な労働環境や社会の在り方を批判しながらも、当時流行っていたマルクス主義の運動とは一線を画した。そうした運動の指導者が高学歴者であるため、警戒感もあったという。

  『「勤労青年」の教養文化史』では、人生雑誌の読者となる若年層の苦闘について詳しい。高度経済成長以前はまだ農業従事者が人口の多くを占めており、読書や勉強会のようなささやかな行為ですら、非生産的で生意気な行為として年配者から排撃された。彼らが都会に出てきたとしても、中卒の学歴では待遇の良い就職口はなく、小さな商店や工務店でその労働力をとことん搾取された。また、雇用主の妨げで定時制高校に通うのも難しく、行けたとしても定時制高校の施設は非常に劣悪だった(昼間部では開いている学校図書館が夜間では閉まっている、など)。彼らは、人生雑誌を読むことを通じて、似たような境遇の若者と悩みを共有したという。

  こうした悲惨な状況は、高校進学率の上昇や労働環境の改善(高度経済成長による人手不足のため)によって解消されてゆき、併せて人生雑誌の読者も減少していった。1970年代以降、『「働く青年」と教養の戦後史』では、一部の人生雑誌が「健康」を主題とする雑誌に変貌して生き残ったことを、『「勤労青年」の教養文化史』では、読者らの知的関心が俗流歴史学(「戦国武将に学ぶ会社経営」みたいなやつだ)に流れこんでいったことを示唆して終わる。

  それぞれ、面白いけれどもなんだか悲しい。生まれた時代によっては僕もあちら側の人間だったはずなので、本書に登場する読者のことを他人事とは思えない。実際、団塊の世代となる僕の父母の知人や親族には、中学卒業後に愛知県に来て工場で働いているという人が少なからずいる。彼らは、読書を通じてではないけれども、新聞(『中日新聞』!!)を毎日隅々まで読んで知識を身に着けようとするんだよね。「彼らを救ったのは経済成長であって、教養ではない」と結論したくなるが、そう単純化したくはないという思いも残る。
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「好き嫌い」研究の途中報告、決定的な結論はない

2020-07-14 07:00:00 | 読書ノート
トム・ヴァンダービルト『ハマりたがる脳: 「好き」の科学』(ハヤカワ文庫NF) 桃井緑美子訳, 早川書房, 2020.

  趣味嗜好がどう形成されるかを探った科学ルポ。著者は研究者ではなくサイエンス・ライターであり、文献調査とインタビューによってまとめられている。原著はYou may also like: taste in an age of endless choice (Knopf, 2016.) で、最初の邦訳は『好き嫌い:行動科学最大の謎』(早川書房, 2018.)である。この文庫版は2018年邦訳の改題である。

  食べものや飲みもの、音楽、美術が主な議論の材料になっており、服や猫の好みについて少々の言及がある。慣れ親しんだものを好きになるという単純接触効果と、自分の来歴や自己をどうディスプレイしたいかという対社会関係上の戦略(こちらはブルデューから)で好みが形成されるというのが、ベースとしてある認識だ。そのうえで、音楽や美術における特有の事情や、味の識別などの細かい話がある。個人的には、2章におけるアマゾンのカスタマーレビューやネットフリックスにおけるレコメンドについての議論は、設計者へのインタビューや細かい傾向などの分析などがあって面白かった。4章の批評の影響とその客観性をめぐる議論も興味深い。

  情報量は豊富でためになる本ではあるものの、不満がないわけではない。音楽や食品のような細分化された領域に関心を向けすぎたために、「好み」は環境によって形成されるというステレオタイプな結論に陥ってしまったように思える。しかし、糖分が好まれたり、赤ちゃんをかわいいと感じるような、人類に普遍的にみられる「好き嫌い」もある。なので、生物学的な視点も取り入れつつ「環境の影響」も考察すべきだっただろう。性的嗜好のような生物学的な制約と関連する領域を本書で扱わなかった(敢えて?)ので、そのせいで視野が限定されてしまったように思える。

  あと、この文庫版特有の問題もある。まず、改題されたタイトルは「ハマりたがる脳」になっているが、内容的には「脳」学の本だとは言い難いのだから、旧邦訳のタイトルのままのほうがよかった。あと、旧邦訳にはあった原注はカットされてしまい、インターネットからダウンロードするという形に変更されている。その量は71頁もある。注の全編が参考文献リストであるならばそれでいい。けれども、実際は原注でデリケートな議論が展開されている箇所もあって、多少価格が上がっても紙版に納めておいてほしかった。
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しばしば参照される人的資本論の古典だけれども

2020-07-10 07:00:00 | 読書ノート
ゲーリー・S.ベッカー『人的資本:教育を中心とした理論的・経験的分析』佐野陽子訳, 東洋経済新報, 1976.

