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関わる権利が多すぎて使われなさすぎの富も問題だという

2020-03-28 17:17:17 | 読書ノート
マイケル・ヘラー 『グリッドロック経済:多すぎる所有権が市場をつぶす』山形浩生, 森本正史訳, 亜紀書房, 2018.

  経済学。まとまった形となっているならば適正な量まで活用できるのに、所有権が細分化されていてさまざまな利害関係者がいるために過少にしか消費されない、という現象を扱っている。共有地の悲劇の逆で、「アンチコモンズの悲劇」と著者は記す。原書はThe gridlock economy : how too much ownership wrecks markets, stops innovation, and costs lives (Basic Books, 2008)で、著者は米国の学者。ソ連崩壊直後にロシア政府のアドバイザーを務めていたというエピソードも出てくる。

  権利が分割されているがために適性な規模での財やサービスを生み出せない、という例として以下が挙げられている。知的所有権(とくに製薬プロジェクトが関係者の特許によって暗礁に乗り上げているとのこと)、米国の電波(分割が行き過ぎたためにサービスが悪いらしい)、不動産(都市開発の失敗と相続の結果としての細分化)、ソ連崩壊後のモスクワ(権利関係が複雑すぎて不動産市場が機能しないこと)、米国チェサピーク湾における牡蠣漁(建国時から1960年代に至るまでの州間での不法操業の取り締まり合戦があったらしい)など。

  気になったのは、日本の住居が狭いのは米占領軍の改革によって権利が細分化されたからだ、という指摘。これは違うだろう。日本の不動産の宿痾となっている借地法の改正は1941年で、戦時中である。改正は、大家側はすでに入居している借家人の契約更新希望を拒絶できない、という内容であった。私権を拡大しようという目的ではなく、弱者保護を名目に私権を制限して国民統合を目指した政策である。この結果、長期間の入居が見込まれる家族向けの賃貸物件の供給が減少し、独身者向けの狭い物件ばかりが賃貸市場で供給されるようになったと言われている。とはいえ、この指摘は話の本筋ではない。

  で、この問題の解決策は?ということになるが、控えめな提案しかなされていない。行政がちゃんとモニターして、所有権が一つにまとまるよう誘導する、すなわち過少利用が起きないよう法律を改正したり行政指導したりする。民間の側も、財をまとまった形で有効利用できるよう団体を作って管理する。読者としては、これらができないからグリッドロック経済が起こるのではないのか、という疑問も残る。取引費用を低める仕組み、というのはないのだろうか。言いわけとしては、本書はまずこの現象を読者に認識させることを優先したということだろう。

  以上。後書きによれば、翻訳は原書出版直後に早く完成していたものの、予定していた出版社によって理由不明のまま刊行中止とされたたらしい。このため2017年からしばらくの間、訳者のサイトでpdf版が無料公開されていた。ただし、亜紀書房から本書が出版されてから公開が取りやめとなっている。
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米国における教育に対する過大な期待とその敗北

2020-03-24 07:38:09 | 読書ノート
デイヴィッド・ラバリー『教育依存社会アメリカ:学校改革の大義と現実』 倉石一郎・小林美文訳, 岩波書店, 2018.

  米国教育改革史と改革についての批判的検討。現代アメリカ教育事情をルポルタージュする内容と見紛うようなタイトルとなっているが、扱う範囲は19世紀からで、かつかなり思弁的な内容である。著者はスタンフォード大学の教育学者で、原書はSomeone has to fail : the zero-sum game of public schooling (Harvard University Press, 2010.)である。

  米国の教育改革には、19世紀初頭の小学校設立を求めるコモンスクール運動、20世紀初頭のジョン・デューイらの子どもの関心を重視する進歩主義教育、1960年代の公民権運動の余波(有色人種も女性も障害者も教育にアクセスできるようにせよ、という)、1990年代の標準化運動(教育内容の全国での標準化を求めた)、および同時期の学校選択制を求める運動、この五つがあったという。このうち目的を達成したのがコモンスクール運動だけで、進歩主義教育はレトリックとして教育界に普及するものの制度として定着せず、他の三つは失敗した、と著者は判定する。

