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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

動物では「教育」はまれな現象だが人間社会では普遍的だという

2018-09-28 14:44:45 | 読書ノート
安藤寿康『なぜヒトは学ぶのか:教育を生物学的に考える』講談社現代新書, 講談社, 2018.

  行動遺伝学者による教育論。三部構成で、第一部では進化生物学的立場から教育を定義することを試みている。第二部では能力の個人差に与える遺伝と環境の環境を整理し、第三部では学習・教育に関連する脳の部位および記憶の仕組みについてまとめている。

  動物にも学習行動はある。しかし、教育と定義できる現象はまれだという。生物学における「教育」の定義は、経験の少ない個体Bの眼前で経験豊富な個体Aが特別な行動をし、かつその行動がAに何のメリットをもたらさず、かつそれによってBはより効率的に知識や技能を獲得できる、という現象を差す(正確には「積極的教示行動」の定義である)。読んでいて「そんなの動物で普通にあるんじゃないの。肉食動物が狩りの仕方を教えるというのはテレビ番組で見たことがある」と思ったが、それは間違いで、大抵のばあい若い個体は見よう見まねの学習をしているだけで、年配の個体は教える意図などもっていないことが多いのだという。一方で、未開社会にも人間の教育行動は観察できる(著者は人類学者のように観察しに訪れている)。いったい教育は何のために行われているのか、ということになるが、それは人間社会の分業体制に入っていかせるためであり、教育学者の考えるような個人の自由とかのためではない、と議論が展開してゆく。

  以上が第一部の話である。第三部はまだわかっていないことが多く示され「研究はこれから」という印象である。第二部は新しいネタもあるが、基本『遺伝マインド』の延長にあり、著者の他の書籍でも繰り返されている話である。というわけで第一部の話が面白い。でも、世間的には(そして初めて著者を知る人には)第二部がセンセーショナルに感じられるところかな。

  
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歴史的事象に科学的な因果関係の検証を持ち込む試み

2018-09-25 12:10:40 | 読書ノート
ジャレド・ダイアモンド, ジェイムズ・A.ロビンソン編著『歴史は実験できるのか:自然実験が解き明かす人類史』小坂恵理訳, 慶應義塾大学出版会, 2018.

  比較歴史学。歴史にも統計を適用して因果関係を検証できること、そしてその成果は生産的であるということを、いつくかの研究事例を通じて示すオムニバス書籍である。プロローグとあとがきでは、統計の適用のために、単一地域の研究ではなく二つ以上の地域を用いるべきことが強調されている(単一地域の研究が歴史研究の主流になっていることに疑義が挟まれる)。加えて、比較のための条件についても注意が促されている。とはいえ分析手法に詳しいというわけではなく、統計的比較研究の成果を簡単に通覧できるようにしたというのが本書の意義だろう。原書はNatural experiments of history (Harvard University Press, 2010.)である。

  プロローグとあとがきを除けば全7章の構成となっている。1章は、同一の祖先を持つポリネシアの島々について語彙などから類縁度を測っている。2章は、米国西部、オーストラリア、シベリア、アルゼンチンなどを比較して移民経済の発展・衰退・安定のパターンを描いている。3章は、アメリカ、ブラジル、メキシコを比べて「機能する」銀行制度の成立条件を探っている。4章は、経済発展度を環境と歴史の違いから説明するもので、事例としてハイチとドミニカ共和国、イースター島が採りあげられる。5章は、大航海時代に奴隷化された人口の規模が、その後のアフリカ諸国の経済力にどのように影響しているかを探る。6章は、イギリスのインド統治時代の各州の税制の違いが、独立後のその州の民主主義の進展度にもたらした影響を測っている。7章は、ナポレオン民法のその後の経済への影響を検証するために、ドイツにおけるナポレオンが占領統治した地域とそれ以外を比較している。

