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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

ネットワーク科学黎明期の記録、入門書としては微妙

2019-10-28 18:09:40 | 読書ノート
ダンカン・ワッツ『スモールワールド・ネットワーク: 世界をつなぐ「6次」の科学 / 増補改訂版』ちくま学芸文庫, 辻竜平, 友知政樹訳, 筑摩書房, 2016.

  ネットワークの科学黎明期のドキュメント。著者の別の書籍(参考)をかつて紹介した。著者はいつからか「社会学者」を名乗るようになっているが、駆出しの頃はどちらかと言えば理系の立場でネットワーク研究をやっていて、そもそも学部の頃は物理学を専攻していたとのこと。原書はSix degrees: the science of a connected age (W.W.Norton, 2003.)で、邦訳が2004年に阪急コミュニケーションズから発行されている。ここで紹介する文庫版は、2004年の原書paperback版をもとにしたもので、新たな章が追加されている。

  前半は、著者の研究歴を紹介しつつこの領域の理論の進展について伝えている。後半は応用編で、新たなコンセプトを付け加えつつモデルをチューニングし、ネットワーク分析が適用可能な領域をざっと見渡す、という内容である。著者の業績を知る上で重要なのは前半である。服従実験で有名なスタンレー・ミルグラムのもう一つの研究──「六次の隔たりを経れば誰にでも手紙を届けることができる」──を説明できる数学モデルをまず作った。そしてこのモデルに汎用性があることを示される。ただし、ライバル研究者も別の強力なモデル(スケールフリー・ネットワーク)を打ち立て、お互い切磋琢磨しているとのこと。後半はトヨタ自動車の事例も出てくる。

  新しい領域が起ちあがってゆく際の興奮と熱狂を伝える記録としては面白い。だが、説明は分かり難いし、古いしで、この分野の入門書としてはもはや適切ではないと思う。読者の誰もが、リンクの設定と活性化という抽象化した関係だけでどの程度「社会」が理解できるのだろうという疑問を持つはずだ。一応、本書の後半ではもう少し変数を加えた分析が試みられているが、まだまだという印象である。もっと最近の入門書ならば、きっとその後の進展が伝えられていることだろう。
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離婚と相続をめぐる貴族と教会の攻防史

2019-10-24 14:06:47 | 読書ノート
ジョゼフ・ギース, フランシス・ギース『中世ヨーロッパの結婚と家族』講談社学術文庫, 栗原泉訳, 講談社, 2019.

  ローマ後期から15世紀までのヨーロッパにおける結婚や離婚、遺産相続のしきたりの変遷をまとめた歴史書。原書はFrances Gies, Joseph Gies. Marriage and the family in the middle ages (Harper & Row, 1987.)である。内容とは関係ないことだが、学者の端くれとして著者表記の順序がなぜ邦訳で変更されたのか気になる。なお著者らは米国の歴史家の夫婦で、二人ともすでに亡くなっている。邦訳はこの文庫版がオリジナルとなり、先行する単行書籍版はないようだ。

  本書の重要な主題の一つが婚姻形態である。初期のゲルマン貴族は、妻だけでなく愛人を囲っているのが通常で、事実上の一夫多妻制だった。また、彼らは相手の女性を簡単に捨てた。こうした習慣は徐々に、カトリック教会によって批判され、愛人を持つことや離婚が禁止され、それが上層階級にも受け入れられていった。といっても完全に離婚や婚外交渉を駆逐できたわけではないのは歴史が示す通りで、地域によっても反応が異なった。

  もう一つの主題は相続で、当初は複数人で分割相続されていたものが、一子だけの長子相続に変化していった。英国では女性も相続できたが、やはり家名(これも中世に普及した)を継ぐことになる男子が親に好まれた。ただし、結婚相手としては土地を引き継いだ寡婦がモテたとのこと。このほか、フィリップ・アリエスがかつて主張したほど子どもは適当にあしらわれていたわけではなく、親から愛情が注がれていたことが示される。

  以上。難解ではないものの、こまごまとした話と事例が続き、すんなり頭に入るという内容ではない。興味のある人向けだろう。なお、ギース夫婦の著作の講談社学術文庫シリーズにすでに5タイトル収録されている。
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図書館映画の感想とついでの思いつき

2019-10-20 07:36:49 | 映像ノート
映画『ニューヨーク公共図書館:エクス・リブリス』フレデリック・ワイズマン監督, 2019.