  経済学。人的資本について論じた研究書でかつ古典。著者は1992年にノーベル経済学賞を受賞している。原書はHuman capital: a theoretical and empirical analysis, with special reference to education (University of Chicago Press) で、初版は1964年で、第二版は1975年、第三版が1993年に発行されている。邦訳は第二版を底本としており、第三版対応の訳はなされていないようだ。

  前半は理論編となっており、数式を展開しての証明が続く。後半は実証研究編で、データは1930年代から60年代前半の米国の国勢調査などから。分析データの提示の仕方が条件付きの推計値が多くて、回帰分析ベースとなる近年の報告スタイルと異なっている。これらの点で一般の人にわかりやすい内容とは言えない。なお、本書は大学進学の収益率を12%程度と見積もっているが、この値は能力差による大学進学へのセレクション・バイアスを考慮してのものだ。日本での近年の研究より値が高めである。

  著者のベッカーは、典型的な「市場」以外の様々な人間行動にも経済学的な分析を適用できることを示した学者であり、ある意味「元祖行動経済学者」と言えるだろう。ただし、人間の不合理性を強調する現在の「行動経済学」とは異なり、人間はインセンティヴに対して合理的に反応すると仮定する。この点が「現在的な視点で読み直す」という動きとならない理由なのかもしれない。15年ぐらい前のベストセラー『ヤバい経済学』のスタンスはベッカー系統なんだけれどもねえ。
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さようなら創文社、20年以上に及ぶ積読状態ともお別れ

2020-07-06 07:00:00 | 読書ノート
マックス・ウェーバー『支配の社会学』世良晃志郎訳, 創文社, 1960-1962.

  ウェーバーの遺稿集『経済と社会』の第9章の翻訳。この9章だけでも、I巻とII巻で700頁弱ある大著である。6月30日に出版社である創文社が廃業する(そして講談社が版権を継承する)というニュース1)を知って、長期間積読本となっていたのを本棚から引っ張り出してきて読んでみた。

  普段、僕は書籍をどこで購入したかはあまり覚えていないのだが、この本については1998年の夏に旅行先の福岡の古書店で入手したことをはっきり記憶している。松坂大輔を擁する横浜高校が甲子園を席捲していた年の夏だ。学部時代の知人の実家が福岡にあり、偶然立ち寄った「古書の葦書房」(2015年に閉店)でこの本を見つけて、関東まで持って帰ってきたのである。当時、佐藤俊樹の『近代・組織・資本主義』(ミネルヴァ書房, 1993.)を読んで非常に感銘を受けたというのがあって、ウェーバーを読まなくちゃと強く思っていたのだった。

  内容は、形式合理的な近代の官僚制度として比較して、封建制、身分制、家産制、カリスマ的支配体制、教権制的な支配(つまり宗教による)体制などを分析している。西洋だけでなくイスラムから東アジアまで各国の歴史的諸制度を取り上げているものの、それら各国の制度について十分な説明がないために非常にわかりにくくなっている。例えば、日本の封建制とヨーロッパのそれはある点で同じだが、他の点では異なる、というような話が延々と続いていく。そして、結局どうなの?という疑問に答えるまとめの部分がなくて、消化不良になる。死後発表された遺稿集だからしようがないのだけれども。

  22年の積読期間を経てやっと読了したものの、購入した当初にあったウェーバー熱は呼び起こされることはなかった。かつては、「西洋と日本だけが封建制を経験したので近代に移行できた」(大塚久雄)みたいな議論があり、1980年代から90年代にかけては儒教に「プロテスタンティズムの精神に相同する概念」を探す試みも流行った(佐藤俊樹のがそれ)。だが21世紀になって、東アジア諸国だけでなく、東南アジアやインドのような国でも資本主義がそれなりに発展していく様を見ていると、今やそれらにあまり説得力はないように思える。

  とはいえ、2020年は没後100周年ということでウェーバーをネタにした新書が二点ほど出ているし、フランシス・フクヤマの近著( 1 / 2 / 3 / 4 /)もウェーバーからかなり概念を借りている。きっと、まだ使い道はあるのだろう。若いうちに読んでおくべきだったな。歳をとって感性が鈍ってしまった。

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1) 創文社の全書籍が絶版免れる 講談社がオンデマンド形式で出版へ (2020/7/2) / 東京新聞
  https://www.tokyo-np.co.jp/article/39332
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2020年上半期に読んだ本そのほか短いコメント

2020-07-02 01:00:00 | 読書ノート
詫摩佳代『人類と病:国際政治から見る感染症と健康格差』 (中公新書), 中央公論, 2020.