  いずれの章も、元の論文があってそれを一般向けに書き直したもののようで、わかりやすくなっている一方で説明が一部端折られている。例えば4章はジャレド・ダイヤモンドによるものだが、中身は大著『文明崩壊』からの抜粋要約である。また、1章から4章までは検証方法の詳しい説明が無く、もう少しページ数を増やしてもいいから説明があったほうがいいと感じるところだ。その点、5章から7章は簡単ながら投入した変数や分析手法についての解説があり、バランスがいい。奴隷貿易の影響を明確にした5章は本書の中でも白眉だろう。

  ここで使われているような統計は学習すれば身に着けることができる。歴史的知識も勉強すれば得られる。だが、比較可能な二つの事例や検証可能な課題を見つけ出すにはセンスがいる。読んで面白いけれども、自分でやってみようとすると難しいと思わずにはいられない。
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ガラス細工のような宅録フォーク二作品

2018-09-21 08:44:43 | 音盤ノート
Constantin Veis "Memory-La" Siesta, 2002.
Constantin Veis "presents The Glamorous Life Savers "Resurrected Elsewhere"" Zigsaw, 2014.

  癒し系ネオアコまたはフォーク。アコギにのせて中年男性が優しく歌う。なので青春は感じません。1980年代に一枚だけアルバムを残したFantastic Somethingの片割れによるソロ作品である。

  2002年の"Memory-La"はスペインのSiestaレーベルから。一人で宅録した8曲入り28分ほどの短いアルバムで、ゆったりとしてまどろむような曲が並ぶ。ギターのアルペジオはいちおう聞こえるものの、それよりもストリングス風のシンセ音が目立つ。ピアノは入るがドラムは無し(よく聴くとブラシでリズムをとっている)。暗くも重くもないし、悲しくもないのだが、楽しかった過去をしみじみと思い出すかのような感傷がある。

  2014年の長い変なタイトルの作品のほうはシアトルのZigsawレーベルから。12曲42分。こちらはストリーミングで聴ける。同じく宅録のようだが、thanks to のクレジットに数人の人名があり、演奏に協力した人物なのかもしれない。ほとんどの曲でドラムとベースが入り、シンセサイザーの使用頻度は下がっている。ボーカルも多重録音されており、美しいハーモニーが聴ける。1960年代の米国西海岸系フォークロックの趣き。どこか陽気で、"Memory-La"に比べると活き活きとしている。

  繊細なあまりコミュニケーションが苦手な人が一人でこっそり楽しんでいるような感覚がある。Fantastic Somethingの頃と比べると、齢のせいか声は低くなっていてかすれも感じられる。たいして売れてないのに12年で1枚のペースだから、本業は別にあって、音楽は副業なんだろう。次のアルバムは2026年になると予想される。
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分析的に追及される「幸福」概念

2018-09-17 13:05:53 | 読書ノート
森村進『幸福とは何か:思考実験で学ぶ倫理学入門』ちくまプリマー新書, 筑摩書房, 2018.

  幸福論。ただし、世間によくある幸福論のように「どうやったら幸せになるか」という内容ではない。二人の人物の境遇(心的状態も含めて)を比較した場合、どちらが幸福でどちらが不幸か矛盾が無いように定義する、という試みである。思考実験を用いて、哲学的に議論する。そもそもの議論が高度で、法哲学者の著者がデレク・パーフィットの大著『理由と人格』の議論を参考にまとめた、というもの。『理由と人格』については、個人的に途中で読むのに挫折した経験があるのでありがたい。

  パーフィットによれば幸福概念は三つに分類できるという。幸福とは快楽であるという快楽説、欲求が充足されることであるという欲求実現説、ある種の要件を満たした状態のことであるという客観リスト説の三つである。それぞれのメリットとデメリットが詳細に検討され、折衷説や時間的推移も考慮されて、一般的に考えられる「幸福」の概念を満たす定義が追求される。最終的に万人を納得させる結論が提出されるわけではないのだけれども、諸説を定義・分類してラベリングしてゆく作業の執拗さが特徴的である。これによって頭が整理されてゆくようで気持ち良い。

  哲学の本としても、有名哲学者の解説や特定概念の発展史になりがちな一般向け哲学書と大きく異なる構成であり、評価できる点だと思う。高校生向けにしておくのはもったいない内容である。

  
  
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日本の裁判所は言われるほど消極的ではない、と

2018-09-11 12:30:01 | 読書ノート
大屋雄裕『裁判の原点:社会を動かす法学入門』河出ブックス, 河出書房新社, 2018.

