ブライアン・カプラン『大学なんか行っても意味はない?:教育反対の経済学』月谷真紀訳, みすず書房, 2019.
高等教育は「社会的に見て」無駄だから大学への公費支出を控えよ、と主張するやや難の部類の一般向け書籍。著者は米国の経済学者でありかつ大学教授。以前このブログで同著者の『選挙の経済学』を紹介したことがある。本書の原書は、The case against education : why the education system is a waste of time and money (Princeton University Press, 2018.)である。なお、議論の範囲は高校から大学院修士課程までで、中心は大学教育である。小中学校は対象ではない。
その主張は次のようなものだ。大学は仕事に直結している知識をほとんど教えていないことは明白で、なおかつ教育擁護論がよく使う論法「学習内容を別の事柄に応用する能力を育成する」もエビデンスによって否定されている。ではなぜ、学歴が求められるのか。それは知力を示すシグナルであるだけでなく、学校に通ったことが仕事における協調性の高さや上司に逆らったりしないことのシグナルとなっているからだ。そのようなわけで、雇用者は、「頭は良いものの学校を中退した応募者」を低く評価するだろう、と。
ここまでは「そんなこと知ってた」と言いたくなるところだが、我慢して読み進めよう。経済学には、教育の意義をめぐって、学歴が仕事の応募者の能力の高さを示すシグナルとして機能するという「シグナリング」説と、学校での学習が労働力としてのスキルを高めるという「人的資本論」説がある。両者は矛盾しない、と何かの教科書で読んだ記憶がある(うろ覚え)のだが、著者をこれを豁然と分とうとする。推計の結果、シグナリング:人的資本論の比は8:2ぐらいだと提示される。人的資本に見えるものは、もともとの能力や資質であり、学校の力で身に着けたものではない。役に立っているのは読み書き算盤だけ、大学の専門教育のたぐいはほとんど人的資本の形成に役立っていないという。
以上を踏まえて、著者は読者にどうアドバイスするのか。読者の頭が良いならば大学に行ったほうが収益率が高いが、そうでないならば高校卒業のほうがマシだという(ここは米国の大学の退学率の高さを頭にいれないといけなくて、日本の感覚とはかなり異なる)。しかし、結局、学歴はスキルを高めることなく仕事の分配方法を決めているだけで、高学歴化が進んでもGDPが高まっているわけではない。したがって、社会的にみて教育への公的投資は過剰となっており、リターンが小さい。というわけで、高等教育への公的支出を止めるべきだ、と結論する。
過激な議論ではあるが、一応の説得力は感じる。シグナリングが本当に学校教育の意義の80%を占めるのかどうかが、大きな論点となるだろう。仮に著者の言う通りにして高等教育の支援を止めて進学率を下げるとした場合、民間の側・採用する企業側が人材のスクリーニングを行わなければならなくなる。その社会的コストは馬鹿にならない気もするが、大学に税金を投入するより安価なのだろうか。
高等教育は「社会的に見て」無駄だから大学への公費支出を控えよ、と主張するやや難の部類の一般向け書籍。著者は米国の経済学者でありかつ大学教授。以前このブログで同著者の『選挙の経済学』を紹介したことがある。本書の原書は、The case against education : why the education system is a waste of time and money (Princeton University Press, 2018.)である。なお、議論の範囲は高校から大学院修士課程までで、中心は大学教育である。小中学校は対象ではない。
その主張は次のようなものだ。大学は仕事に直結している知識をほとんど教えていないことは明白で、なおかつ教育擁護論がよく使う論法「学習内容を別の事柄に応用する能力を育成する」もエビデンスによって否定されている。ではなぜ、学歴が求められるのか。それは知力を示すシグナルであるだけでなく、学校に通ったことが仕事における協調性の高さや上司に逆らったりしないことのシグナルとなっているからだ。そのようなわけで、雇用者は、「頭は良いものの学校を中退した応募者」を低く評価するだろう、と。
ここまでは「そんなこと知ってた」と言いたくなるところだが、我慢して読み進めよう。経済学には、教育の意義をめぐって、学歴が仕事の応募者の能力の高さを示すシグナルとして機能するという「シグナリング」説と、学校での学習が労働力としてのスキルを高めるという「人的資本論」説がある。両者は矛盾しない、と何かの教科書で読んだ記憶がある(うろ覚え)のだが、著者をこれを豁然と分とうとする。推計の結果、シグナリング:人的資本論の比は8:2ぐらいだと提示される。人的資本に見えるものは、もともとの能力や資質であり、学校の力で身に着けたものではない。役に立っているのは読み書き算盤だけ、大学の専門教育のたぐいはほとんど人的資本の形成に役立っていないという。
以上を踏まえて、著者は読者にどうアドバイスするのか。読者の頭が良いならば大学に行ったほうが収益率が高いが、そうでないならば高校卒業のほうがマシだという(ここは米国の大学の退学率の高さを頭にいれないといけなくて、日本の感覚とはかなり異なる)。しかし、結局、学歴はスキルを高めることなく仕事の分配方法を決めているだけで、高学歴化が進んでもGDPが高まっているわけではない。したがって、社会的にみて教育への公的投資は過剰となっており、リターンが小さい。というわけで、高等教育への公的支出を止めるべきだ、と結論する。
過激な議論ではあるが、一応の説得力は感じる。シグナリングが本当に学校教育の意義の80%を占めるのかどうかが、大きな論点となるだろう。仮に著者の言う通りにして高等教育の支援を止めて進学率を下げるとした場合、民間の側・採用する企業側が人材のスクリーニングを行わなければならなくなる。その社会的コストは馬鹿にならない気もするが、大学に税金を投入するより安価なのだろうか。
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どうも。本書には教育への公的資金投入の妥当性という観点があるので、「消費」であるならばなおさら私費で教育を、という話になるはずです。ご紹介いただいたリンク先記事のポイントは、消費というよりは、「低所得者の不遇感を和らげる」という再分配の効果にあると思いました。