29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

能天気なパーティ音楽の裏に毒気を感じられるか

2020-04-29 11:25:36 | 音盤ノート
Cristina "Doll In The Box" ZE Records, 2004.

  1970年代後半から80年代初頭のディスコ音楽の編集再発盤。当時はまだシーケンサーや打ち込みドラムは普及していなくて、人力演奏である('Stayin' Alive'のBee Geesのように)。内容は1980年に”Cristina”というタイトルで発表されたデビュー・アルバムと、それ以前に発表されたシングル曲を収録している。なお、シンガーのCristinaは、今年の3月31日に新型コロナウイルスに罹って亡くなった1)。喫煙者だったみたいだね。享年61歳。

  彼女のキャリアについては英語版wikipedia2)に詳しい。簡単にまとめると、ニューヨークの新聞社で働いていたら、同僚かつ恋人だった男性(ZEレーベルの経営者の一人Michael Zilkha)がレコード会社をつくるというので、たまたま歌手になったというだけの人みたいだ。デビュー以前に音楽活動をしていたわけではなく、またパートナーが会社をたたむと決めたら音楽活動も止めてしまっている。(ZEは1985年に閉鎖した後、 もう一人の経営者だったMichel Estebanによって2002年にブラジルを本社にして復活している。この再発はそこから。)

  そういうわけで、彼女に何か表現したい音があるというわけではなくて、演奏に合わせてお気楽に歌っているだけである。真剣なのはプロデューサーの方。デビューアルバムのバックトラックを作っているのは人力ラテン系ディスコ楽団、Kid Creole and The CoconutsのAugust Darnell。Sergio Mendes & Brasil'66のカリブ海版、といってわかるかな。もう長いこと名前を聞かないけれども、1980年代半ばぐらいに『ミュージック・マガジン』でその才能を高く評価されていた記憶がある。あと、1978年のデビュー曲の'Disco Clone' はJohn Caleのプロデュースだそうで。The Beatlesの'Drive My Car'とMichel Polnareff の「ノンノン人形」のカバー曲がある。

  ZEレーベルと聞くと、No Wave系ミュージシャンの硬派な作品もいくつかカタログに含んでいることもあって、何やら眉間に皺を寄せて真剣に語られがちである。このアルバムについても、当時のありきたりのディスコミュージックに対する批評性がある、という言説をどこかで目にしたことがあるが、どうかなあ、能天気なパーティ音楽にしか聴こえない。ただし、それが駄目だというわけではなくて、音数は多くて丁寧に作りこまれており、座って部屋で聞いていても楽しめる内容となっている。金をかけてアホな遊びができるという、ニューヨークの経済力を示した作品。

----------------------------------------
1) "ノーウェイヴ・シンガー クリスティーナが新型コロナウイルス感染後に死去 ZEの二枚看板女性シンガーの米国代表" / amass
  http://amass.jp/133042/

2) https://en.wikipedia.org/wiki/Cristina_(singer)
  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

離婚の理由は相性の問題か社会階層の問題か

2020-04-25 19:46:18 | 読書ノート
橘木俊詔・迫田さやか『離婚の経済学:愛と別れの論理』(講談社現代新書), 講談社, 2020.

  離婚にまつわる統計と分析の書。同じ二人の著者による『夫婦格差社会』(中公新書, 2013)の続編となる。年齢別または国別の離婚の特徴、離婚の歴史、不倫、離婚をめぐる男女の行動の違い、養育費やひとり親世帯の問題、幸福感などのトピックについて扱われている。

  内容は次のようになっている。年齢別にみると離婚はやはり20代から30代の若い層に多い。その理由には、性格の不一致、暴力、経済的理由、異性関係などがある。米国の場合、パートナーへの関心の喪失が重要な離婚の理由となっている。歴史的にみれば、明治以前の日本は離婚が多かったが、民放制定で減少した。離婚後、養育費をもらっている母子世帯は全体の1/4程度である。日本のひとり親世帯の就労率は高いものの、しかしながら政府からの支援は少ない、特に女性の安定就労を妨げる日本的雇用慣行は問題だ、などなどの知見が得られる。

  興味深い指摘として、夫と妻のそれぞれの収入の比によって、夫婦間の安定度が変わるというのがある。たとえば、妻の収入が夫のそれより高いと、夫の方が不倫しやすくなるらしい。その理由は夫の側が男性としてのメンツを保とうとするからではないか、と簡単に説明されている。もう一つ重要な指摘として、離婚しやすい階層は、共働きであることが多い高所得層ではなく、夫の働きに依存する低所得層の方が多いというのがある。こうした階層は離婚によって世帯収入が減少してしまうので、貧困が再生産されてしまうとのこと。