  法哲学。「日本の裁判所は何をしているところなのか」について対話形式で解説するという内容である。ただし、対話の相手は仮構である。章タイトルを見ればその内容がおおよその見当がつくので、その一部を紹介すると「裁判は正義の実現手段ではない(序章)」「裁判は政策を問う手段ではない(1章)」「日本の裁判所は消極的ではない(2章)」「裁判は手段であって目的ではない(6章)」などとなっている。

  裁判とは、訴訟の当時者の主張の理非を現在ある法の枠内で判定するもの、というのが著者の基本認識である。原則としては、政策の妥当性を判定したり、新たな規範を作りだすものではなく、そういうことは立法府に任せられるべきことである。何か社会を変えたいというならば、裁判という手段に訴えるのではなく、支持者を広げる努力をして国会に対して影響力を振るうべきである、という。

  ただし、である。かつては、その原則の例外的役割も裁判所に期待され、また機能してきた。例えば、憲法に関して日本の司法は消極主義だと言われているが、一方で整理解雇の要件など法と同様の拘束力のある判例を作り出してきた。また、1960-70年代の公害問題の解決を裁判所が後押ししてきた。背景には、55年体制下で形骸化した国会運営があり、本来ならばそういった社会問題に対して役割を果たすべき、立法府の不作為があったという。裁判所が低コストでの問題提起の場として利用されることも迂遠ながらやむをえない、とされる。

  しかしながら、現在、小選挙区制のもとでまた立法府が活性化しており、自分の主張を伝える目的のためには、国会が以前よりは信頼できるルートになっているという。裁判官は、立法府にいる議員と比較して民主的な正当性を担保できていない。法科大学院に失敗に見られるように、法的解決に対するニーズは国民の間に高くないのが現状である。この状況のなか、裁判所が政策批判の場として利用される状況が続き、また下級審が問題解決策が不明なまま現状否定的な判決を出している。このようなことは、裁判所の信頼を低める可能性があって危険なことである(ただし最高裁は慎重であり、その振る舞いは高度に政治的であるとも)、と。

  以上。裁判が社会問題解決の正しいルートではないとはいえ、議会にどの程度期待できるかは異論が残る。やはりコストの問題は今でもあるのではないだろうか。とはいえ、日本において裁判所がどう機能してきたが、どうあるべきかを考える上で有益な内容であろう。
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古代の戯曲を使って法を理解する。意外に面白い

2018-09-08 11:34:51 | 読書ノート
木庭顕『誰のために法は生まれた』朝日出版社, 2018.

  「法哲学入門」としてよいのだろうか。中高生に映画・戯曲を鑑賞してもらい、その後に対話形式で法学的な解釈を施すという内容である。映画は溝口健二の『近松物語』とデ・シーカの『自転車泥棒』、戯曲はギリシアまたはローマの古典劇で『カシーナ』『ルデンス』『アンティゴネ―』『フィロクテーテース』が採りあげられている。著者は高名なローマ法の研究者であり、主著の三部作は高価すぎて公共図書館で見つけることは難しいだろう。

  ローマ法は民法からということで、民法を成立させている概念の原初に遡ってみるという試みである。映画や戯曲の使用はかなり効果的で、読む者の感情をゆさぶりつつ、その感情的なところを掘り進んで正義に辿り着いて見せる。著者は、徒党を組んで個人を搾取する、そのような行為から個人を守るのが法である、と主張する。そのキーとなる概念が「占有」なのだが、一般的な意味とズレていてこれが分かりにくい。単にモノをある人が独占的に所有している、ということではなくて、それが公正かつ不正のない方法で取得されている、またはそのモノが彼または彼女に属している状態は自然である、ということのようだ。しかしながら、古代ローマにおけるこの概念は西洋近代法学でも十分継承されなかったという。

  その議論は面白く新鮮ではあるものの、雌伏させられるほどではない。最終章では日本の判例二つが取り上げられ批判される。それらへの著者の批判は理解するものの、僕は最高裁の判決にも説得力を感じた。むしろ、近代西洋法学が占有概念を採りいれなかったのは、裁判所がそれを吟味するコストが馬鹿にならないからではないか、と予感させられた。おそらくこの短い入門書では説明が尽くせなかった論点もあるだろう。やはり主著を読んでみたいと思うものの、買うには高いし、図書館にはないしで、リクエストでもしようかな。誰も読まない専門書なんか公共図書館は買わないよ、って?。
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若気の至り全開で展開する微分積分入門

2018-09-05 08:38:08 | 読書ノート
ジェイソン・ウィルクス『1から学ぶ大人の数学教室:円周率から微積分まで』冨永星訳, 早川書房, 2018.

  数学書。微分積分をブルドーザーのように使って、数にかかわる現象をなんでも説明してしまおうという試みである。原書原題は邦訳邦題のような優し気ではなく、Burn math class: and reinvent mathematics for yourself (Basic Books, 2016.)──「数学の授業なんか燃やしてしまえ‼」という過激なものである。著者は米国で進化心理学を学ぶ大学院生とのこと。おそらくまだ30歳前後と思われ、本書にも若さ特有のノリと気負いが溢れている。そこを楽しめるかどうか。

 「既存の数学教育は、意味不明な公式を暗記させられるだけで、数学嫌いを増やしているだけ」と著者は批判する。この理由から、直線から曲線、三角形、円、3次元からn次元などを分析できる装置を、足し算引き算掛け算だけを使って"自力"で組み上げてゆく。分数はあるが割り算は無し。計算もないわけではないが、記号の並んだ式を展開することで説明してゆくので、こういうのに慣れていないと辛いと思う。加えて、説明の途中で著者と読者と数学氏の会話が入るのだが、これがちっとも面白くなくてかなりスベっている。だが、このスベった会話も、何度も繰り返されるとこのとんちんかんなノリが微笑ましく感じてくる。これは力技である。

  僕もまた、本書独自の記号の定義から微分法の再発明を記した冒頭に感心したものの、途中の円や指数・対数の話まではなんとかついていくという状態で、6章からの積分法あたりから僕の知識が乏しいこともあって理解が怪しくなった。というわけで、わかりやすいと言い切るには予備知識が求められる。でも円が分かれば十分じゃね、という気もする。実際に微分積分ができるようになるかどうかは別として、そこそこわかったような気にさせてくれる点では科学啓蒙書として及第点だろう。
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「自然科学」概念の後に「人文学」概念は誕生した

2018-09-02 11:13:51 | 読書ノート
隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社新書, 星海社, 2018.

  理系・文系論。タイトルにある疑問を扱った科学史が1,2章、産業界との関連が3章、ジェンダー絡みが4章、学際化についてが5章という構成となっている。著者は科学史研究者で、『科学アカデミーと「有用な科学」』という著書がある。

  最初の科学史はとても面白い。一般的には、文系学問から分離するかたちで自然科学が誕生したと考えられているだろう。しかし歴史的には、最初に「自然科学」次に「社会科学」最後に「人文科学」と概念が出来上がってきたとのことである。自然科学や社会科学に属さないものとしてアイデンティファイされることで、人文科学が生まれた。もちろん、古代から哲学や文献研究はあったのだけれども、領域が明確になったのは19世紀末から20世紀にかけてだという。天文学や錬金術など自然科学だって昔からあったわけで、これは定義の問題になる。領域概念の形成時期を基準にするならば、上の順序になるという。

  一方、2章によると日本の大学黎明期では、自然科学よりも社会科学(特に法学)が重視され、大学における理系文系は政府内の出世にも差があったとのこと。当初は西洋とヒエラルヒーが違っていたということになる。3章以降は現状および最近の動向でまとまっているはいるけれども、アカデミズムの中の人ならば耳にしたことがあるであろう一般的な話であり、「知ってた」というトピックも多い。わざわざこのタイトルの本で、著者がやらなくても、という印象はある。とはいえ、一般の人が理系文系をめぐる論争の背景的知識を得るには有用だと思う。
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