  医療をめぐる国際政治を扱う内容。4月半ばに発行されており、新型コロナについても少々言及されている。それによれば、ペストやコレラの流行からまずヨーロッパで国際的な保健協力の枠組みが出来上がり、赤十字社の活躍などを経て第二次大戦後にWHOが設立される。WHOは、天然痘を根絶し、撲滅には成功していないもののポリオ、マラリア、エイズなどへの対策では国際協力を取り付けて成果を上げてきた。ただし、エボラ出血熱に関しては、国連や国境なき医師団のような民間団体のほうがうまく機能したようだ。また、WHOは常に資金不足で、出資者の影響を受けることは避けられないという。生活習慣病の改善のために食材をランク付けようとしたら、米国の食品メーカーから猛反発を食らったとか、圧力と戦いつつたばこの規制は成功した、など。国際的に感染症対策においては、先進国の人に目につく病気に資金がそそがれ、それら以外の病気への対策は遅れがちになっている。こうした現状に関して、著者は先進国の資金に振り回されるのはまあしようがない、でもトータルでみればうまくいっているというスタンスのようだ。ただし、中国のやり方も先進国のそうしたエゴと変わらない、というようにまとめられているが、どうなんだろう。

松下貢 『統計分布を知れば世界が分かる:身長・体重から格差問題まで』 (中公新書), 中央公論, 2019.

  統計学。正規分布、べき乗分布、対数正規分布の三つを使って、世界の諸現象を解釈しようとする試み。正規分布の例としてよく挙げられる身長も、年齢によっては正規分布だったり対数正規分布だったりするとのこと。また、都市や国の経済の規模など、時間を経て累積効果が積もってゆくと、ランク上位のグループは対数正規分布からべき乗分布に移行してゆくという傾向がみられるという。語り口は面白く難しいということはないけれども、統計学をわかっていないとなぜ分布の話が延々と続くのかわからないかもしれない。正規分布を仮定した分析から前にすすみたいと考えている人向け。

橘木俊詔『子ども格差の経済学:「塾、習い事」に行ける子・行けない子』 東洋経済新報, 2017.

  学校にかかる経費だけでなく、塾や習い事への費用を含めて「教育費」を検討する内容。で、高所得の家庭ほどそういった教育費がかかっていることが指摘される。さらに、エリート大進学者は良い家庭の出身者なので、給付型奨学金を与えると逆進的な再分配になる、したがって貸与型のほうがよい、などとアドバイスされる。このほか、教育費に関するいろいろなデータが紹介されている。でもまあ「普通そうなるよね」という感じのデータが多く、センセーショナル事実が明らかになったという印象はない。常識をきちんと数字で裏付けたという点を評価すべき本だろう。

スティーヴン・K.ヴォーゲル『日本経済のマーケットデザイン』 上原裕美子訳, 日本経済新聞, 2018 .

  日本経済論。機能する民間市場を作るには、規制緩和一辺倒ではなく適切な規制の設定が必要だと主張する。会社所有や雇用についての法規制、独占禁止法の適用や知的所有権の重視など、米国の規制事例の成功と失敗を挙げながら、日本の規制は不十分だからこそ失敗していると分析している。したがって、日本政府はこまごまとした規制をきちんと設定していけばうまくいくという。でも、一部に日本的なビジネス慣行(例えば雇用慣行など)を維持したままで、はたして機能する民間市場が日本に生まれるのだろうか。個人的には、「抜本的な改革」でうまくいくというような話よりも魅力を覚えるけれども、本書で展開された規制の各論についてはよくわからない。

安藤寿康『「心は遺伝する」とどうして言えるのか:ふたご研究のロジックとその先へ』 創元社, 2017.

  行動遺伝学。双生児をサンプルとして遺伝や環境の影響をどのように計算するのかについて詳しく解説する書籍。いちおうそれなりの説明があるとはいえ、分散や相関レベルといった統計学の初歩的概念だけでなく、パス図や共分散構造分析の話まででてくるので、数学が苦手な人には難しい部類かもしれない。あくまで、遺伝率や環境の影響の計算方法(かつ厳密にそれらが何を意味するのか)を知りたい人向けだろう。あと、行動遺伝学の最新動向(エピジェネティクスなど)を知りたいという人にも向いている。というわけで、入門者には、同じ著者によるブルーバックス『心はどのように遺伝するか:双生児が語る新しい遺伝観』(講談社, 2000)のほうが良いと思う、もう20年前の出版だけれども。
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