29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

「学校の英語の先生がいい人だから英語に興味を持った」って

2013-11-29 19:40:58 | チラシの裏
  先日、勤務校の指定校推薦入試の面接官となった。僕は文学部英文科(正式には英米語英米文学科)所属なので、同科に進学したいという高校生たちと面接した。

  ほとんどの受験者は、緊張してコチコチに固まっており、覚えてきたセリフを流暢に披瀝することに一生懸命である。面接する側の立場から言えば、準備された答えは面白いものではなく、もうちょっとその場で考えたことを言葉にしてみて、人柄や能力を率直に見せてほしいと思う。とは言うものの、こういう場で飾らずに振る舞うというのは成人になっても難しいことかもしれず、高校生ではなおさらだろう。これはしようがない。

  尋ねてみて驚かされたのが、英語に興味を持った動機である。僕の頭の中では、語学というのは手段であり、まず外国の文学・映画・音楽・料理そのほかさまざまな文化事象に関心があって、それらをよりよく理解するために習得するもの、という先入観があった。確かに、文化への興味を挙げた受験生もいたことはいた。しかし、何人かの受験生は「中学または高校の英語の先生が良かったから」だという。ええっ、そういう理由で特定教科を勉強したくなるの?こうした返答をまったく想定していなかったので、うまく質問を続けることができなかった。うーむ、考えを改めなければならない。

  「先生好き」というのは、文教大学のような教員養成が盛んな学校特有の動機なのかもしれない。
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生ピアノを使ったロック風エレクトロニカ。未消化な部分もあり

2013-11-27 17:10:04 | 音盤ノート
Aufgang "Istiklaliya" InFin, 2013.

  エレクトロニカになるのか?。鍵盤二台とドラムというトリオによる構成だが、生ピアノを大々的にフィーチュアしているところが特徴である。このアルバムは二枚目にあたる。鍵盤と電子機器担当のFrancesco Tristano Schlimé(フランチェスコ・トリスターノ・シュリメ)はすでに名の知れた若手「クラシック」系ピアニストらしいが、僕はよく知らない。

  エレクトロニカと言っても、反復中心のミニマルなテクノとは違い、クラシック風の複雑な曲展開を目指しているようである。ドラムは割と普通のロック系で、シンセ音や打ち込み部分もあまり凝ったものではなく、1980年代のプログレやフュージョンを思い起こさせるところがある。率直に言って、まだ実験段階という印象だ。似たような試みとして、ジャズ系だがブッゲ・ヴェッセルトフトのもの(参考)があるが、あちらのほうがエレクトロニクスの使い方が繊細で洗練されている。鍵盤の力量はこちらの方があるが。けれども、電子音と生ピアノを組み合わせることの難しさはここでも同様である。全体で一番良い部分が、"African Geisha"という酷いタイトルの曲における、電子音少なめの中での静かなピアノソロである。速い曲だとせっかくテクニカルな生ピアノが後景に引いてしまい、もったいない。

  というわけで、どこをポイントにして聴けばいいのかわかりにくい作品だろう。曲展開か、生ピアノか、電子音か。どこかにちょうどよい配分比率があるはずで、それがうまくいけばより優れた音楽的快楽がもたらされるはずである。
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脳についての説明も面白いが、やはり症例の数々に興味がゆく

2013-11-25 08:54:50 | 読書ノート
V.S.ラマチャンドラン, サンドラ・ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』山下篤子訳, 角川書店, 1999.

  脳科学本。その最初の読むべき一冊とでも言うべき著書。著者のラマチャンドランは脳神経学が専門で、幻肢や一部身体機能の不随などから、解剖学的見地と照らし合わせて、脳の各部の機能を推論している。

  内容は、幻視の痛みを鏡を使って消す、自分の親を他人だと主張する、半身不随の患者が自分の状態を認識しない、脳の一部に刺激を与えると神の啓示を受けたような状態になる、など奇妙な症例をもとにしている。脳は各部位に分かれて情報処理と判断を行っており、一部が機能不全に陥ったり、相互の連絡経路が絶たれたりする。ここから、脳の各部の機能が理解できる。ただし、それぞれが稀なケースであって、頭を開いてたくさんのデータを集めるというわけにはいかない。そのため、著者は説得力のある説明を求めてちょっとした実験を行い、加えてあれこれ思弁を繰り出すのである。

  邦訳が2011年に文庫版となったが、最近の文庫にしては本文のフォントがかなり小さく、原注はさらに小さい。年配の方はハードカバー版を探した方がいいと思う。
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武雄市図書館に行ってきた。複本は二冊まで?