  その理由は、これら改革が学校制度をいじるだけにとどまり、教室における教師の行動に影響を与えるものではなかったからだ、と著者は喝破する。教室が変わらない限り、教育は変わらない、と。ところが、これら改革の挫折は望ましいものだった、と著者は加える。教育改革言説は、教育のメリットを私的利益に寄せて語りすぎており、改革は生徒らの公共心を失わせる可能性がある。これに対し米国の教室の保守性は防波堤となって、生徒が教育内容を緩く受け取ることを可能にし、余暇を通じて現代社会に適応できる人材を供給させているのだ、と評価してみせる。

  以上。要は、現場が抵抗するので改革はうまくなんかいかないよ、という話である。この点は事実の話の範囲だが、改革者が理想とする教育より現状のほうがマシ、という価値判断も本書にはある。格差を気にしなければそうなのだろう。しかし、国や州で統一されたカリキュラムのほうが生徒の負担が減るという別の議論もあって、首肯できないところだ。改革の失敗が生徒に被害をもたらしている可能性も考慮すべきだと思う。
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容疑者とのかすかなすれ違いがあったので

2020-03-20 08:20:59 | チラシの裏
  3月16日夕、男が埼玉県庁前で別居中の妻を刺殺して逮捕された、というのがニュースとなった。僕はさいたま市民なのであの辺りをうろうろしたことがあるが、殺人現場は浦和駅の西にある官庁街の中で、埼玉県警にも近い。土地が広く開けていて、逃げ隠れできるようなところがない。容疑者にあったのは殺意だけで、後のことは考えていなかったのだろう。あるいは即捕まるつもりだったか。

  驚いたのは、容疑者・浅野正が文教大学・人間科学部の准教授だったこと。文教大学は僕の前任校であり、五年間という短期間ながら在籍期間は彼と重なっている。ただし、僕の所属は文学部だったし、委員会などで同席したこともないので、容疑者のことはまったく知らない。キャンパス内ですれ違ったことぐらいはあるかもしれないが。

  事件の翌日に大学側が記者会見をして頭を下げた。会見に挑んだ四人とも僕が在籍した時代にお世話になった方々だ。謝罪は世間を相手に「お騒がせしました」ということなのだろう。だが、この件では文教大学は被害者である。大学側は、教員を失い、世間の評判を落とすことになった。

  しようがないこととはいえ、この謝罪には理不尽さを感じた。被害者側が謝罪しなくてはならない風潮はどうにかならないものかと思う。事件は、夫婦関係という、容疑者のプライバシーの上で起きたことで、大学組織が管理していることではない。組織内の優越的地位を悪用したパワハラとかではないのだ。プライベートな領域で事件を起こした職員が所属していた、そういうことで組織が批判されなければならないとしたら、組織は職員の私生活を監視しなければならなくなる。

  なお、現時点で動機についてはわかっていないとのこと。別居が人生のほころびだったとはいえ、地位もあり、子どももいるような人がやるようなことには見えない。「中年の危機」を乗り越えられなかったのだろうな。とりとめのない話になってしまったが、ショックは受けている。
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がん研究と治療を総合的に解説する一般向け書籍

2020-03-16 10:32:34 | 読書ノート
シッダールタ・ムカジー『がん:4000年の歴史』(ハヤカワ文庫NF) 田中文訳, 早川書房, 2016.

  がん研究と治療の歴史と現状を伝える一般書籍。「4000年の歴史」というのは大げさで、エピソード的に近代以前の話が述べられているけれども、主に19世紀後半以降の医学や分子生物学の展開がほとんどを占めている。著者はインド系の米国人医師で、自身が診療したがん患者の話も出ててくる。原書は The emperor of all maladies: a biography of cancer (Simon & Schuster, 2010.)で、最初の邦訳は2013年に早川書房から 『病の皇帝「がん」に挑む:人類4000年の苦闘』というタイトルで発行されている。

  全体が6部構成で、上巻は、がんという病気が認知されて1950年代に始まる米国でがん治療のための政府資金を求める運動となったこと、1960年代の大量に薬を投与する治療──がん細胞だけでなく正常細胞にも悪影響を与える──や、乳がん患者に対する容姿を損なうほどの徹底的な切除手術の流行、こうした治療の結果を総合してもがん患者の死亡率は増えていた(計算法にもよる)という1980年代の総括が記述されている。

