29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

デンマーク人によるビル・フリゼールの欧州的解釈

2018-08-29 20:52:00 | 音盤ノート
Jakob Bro ‎"Balladeering" Loveland, 2009.

  ジャズ。ヤコブ・ブロは1978年生まれのデンマーク出身ニューヨーク在住のギタリストで、近年はECMからアルバムを発表している。この作品はデンマークのインディーズレーベル(ブロ自身の運営?)Lovelandからの発売で、出世作ということになる。CDは廃盤になっているが、ストリーミングで聴くことができる。

  ギタリストといってもビル・フリゼールの影響を感じさせるレイヤー系ギターで、残響を効かせて空間的な演奏を効かせる。これはそのフリゼール自身(‼)を招いての録音。両者の違いを堪能してもらおうというわけなのか、ブロは左スピーカーに、フリゼルは右に割り振られている。この他、リー・コニッツ(alt sax)、ベン・ストリート(bass)、ポール・モチアン(drum)が加わる五重奏団での演奏である。

  ECMでのブロの諸作を聴くとつかみどころのない冷たい荒涼としたギタリストという印象だが、このアルバムでは暖かみを感じる。たぶんそれはリー・コニッツのおかげだろう。彼だけがはっきりとしたメロディラインを奏でる。その他四人は雲を掴むような演奏をする。本来ならば歌心のあるフリゼールだが、ここでの演奏は主役を食ってはならじと気を利かせたのか、抑え気味である。二つのギターは明滅する弱い光のようで、チラチラ鳴っているけれども前面には出てこず、周囲を漂う空気を作ることに専心している。

  というわけで、スリルはないけれども、注意せずに浸るように聴けるというアンビエントなジャズである。近い音としてはKenny Wheelerの"Angel Song"(ECM, 1997)が挙げられる、といってもマイナーすぎるかな。

  
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「徳」概念の諸側面を追求するも意見の一致を見ず

2018-08-26 13:05:05 | 読書ノート
ダニエル・C.ラッセル編『徳倫理学:ケンブリッジ・コンパニオン』立花幸司監訳; 相澤康隆, 稲村一隆, 佐良土茂樹訳, 春秋社, 2015.

  徳倫理学概説。徳倫理学とは、帰結主義(=功利主義)と義務論の間隙を埋める第三の倫理学で、近年注目されているとのよし。アリストテレスやマッキンタイア(『美徳なき時代』)が本書でもよく言及される。本書は、ダニエル・C.ラッセル以下15人による論文集で、原書はThe Cambridge companion to virtue ethics (Cambridge University Press, 2013.)となる。

  僕の徳倫理学の理解はこう。それによれば「嘘をつくこと」の評価は文脈依存的になる。一般的には嘘はつくべきではない。しかし、例えば「ヤクザに追われているXさんを家に匿うAさんは、追ってきたヤクザに対してXさんの居所についてどう答えるべきか」という状況では、おそらく徳倫理学は「いない・知らない」という嘘を許容するはずである。対する義務論だと嘘は一律アウトになる(ただしサンデルによれば「いない」かのように誤解させる物言いは許容されるらしい)。この話だけだと結果オーライの帰結主義とそう変わらないように見えるけれども、そこは功利計算なんかできないでしょと義務論者と同様の批判を使って差異化する。評価の基準は、事に至るまでのAさんの蓄積された振舞いや人格である。

  本書はその評価の基準となるところを掘り下げようという内容である。ただし、この目標のせいで入門書としてはかなり難解であり、帰結主義と義務論との違いも分かりにくくなっている(この二つへの批判から先に進みたいというのが本書の意図のようだ)。論者によっても、徳が何によって構成されるのか、知的営為なのか、努力の末の開花なのか、人物と結びつかない外在的なのものなのか、意見が一致していない。それは駄目なことではないのだが、ある程度分かっている人向けの議論だろう。一応、アリストテレスからその衰退と復活の歴史、生命・環境・ビジネス・政治といった応用倫理学と、広くトピックをカバーしており、全貌を通覧するには向いている。

  ただ、この倫理において人格者であることを求められるのは使い勝手がよくないという気がした。動機までも正しさを求められるのだが、それは外からは見えない場合もあるわけで、他人の行動を判定する要素としては心もとない。僕としては、安逸をむさぼる小心翼々な小市民じゃ駄目ですか、問いたくなる。
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元素周期表をもとにしたよもやま話

2018-08-23 08:58:49 | 読書ノート
サム・キーン『スプーンと元素周期表:「最も簡潔な人類史」への手引』松井信彦訳, 早川書房, 2011.