  日本初公開から遅れること五ヵ月、勤務先の近所にある下高井戸シネマ1)で公開されるというので出勤ついでに観てきた。ただし、長すぎて観た後に仕事をする気力は無くなった。なお、僕は20年以上前の1990年代後半に旅行者として同図書館を訪れ、館内ツアーに参加したことがある。けれども、その頃は僕の知識が無さすぎでかつ英語がわからないしで、よく理解できていなかった。

  映画は特定の人物に焦点を当てることはせず、図書館が主催する講演会や会議、利用者などの様子を淡々と写してゆくというもの。館内の裏方仕事の描写やコレクションの紹介が無いわけではないものの、割合的には少ないと言えるだろう。カメラが捉えることの多くは、講演会や舞台活動、子どもやマイノリティに対する教育活動、文学サークルでのディスカッションなどで、主に人的サービスである。いろいろ活動を行っているものの、目的自体は「多様」という感じではなく、格差対策やマイノリティへの文化接触・学習機会への提供を目的としているようだった。これはたぶん、ワイズマン監督の関心のせいでそのように切り取られたのだろう。

  菅谷明子『未来をつくる図書館』(岩波新書)によって日本で知られるようになった「ビジネス支援」を捉えるシーンは無かった。映画では「アーティスト」による創造に限定されてしまっていたけれども、世界のビジネスの中心であるニューヨークなのだから、起業などビジネス文脈で「創造」がなされるシーンを捉えてほしいとも思う。このほか繰り返しカメラが入るのが、館長ほか管理職が参加する会議である。いかにして市からの公的資金または民間の寄付金を獲得するか、また出資者の意図と図書館の目的をどう調整するか、などが議論される。個人的には、会議の映像は少々しつこいと感じたのだが、マネジメントの緊迫感を伝えるものとはなっていた。

  というわけで、ニューヨーク公共図書館の人的サービスにアクセントを置いた編集であり、そのメニューの多様さに圧倒される。ある意味で物量で勝負する内容の映画となっている。

  しかし、である。以下は映画に対してではなく、図書館活動に対して感じたところを記す。クラシック・コンサートから有名人を招聘しての講演会・朗読会、電話でのレファレンス、障害者支援、学童保育にあたることまで、本当にいろいろやっている。だが、就労支援などは図書館がやるより日本のハロワのように専門機関がやったほうがいいのではないか。子どもに対してボランティア職員(?)がSTEM教育を授ける光景も見られるが、図書館に来ない子どもも含むよう学校できちんとやったほうがいいのでは。病気について自分で調べるのもいいけれど、医者に行ったほうがもっといい、などとも思う。他の公的サービスに比べて図書館に社会のリソースを割り当てすぎているということはないのだろうか、と疑問に思ってしまった。

  映画パンフレットによれば、いくつかのサービスは一応他の公的部門がすでにやっているとのことで、それに重ねてさらに図書館がやっているということらしい。しかしながら、やはり米国では義務教育や健康保健など他の公的サービスが薄弱だというイメージがある。議会と司法が強すぎて行政が柔軟に動けないとフランシス・フクヤマが指摘していた(参考)。市全域で一律に何かやるというならば自由の侵害といった面倒な議論が沸き起こりそうだが、ニューヨーク公共図書館のようなNPOならば柔軟に動ける。自発的に来館したものだけを対象とするだけでいいので「強制」を避けることができる。だが、その広がりは利用者までで終わっており、その目的とするところは社会全体に浸透しない。結局、社会全体としては格差のコントロールに失敗してしまっている。

  ニューヨーク公共図書館を筆頭に、米国の図書館に対しては、その活動力と新たなサービスへの創造力に対して賞賛の念を禁じ得ない。図書館にしてみれば、行政が不十分だから図書館がやる、ということなのだろう。しかし、図書館が輝いてみえるのはそのような文脈のためではないだろうか、という気もしてきた。まあ、以上は思いつきにすぎないので、いずれもう少し検討してみたい。

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1) 下高井戸シネマHP http://www.shimotakaidocinema.com/
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日本では高級文化を身に付けるのは女性だった

2019-10-16 07:24:50 | 読書ノート
片岡栄美『趣味の社会学:文化・階層・ジェンダー』青弓社, 2019.