  以上。データを参照しながらの手堅い論証に終始し、想像力をたくましくする大胆な推論はあまり展開されない。この点を好ましいと思えるか、物足りないと思うのかで評価が変わると思う。個人的には後者で、性格上の不一致という公式の離婚理由トップと、低所得層のほうが離婚が多いという事実、この二つの関係を整理する考察がほしいと感じた。ただし、全体としてはデータが示す事実は確実に面白い。

  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

活字がラジオ的に読まれることがあった時代

2020-04-21 08:04:13 | 読書ノート
佐藤卓己『『キング』の時代:国民大衆雑誌の公共性』(岩波現代文庫), 岩波書店, 2020.

  昭和初期に一世風靡した講談社の雑誌『キング』の歴史。掲載内容の分析はあるけれども詳細なものではなく、むしろ『キング』や講談社の編集コンセプトについての賞賛や批判といった、同時代の外部からの批評を丹念に拾っている。これら言説を通じて、この「国民的雑誌」のメディア史における特異な位置づけを示す、というのがその主眼だ。オリジナルとなるハードカバー版は2002年に発行されており、この文庫版には新たに與那覇潤の解説が付されている。

  結論は、『キング』はラジオ的雑誌であり、だからこそ性差や年齢、社会階層の違いを超えた全国民が読む雑誌でありえた、というものだ。通常、雑誌は性別や学歴によってセグメント化するものである。しかし、講談社はその名の通り、講談や演説などの文字起こしによって、耳で聞く言葉の延長線上に活字表現を展開した。1930年代の、総力戦のために国民は貢献すべしという雰囲気もあって、広く読者が存在する『キング』を読むことが公共の世界に参加するかのように錯覚された。しかし、戦後そういう雰囲気が消滅してしまうと、1950年代にテレビよって「国民みんながそれを知っている」という位置は取って代わられてしまった。

  以上のような話が主とはいえ、文庫本で500頁以上ある本書はそれだけに尽きない。講談社の創業者である野間清治の人物像や、エリート的な岩波文化との比較、キングレコード、映画との関係などについても詳細に論じられている。昭和初期における日本の大衆の欲望や、それに対する知識人の目線がよくわかる内容だと言えよう。ただし、個人的には、肝心の雑誌『キング』を読んだことがないので、今一つ「国民的雑誌」の感覚がつかめなかったのも確かである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訃報を聞いて思い出した名プロデューサー

2020-04-17 12:30:43 | 音盤ノート
Various Artists "Weird Nightmare : Meditation on Mingus" Columbia, 1992.

  ジャズ。米国の音楽プロデューサー、ハル・ウィルナー(Hal Willner)によるトリビュート企画シリーズの一つで、ジャズ・ベーシストで作曲家のCharles Mingusに捧げられている。つい最近ウィルナーの名を目にしたのが、4月7日に新型コロナウイルスに罹って亡くなったというニュースでだった。合掌。

  ウィルナーによるトリビュート企画シリーズとしてこれは、ニーノ・ロータ(1981)、セロニアス・モンク(1984)、クルト・ワイル(1985)、ディズニー(1988)に続く五作目。毎回、参加ミュージシャンが豪華だ。この作品では、ジャズ系ではBill Frisell, Don Byron, Henry Threadgill, Don Alias, Greg Cohen、ロック系ではElvis Costello, Robert Quine, Henry Rollins, Vernon Reid, Keith Richards, Charlie Watts, Ray Davies, Dr. John, Gary Lucas、ヒップホップ系でChuck D、現代音楽(?)でDiamanda Galás、SSWのLeonard Cohen、ほか少々という布陣となっている。

  チャールス・ミンガスの作品には、祝祭的で荒々しい演奏を伴うものと、けだるくブルージーながらきちんとコンポーズされているものとがあるが、この作品は後者に焦点をあてている。全体としては「夏の夜のうだるような暑さ」の感覚が漂う。ジャズではあるものの、クリエイティブなソロ演奏を期待するものではなく、BGM的にだらだらと聞いて、アレンジの多彩さを楽しむべき内容だ。ただし、オリジナル演奏を知らないと面白さを感じないかもしれない。

  追悼がてらウィルナーの作品をDiscogsで調べてみたが、バロウズとかルー・リードとか凄いメンツではあるけれども人脈に偏りがあって、大衆受けする作品をものにするタイプではなかったみたいだ。仕事を厳選していたのだろう。代表作は、やはりトリビュート企画シリーズということになるのだろう。あと、個人的に聴いたことのある範囲では、Marianne Faithfull ‎"Strange Weather" (Island, 1987)がいいと思う。
  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

著作権最新事情の入門の入門

2020-04-13 17:50:00 | 読書ノート
福井建策『著作権とは何か:文化と創造のゆくえ / 改訂版』(集英社新書), 集英社, 2020.

