29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

平等をめぐる新しい焦点変数、謎も多い

2018-11-27 09:54:33 | 読書ノート
アマルティア・セン『不平等の再検討:潜在能力と自由』池本幸生, 野上裕生, 佐藤仁訳, 岩波現代文庫, 岩波書店, 2018.


  不平等論。言葉遣いは平易ではあるが、経済学から倫理学を横断してゆく内容で、抽象度は高い。原書は1992年のInequality reexamined (Oxford University Press) で、邦訳は1999年に岩波書店から発行されている。最初の邦訳では三人の訳者それぞれが解説をつけていたが、2018年の文庫版は解説がもう一つ追加されて計4本となっている。

  冒頭は、なぜ平等が必要なのか、平等じゃなくてもいいのではないか、という疑問に対しての反論である。近年のまともな政治哲学はみな「何か(効用やら権限やら自由やら)」の平等を扱っており、平等であるべきことは議論の前提であると返す。読者としてこの返しは前記の疑問に対する十分な反論だとは思わないが、本書の論点としては重要なところではないのだろう。

  その後は、何の平等であるべきか、の話が中心となり最終章まで議論が続けられる。これまで所得や基本財(=権利)が平等のために分配または再分配されるべきものと考えられてきた。しかし、そうした資源を補填しても、不遇な境遇のゆえにそれをうまく厚生に転換できない者がいる。不遇な境遇としては、長年の貧困、障害、女性がイメージされている。彼らに対して、capability(潜在能力)アプローチを採ることで、厚生が改善されるはずだと著者はいう。

  このケイパビリティ概念は謎めいていて、どうやって測定するのだろうというのがまず疑問だ。行政は人がケイパビリティを発揮できない環境に置かれているかどうかの判定をできるのだろうか。障害、ジェンダー、マイノリティのような一目瞭然のケースもあるが、それだけだとアイデンティティ・ポリティックスと変わらない。著者の議論の射程はそれを含むとしても、それだけに留まらないだろう。

  あまりに射程が広いと再分配の原資の問題も起こりそうだ。対象者が多いと、各々がケイパビリティを100%発揮するために使用できる社会的な資源は少なくなり、全員が50%分で満足しなけれならなくなるかもしれない。このような不十分な達成は正当化できるのだろうか。

  以上のようにケイパビリティは未完成の概念ではあるが、その点は著者も認めている。未完成ながら魅力のある概念であり、言及する論者は多い。登場して20年以上経ている概念であり、進展はなかったのだろうか。このあたりは個人的に調べてみたい。
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MPB風米国産アダルトコンテンポラリー

2018-11-23 12:12:52 | 音盤ノート
Nando Lauria "Points of View" Narada Equinox, 1994.

  MPB、と二作目"Novo Brasil"のエントリでカテゴライズしてしまったが、使用されているシンセサイザーやギターの音色の響きから「MPB要素の強いアダルト・コンテンポラリー」と表現したほうがよかったかもしれない。どちらかと言えばブラジルよりも「米国化された」音の感触をもつ音楽である。

  デビュー作ではあるが、すでにスタイルは確立されており、二作目と印象はほとんど変わらない。スキャットだけでなく、歌詞のある曲が二曲収録されているというのが少々の違いというだけだ。そのうちの一曲はビートルズの'If I Fell'だが、爽やかなボサノバ曲に変貌しており、完全に自家薬籠中のものにしている。この曲はシンセサイザーなしでの演奏で、正統派のMPBらしく聴こえ、演者はこの方向を追求すべきだったと思わないでもない。シンセが入るとたちまちPMGっぽくなってしまい、それはそれはで良いのだけれども、音楽家としての可能性を狭めてしまった気がする。しかし米国のレコード会社に在籍では難しいかな。

  いやでも、全盛期のPMGの再現こそ聴き手が彼に求めているものだ。オリジナリティなどなくていい。その役割に徹することができなかったというのが、活動が続かなかった理由なのだろう。立ち位置というのは難しいものだな。なお、三曲ほどでPMGのライル・メイズがピアノを弾いている。
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経済成長が政党の役割を有意義にした、と

2018-11-19 12:48:59 | 読書ノート
待鳥聡史『民主主義にとって政党とは何か:対立軸なき時代を考える』ミネルヴァ書房, 2018.