  物理・科学系のポピュラーサイエンス。元素周期表にまつわる小ネタを集めた内容であり、科学の営みがよくわかる。著者は米国のサイエンスライターで、原書はThe disappearing spoon: And other true tales of madness, love, and the history of the world from the periodic table of the elements(Little, Brown and Company, 2010)。邦訳では2015年にハヤカワノンフィクション文庫版が発行されており、その際にハードカバー版にあった副題が外されている。

  関連する元素をグループ化して、毒、薬、政治、貨幣、芸術、温度、泡などの切り口で解説してゆくという構成である。その元素の性質のみならず、元素周期表のなりたち、原子の構造、各元素の発見エピソードなども盛り込まれてい。特に先取権をめぐる科学者のやりとりが面白く、苦渋を舐めた人々(女性も幾人かいる)についても記述がある。感慨深かったのは「天才詩人だったが躁鬱病で周囲に迷惑をかけまくっていた人物が、リチウムを飲むようになって症状が治まり、同時に詩想も失った」という話。それと元素の研究を推し進めたのは戦争だった、とか量子力学の文系的誤用についての批判もある。

  ただし、読んでいるうちにエピソードに気を取られてしまうので、この本で元素の性質をしっかり覚えられるというものではない。副読本には向いているが、教科書にはならない。あくまでも読み物だろう。注記にもエピソード満載なので、最後まで読もう。
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学校図書館はなぜ現在のようになったのか

2018-08-19 22:13:34 | 読書ノート
今井福司『日本占領期の学校図書館:アメリカ学校図書館導入の歴史』勉誠出版, 2016.

  日本の学校図書館はなぜ現在のようになったのか、という疑問に答える内容。「現在のよう」というのは、教科学習とはあまり関係ないまま読み物を置いてあるだけというよくある図書室の姿である。なお、『日本図書館情報学会誌』62(4)に野口久美子氏の書評が出ている。

  前半は20世紀の米国学校図書館史となっており、中等教育の進展とともに学校図書館の充実が図られたことが述べられている。授業の進行に貢献し、内容の理解を手助けする資料が置かれ、さらに専任の司書が生徒の指導もするような学校図書館が目指されていたという。後半は日本の話になる。敗戦後の占領期に、こうした米国の学校図書館のコンセプトが輸入されそうになったのだが、結局資金不足やら周囲の理解不足やらの国内事情のため、徹底されることはなかったという。

  というわけで、授業と関わりの薄い今のような学校図書館となった。惰性でこうなったとはいえ、米国型の侵入を拒むような先行する学校図書館モデルというのがあったのだろうか、というのが疑問として残る。新たにできた資格「学校司書」というのは、終戦直後に上手くいかなかったこのコンセプトをもう一度導入する試みなのだろう。ただ、そもそも日本型読書教育の問題として、複数の資料を読み比べる多読よりも、一つの資料を読み込む精読を尊ぶ空気というのがある。これを克服しないといけないかもしれない。
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各学部にとって望ましかった分散的な図書館システム

2018-08-16 08:26:40 | 読書ノート
河村俊太郎『東京帝国大学図書館:図書館システムと蔵書・部局・教員』東京大学出版会, 2016.