2013-11-22 06:56:25 | 図書館・情報学
  機会があって武雄市図書館に行ってきた。別のエントリにすでに記したように、特に目新しい図書館というわけではない、というのが僕の考えである。しかし、その後ネットを通じてそのOPACを検索してみると、ベストセラー本の複本をあまり持っていないのがわかった。もしや、同じ本を館内で買わせているのか?そうだとしたら、これは「新しい」。考えを改めなければならなくなるかもしれない。そう思って訪問してみた。



  仮に、数冊以上の販売点数が見込めそうな書籍については所蔵せずに館内で売ってしまい、そうでない書籍でかつ図書館向きであるものは所蔵するという方針であったならば、これは議論を呼ぶ選書方針だろう。指定管理者が利益を追求したら、ある意味で「公共的」な図書館蔵書が出来上がるというパラドクスである。複本が少ない分住民の読書需要を十分満たすことはできないが、対して代わりに多くのタイトルを図書館は購入できるわけで、ストックを重視する論者からは支持されていいはずの考え方である。出版社ならば、このような方針を持つ図書館を歓迎すべきだろう。ただし、指定管理者のCCCは小売もやっているので、その売れ残った本を所蔵させられているという可能性もあるし、そうでなくても選書の能力が不十分という可能性もある。今回の訪問ではその辺りを見極めたかった。

  で、どうだったかというと、確かに複本は少ない。販売スペースで展示されていたベストセラーランキング上位の書籍の所蔵を調べてみたところ、次のような結果だった。『人間にとって成熟とは何か』1冊、『海賊とよばれた男』2冊、『ロスジェネの逆襲』2冊、圏外ながら春先のベストセラー『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も2冊だった(別館は除く)。人口5万人程度の市の図書館の複本数としてこの数が多いか少ないかが問題だが、慶應大の糸賀先生が比較に使ったお隣伊万里市図書館では、本によっては4冊ほど入れている。だから、武雄市図書館は抑えていると言っていいだろう。(ちなみに委託前の平成12年中に購入したと推定される『スタンフォードの自分を変える教室』は5冊ある)。

  また同じくベストセラーの『人生はニャンとかなる! 』や堀江隆文『ゼロ』は販売のみで所蔵していなかった。それぞれこの秋に出たばっかりの新刊だが、いずれ所蔵されるのだろうか。さらに、販売スペースで平積みされていた『ヴィジョナリーカンパニー』シリーズだが、各巻ちゃんと所蔵されているものの一巻のみ書庫になっているのはなぜだろう。書架には二巻以降が並んでいた。

  一方で、所蔵される新刊本は、図書館に適したものだったのか。率直に言って、短時間の訪問では判断つきかねるところがあった。『正社員の研究』のような渋い新刊が入っている一方、ベストセラーになった『統計学が最強の学問である』は所蔵していなかった。だが、このようなムラはどこにでもあることかもしれない。うーん新刊のチョイスはこんなものなのか?灰色文献がどこに置いてあるのかわからなかったし、政令指定都市の図書館に慣れた身からはちょっとという気もする。自分の中でこの規模の図書館が所蔵すべき書籍の基準がはっきりしていないこともあって、なんとも言い難い。

  以下煽りを込めてコメントすると、複本2冊というのは図書館界に対して弁解がましく、かつ中途半端すぎる。何をやってもどうせ批判されるのだから、売れる本は販売のみで所蔵しないという大胆な方針でやってほしい(そして売れる見込みが無くなったら所蔵する)。その代わりとして、公共図書館としてストックを重視するという方針が無ければならないけれども。すなわち、単純な読書量の追求ではなく少数の良質な読書を支援する、一方で同じ空間で私企業として利益を追求する、と。このようなコンセプトは両立可能であるように思えるし、広く議論を呼んでほしいところである。

  しかしながら、今年秋の図書館総合展の際のように、糸賀先生に「貸出数が少ない」と突っ込まれてキレている1)ようでは、運営者側はまだ従来の公共図書館イメージに縛られていると言わざるをえない。複本を抑えているという実態があるのだし、あそこは「貸出数なんか目標としていません」と返すべきところだっただろう。糸賀先生も、樋渡市長が「公設民営のブックカフェで何が悪い」と切り返すの期待していたはず。僕としてはもっと逸脱してほしいのだが、以上が無責任な物言いであることは自覚している。

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1) 図書館総合展「"武雄市図書館"を検証する」全文(樋渡啓祐市長、糸賀雅児教授、CCC高橋聡さん、湯浅俊彦教授)-激論、進化する公立図書館か、公設民営のブックカフェか? / ハフィントンポスト
  http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/31/takeo1_n_4186089.html
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いろいろ難しいことをやっているのにどこか安い印象のあるフュージョン

2013-11-20 09:15:49 | 音盤ノート
Weather Report "Procession" Columbia, 1983.