  政党論。著者は『代議制民主主義』などの著作がある京都大学の政治学者である。もともとは講演録であり、それに大幅に加筆してできた本だとのことである。

  前半は西洋における政党史および政治学理論からみた政党概念についての解説である。著者は、政党の役割は利益配分をすることだ、という。シニカルな見方に見えるかもしれないが、その説明を読むと意外にも肯定的である。これまでは、利益配分を目指す複数の集団が競いあうことで相互抑制機能がはたらき、結果として民主制は安定した運営がなされてきたという。

  後半は日本の政党史を遡って、日本の政治の課題を考えるというもの。戦前の政党政治についても評価の対象としているが、重要なのは冷戦後・バブル崩壊後の日本の政党の問題だろう。大きな経済成長がなくなって利益分配が難しくなり、さまざまな層に社会負担を求めるというのが現在の政治となった。これに絡めて、中選挙区制のメリット・デメリット、1990年代の橋本行革の評価、日本の小選挙区制の問題点などが指摘される。

  本筋の政党論もさることながら脱線話における短い知見なども興味深い。例えば「日本の政治体制を三権分立とみなすのは間違っている。議院内閣制は抑制と均衡のシステムではなく、立法と行政の融合を特徴とする(そもそも憲法に国権の最高機関は国会だと書いてある)」と。正統とされてきた憲法学者の解釈は一体何なのだろうか。
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OECDによるナッジ政策についての短いレポート

2018-11-15 08:08:34 | 読書ノート
経済協力開発機構(OECD)編著『行動公共政策:行動経済学の洞察を活用した新たな政策設計』齋藤長行訳, 明石書店, 2016.

  OECDによるレポート。選択アーキテクチャを用いた欧米における近年の政策の事例集で、英語版なら無料で読める1)。邦訳は訳者による長めの解説などを加えたものだが、それでも全体で128頁ほどの分量であり、短い。

  行動経済学上の知見や理論を基にした政策を採りあげることが中心で、サンスティーンが気にかけていた「政策としての倫理的問題」についての議論は省かれている。チェックボックスにチェックを入れた設定での販売の禁止、適正な燃費ラベル表示、クレジットカード規制などの例がさらりと説明されている。もっともすぐれた選択肢に顕著性を与えたり、またはそれをデフォルトとしたり、契約条件が複雑な商品については情報提供形態を限定して選択肢を狭め、消費者の認知的負荷を削減する、などなど。一方で、年金や健康保険のようなものは選択アーキテクチャより強制加入のほうが効果的である可能性があること、また民間が用いる選択アーキテクチャを規制して「公正」な取引を促すことは供給自体を減らす恐れがあること、などの問題点が指摘されている。いずれにせよ、始まったばかりの政策が多くて、まだ「評価」の段階に達していないようだ。

  以上。政策といってもかなりこまごまとしたレベルのものばかりで、実のところ驚かされるようなものは少ない。業界の抵抗が少ないようなところに手をつけているという印象。低コストでできるけれども、改善効果もそれほどすごいものではないだろう(臓器提供意思表示のオプトアウト方式は劇的だが)。政府ができることはまだよく知られていなくて、研究が進むにつれてこれからたくさん出てくるのだろう。

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1) Pete Lunn Regulatory Policy and Behavioural Economics OECD
  http://www.oecd.org/gov/regulatory-policy/regulatory-policy-and-behavioural-economics-9789264207851-en.htm
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コンサルによる誤ったアドバイスに気をつけろ

2018-11-11 21:42:51 | 読書ノート
カレン・フェラン『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です:コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』神崎朗子訳, 大和書房, 2014.

  ビジネスマン向けのコンサルタント批判の書。著者はMIT卒業後に二社のコンサルタント会社の勤務経験を経て、現在は自分のコンサルタント会社を経営しているという。原書はI'm sorry I broke your company: when management consultants are the problem, not the solution (Berrett-Koehler, 2012)である。邦訳は2018年にだいわ文庫版が発行されている。

  コンサルによる将来予測は当たらないので、その予想に合わせて戦略なんか立てると痛い目にあう。数値目標を立てると帳尻合わせのごまかしがはびこり、有能なのに評価されない社員が去り、会社が荒廃する。人格的に優れた管理職や経営者が成功するなんて嘘、スティーヴ・ジョブズの無茶苦茶ぶりを見よ。問題がおきたら、社内の関係者を集めて話し合わせたほうがましな解決に至る確率が高い。というようなことが書かれている。コンサルは書類の山をもたらすが、所詮は部外者だ。第三者の視点が欲しいというときだけ彼らを頼るべきで、通常は社員を大切にして彼らの声に耳を傾けよう、というのがその主旨である。

  体験記と簡単な考察が中心で、ユーモアもある。激烈な調子ではないので、深刻にならずに読み流せる。トピックが重なるわけではないが、ベースは『ヤバい経営学』と同様の俗流経営論の批判である。著者のコンサル経験が豊富で、エピソードを中心に読めるというのがウリだろう。