  著作権入門。2005年に初版が発行されているが、保護期間が延長されたことをきかっけに改訂したとのこと。 貸与権やらの支分権や著作隣接権などの詳細には立ち入らず、著作権というコンセプトについて大づかみしようという構成になっている。

  論点の一つに「著作権は表現を保護しアイデアは保護しないというが、では表現とアイデアの境界はどこにあるか」というものがある。現代アートなどでは、その境界は微妙とのこと。一般論として「作風」は保護されないが「キャラクター」は保護されるという。

  もう一つの論点は引用やパロディあるいは類似表現について。どこまでが正当でどこから剽窃となるのか、裁判例を元に論じられている。引用については、日本の最高裁が示した①明瞭区別性、②主従関係という条件を満たすことが必要だとのこと。パロディや類似表現については、日米で判断に違いがみられるという。

  このほか、期間延長によってややこしくなっている保護期間と、反著作権運動についても言及がある。個々の権利や例外規定についてはまた別の著作を読む必要があるが、著作権の入り口に立つ本としてはかなりわかりやすく、また深みのある内容である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

権力への制約が強すぎるという問題に抗して

2020-04-09 19:51:38 | 読書ノート
エイドリアン・ヴァーミュール『リスクの立憲主義:権力を縛るだけでなく、生かす憲法へ』吉良貴之訳, 勁草書房, 2019.

  法哲学。予防原則よりも最適を志向して権力を与えよと勧める内容となっている。理解するのに米国の行政や法律の知識が必要となる個所もちらほらあって、そこそこ難しい専門書である。著者はハーバードの先生で、原書はThe constitution of risk (Cambridge University Press, 2013)である。

  民主主義的な統治機構を設計する際に、昔も今も支配的であるのは「予防原則」の思想であり、権力の濫用を防ぐことができるよう権力を強めに制約する制度を作りがちである。しかし、これには迅速さや、コストの面でデメリットもある。また、分割された権力のために意思決定がたびたび頓挫することによって、有権者の間に現行制度を軽視するような態度を生み出すという(20世紀の南米諸国のクーデターへの支持がそう)。さらには、権力を先回りして悪だと決めつけることで、善良な人間をそこから遠ざけ、野心的な人間のみが残るという自己成就的な結果ももたらす可能性があるという。

  このような「予防の過剰」を排して、「最適な」リスク管理を主張するのが本書となる。権力濫用以外のリスク確率も考慮に入れた制度設計をせよというのだ。場合によっては、多少の権力の濫用を許容する。ただし、内容としては、今ある「予防のための装置」への細かい批判が長く続き、具体的にどういう制度となるのかは議論されていない。

  以上。憲法の最適な制度設計の話は、護憲か否かのまま議論が先に進んでいかない日本ではまだ話が早いのかもしれない。だが、日本の首相の権力の弱さは、財務省に増税を押しやられてしまうことや、COVID-19での都市封鎖絡みの決定で明るみになっている。このため、もう少し強い権力を求めるような声が左派からも上がっているが、ならばなおのこと細やかに最適な制度設計を考えてみるべきだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラジオによる共和国、市民育成という理想のゆくえ

2020-04-05 20:52:16 | 読書ノート
デイヴィッド・グッドマン『ラジオが夢見た市民社会:アメリカン・デモクラシーの栄光と挫折』長崎励朗訳, 岩波書店, 2018.