  フュージョン。リズム隊としてOmar Hakim (d)とVictor Bailey (b)を加入させた後期ウェザーリポートの最初の作品で、以降どんどん評価を落としてゆき1986年に解散する。そうした時期の作品ながら、このアルバムは比較的出来が良いと言える。

  最初のタイトル曲は、ザヴィヌルとショーターは基本的にテーマの反復を主にこなし、ドラムとベースが徐々に盛り上げるという構成。2曲目のショーター作‘Plaza Real’はよくカバーされる有名曲。3曲目‘Two Lines’は跳ねるような新生リズム隊の演奏に瞠目するが、双頭二人のソロが今ひとつ。4曲目‘Where The Moon Goes’は、Manhattan Transferを使ってわざわざアフリカ音楽風のコーラスを歌わせる面白い曲で、かつショーターのソロがとても良い。5曲目‘The Well’は双頭二人による共作で、静かで美しいバラード。ハキム作の最後の曲‘Molasses Run’はこのアルバムのベストトラックで、彼はギターも弾いており、メンバー全員も文句無しのスリリングな演奏を聴かせる。

  ウェザーリポートのLPはプレス数が多かったのか、中古レコード屋でよく100円で叩き売られている。僕が手に入れていたこれもそう。最終作"This is this"(1986)だけ見つからない。
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日本の伝統的な絵画図法は現代日本人の嗜好にも影響しているという

2013-11-18 10:33:44 | 読書ノート
増田貴彦『ボスだけを見る欧米人みんなの顔まで見る日本人』講談社プラスアルファ新書, 講談社, 2010.

  文化心理学のかなり平易な入門書。東洋人と西洋人の間にある認知や思考パターンの違いを記したもので、部分的にはニスベット著(参考)とトピックが重なる。著者はカナダ在住の心理学者であり、最後の章で多文化主義のメリットを強調している。

  芸術と情報量の違いについて比較した箇所は面白い。

  西洋と東洋の伝統絵画の違いとして遠近法と鳥瞰図が挙げられるのだが、著者はこの違いは現代にまで影響していると述べる。遠近法に対して、鳥瞰図は描かれる内容が多く、空の部分が狭くなるために絵の中の地平線の位置が高くなる。はたして、それぞれの文化圏の学生にわずか五分で風景画を描かせたところ、東洋文化圏の学生の描く水平線の位置は西洋圏の学生のそれに比べて高く、また多くの事柄を描きこんでいたことがわかった。こうした違いが、遠近法的なシューティングゲームを好むか、鳥瞰的なロールプレイングゲームを好むかの違いを生み出していると指摘している。

  また、東洋文化は厳密なルールに基づいたカテゴリ分けが得意でないので、表現の際にあれもこれもとトピックを挙げて聴き手の判断に委ねようとしてしまい、結果として情報過多となるという。これについて東西の主要企業・大学・官公庁のWebページの最初のページを比較したところ、やはり東洋文化圏のそれは文字量の多いごちゃごちゃしたものになっているとのことである。なるほど。
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出来が良いのは一曲目だけだが、その曲は別格のクオリティ

2013-11-15 14:13:37 | 音盤ノート
The Avalanches "Since I Left You" Modular, 2000.

