29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

真の学力とその評価方法をめぐる米国教育研究史

2020-08-31 08:31:54 | 読書ノート
石井英真『現代アメリカにおける学力形成論の展開:スタンダードに基づくカリキュラムの設計 / 再増補版』東信堂, 2020.

  教育学におけるカリキュラム論、という括りでいいのかな。20世紀後半からの、米国の公教育における教育目標および教育評価の議論を丹念に検討した専門書である。著者は京大の先生。2011年に初版、2015年に増補版が発行されている。この再増補版では新たに四つの付論が加えられて、500頁を超える大著となっている。

  カリキュラム論というと、学校はどの教科を選ぶべきでかつどのトピックを教えるべきかという議論のように聞こえる。本書はそういうものではなく、どのような学力あるいは能力を教育において育成すべきか、これについて論じている。と、まとめてしまうと単純化しすぎかもしれない。「真正な学力」とは何か、「真正な学力」を数段階のレベルに分割したうえで、それぞれのレベルにおいて理解が生徒においてどう立ち現れるのか、そしてどう測定するのか──こうした議論を追う内容である。

  具体的には、ブルーム・タキソノミーやその改訂版、1980年代のスタンダード運動、パフォーマンス評価論、「学習の次元」、「理解をもたらすカリキュラム設計」などのコンセプトが紹介され、それぞれの異同が検討される。事項を暗記したかどうかをテストで測るだけでは不十分だというのはどのコンセプトでも共通している。その事項を分析・評価さらには批判的に考察できるようになり、場合によっては態度・性向の変容までもたらされる、というのが教育の目標となる。それぞれは、力点やアプローチ法において微妙な違いがあるとのことである。

  以上。精緻な議論ではある。ただ、教育学の部外者の僕には、1980年代のスタンダード運動を除いて、こうした学力コンセプトがどの程度教育現場に浸透したのか疑問に思ったところ。教育トピック毎にルーブリックみたいなものを設定するのは大変そうだが、現場の教師はきちんとこなしているのだろうか。まあできないことはないだろうが、それを教室で実践できるのかという問題も残る。あるいは、生徒たちに真の学力を保障するとしてもどのくらいのコストがかかるのか。この本の議論の射程の外ではあるかもしれないけれども、これらの疑問は大きく膨らんでくる。
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オーストラリアにおける中国支持派についての手堅い現状報告

2020-08-27 09:07:37 | 読書ノート
クライブ・ハミルトン『目に見えぬ侵略:中国のオーストラリア支配計画』山岡鉄秀訳, 奥山 真司訳, 飛鳥新社, 2020.

  中国共産党による対オーストラリア工作を伝えるレポート。著者はオーストラリアの学者で公共政策の専門家らしいが、本書のほかに邦訳はないようだ。原著は、Silent invasion: China's influence in Australia (Hardie Grant, 2018.)である。

  本書によれば、中国共産党はビジネスマンや留学生、中国系の帰化者などを使って、党に都合のよい主張を外国にも浸透させ、反対派の口を封じようとしているという。オーストラリアは、地理的に他の西洋諸国より中国に近くかつ経済規模が小さいために、西洋の中でもっとも弱い部分とみなされ、工作のターゲットとされた。すでに何人かの政治家や学者らが取り込まれ、オーストラリアで中国についての研究や発言の一部が制限されるようになっている。政府や大学、およびマスメディアはもう少し警戒感をもつべきだ。このような内容である。

  凄い暴露話でもあるのだろうかと期待して読んだが、割と淡々とした叙述で、推測部分も控え目だ。煽るようなところもない。それぞれの章で細かい人間関係を辿ってキーパーソンをあぶり出し、彼らがオーストラリアで要職にあり、かつ中国本土に大きな利害を持っていることを示してゆく(キーパーソンにはパンダ・ハガーとなったヨーロッパ系オーストラリア人も含む)。ただし、中国共産党による直接の陰謀の指示みたいなものが具体的に示されているわけではない。

  全体として事実関係の話ばかりで、特に山場はなく、新しい見解が示されるでもなく、読み物として決して面白いものではない。Amazon.co.jpで300もの評価がついているけれども、きちんと読んだ人は少ないだろうな。もちろん資料としての価値はあり、教訓もないわけではない。けれども、中国共産党の圧力や工作活動なんて、日本人にとってはもはやお馴染みのことであって、今更驚く話でもない気がする。対外工作活動などロシアや米国もやっていることだろう。帰化者を動員して公然と数でプレッシャーをかける、というのがそれらの国と中国の違うところか。
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生れた土地や性別や年齢における平均的な性格の傾向および但し書き

2020-08-23 07:00:00 | 読書ノート
小塩真司『性格とは何か:より良く生きるための心理学』(中公新書), 中央公論, 2020.