  戦前の東京大学の図書館システムをつまびらかにして、日本の大学図書館システムの問題を探ろうという試み。天野絵里子氏による書評が『日本図書館情報学会誌』62(3)に出ている。

  焦点が当てられるのは、中央図書館と各学部・各研究室に設置された部局図書館との関係である。部局図書館は予算においても管理運営においても中央図書館の統制に服さず、設置した各学部各研究室の意向で運営されてきた。書籍は教員が選択し、独自の分類がなされた。一方で中央図書館は研究においても教育においても軽視される、という状態が続いたとのこと。分権的な運営が常に勝ってきた、というのが著者の見立てである。

  大学図書館の問題は学部に分散した権限の問題である、ということなのだろう。中間共同体が実権を握って中央の統制に服さない、というのは、ときには反権力的行為としてロマンティックに語られることもあるけれども、その弊害もまた大きい。なお、今でも本書で描かれたような大学図書館がたくさんあるようだ。利根川著とはまた違った分析で興味深い。
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日本の大学図書館員の専門職化の苦闘の歴史

2018-08-13 17:16:35 | 読書ノート
利根川樹美子『大学図書館専門職員の歴史:戦後日本で設置・教育を妨げた要因とは』勁草書房, 2016.

  日本における大学図書館員の専門職化の失敗の歴史。すでに専門家による書評がいくつか出ていて、松本直樹氏『日本図書館情報学会誌』62(2)、新藤透氏『情報メディア研究』15(1)、片山俊治氏『図書館界』68(3)などがある。これらに僕が新たに付け加えることは特にないのだけれどもメモ書きとして。

  なぜ日本で大学図書館員(正確には大学図書館に所属する専門的業務を担う職員)の専門職化が実現しなかったのか、というのがテーマである。その答えは、(1)当初の議論は大学図書館専門職員の身分の法令化を目指したが、政府および図書館関係者の支持を受けなかったためである。(2)支持を受けなかった理由は、その業務が十分専門的だと考えられなかったためであり、(3)そう考えられた理由は、専門性を支えるはずの継続教育・専門教育の体制はまだ昭和期には十分整っていなかっためである、と議論が展開してゆく。

  専門職化の足を引っ張った図書館界側の要因として、図書館関係者の「公共図書館中心主義」があると指摘されている。館種の違いを超えて「図書館は知る自由のためにある」という考えがそうだ。だが著者は、公共図書館以外の図書館がそのためにあるという議論は疑問だとする。しかし日本図書館協会は、館種の違いを軽視するがために、大学図書館業務の高度化にさらなる司書資格の分化で対応するということを考えられなかった。また司書教育における公共図書館中心主義が強かったため、大学図書館においても貸出が重視されてレファレンスが軽視されたという。

  「なんちゃって短大図書館課長」を経験した身としてはとても面白かった。でもまあ、本当に処方箋は専門教育なのだろうか、という疑問は感じる。その答えは、現職図書館員に対する大学院教育の成果次第ということなのだろう。
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自伝翻訳を潰されてしまい代わりとして

2018-08-10 09:53:14 | 読書ノート
上村彰子『お騒がせモリッシーの人生講座』イースト・プレス, 2018.

  二年連続でモリッシー論が出版されるほど日本で需要があるのだろうか(参考)と心配になるが、あるんだろうね。本書は未訳の自伝からネタを採ってきているところが売りどころだろう。なんでも「はじめに」によれば、著者は彼のAutobiography (Penguin, 2013.)の翻訳者として指名され、7,8割がたの翻訳を終えていたところ、モリッシー本人の気まぐれで日本語版出版の中止に至ったそうで。その代わりの出版物ということになる。

  各章は「学校」「音楽」「ザ・スミス」「性と愛」「居場所」「ファッション」「生と死」「社会」「まとめ」で構成され、自伝やインタビュー、歌詞からの引用、著者の取材などによってモリッシーの生き様を跡付ける。前半を読むと、彼がいかに偏屈で面倒くさくてイケていない人間であるかがわかるのだが、ファンならば「知ってた」というところだろうか。ただし個々のエピソードは笑える(デビッド・ボウイとデビュー前の自分を比較するところなど。ボウイのような大スターと自分を比較して惨めになる必要なんかないじゃん‼)。後半はソロ時代の話だが、近年の米国での成功はヒスパニック系の支持があったからなどの指摘は面白い。このあたりの、衰退期の英国労働者階級の心情をうたってきた彼に対して、なぜ世界中の支持が集まるのかについての著者なりの分析は冴えていると思う。

  しかし、日本人の場合、なぜ女性が彼についての本を書くのか。女性嫌悪的な面があるように思える人なのだが。たまたまなのか。こういうのはすぐに店頭に置かれなくなり、たぶん多くの図書館でも所蔵しない本なので、ファンならば買っておくべし。
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分配する資源を括弧に入れて平等を考える

2018-08-07 10:45:49 | 読書ノート
広瀬巌編・監訳『平等主義基本論文集』勁草書房, 2018.