  エレクトロニカ。オーストラリアのDJグループのデビューアルバム。いわゆる「一発屋」である。他人の録音から一部分をサンプリングして別の曲を造り上げるというスタイル(あちらでは"plunderphonics"というらしい)で、ソウル+ヒップホップ風の楽曲を造り上げている。

  サンプリングされているのは、マドンナからその他マイナーミュージシャンの録音、テレビのコメディなどで、明るく楽しい、悪く言えば騒がしいだけのパーティ向け音楽となっている。引出しは多いので曲のバリエーションは多彩だが、それでも聴いている途中で飽きてしまうということもある。ただし、冒頭のタイトル曲‘Since I Left You’だけは例外的に素晴らしい。それもとてつもなく。60年代のガールポップと70年代ディスコのリズム、加えてラウンジ系のオケの三つがブレンドされた見事な組み合わせ芸である。ちなみに、この曲のために5つの音源が使用されていることがYoutubeの投稿で分かる1)。オリジナルのプロモビデオも面白い。

  個人的には好みではないが、それでも一曲目だけは特別で、このような奇跡をもう一度期待して、一応二作目を待ち続けている。しかし、数年前に新作発表のアナウンスがされてから、いまだ発行される気配がない。やはりヒットした次のアルバムはプレッシャーとなるのか?それとも著作権処理が上手くいかないせい?

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1) The Avalanches - Since I Left You (The Samples) / Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=zehvICx-Rsg
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裁判沙汰や発禁処分によって逆に本は売れるようになるという

2013-11-13 10:21:35 | 読書ノート
フレデリック・ルヴィロワ『ベストセラーの世界史』太田出版, 2013.

  ベストセラー書籍をめぐる歴史エッセイ。著者はフランス人で、話もフランスおよび英米が中心である。エピソード中心の記述であり、通史を期待すると裏切られるが、挙げられたエピソードはかなり面白くて小ネタ集として使える。

  ネタのいくつかを開陳すると、アレクサンドル・デュマはゴーストライターを使って作品を量産していたとか、検閲は機能しない──裁判沙汰になると逆に世間の関心が高まる、発禁になれば外国で刷られる──とか、数億単位のベストセラー書籍のほとんどは宗教書か毛沢東語録のような押しつけられた本だとか、現代の米国人作家は全米図書賞よりもオプラ・ウィンフリーの番組で自著が紹介されることをのぞんでいる(その方が確実に売れるから)とか、である。

  著者には「検閲、万歳!」と書いてしまう皮肉なセンスがあるのだが、それでもいやらしい感覚は少なく、読後感はすっきりしている。読みやすいとはいえ、文学者の名前がぽんぽん出てくるので、ある程度西洋文学史を知っていることが読者の条件になるだろう。
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前衛音楽を取り入れた異端派ロックから、米国議会図書館が認める正統派に

2013-11-11 10:31:03 | 音盤ノート
Sonic Youth "Daydream Nation" Enigma, 1988.

  米国インディーズ系のロック。「言わずと知れたオルタナ系の大御所」であるが、十分著名かどうか不明なので一応説明する。ギター二台とベースとドラムというカルテットに、男女がぶっきらぼうにボーカルを取るという編成。変則チューニングしたギターをディストーションで歪ませ、厚い不協和音の壁を造り上げるというのがその特徴である。音のアイデアは現代音楽系作曲家のグレン・ブランカ(参考)のものだが、高級文化が大衆音楽にスピルオーバーする例としてタイラー・コーエン著(参考)で触れられていた。ので久々に聴いてみた。

  本作は彼らの長いキャリアの中でも筆頭に挙げられるべき代表作である。彼らの場合、ザラついたガレージロック的演奏はどのアルバムでも共通しているが、クールな装いが過ぎるため、聴く方がアルバムを通じて十二分にロック的カタルシスを得られないということもしばしばある。しかし本作は、パワーポップ系の聴きやすい名曲である一曲目"Teen Age Riot"以下、全編通じてハイテンションであり、勢いだけでなく巧みなアレンジも交えながら70分間突っ走る、純正・優良なロックアルバムに仕上がっている。ハエの大群がぶんぶんと飛んで回っているような不協和ギターサウンドも、慣れればとても素晴らしく響く。米国議会図書館によるプロジェクト"The National Recording Registry"1)にも登録されているのも納得できる作品である。

  とはいえ、すんなり現在の地位を得られたわけではない。以下当時を回顧する昔話。

  1980年代半ば、ソニック・ユースはまだ超マイナーで、米国でもREMを頂点とするカッレジ・ラジオ向けロックバンドのうちのその他大勢という扱いだった。まだインターネットが無かった時代であり、日本でその情報に接触することはかなり困難で、米国インディーズ系を詳細に取り上げるような雑誌はまったく無かった(Swansと一緒くたにされて「ニューヨーク・ジャンク」とラべリングされているのをどこかで読んだ記憶があるけれども)。それでもこのアルバムは話題作だったようで、当時の洋楽誌で影響力のあった『ロッキン・オン』誌は英国寄りだったために完全無視していたものの、『ミュージック・マガジン』誌の輸入盤のクロスレビューに採りあげられて絶賛と酷評に分かれ、1988年に創刊した『クロスビート』誌(2013年11月号をもって休刊)が両誌の間隙を突いて猛プッシュしていた。