  ブルデューが『ディスタンクシオン』で展開した理論を使って、日本における文化と階層の関係を解釈してみようという試み。多変量解析による図表が満載で、一般の人が読みやすい本ではない。おもに1990年代初めから2000年代初頭に発表された論文を改訂して収録した論文集であり、あとがきによれば諸事情で書籍化が遅れてしまったとのこと。僕も10年以上前に4章と7章の元となった論文を読んだことがあって、性差や文化的オムニボア(雑食)という概念を採り入れた議論が面白かったことを記憶していた。

  著者によれば、ブルデューの文化的再生産論は日本の社会階層を説明するのには適切ではないと、長らく日本の社会学者らによって考えられてきた。20世紀の半ばのフランスでは学歴エリート層は高級文化を体得することによって卓越を示した。しかし、日本の学歴エリートはそうではなく、高級文化よりは大衆文化に親しんでいる。したがって、日本では高級文化への嗜好を身に付けることはエリート層参入のための投資とはなっていないのだ、と。

  本書の分析においてもまた、日本の男性エリートは大衆文化に親しんでいることが確認される。しかし、彼らはスポーツ新聞を読んでカラオケをするという活動のみで日々を過ごしているわけではなく、例えばクラシック音楽のコンサートに行くなど時折高級文化を消費する。すなわち彼らは文化的雑食者(オムニボア)なのだ。オムニボア傾向は下層男性には見られない(彼らは大衆文化のみに親しむ)特徴であり、この点に日本の文化と趣味の特徴があると著者は指摘する。

  また、女性にとって高級文化は投資する価値のある資本であり、それはエリート男性との結婚に効果を持っているという。すなわち高級文化は女性によって有効利用されているのだ。ただし、先に記したように1990年代の調査データであり、「高収入の男性の妻となった教養ある専業主婦」というイメージが思い浮かぶ。女性の四大卒者が増えて共働きが主流となった2010年代後半においては、もはや有効ではないかもしれない。今後検証してほしい点である。

  全体としては、日本女性に「大衆文化忌避」の傾向があるのが興味深いところだった。女性はオムニボア化していない。「大衆」文化とは言うけれども結局は男性が好むもので構成されていて、女性にとっては不快であることが多いといことなんだろうか。あるいは文化の内実とは無関係に、担い手が下層の男性であるために避けられるのだろうか。なんとなく後者のように考えてきたけれども、大衆文化の消費量を調べてみても優れた男性であるか否かを弁別できないとしたら、女性がパートナー探しでその属性を重視しすぎるのはリスクがある。というわけで、前者が理由となっているのかもしれない、という気がしてきた。
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中国の地方統治にみる格差と不正の根源

2019-10-12 20:51:43 | 読書ノート
岡本隆司『腐敗と格差の中国史』NHK出版新書, 2019.

  中国歴代王朝の統治システムを検証することによって、現代中国の汚職と格差の遠因を探るという試み。時代によって記述に精粗があって、全体のバランスはあまり良くない。特に中華民国建国以降は、地方統治機構の具体的な説明が無く、国民党および共産党を支持した層やイデオロギーの話になる。本書ではあまり重要な時期ではないということなのだろう。

  とはいえ、全体の2/5ぐらいを占める唐宋時代から明清時代の記述は面白い。それ以前の時代となる、秦漢から五胡十六国に至る時代は、貴族による地方統治が行われたために皇帝の権力が制限されていた。隋唐の頃から、皇帝に権力を一元化し、貴族の力を抑えることが目指され、「科挙」による官僚の選抜が行われるようになった。採用された官僚は数年の任期で、国内の「県」(日本でいう「市」ぐらいの規模)の行政のトップとして赴任したという。一方で、地元で雇われるノンキャリアの公務員がいて、こちらは任期なしで、実務を担ったという。

  派遣された国家採用の官僚の給与は安すぎて、家族を養える程度だった。税金が少ないことが「善政」と見なされていたからだ。一方で、ノンキャリアの地元採用公務員は、表向きは無給のボランティアだったという。給与の不足やボランティア労働の問題は、賄賂や非公式の税金によって解決されるようになった。額は地方政府の、あるいは官僚の裁量次第である。こうした、公務員間にある格差や、汚職や不正については、中央も把握することがあったが、清の時代に至っても有効な対処はできなかった。