  性格研究の動向をまとめた一般向け書籍。年齢による性格の変化、国民性や地域性と性格、自尊感情、性差、外見や持ち物から性格を正確に推定できるか、成功する性格はあるか、などのトピックを扱っている。著者は早稲田大学の心理学の先生。

  性格指標として主にビッグファイブが使われているが、トピックによってはYG法やサイコパス気質を測るダークトライアドなどの指標も参照されている。説明はわかりやすいけれども「単純に言えばこうだが、細かいところでは~」という書き方で、読む側で頭の整理が求められる。例えば、性格は年齢を経ることで変化するという。ただし、ビッグファイブ中でも外向性はあまり変化しないし、大半の時期は穏やかな変化があるものの思春期の変化は劇的であることも加えられる。また、国民性や県民性は存在するという。しかし、あくまでもそれは集団を比べた場合の平均的な傾向であり、一人ひとりを個別に観察したときは例外も多いと釘をさされる。性差についても同様である。外見からわかるのは外向性、その人の部屋からわかるのは開放性や勤勉性であるが、推測が外れることも多いとのこと。

  日本人の平均的な自尊感情が経済的繁栄と並行して変化しているとか、先進国ほど自尊感情の男女差は大きくかつ女性のほうが低い(その理由についても簡単な検討がある)という指摘も面白かった。疑問点もないわけではない。成功に関連する性格があり一方で失敗を導く性格あるならば、(多くの場合言葉をしゃべることができるように)なぜ皆が成功する性格に変化したりしないのだろうか。つまり、性格は変化すると強調されているが、安定的な部分もまたあるということに対する説明も欲しいと感じた。とはいえ、全体としては、性格研究の現状がわかる好著だろう。
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教育学の下位分野別研究動向レビュー集

2020-08-19 07:00:00 | 読書ノート
『教育学年報11:教育研究の新章』世織書房, 2019.

  『教育学年報』は1992年創刊の専門誌である。この雑誌以前は戦後民主主義的なパラダイムに基づいた教育学が支配的だったらしいが、それを刷新しようという意図だったらしい。その意図がうまくいったのかどうかは知らない。しかし、2004年に休刊。あとがきによれば、この15年ぶりの新号は出版社側が主導したとのこと。編集委員には、下司晶、丸山英樹、青木栄一、濱中淳子、仁平典宏、石井英真、岩下誠という1970年代生まれの教育学者が名を連ねている。ちなみに下司先生は日大教育学科の僕の同僚です。

  内容は教育学の下位領域の研究レビューである。休刊期間中の動向まとめを書くよう執筆者にお題が出されていたようだが、かなりの論考は1990年代から始まるだけでなく、1970年代や終戦直後へと議論をさかのぼるものもある。章立てされているのは、教育哲学、日本教育史、西洋教育史、教育方法学、教育心理学、発達研究、教育法学、教育行政学、教育経営学、教育社会学、比較教育学、教育経営学、高等教育論、社会教育・生涯学習論である。編集委員による座談会もある。それぞれのレビューは、最近のトレンドだけでなく、いまだ不十分な研究領域を明示してくれており、フロンティアを探す若手研究者にはためになるだろう。

  オビにある「教育学自身のアイデンティティ危機への応答」という謳い文句は、最初目にしたときはよくわからなかった。僕のようなマイナー分野の人間からみれば、「教育学」ってしっかり確立している研究領域でしょ、という先入観がある。読んでみると、経済学など他領域におけるエビデンス重視の実証研究をどう考えるか、政府主導の教育改革(大抵は関連する事柄についての研究不足で実証データがない)についてどう議論すべきか、この二点について教育学者のアンビバレントな態度がうかがえた。内側からではなく外側から課題が提示されているという点が「危機」であるゆえんなのだろう。
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電気グルーヴ作品の販売停止問題を入口にしているものの…

2020-08-15 10:53:55 | 読書ノート
宮台真司, 永田夏来, かがりはるき『音楽が聴けなくなる日』 (集英社新書) , 集英社, 2020.

  ミュージシャンの不祥事に伴う作品の出荷停止・配信停止について論じる内容。本書の企画は、ピエール瀧の逮捕を受けて電気グルーヴの作品が市場から引き上げられてしまったことに端を発している。著者の一人の永田夏来は家族社会学者とのことだが、電気グルーヴのかなり熱狂的なファンであるらしく、出荷停止や配信停止に反対する署名運動の発起人となっている。もう一人の発起人であるかがりはるきは『小さなドーナツを描いていた』というブログをやっている音楽研究家とのこと。宮台真司については説明不要だろう。