  メディア論。ただの米国ラジオ史ではなくて、1930年代という限られた期間の米国のラジオをめぐる言説史である。この時期に、ラジオ放送による市民社会の形成という理想が多く語られて、その後幻滅させられていったというのである。アドルノとラザースフェルドのメディア研究にも章を割いて言及している。著者はオーストラリア人で、原書はRadio's civic ambition : American broadcasting and democracy in the 1930s (Oxford University Press, 2011.)。

  米国のラジオ放送事業者は、政府の放送への介入を退ける──規制だけでなく国営放送事業もあきらめさせる──ために、民間経営の効用を盛んに主張した。当初は知識を伝達するという単純な教育的効用が主張されたが、すぐに「さまざまな情報に触れて意見を形成する市民の育成」というジョン・デューイ的な教育観が主流となった。この時期、スポンサーを持たない、商業的意図を廃した放送局の独自制作の番組として、一般市民を登場させる討論番組や、地方のセミプロ音楽家を登場させる番組が多く作られており、実際に民主的かつ大衆包摂的な傾向も見せた。もちろん商業主義との緊張関係もあった。だが、米国のラジオにおける多様性と自由は、ヨーロッパでラジオが政府のプロパガンダに使われたこともあって、アメリカ社会の優位を象徴するものとおおむね受けとめられた。

  一方でほころびもあった。公共性やコスモポリタニズムへの志向が、クラシック音楽を文化的に優位であるかのように見せた。ジャズなど大衆音楽の放送回数が少なかったというわけではない。クラシック音楽の聴衆は少なかったにもかかわらず、放送局側はそれに多くの投資をしたのだ。当時は、クラシックは聴衆の階級に捉われない「普遍性を持つ」と考えられていたのである。聴衆間の社会階層の違いという問題は、オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』によって引き起こされたパニックによって顕わになった。インテリ側は、パニックを起こした人たちを知能が低い・批判精神を持っていないなどと嘲笑した。彼らは、一般大衆によるラジオの聴き方(多様な意見や自己批判を嫌う)を理解できなかったのである。そして、第二次大戦勃発に伴う国論統一という必要性もあって、ラジオにおける市民社会志向は忘れられていった。

  以上。結論では、テレビやネットの研究を例に挙げながら、新メディアに対する過剰な期待は繰り返されるものだと指摘している。こう書くとシニカルな内容に思えるかもしれない。だが、そのすぐ前の箇所で、『孤独なボウリング』で示された「第二次大戦を経験した世代は公共心が高い」という傾向は、1930年代のラジオ放送が貢献した可能性もある、と著者はほのめかしている。マスメディアによる市民育成について懐疑一辺倒ではなく、効果があった可能性を認めているのだ。この点、階級分断をことさら強調するような社会学的な議論に距離を置いている。図書館情報学研究者としては、本書に図書館への直接の言及はないものの、当時の米国の啓蒙運動の雰囲気がわかって興味深いものだった。
  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ライル・メイズ無きPMG、今そのような音でいいのだろうか

2020-04-01 10:42:12 | 音盤ノート
Pat Metheny "From This Place" Nonesuch, 2020.

  ジャズ。2月半ばに発表されたメセニーの新作で、オーケストラとの共演というのがポイント。オケ共演は”A Map Of The World” (Warner Bros, 1999.)以来かな。オケはJoel McNeely指揮のThe Hollywood Studio Symphony、その上に2016年からのメセニー四重奏団、後期PMGからの盟友ドラマーAntonio Sanchez、マレーシア出身の女性ベーシストLinda May Han Oh、英国人ピアニストのGwilym Simcockがのる。曲によってはMeshell Ndegeocelloがボーカルを聞かせる。

  爽やかさがウリのメセニーらしくない黒く竜巻をあしらったジャケットを持ち、かつHPでの本人解説でトランプ大統領を批判していたりして、何か新機軸があるのかと思いきや、聴いてみるといつものメセニー節だった。というか、かつてのPMGそのままである。Unity Bandはどうなったのか。新カルテットで新境地というような勢いはなく、ここ数年のOrchestrionとかUnity Bandの取り組みを脇におき、長年ソロやトリオやPMGでやってきたことを集大成したという内容である。水準以上ではある。ただまあ、もう少し聴き手の耳に引っかかる仕掛けみたいなものがほしいような気もする。カルテットのうち、御大とAntonio Sanchezの二人はいつもながらすごいと思わせる演奏である。だが、若手二人はあまり印象にのこらない。オケのボリュームも小さめで、一曲目だけ活躍しているものの、他の曲は活かせていない。せっかくなんだしもっと絡んできてほしいと思わせる。

  かつてUnity Band作品を褒めておきながら、頻繁に聴くのは1980年代のPMG作品という聴き手としては、複雑な心境に陥る。「新しいことに挑戦しなくなったメセニー」という戸惑いと、「またあのPMGっぽい音を聴ける」という喜びとが同時にやってくる。結局、この気持ちよさに負けてしまう。でもまあ、過去の名作を超えるほどでもない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする