29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

かつて図書館は中小出版社の在庫をさばく先だった、しかし...

2022-09-29 13:58:56 | 読書ノート
中村文孝, 小田光雄『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』論創社, 2022.

  出版流通の関係者から見た図書館史。小田光雄については最近の出版動向を伝える一連の著作ですでによく知られているだろう(参考)。中村文孝のほうは、芳林堂書店、リブロ、ジュンク堂書店を渡り歩いてきた人のようで『リブロが本屋であったころ』(論創社, 2011.)という著作がある。この二人の対談という形式をとっている。

  三部構成となっており、第一部は戦後公共図書館の選書批判である。松岡享子ら児童図書館員と慶大の図書館情報学科の関係が指摘されて、石井桃子≒東京子ども図書館における良書主義が日本の公共図書館の選書思想に影響したと主張する。第二部は図書館流通センター(TRC)形成史である。ロードサイド書店の設立が盛んだった1980年代、トーハンが中小出版社の売れ残った既刊書籍をさばく先を求めて公共図書館に注目し、TRCに出資した(でも新刊が図書館への販売の主力商品となって裏切られた)とする。第三部では小田自身が図書館研究をするようになった経緯をまとめている。

  浦安市立図書館の設立経緯や取次の鈴木書店の倒産の話を交えながら、石井昭ほか図書館への営業(?)をしていた出版関係者がTRC設立に絡んだのだと推論を展開させる第二部は面白い。しかし、どこまで妥当なのかについてはよくわからない。また、第一部については、東京子ども図書館の「児童書の選書」に限った影響力を関係者として認めるものの、一般書籍の選書にまで影響力があるというのは過大評価という印象だ。全体としては、出版人の図書館に対する見方を示す書籍として一読の価値はある。
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学歴獲得競争の勝者が「生まれつき」にステイタス競争で敗北する小話集

2022-09-26 08:44:30 | 読書ノート
麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』集英社, 2022.

  ツィッター発タワマン文学。「エモい」というので読んでみた。20の短編が188頁に収まり、各編の中身は140字のまとまり毎に空白行で区切られている。最後の書下ろし編以外は、すべて一人称で綴られている。話のパターンはこう。主人公は地方の平凡な家庭で育ち、頭が良い以外に取り柄がない。受験では東大に落ちて早稲田または慶應に入る。大学で生まれつきのセレブに出会い、その能力差あるいは美貌や財力の差を見せつけられ挫折感を抱く。就職後は、仕事で上手くゆかなくなって転職せざるをえなくなるか、または就いた職の地味さやステイタスの低さに漠然とした不満を感じている。男性主人公の場合、上京して10年にもなるが恋人もおらず孤独である。女性主人公の場合は、性的な接触機会はあるものの真剣な交際にはいたらない。かつて主人公は地元のマイルドヤンキーたちを軽蔑し見下していたが、現在の主人公の境遇と比較して彼らをうらやましく思えてくる。また、主人公は見栄を張って都内に居を構えてみるものの、現状の収入の限界もあって狭い賃貸暮らしである。以上、例外もあるが、おおむねこんな感じだ。

  なるほど。勇んで上京したが満足する地位は得られなかったというのは、小津安二郎の映画の時代からあるテーマではある。僕も地方からの上京者なので、東京出身の同級生に社会関係資本および文化資本の差を見せつけられて敗北感を感じたことはある。なので本書で表現されている感情はわかる。しかしながら、本書の対象読者はアラサーであり、僕のようなアラフィフにはtinderとか清澄白川とかのアイテム・地名が喚起するイメージをうまく読み解けなかった。同時にまた、その種の「記号」の意味をわかってしまう面倒くささも、読んでいて強く感じる。主人公が戦っているのはステイタス獲得のゲームであり、上を見れば必ず負けを自覚させられることになる。こういうゼロサムゲームに凡人が投資しても、リターンが少ないうえに精神衛生上よくない。20代ならば仕事に没頭して職業上のアイデンティティを形成し、そういうゲームから距離をおくべきなのだ。なので、エモさを感じられる一方で、参加する必要のないゲームに参加して勝手に傷ついているバカらしさという感慨も同時に湧きおこる。
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「物語」は社会的分断の原因となっているからもっと研究が必要、と

2022-09-22 10:15:51 | 読書ノート
ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす:物語があなたの脳を操作する』月谷真紀訳, 東洋経済新報, 2022.

  メディア論。人間の脳は特定の型のストーリーに反応しやすい傾向があり、これを通じて操作される危険性がある、と主張する。記述はエピソード中心で論証不十分であるが、問題提起をすることが本書の意義なんだろう。著者は文学を専門とする大学の先生だが、David Sloan Wilson (参考)の教えを受けたことがあるらしく、本書の内容も進化論の影響を感じさせる。原書は、The story paradox: how our love of storytelling builds societies and tears them down (Basic Books, 2021.)である。

  人間の脳は、困難の克服や勧善懲悪などの特定の物語スタイルを受容しやすく、このスタイルから外れる物語は広く読者を獲得することはできないという。新しい表現を開拓した実験的な小説がマイナーなままに留まるのは、型から逸脱することが多いからだ。一方で、特に物語を伝えていない表現に対しても、脳には無理やり物語の典型を当てはめてしまう傾向がある──例えばモニター上で動くただのドットに友好と敵対の関係を見てしまうなど。近代小説は、異人種や異文化などへの共感を高めることに成功し、普遍的人権を普及させるのに貢献した。しかし、共感はかわいそうな者に支持を集めさせる一方で、悪者を作り上げるという副作用もある。現在、メディア報道やSNSを通じてさまざまな物語が生み出されるようになり、それによって人々の共感がハックされ、社会の分断が推し進められている。このような「物語」の力を分析し、どう対応したらいいか考えよう、というのがオチとなる。

  以上。米国の社会的分断を背景にした議論ではある。が、それ以上に欧米の大学の人文学部門の危機に対する著者の懸念を感じた。伝え聞くところでは、あちらでは人文学は「役に立たない」というだけでなく「社会にとって有害」という評価を受けて、学部や学科の縮小・廃止がトレンドらしい。大学の人文系こそが分断を押しすすめる物語の源泉だからだ。著者は、そうした評価とは異なる課題を人文学に与えようとしているわけだが、果たして支持を受けるのかどうか。
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日本の図書館の伝統は公共図書館に引き継がれなかったという

2022-09-17 09:32:25 | 読書ノート
高山正也『図書館の日本文化史』(ちくま新書), 筑摩書房, 2022.

  図書館史。古代から幕末までの前半と、近代以降の後半では記述の精粗が異なっている。前半は学術と出版流通制度の発展史が中心で、資料保存と書誌作成の話が少々というバランスとなっている。金沢文庫やら塙保己一やら、もしかしたら耳にしたことがあるかもしれない事項が言及される。後半は図書館史で、幕末の米国からの図書館概念の輸入と、GHQ占領下の図書館政策、高度成長期以降の展開などが採りあげられている。後半では、図書館関係者であってもあまり聞いたことのない人物やその事績についてそこそこ詳しい解説がある。なお、著者は慶應義塾大学の図書館・情報学科の名誉教授かつ国立公文書館の元館長で、僕も若かりし頃彼の講義を受けたことがある。

  前半は初学者向けにまとまっているのだが、後半は図書館関係者に向けて著者の図書館史観を強く打ち出すものになっている。ただし著者の図書館史観にもねじれがあって決してわかりやすくない。著者は、江藤淳を持ち出して戦後GHQの情報統制に「洗脳」を見る。ならば占領下で進められた図書館政策を批判するのだろうと思いきや、むしろその後の日本で米国型の公共図書館が十分に普及しなかったことに問題を見る。日本の「文庫」の歴史を称える立場ならば、「貸出重視」という戦後日本のオリジナルな図書館の展開を高く評価してよいはずだが…。よく読んでみると評価基準はそこではなく、学術や研究のための資料保存やレファレンスサービスかそれとも消費的な読書支援か、という点にあることがわかる。著者は、伝統的な「文庫」の役割が大学図書館やアーカイブスに受け継がれた一方、現状の公共図書館は米国的でもなく日本の伝統とも違うというのだ。

  というわけで最後は現在の日本の公共図書館批判となっている。個人的には著者の議論に同意する部分もあるのだけれども、本書の構成は適切ではないと思う。前半と後半で対象となる読者が異なってしまっている。前半のトーンで全体を書ききってくれれば図書館史の入門書として初学者に勧めやすいものとなっただろう。後半は、独立させて一著にまとめれば、中級者向けの議論の材料となっただろう。後半の議論はかなりデリケートで、もっと厚い記述での説明がほしいところだ。
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一つの基準だけでさまざまな文化を比較する

2022-09-11 13:44:53 | 読書ノート
ミシェル・ゲルファンド『ルーズな文化とタイトな文化:なぜ〈彼ら〉と〈私たち〉はこれほど違うのか』田沢恭子訳, 白揚社, 2022.

  社会心理学。邦題からは、さまざまなグループを「タイトかルーズか」という一つの軸の中で位置付けて説明するという内容かのように見える。ただし、原書タイトルは、Rule makers, rule breakers : how tight and loose cultures wire our world (Scribner, 2018.)となっており、力点がやや異なる。秩序維持に関心があって、それに関わる部分をタイトかルーズかの違いで説明し、両者の調整を図るという議論となっている。著者は米メリーランド大学の心理学者である。

  タイトな文化では、人々は自制心をもち、誠実で、秩序が保たれている。しかし、新しいアイデアやよそ者に不寛容で、社会の活力が弱い。一方、ルーズな文化は、寛容かつ創造的で、変化への適応力は高い。だが、人々は衝動的で、協調行動において失敗しやすく、無秩序に陥りがちである。日本やドイツは前者、米国は後者に分類される。この違いは米国の州間にもあって、南部はタイト、北部や西海岸はルーズとされる。またそれは階級の分断線にもなっており、上層はルーズ、労働者はタイトだという(直観的にはわかりにくいが、上層のほうがルール破りを奨励されかつ創造的であることを要求され、労働者は職場でプロトコルを守ることを求められることが多いという事実が紹介される)。この違いは、生存条件の厳しさ──自然環境や外敵など──に由来し、厳しければ厳しいほど協力行動が必要になり、結果としてタイトな文化となるという。

  以上。わかりやすい。超わかりやすい。一方で、現実の複雑さを犠牲にしているとも感じられる。文化の違いを表現するスケールの数は諸説ある。僕が知っているだけでも、2軸説(イングルハート『文化的進化論』)、6軸説(ホフステード他『多文化世界』)、8軸説(メイヤー『異文化理解力』)の三つがある。これらの説もかなりの単純化であるが、本書が用いるスケールは一つだけ。これだけで十分な対策が打ち出せるのだろうかと疑問に思う。とはいえ、著者の最終的な意図は「アメリカ人のルーズさをなんとかしたい、互いに協力できるような文化を築きたい」ということのようだから、アメリカ人にとっては理解しやすく良い内容なのかもしれない。
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世界の変化は減速しており、かつ未来は明るいというものの...

2022-09-02 09:44:54 | 読書ノート
ダニー・ドーリング『Slowdown 減速する素晴らしき世界』遠藤真美訳 : 山口周解説, 東洋経済新報, 2022.

 「時代の変化が速い」という考えをしばしば目にする。けれども本書は、20世紀前半に比べると、今現在は様々な物事の変化のペースが緩やかになりスローダウンしていると主張する。著者はオックスフォード大学の地理学者で、英国人らしく世代を表現するのに英王室が使われる(故ダイアナ妃はX世代である、など)。原書はSlowdown : the end of the great acceleration – and why it's good for the planet, the economy, and our lives ( Yale University Press, 2020.)となる。邦訳には、2021年のペーパーバック版のために書かれたという「エピローグ」が付されている。

  経済や人口、発明、環境など、今でもさまざまな事柄が成長・増加・悪化している。しかしながら、それらの増加率・成長率は、前世紀に比べれば──正確には19世紀後半から20世紀前半に比べれば、スピードが落ちているという。この指摘を、変化率を図示するグラフをこれでもかと並べることで証明し、将来の動向も予測する。著者によれば、未来の世界はますます変化が少なくなり、経済成長や人口増加に伴う環境破壊が減少し、生活水準は安定したものとなるという。スローダウン現象の先進国として日本のことがしばしば言及される。

  以上。事実指摘部分に説得力はあるものの、全体的には残念な本だ。「ほかに考えるべきことがある」と思わされるのだ。スローダウンの事実については納得できるのだが、その楽天的なニュアンスには強い違和感が残る。著者は、経済成長の無い世界を恐れることはないと主張しながら、格差や差別も解消されなければならないという。しかし、後者の問題への対策でもっとも社会的なストレスが少ないのは経済成長による機会の拡大だろう。安定した社会というと江戸時代の身分制社会が思い浮かぶが、将来の社会移動の機会をどう担保するのか。また、スローダウンの速度が各国で均一でないならば、パワーバランスが崩れていくつかの国の安全は保障されないかもしれない。

  著者はいわゆる「リベラル・エリート」なんだろう。グレタ・トゥンベリを称える一方で、英王室や日本の皇室にも関心を向ける記述があったりする。地球環境が良くなるという将来予想に喜びながら、市井の人の将来の生活には関心がない。経済の仕組みについては深く考えたことが無く、「資本主義の限界」ととりあえず言ってみた。そういう印象である。
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