  当時中学生だった僕は、『ミュージック・マガジン』──当時小牧市の図書館が購読していた──の中で中村とうようがこのアルバムをこき下ろしている(曰く“公害工場が汚水をタレ流してるような演奏”)のを読んで、是非聴いてみたいと好奇心をそそられた2)。すぐに名古屋市内の輸入盤店「円盤屋」──まだタワレコは名古屋に進出していなかった──へ探しにいったのだが置いていなくて、前作にあたる"Sister"(SST, 1987)と前々作"EVOL"(SST, 1986)をしぶしぶ購入して帰った記憶がある。本作は後日になって雑誌通販で東京の輸入盤店から入手した。

  極東の島国でなかなか見つからなかった理由は、後にメンバーのインタビューを読んで分かった。その経営のいい加減さにSSTレーベルを見限った後、Enigmaレーベルと契約したのだが、どうも小売の店頭に届ける能力を欠いていたらしい(米国内では見込みプレス数よりも売れてしまい品切れ状態だったとも解釈できるが)。これに懲りてメジャーレーベルのGeffenに移籍したとのこと。ちなみに僕が通販で入手したのは、ライセンスされた英国インディーズのBlast Firstがプレスしたものである。

  日本では次作"Goo"(Geffen, 1990)から重鎮扱いされるようになり、ニルヴァーナと同じ「グランジ」のカテゴリでマーケティングされるようになった。が、ヒット作を出すこともなく、インディー時代と変わらぬポジションを保ったまま現在まできている。このバンドはメンバーが誰か死ぬまでずっと存続するだろうと考えられていたけれども、現在のところ活動休止状態らしい。理由はバンド内のカップルが崩壊したためだという。古くはIke & Tina Turnerに始まる、Galaxie 500、Cocteau Twins、Stereolabと続く男女混成バンドに特徴的な解散パターンにはまってしまっていたのだった。

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1) The National Recording Registry / The Library of Congress
  http://www.loc.gov/rr/record/nrpb/registry/
 いろいろ突っ込みどころの多いリストであり、いずれ詳しく検討したい。

2) 号数は覚えていないけれども、下記に収録されているはず(未確認)。
  『MUSIC MAGAZINE増刊クロス・レヴュー1981-1989』
  http://www.amazon.co.jp/dp/B0041FIN40/
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村八分を恐れて人は意見を変えるという、ネガティヴ動機からのバンドワゴン効果論

2013-11-08 08:57:50 | 読書ノート
E.ノエル=ノイマン『沈黙の螺旋理論:世論形成過程の社会心理学 / 改訂復刻版』池田謙一, 安野智子訳, 北大路書房, 2013.

  メディア論。著者は世論調査機関を主宰していたドイツ人である。原著初版は1980年刊でその日本語訳が1988年刊、1993年の原著第2版の邦訳が1997年に発行されていたが、長らく品切れ状態だった。今年になっての出版社を代えての再刊は、おそらくもともとの訳書版元のブレーン出版が2011年に倒産して版権が移ったためだろう。

  内容についてはメディアの効果研究に関連づけられてよく言及されているが、読んでみたらけっこうまとまっていない印象である。冒頭では、選挙における投票先について、被験者が支持する党と、世間が支持していると「被験者が考える」党について尋ねた結果をパネルデータにまとめ、後者についての認識が実際の投票数に近づいてゆくことを発見する。このようないくつかの調査から、世論形成過程においては、声の大きい主張が反対者を沈黙させてその支持者に変えてゆくという現象が起こるのだという仮説を立てる。その後は、世論概念を定義するために古典に分け入ったり、調査に戻ったりという記述の流れで、「考えながら書いた」のがありありとうかがえる。難解というわけではないが、読み難い。

  そもそも「他人に影響されて意見を変える」という現象は特に驚くようなことではないと僕なんかは感じるのだが、個人主義が至上価値であるドイツではそうではないのだろう。向こうにおける本書の位置付けは、みんな口では「他人のことには関心がない」と言ってるけど実際は影響されてるのだよ、とわざわざ指摘するようなものか。
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