  以上。小さな政府による「善政」がどういうものかよくわかる。賄賂や非公式な税などによって結局は高くつくうえに、不正が統治機構への信頼を破壊する。住民も十分把握できない。受験秀才を数年で配置換えをしても業務は洗練されない。著者は中国史の避けがたい宿痾とみなして中国社会についてもっと深みのある記述をしているが、個人的には上のような教訓話として読めた。
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貿易と異民族との関係から中国各王朝の社会を読み解く

2019-10-08 08:18:17 | 読書ノート
岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』東洋経済新報社, 2019.

  タイトル通りの中国通史だが、単なる王朝交替史ではなく、貿易と経済について詳しいのが特徴。といってもビジネスマン向けの一般歴史書であり、微に入り細に穿つという内容ではない。また気候変動の影響についても言及があり、こういう点も最近の歴史書らしい。

  古代から元に至るまで、中国は、シルクロードを通じて国際貿易に開かれた他民族国家だったという描かれ方をしている。遊牧民と農耕民の間には緊張があり、それが中国の歴史を動かしてきた。秦漢の頃は、長江流域よりも遊牧民と対峙する黄河流域のほうが技術革新に優れており、政治的に優位に立っていた。だが、唐宋時代には江南の開発が進んで、人口の割合や経済力において長江流域が北部を凌駕するようになる。石炭を燃料にするというエネルギー革命もあったとのこと。また、シルクロードの商人と関係を結んだモンゴル帝国は、国際貿易のメリットをよく理解していたという。

  中国が変わってしまう大きな転機は明の時代で、モンゴル帝国の否定から経済を軽視するようになった。さらに国内の南北格差を埋めるために、江南地域を冷遇・弾圧した。王朝が商業の発展を嫌ったので、非公式通貨として銀の需要が高まり、日本も含めた世界中から銀が流入した。また、公務員の数が少なすぎて、明の支配は民間の末端までゆきわたらなかった。結果として「行政サービスに期待しない」という中国人のメンタリティが醸成された。こうした「小さな政府」の傾向は清でも同様だった。さらに、貿易が海上を通じるようになって、南北問題が沿岸部と内陸部の格差に変化したという。

  現代になると日本の侵略などから漢民族ナショナリズムが前面に出てきて、中華民国や中華人民共和国の建国を後押しした。しかし、異民族の存在や地域間の利害対立は残ったままだという。

  以上。本書の面白いところは、唐宋元明清の各王朝がどのような社会および経済体制によって支えられていたか、どのような統治を目論んだか、これらについてかいつまんで掴めるところだろう。「小さな政府」が一般庶民にどのような性向を植え付けるのかについても参考になった。なお、著者は中国史では結構知られている学者のようで、著作も多く他の本も読んでみたくなった。
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デジタル人文学まわりのスナップショット

2019-10-04 18:42:42 | 読書ノート
岡田一祐『ネット文化資源の読み方・作り方:図書館・自治体・研究者必携ガイド』文学通信, 2019.

  インターネットで公開されている日本文化関係の諸アーカイブ、およびそれに関連する技術や制度についての時評集。『人文情報学月報』なるメルマガの2015年から2018年の連載をまとめたもので、5ページ程度の話題が45回続く。著者は1987年生まれの国文学研究資料館の特任助教である。

  史料や地域資料のアーカイブの紹介が主で、一通りその中身について解説したあとに、使い勝手の悪い点にいちいちいちゃもんを付けてくれるところが楽しい。こういう指摘は大御所になるか若いときでないとできないよね。読んだ印象では、分類の不合理性、メタデータの不足、利用制限、説明の欠如の四つが、使い勝手を悪くしている要因のようだ。このほか、クリエイティブ・コモンズ、文字コード、クラウド・ソーシング、リンクト・データなど、技術や制度に関する考察もある。

  個人的にはあまり詳しくない領域だったが、その全体像を大づかみできる内容となっている。今後の変化も大きいと予想される領域だけに、現時点でのスナップショットとして貴重だろう。
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