  永田は、ピエール瀧の逮捕からの一連流れをまとめ、最終的に石野卓球とピエール瀧との関係に触れながら、薬物中毒者の復帰にとって友人の協力がいかに大切かを論じている。かがりは、ミュージシャンの不祥事と事務所およびレコード会社の対応の歴史をまとめている。それによれば、旧譜の回収や出荷停止が行われるようになったのは1997年のラルクアンシエルの不祥事からで、例外はあるものの徐々に定着していったらしい。関係者へのインタビュー取材も行っており、その結果ソニーミュージック系列(電気グルーヴも槇原敬之もそう)はコンプライアンスに厳しいのではないか、と推測している。宮台の論考はアート論で、古代ギリシアやカントを参照しつつ、芸術の異化作用を称揚する一方、現代の自粛文化を論難している。

  永田と宮台の論考は鋭い指摘もあってタメになるところもある。しかし、本のタイトルから期待される内容とは違うなあ、というのが全体的な感想。読む前は、音楽の電子配信の普及と、キャンセルカルチャー、音楽における著作権ビジネスの関係を整理してくれる内容なのかと思っていた。だが、永田の議論は音楽産業とは無関係な方向に進んでゆくし、宮台の議論はアート一般の話で広すぎる(かがりのはタイトルにマッチしている)。今回の事態は、もう少しポピュラー音楽産業の構造に分け入って論じないと糸口がつかめないと思われる。例えばレコード会社を批判するにしても、不祥事を原因としたCDの出荷停止は、売れないからという理由で旧譜が廃盤のまま放置されるという事態と何が違うのか説明してほしい(後者はどういう権利の侵害になるのか)。一民間企業に表現の自由や聴く側の権利をぶつけてみたところで、その視点がまったく当てはまらないとは言わないけれども、それだけでは自粛という現象を適切に把握できないだろう。

  なお、レコード会社のコンプライアンス強化は、音楽の電子配信が主流になったことの結果であると個人的には推測する。インターネットにおける著作権強化と引き換えに、音楽産業は行儀よくしなければならなくなったのである。2000年代初頭、米国でナップスターによる海賊配信問題で音楽産業側は政治家の協力を得られなかったという話が『誰が音楽をタダにした?』にある。反社会的勢力に寛容であるとみられると、それが音楽ビジネスに跳ね返ってくるような環境になったのだ。だから、どうすればいいというのは今のところわからない。
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拠出金を払っていなければ救済もないという問題

2020-08-11 15:00:26 | 読書ノート
酒井正『日本のセーフティーネット格差:労働市場の変容と社会保険』慶應義塾大学出版会, 2020.

  経済学。社会保険によって「カバーされない層」を浮き彫りにすることで、日本の雇用慣行と社会保険制度のミスマッチを指摘する一般向けの書籍である。「一般向け」というのは、平易に書かれているからだ。例えば、先行研究をいくつか紹介しているものの、理論的仮定やデータの問題に突っ込まず、サラッとまとめているだけである。また、図表はあるが数式はない。著者は法政大学の先生。

  公的医療保険、公的年金、失業保険は、非正規雇用者を十分カバーできていないという話から始まる。原因は、自営業者が非正規雇用に置き換わってしまい、これら社会保険制度が作られた時代と就業形態が変わってしまったからだという。で、各論となる。失業保険は非正規雇用の一部を適用対象とするよう拡大してきたものの、拠出の条件が壁となって受給者が減少している、などなど。このほか「育児支援や高齢者就業支援には、それぞれをすすめるための政策間にトレードオフがある」「社会保険料の事業者負担は求人に影響するので正確に把握すべき」「若年者には雇用助成のほうが支援になる」「EBPMにも限界はある」などのトピックが並んでいる。

  全体としては、現在の社会保険からこぼれ落ちる者を見極め、きめ細かく対処していくべきという方向性である。著者の問題意識は、セーフティネットがユニバーサルなものになっていないからこその格差、というところから始まっていたはず。なので、統一的な制度を設計するという大改革のほうがスジとして正しい気がする。が、提案されているのはデリケートな弥縫策であるという印象で、このあたりは評価が分かれるんだろうな。確かに、改革の方向性としてはそちらのほうが現実的であるとは思うけれども。
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どちらかと言えばマイルスの’Big Fun’に近い

2020-08-07 21:48:59 | 音盤ノート
Avishai Cohen "Big Vicious" ECM, 2020.