  下巻の最初は、喫煙やマンモグラフィーなどの予防医療についてで、因果関係の検証の難しさやタバコ産業の対抗策が語られる。また、1980年代から90年代にかけて盛んにおこなわれた骨髄移植の流行と凋落についても言及される。中盤以降は、がんの遺伝的メカニズムの話で、1980年代以降に急速に解明が進んで効果的な治療薬があらわれるまでに至ったことが解説される。といっても、白血病などの一部のがんについてであって、すい臓がんなど部位によってはまだ手の施しようないとのこと。

  以上。上下巻併せて1000頁弱となる大著ながら、飽きずに読めた。人類はまだ完全にがんを克服できてはいないし、まだ謎も残っているけれども、以前よりは優れた対処ができるようになっているとのことである。ただ、再発した場合は、以前使っていた薬が役に立たなくことが多いようだ。数年前に肺がんを分子標的療法で克服したという知人がいて、今やもうがんは治るのだと驚いたことがあった。だが、その知人は最近になって再発したとのこと。今回も大丈夫だろうと思っていたけれども、本書でこのことを知って落胆させられた。
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市場の失敗への政府介入を廃するものではないが、不信はある

2020-03-11 14:45:22 | 読書ノート
ロナルド・H.コース『企業・市場・法』(ちくま学芸文庫) 宮澤健一, 後藤晃, 藤垣芳文訳, 筑摩書房, 2020.

  経済学の専門書。取引費用や負の外部性における制度的対応について扱う古典である。著者が発表した1937年から74年までの論文のうち五編と、新たな書下ろし二編を加えた論文集で、1988年に原書The firm, the market, and the law (University of Chicago Press)が発行されている。邦訳は1992年に東洋経済新報から発行されており、訳者によればこの文庫版では翻訳の大幅な改稿がなされているとのこと。

  取引費用とは、市場において財やサービスを購入するさいに伴う情報収集や手続きといった手間のこと。そうした手間への負担が馬鹿にならない場合、財やサービスの生産工程をひとまとめにしてしまえ、ということで企業が存在する。もちろん、企業の規模が大きくなりすぎるとどこかしら不効率が発生する。というわけで、企業内で行っていた作業を外注してアウトソーシングするという動きも出てくる。本書のもっとも古い論文は、取引費用を考慮して市場を考えるべきだという、今では当然の主張の端緒となったものである。

  あとの論文は、公共財や負の外部性などの市場の失敗があるとき、誰がそれを埋め合わせせるべきか、を扱ったもの。取引費用がゼロのときは、被害者か加害者のどちらに責任(賠償するか、または負の外部性を伴う経済活動を止めるようお願いする立場になるか)を割り当てても、社会全体の生産性は変化しない(コースの定理)。しかし、現実にはそんなことはないわけで、政府による直接の規制か、または政府による巧みな責任の割り当てが必要となる、ということも示唆されている。

  コースの定理は政府介入がなくても市場の失敗に対応できることを示したと誤解されることが多い。しかし、訳者解説は、これが市場の失敗に対して必ず政府の介入を退けるものではない、ということを強調している。定理における「取引費用がゼロ」という条件は現実には満たされない、というのだ。そうなんだけれども、誤解させるのもさもありなん、という読後感もある。本書全体に「必ずしも政府の介入が信用できるわけではなく、大抵それは不効率で、何もしないほうがマシ」というメッセージが色濃いからだ。こうなっているのは、1980年代の新自由主義勃興の雰囲気の中まとめられた書籍だからなのだろう。
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社会にとっての「善」を設定する立法者が資本主義を機能させる

2020-03-07 10:53:55 | 読書ノート
サミュエル・ボウルズ『モラル・エコノミー:インセンティブか善き市民か』 植村博恭, 磯谷明徳, 遠山弘徳訳, NTT出版, 2017.