   政治哲学・倫理学領域の平等論の主要論文5本を収めた日本独自編集の論文集である。収録されているのは、ロールズによる格差原理についての議論、リチャード・アーネソンの運平等主義、エリザベス・アンダーソンの関係性的平等主義、デレク・パーフィットの優先主義、ロジャー・クリスプの十分主義の五本である。

  面白いのは、パーフィットの論文とクリスプの論文である。この二つは、前にある三つの論文にある漠然とした印象が一掃されて、見通しがクリアになっている。というのも、何を分配するのか──資源なのか厚生なのか──を棚上げにして、数字の変化だけで「平等な状態」を考察しているからである。血肉が通わない議論に思うかもしれないが、おかげで分かりやすくなっていると言える。

  とはいえ、予備知識なしにいきなり読んでみてわかるというものでもない。先に編者による『平等主義の哲学』での議論を頭にいれておいたほうが理解しやすいだろう。
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改革は夏休み明けに?・日大問題のその後

2018-08-04 15:09:27 | チラシの裏
  今週は日大アメフト問題に関していろいろ動きがあった。月曜日の7/30に第三者委員会の最終報告書が提出され、記者会見が開かれた1)。同日に内田正人前監督と井上奨前コーチは懲戒解雇された。二日後の8/1には、関東学生アメリカンフットボール連盟が、今シーズンの日大アメフト部のリーグ戦復帰を拒否したことを発表した2)。それらを受けて、昨日8/3には田中理事長と大塚学長3)4)が声明を発表している。

  で、何か変わったのか。まず、常務理事だった内田前監督と、隠蔽工作を行った井ノ口理事が学園組織からいなくなったことが挙げられる。日大の組織を動かしていた(らしい)役職者が二人もいなくなったのだから、けっこう大きな話である。とはいえ、僕自身着任して日が浅いこともあって、今後どのような影響が出るのかは予想できない。組織上の改革についてはこれから、ということになるだろう。

  一方で、田中理事長はその役職を継続するようだ。これは今後の信頼回復の足枷となる。今回の問題の遠因として、理事長が問題のある人物を重用してきたということがある。マスメディアでこの人たちの名前が挙がるたびに日大のイメージが貶められてきた。また直接的には、第三者委員会が指摘するように、事態収拾のために積極的に指揮をとるべき立場だったのに、何もしなかった。これらの点で理事長には経営責任がある。

  個人的には、大学が民主的に経営されるべきとは思わないし、独裁者的な経営者がいてもいい。そんな経営者は世間にザラにいるし、実際に僕も他の大学でそのような人物を仰いだことがある。しかし、彼の強権を教職員が黙認するのは、経営が上手くいっているという条件があってこそである。しかし、日大への信頼を失墜させた今回の事態で、田中理事長を支えてきたはずのそのような条件が失われてしまった。経営の失敗。このことは強調しておきたい。


1) 日本大学アメリカンフットボール部における反則行為に係る第三者委員会 (略称日大アメフト部第三者委員会)の最終報告書について / 日本大学HP 2018/7/30
  http://www.nihon-u.ac.jp/announcement/2018/07/8596/

2) 日大アメフト部チーム改善報告書の検証結果についての答申 / 関東学生アメリカンフットボール連盟HP 2018/8/1
  http://www.kcfa.jp/information/detail/id=2314

3) 学生ファーストの理念に立ち返って(日本大学理事長 田中英寿) / 日本大学HP 2018/8/3
  http://www.nihon-u.ac.jp/announcement/2018/08/8661/

4) 今後の改革に向けて(日本大学学長 大塚𠮷兵衛) / 日本大学HP 2018/8/3
  http://www.nihon-u.ac.jp/announcement/2018/08/8666/
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