  日本ではどうだろうか。個人的にまた聞きした話である。ある中小企業の経営者が新規事業の資金を得るために、自社で作成した事業見通しのレポートを銀行に提出した。しかし、お金は借りられなかった。ところが、あきらめずに次に大手コンサルに頼んでレポートを作ってもらい、それを銀行に持って行ったところ、めでたく融資を受けることができた。その経営者によれば「レポートの中身は自社作成のものとほぼ同じで、毛が生えた程度に図表が加わっただけ。結局レポートの中身ではなく、大手コンサルに依頼したという事実が事業の信用を高めた」ということだった。当該企業は今ではかなり大きくなっている。とはいえ審査の時点で事業が当たるかどうかわからないのだから、銀行側としては失敗したときの言い訳となる何かが必要だったのだろう。それが大手コンサルによるレポートだったというわけだ。経営改善だけでなく、そういう役割も果たしているらしいという話である
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あまりにも上手く行き過ぎたコピーの苦難

2018-11-07 22:57:08 | 音盤ノート
Nando Lauria "Novo Brasil" Narada Equinox, 1996.

  MPB。フュージョン味のあるミナス系ボサ、と書いても伝わらないかもしれない。ペドロ・アズナール在籍時のPat Metheny Groupの、つまり全盛期のPMGの、あの複雑ながら爽やかなサウンドの再現と言ったほうが分かりやすいだろう。実際、元PMGのDan Gottliebが参加している。Lo Borgesのような淡い感覚をにじませる曲もあってとてもいい。

  男声ボーカルが全編にわたって展開するけれども、歌詞を丁寧に聴かせるという曲の作りではない。伸びのある地声とファルセットを駆使して、ひたすらスキャットやヴォカリーズが繰り出される。そのメロディラインはとても印象に残る。ギターはいわゆるヴィオランで、打楽器隊もサンバ風となることもあるのに、シンセサイザーの音色のせいで「MPBの米国解釈」に聞こえてしまう。まあ、米レーベルの米国録音なのでそうならざるをえないのだが。

  エピゴーネンで片づけてしまうには惜しい質の高さがある。しかし、このアルバムの後、新しい録音がないままになっている。やはりPMGフォロワーというのは本人的には納得できるポジションではなかったのだろうな。このアルバムが発表された頃、本家PMGはアズナール時代が終わって80年代のPMGサウンドを奏でなくなっていたのだから、継承者として堂々としていてもよかったと思うのだが。
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保護される権利が自己決定権に読替えられてしまった経緯

2018-11-03 09:02:03 | 読書ノート
森田明『未成年者保護法と現代社会:保護と自律のあいだ』有斐閣, 1999.

  米国における少年犯罪に対する最高裁判決、子どもの権利条約の採択過程での各国のやりとり、および日本における少年法制定の論議の三つを検証し、子どもの保護と子どもの自律のバランスに対する考え方がどう変化していったのかを跡づけるという内容である。著者は法学者で、本書も専門的な法学書である。また、1986年から98年の間に発表された論文を編集した論文集であり、記述される事項の繰り返しが多い。2008年に第6章への補論を加えた第二版が発行されている。

  本書によれば、政府による子どもへのパターナリズム的な制度は、19世紀の米国で誕生したという。当時、親から養育を放棄されたような一部の子どもたちは、何の保護もないまま労働市場で長時間労働をさせられて、犯罪を犯せば成人と同じように取り扱われた。こうした状況を憂う一部の社会改良主義者たちが、少年保護を掲げた少年裁判所制度を創設して「保護される権利」という意味での「子どもの権利」を確立した。

  しかしながら、1960年代になると、このような制度的なパターナリズムは未成年の決定権を奪うものとして批判の対象となった。1968年の連邦最高裁の判決以降は、保護よりも子どもの自己決定権が強調されるようになった。同時代に伝統的な家庭の崩壊と少年犯罪の激増があり、少年刑法犯も成人と同じように処遇されるべきだとする機運も形成された。一方で、教育機関の秩序維持をめぐるさまざまな問題を引き起こし、反発も生み出した。1980年代になると連邦最高裁もパターナリズムを認める方向に軌道修正するようになっている。

  1989年の国連子どもの権利条約は「保護される権利」と「子どもの自己決定権」が混在していて折衷的であり、またドイツのように親権を認める留保をつけての批准もある。米国は、条約採択において議論をリードしたが、議会の反対にあって最終的に批准できなかった。子どもの自己決定権は、当初推進者が考えていたほどの魅力的なアイデアとは今は思われていないということだ。なお日本は米国からの影響を微妙に受けつつも、パターナリズムを放棄するような制度的変化はないとのことである。

  以上。ピンカーが『暴力の人類史』で、1960-70年代は米国における犯罪が激増した時期だと書いていたことを思い出す。1960年代以降の米国の子どもは、自己決定権を与えられると同時に崩壊した秩序も押し付けられたわけだ。当然、得した子どもとそうでない子どもがいただろう。子どもの権利が子どもの困難をすべて解決するわけではないことがわかる。
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