  機能する資本主義経済には「道徳」が必要だとする経済学の書。いわゆる「合理的経済人への批判」であるが、凡百の経済学批判と異なり、数々の実証研究(公共財ゲームやら最後通牒ゲームやら)をエビデンスとして代わりの理論を(萌芽ながら)提案しているところ。『制度と進化のミクロ経済学』や『協力する種』の続編で、論証の部分はかなり難解である。原書は The moral economy: why good incentives are no substitute for good citizens (Yale University Press, 2016.)である。

  市場経済の失敗として、公共財の過少供給や負の外部性などがある。これらについては、報償や制裁などを設定して適切なインセンティブをデザインすることで対処できると経済学者の間では考えられてきた。ところが、協力行動が望まれるところで外部からインセンティブを持ち込んでしまうと、人々にもともとあった公共心すなわち利他的心性を侵食してしまうことがある、というのが最初の議論である。インセンティブによって社会をコントロールしようとすると、無償の協力行動が減少し、人々をより利己的にしてしまうのだ。

  しかし、文化あるいは文脈によってインセンティブの影響の仕方はプラスにもマイナスにもなる、というのが続く議論である。先進国を見る限りでは、「法的規制→公共心の低下→さらなる法的規制」という負のスパイラルが起こっているようには見えない。先進国のモラルは全体として十分に市場経済を支えているようだ。問題がありそうなのはそうでない国の社会である。ならば、どういう状況下においてインセンティブは失敗するのか。それは、統制したい行動を価値中立的にみせてしまうとき──イスラエルでの保育園お迎え遅刻罰金の話(『ヤバい経済学』にも出てくる)が例示される──である。また、監視される側を不信の目で見ることもダメらしい。

  というわけで、立法者は、インセンティブに加えて、人々の自己コントロール感を残しつつ、「ある種の行動は良い/悪い」というメッセージを発することも必要だという。すなわち、協力を促進する振舞いを「善」だとするメッセージを政府が伝えるべきだという話である。こういうのは個人の価値観に介入するもので、コミュニタリアン的ではあるけれども、リバタリアンやリベラルが嫌う政府だろう。うーん、この結論にはちょっと引っかかるけれども。でも、個人主義者に対して「でもそういう政府の下にいた方が多くの自由と多くの富を獲得できるかもよ」と利己心に訴えて説得することはできるだろう。ただし、本書が示唆するのはそういうのは野暮だ、ということなのだが。

  
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平成出版史と出版産業改革への提言

2020-03-03 21:28:50 | 読書ノート
能勢仁『平成出版データブック:『出版年鑑』から読む30年史』ミネルヴァ書房, 2019.
岡部一郎『出版業界に未来はあるのか:出版人に贈る出版の未来と生き残り策の提言』出版企画研究所, 2019.

  昨年秋に発行された出版関連本二冊。『平成出版データブック』は平成期の出版の栄枯盛衰がわかる記録集である。『出版業界に未来はあるのか』は、衰退する出版産業に対する業界関係者による提言である。

  『平成出版データブック』の前半は編年体での平成出版史となっており、各年毎にニュース、ベストセラー、各種賞の受賞作、発行部数他の統計、2~3ページ程度の解説によってまとめられている。後半は文庫や公共図書館などの30年の推移、出版社や取次、小売書店などの分析がある。興味深いのは、平成期に「ムック」が乱発されてきたという指摘で、平成後半には9千を超える発行点数となり、返品率が50%を超える状態になっているという。知らんかった。

  『出版業界に未来はあるのか』は、出版関係者に対していくつか提案している。このうち印象に残るのは、出版社には価格の引き上げを、取次には出版社に対する取引差別を止めることを、小売書店には出版社と直取引をすることを訴えている。そうとははっきり書いていないけれども、「大都市にある大型小売チェーンが、直取引で単価の高い本を大量仕入れする。小出版社はそれによって生き残るが、小さい小売書店は消える、取次の役割は縮小」という構図がイメージできる。

  両書籍とも返品率の高さを問題視している。そこに取次の危機という「流通における共有地の悲劇」をみるわけだが、小出版社にとってその解決策がAmazonになっているというのが岡部著の見立て。Amazonと直取引した場合の小出版社の利益は定価の6割程度だという話を高須著で知って「搾取だけしからん」と憤っていたが、この岡部著が示す取次との取引条件と比べてとりたてて酷くないということがわかる。
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