  電化ジャズ。"Big Vicious"などと啖呵を切られてしまったら、聴く方は大音量・高音圧・エフェクトで音歪めまくりの邪悪なアガルタパンゲア軍団みたいなのを期待してしまう。だが、そこは信用と品質のECMであり、下品で毒々しいのはご法度のようだ。8ビートの曲もあるけれども、どちらかと言えばアンビエントな雰囲気で、上品で枯れたジャズロックとなっている。「電化」度も1970年代的で、打ち込み部分は控えめで、ダブ感も希薄である。

  トランペット兼シンセサイザーのコーエンほか、ドラムがAviv CohenとZiv Ravitzの二人、ギターがUzi RamirezとYonatan Albalak(ベースも兼務)の二人という編成。全11曲中9曲がオリジナルで、あとはベートーベンの「月光」とマッシヴ・アタックの'Teardrop'である。バンド名=アルバムタイトルが名前負けしているという先に言及した問題のほか、打楽器の音数が予想より少なすぎてツインドラムの意味がないとか、コーエン本人のトランペットがジャズ作品(1 / 2)のときと変わらなさ過ぎでもう少しバンド編成を考えた演奏をしてほしいとか、ケチをつけたくなるところはある。しかしながら、二人のギタリストが作りだすサイケデリックな音色にも捨て難い魅力がある。ジャズ界に参入してくるロックギタリストってハードロック/ヘヴィメタル系がであることが多い気がするけれども、このアルバムからはメタル臭がしないのがよい。

  というわけで「十分満足させるほどではないけれども、今後を期待させる」という評価になる。この編成を十二分に活用した演奏を録音するには、レコード会社は変えたほうがいいだろう。まあでもトランペットのスタイルは変わらないかな。
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タイミング悪く登場し、二つのレコード会社に翻弄される

2020-08-03 22:56:19 | 音盤ノート
Andy Pawlak ‎"Shoebox Full Of Secrets" Fontana, 1989.
Andy Pawlak ‎"Low Beat Folk" Andy Pawlak, 2017.

  シンガーソングライター風味のあるブルーアイドソウル。アンディ・ポーラックは1964年の生まれの英国人で、Fontanaレーベルと契約して一枚だけアルバムを出した後に契約を打ち切られ、音楽活動を一時的に停止。米国西海岸でヘリコプター操縦士の免許を取った後にまた英国に戻り、1990年代後半にMonkeyというバンドを結成してIsland Recordsと契約する。が、レーベル内のごたごたのため録音したアルバムが発売されないまま放置される。この後、どうやって過ごしたのかは不明だけれども、現在は自身のbandcampのサイト1)で環境音楽のアルバムを三作発表している。苦労人である。

  Fontanaからの1stアルバム"Shoebox Full Of Secrets"は、いちおう日本盤も1989年に発売されているが、当時話題になった記憶はない。日本でわずかながら注目されるようになったのは、ネオアコ文脈で再評価されるようになってからで、2001年にGuitar Pop Jamboreeのシリーズの一つとしてUniversal JapanからCDが再発されている。音を聞いてみると、確かに中期のAztec CameraやPrefab Sproutの影響が感じられる。収録曲の中で、'Mermaids'や'Eskimo Kissing'といったシングル曲は軽快で素晴らしい一方で、数曲あるスローバラードは少々退屈でもう少し工夫がほしいかも。しかし、メロディのセンスはあるし悪いアルバムではない。1989年の英国は、Stone Rosesとハウスがこの種の甘めのブルーアイドソウルを一気に流行遅れにしまった年である。このようにデビューのタイミングは悪かったとはいえ、アルバム一枚だけで契約停止なんてレコード会社側もハナから育てる気なんかなかったんだね。

  続く2ndアルバム‎"Low Beat Folk"は、Islandからの発行を予定して1998年に録音されている。ところが、Islandを所有していたポリグラムが、同年にカナダの酒類販売会社のSeagramに買収され、翌年に傘下のレーベルがUniversal Music Groupにまとめられる渦中で、アルバムの発売は頓挫してしまったとのこと。その後このアルバムは、ポーラック本人のHP2)で言及されてその存在が知られることになる。2017年にはDisk Unionによって日本でのみCD発売がされているが、他国ではダウンロード販売のみのようだ。音は1stからガラりと変わり、シリアスで暗く、軽快さのかけらもない。しかも地味。トリップホップ影響下なのか知らないが薄くて重いバンドサウンドが寄り添い、ボーカルも1stの面影を消すかのようにわざわざダミ声でシャウトしてみせる。この変わりようはちょっとついていけない。もともとMonkey名義で出すつもりだったのだからしようがないのか。

  以上のように不遇のミュージシャンである。1990年前後のFontanaって新人と契約してはろくにプロモーションをしないまま放り出すことで悪名高かった。Islandも、創業者のクリス・ブラックウェルが経営から手を引いた1997年以降はMy Bloody Valentineを放り出している(7年ぐらい在籍してシングルの一つも完成させていない)。アンディ・ポーラックは、そういったタイミングでこの二つのメジャーレーベルと契約しており、つくづく運の無い人だと思う。インディーズという選択肢はなかったのだろうか。なお、二作とも、凄い作品というわけではないけれども、再発に値するクオリティには達していると思う。

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1) Andy Pawlak / bandcamp https://andypawlak.bandcamp.com/

2) Andy Pawlak HP http://www.andypawlak.com/
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