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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

栄光の公共図書館史は偽史だった(いつもよりちょい長)

2020-06-28 00:15:00 | 読書ノート
薬師院仁志, 薬師院はるみ『公共図書館が消滅する日』牧野出版, 2020.

  公共図書館史。舌鋒鋭くこれまでの公共図書館言説が批判される。だが、僕としては衝撃よりも「新しい視点での公共図書館史がようやく登場した」という安堵の念を抱いた。僕が大学院生だった二十年ぐらい前から、20世紀後半の公共図書館論や公共図書館史はイデオロギーで歪められてり、その史観に反することを述べると信者から理不尽な攻撃を受けるというのが知られていた。そういう歴史観への冷ややかな侮蔑が図書館情報学研究者の間で今世紀に広まった一方で、新しい通史を描くことに誰も挑戦してこなかった。もちろん図書館史領域における限定されたトピックでの進展はあった。しかし「正史」をひっくり返す試みは停滞していた。2018年の日本図書館情報学会シンポジウムにおいて、日本図書館情報学会元会長の根本彰が若手に新しい図書館史研究を求めたぐらいだった。というわけで、まずはこの期待された大仕事に先鞭をつけたことに対して、著者二人を心から称えたい。

  その中身だが、通説に対する反論という形で書かれているので、それについての知識がないと議論を理解することは難しい。本書で特に焦点とされているのは、一つは戦前の図書館の反省から民主的な図書館を目指す「図書館法」が制定されたという説である。もう一つは、中小規模の図書館を重視した『中小レポート』と貸出を最重要サービスと位置づけた『市民の図書館』という二つの日本図書館協会発行書籍の影響下で、日本の公立図書館が拡大・発展していったという説だ。

  著者によれば、「図書館法」は戦前の反省のうえに作られたのではなく、戦前から図書館関係者が尽力していた図書館の地位向上運動の流れにあり、実際に制定過程において戦前からの指導者層が活躍した。しかし、国による財政的支援が法に明記されなかったのは禍根となった。図書館指導者らは図書館法成立後にすぐ改正を目指したものの、司書資格に「大卒」であることを要件とするかどうかをめぐって、都道府県立や政令市立などの大図書館と、それら以外の中小図書館との間で分裂する。1950年代の学歴分布の状況では、小規模な図書館で大卒の専門職を得ることは難しかったからである。ところが、後年になって、この論争が中央の大図書館による中小図書館に対するコントロールの試みとして曲解され、さらに大図書館への憧れは戦前に回帰する古い思考として批判されるようになったという。また、専門職採用の問題は、異動のある公務員が貸出手続きの経験を積むことで専門性を高めるという説得力の無い議論が一時期主流になったのち、今世紀になって司書資格保持者の非正規労働力化という形で一種の妥協的(かつ問題含みの)解決に辿り着いた。

  図書館法改正が頓挫した後に館界の指導者らが新しい方針として打ち出したのが、図書館員による努力で住民の図書館需要を掘り起こすというもので、それが1963年の『中小レポート』となった。そこにおいて大図書館と小図書館のヒエラルヒーが反転させられ、この点で中小図書館従事者に熱狂的に受入れられた。また、貸出を正当化した『市民の図書館』は、日野市立図書館の実践を「新しい方針」の成功例であるかのように見せかけた。しかしながら、後世に関係者の間で普及した「住民の需要が高まって多くの市区町村で図書館が建設された」というストーリーは正確ではない。日本が貿易摩擦で批判されるようになった1970年代以降、図書館団体(大図書館の館長クラスがメンバーの)が継続的に国に働きかけて、また国にとっては内需拡大政策の位置づけで、図書館未設の自治体に国の財政援助が行われ、それによって図書館数が増加したというのが、著者らの考える真相である。そもそも図書館の無いところに図書館需要などあるはずもない。一見移動図書館の地道な活動から始まったかのように見える日野市図書館ですら、理解ある市長による多額の図書館予算と建設計画が先行して存在していたという。

  「図書館員の自助努力による図書館の発展」という神話は、次の問題をもたらした。第一に居住地域による情報アクセス格差を図書館界が容認する結果となったことである。『中小レポート』の視野の外にあった町村レベルの自治体は、図書館が設置されているにせよないにせよ、事実として国や都道府県からの支援なしには十分なサービスを展開できないものだった。にもかかわらず、自立性や努力が不十分であるとみなされて関係者の間で軽視されることになった。遡ると、図書館法改正を回避したことによって図書館のナショナルミニマム化が阻まれたことが原因としてある。こうして図書館設置は自治体の自己責任であるという風潮が生まれ、自治体間格差が放置されることとなった。
  
  第二に、利用者を獲得しかつ利用者からの評価を高めることが図書館の至上目的となってしまったことである。住民からの支持を求めるあまり、貸本屋のたびたびの訴えや、出版社や著作権者による批判を無視して、図書館サービスは民間事業者の領分を侵食していった。時流に合わせて良書主義のふりをしたり、一方で漫画の大量提供も行った。こうして図書館関係者は関連業種との共存や役割分担ができないほどに長期的視点を失ってしまった。こうした視野狭窄は、レファレンス重視や滞在型図書館、ぬいぐるみお泊り会や雑誌スポンサー制度といった新手の図書館論や図書館サービスにも当てはまるものだ。それらは公共的視点が欠けた、単なる「図書館生き残り論」にすぎない、と。

  以上が僕が読んだ限りでの要点である。GHQがそもそも図書館よりも公民館を重視していた──その目的は教育映画を普及させるためだった──とか、日本図書館協会が町村対策として『小図書館の運営』を発表したにもかかわらずその後黙殺したという話は知らなかったのでためにはなる。このほか、知った名前がつぎつぎと出てきてその発言が遡上にのせられ滅多切りされる。僕もこの分野の研究者として、著者らが批判するような図書館情報学のぬるま湯に長らく浸かってきた人間である。少々複雑な気持ちになってしまう。

  疑問点もある。著者らは「各自治体の図書館員の自助努力」路線が、自治体間の図書館格差と民業圧迫をもたらしていると主張している。だが、因果関係の主張としてこれは単一の要因を過大に見積もっているように思える。公立図書館が地方自治体によって設置される以上、自治体間格差は避けられないはずである。諸外国の状況に詳しいわけではないのだが、仮に「自治体の自助努力路線」をとらない国があるとして、その国は格差をどう調整しているのだろうか。調整されるにしても程度の問題であって、国内のどこでも情報アクセス機会が均等になるというわけではないだろう。また、図書館史において英米の公共図書館が貸本屋との共存を目指したという話は聞かない。民業圧迫も自助努力路線特有の負の帰結ではなくて、そもそも公共図書館の在り方に内包された方向性だという気がする。さらに「それってありなの?」と驚かされる図書館サービスの多くは米国で誕生している。したがって、日本の図書館における各種の新サービスを異端視するわけにはいかない。というわけで「自助努力」路線が、日本の公共図書館の命運を決定づけたように見なすのは苦しい。

  本来重要であるはずなのに、意図的に看過されたと思われるトピックもある。本書は「図書館の自由に関する宣言」に言及しない。まるで聖域として取り置かれているかのようだ。というのも、著者らが描いた公共図書館の「間違った歩み」に対するオルタナティヴ路線が、「民間領域と棲み分けをし、かつ知る権利と学習権を根拠として国からの支援を受ける、全国平等な図書館サービス」であるからだろう(ただし詳しく論じられているわけではない)。しかしながら、国からの支援の根拠となると想定された二つの権利概念は、1970年代代後半から1980年代にかけて開発されたものだ。時代的に「自助努力」路線に対する代替選択肢となりえない。だいいち、知る自由だとか知る権利は歴史的には貸出サービスの理論武装にさかんに使われてきたのであって、当時の図書館関係者にとってオルタナティブではなく錦の御旗だったのだ。このような概念を、「裁かれる側」ではなく「裁く側」に置くのは違和感がある。「知る権利?あなたは共犯者でしょ」と言いたくなる。

  とまあ、あれこれ言いたいところはあるが、全体としては、新しい公共図書館史の試みの貴重な第一歩として高く評価したい。こんにち「貸出偏重」を批判する図書館関係者は多くなったけれども、『市民の図書館』路線を否定するような人はまだ少数だ。いまだ1970年代~80年代は正しいやり方で成功した時代だと考えられているのだ。しかし、その成功は図書館関係者の努力とは無関係で、お上から予算が降ってわいてきただけだったら? 本書はそのような疑念を突き付ける。これまで過大評価されていた図書館運動の本丸に手を付け、説得力のある論理で批判してみせた、本書の功績はとても大きいと考える。
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プライベートな学習に政府はどう介入すべきか

2020-06-24 08:18:38 | 読書ノート
マーク・ブレイ, オーラ・クウォ『塾:私的補習ルールの国際比較』森いづみ・早坂めぐみ・佐久間邦友・田中光晴・高嶋真之・大和洋子, 東信堂, 2019.

  学校制度の外側にある学習を「私的補習」として概念化し、その「規制」の必要性と方法について考察するという内容である。著者のマーク・ブレイは比較教育学が専門で、1999年のThe shadow education : private tutoring and its implications for planners (UNESCO / 邦訳『塾・受験指導の国際比較』鈴木慎一訳, 2014)が私的補習関連での最初の著作のようだ。この邦訳の原書は、Regulating private tutoring for public good : policy options for supplementary education in Asiaで、英語版ならば香港大学のサイトから無料で読める1)

  私的補習と聞くと、日本では「学習塾」が思い浮かぶ。しかし、諸外国では必ずしもメジャーな方式ではないようで、アジア全域で公立学校の先生(!!)が授業時間外にお金をとって個人指導をするということがあるらしい。さすがにそれはいろいろマズいだろう、ということで「規制」が考えられているようだ。いちおう学習塾のような形態も本書の視野に入っているが、その場合の規制も、質の低い教育供給者を排除するというクオリティコントロールの面での話である。こういう、教育の腐敗を防ぐための規制に関してはけっこう詳しい。

  しかし、著者らのもう一つの論点である格差のコントロールについては、十分なアイデアが提示されているわけではない。私的補習にかける費用で、学力および学歴に差がついてしまうとしたら? 素人の僕からみても、プライベートな学習時間の使い方を規制するというのは弊害が大きいように思える。塾を規制しても家庭教師で、家庭教師を規制したら家庭の能力やまた別の抜け道で、という形で学力差は生まれるだろう。低所得の家庭に私的補習のための費用を一部補填するという自治体もあるみたいだが、効果はあるのだろうか。

  本文は100頁強だが、序文やあとがきなどで全体が170頁ほどになっている。このうち、日本の状況やこの分野の資料について教えてくれる訳者解説は参考になる。なお、訳者の三人目にクレジットされている「佐久間邦友」君は、今年度から日大文理学部教育学科の助教として採用されている。僕の同僚だ。

1) Regulating private tutoring for public good http://cerc.edu.hku.hk/wp-content/uploads/Mono-10.pdf
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生得的能力差を考慮する新しい教育システム

2020-06-20 08:18:30 | 読書ノート
キャスリン・アズベリー, ロバート・プローミン『遺伝子を生かす教育:行動遺伝学がもたらす教育の革新』新曜社, 2016.

  「遺伝」を視野に入れた教育を、と訴える一般向け書籍。親や先生、教育関係者を対象とした内容である。著者二人とも英国の研究者で、英国の教育制度への言及がある。特にプローミンは、双生児を使った行動遺伝学の第一人者だ。原書はG is for genes: the impact of genetics on education and achievement ((Wiley Blackwell, 2013.)である。

  学力は認知能力と学習意欲に影響される。認知能力と学習意欲は、環境と遺伝によって形成される。環境、特に家庭のSES(社会経済的地位)の学力への影響は昔から問題視されているが、著者らは遺伝を無視すべきではないとする。具体的な数値は示されていないけれども、読み書きそろばんに関する認知能力には遺伝による違いが見られる。運動能力もそう。科学(理科)にはそういう違いは観察されないので、男女で嗜好の差が生まれるのは文化の問題である可能性が高いという。

  また「環境」と一口に言われるが、同じ環境でも遺伝子が違えば異なる影響となるという。ただし、環境の話は、「どのような環境がどのような遺伝子にどう影響するのか」という話は詳しく展開されておらず、「共有環境より非共有環境のほうが影響が強くてコントロールすることが難しい」ということが強調されている。いちおう、学力を下げる可能性のある要因も挙げられていて、クラスメートから受けるストレスや、家庭の無秩序さ(家族が落ち着いた勉学の環境を提供できない等)などがそうらしい。

  以上を踏まえて著者らが提唱するのが、子どもの遺伝的能力に合わせてカスタマイズされた教育指導である。指導法については具体的な提言はなく、また一人の教師がクラスの30人の子どもそれぞれに個別指導するというのも現実的ではないとして、今後コンピュータを通じた学習システムが開発されることに期待を寄せている。ただし、こうした教育のカスタマイズによって学力差が無くなるとは決して言わない。

  以上。学力の低い層に対して早期に介入すべきというのには同意。一方、カスタマイズされた教育をコンピュータで、というのはちょっと躊躇するところがある。米国では実際、貧困層の子どもがそのようなコンピュータを通じた教育を受ける一方、富裕層の子どもは先生から少人数指導を受けている、という何かの報道を見たことがある。というわけで現状のコンピュータによる学習プログラムを十分に信用できない。でも、将来性まで否定する気はない、というところ。
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日本の労働市場の現状をデータと因果分析で

2020-06-16 10:18:23 | 読書ノート
川口大司編『日本の労働市場:経済学者の視点』有斐閣, 2017.

  労働経済学の教科書で、編者による序章と終章と、20人に及ぶ執筆者による14章という構成となっている。読者ターゲットは経済学部の大学院生以上だろう。「RCT」だとか「回帰不連続デザイン」とかいった因果分析の概念がさらっと言及されるし、章によっては回帰分析の表も提示される。というわけで初学者にわかりやすい内容ではないのだけれども、この分野の重要な研究成果が紹介されていてとても参考になる。

  構成は次のとおり。最初の三章は、日本の会社における人事、昇進、採用、トレーニング、および学校での教育を含めた人的資本形成である。続く七章は、地方経済、高齢者、女性、外国人労働者、障がい者、失業保険、生活保護がそれぞれの章のトピックになっている。これらでは関連する法制度についても簡単に解説されている。最後の四章は、因果分析、労働経済学の理論、経済学における実験、行動経済学を扱っている。

  次のような知見が披瀝されている。正社員と非正社員の間に賃金を筆頭に様々な格差があること(これは通説通りだろう)、高齢者の雇用継続によって必ずしも若者の就労機会が奪われるわけではないこと、男女間格差もまだ残っているものの以前に比べれば改善されていること、日本の失業保険は失業者を十分カバーできていないこと、などなど。まだわかっていないことも多くて、外国人労働者のインパクトや、障がい者雇用による企業への影響などは今後の検証待ちであるとのことである。

  教育学科所属の僕としては、やはり「3章 人的資本と教育政策」(佐野晋平)が興味深いものだった。世間では若者に大学進学を勧め、政府にはそれを支援するよう促す雰囲気がある。しかし、学力差からくる大学進学/非進学というセレクション・バイアスがあり、学歴がもたらす賃金の差は能力の差を反映しているだけかもしれない。この批判はカプラン著と一緒だ。というわけで、この差を統制して大卒と高卒の賃金の差への影響を推定したところ、平均して年でおおよそ8%とのこと。直観では「悪くない値」だと思った。12章で大卒者の供給が増えるとその賃金も下がる、と暗にただし書きされるけれども。また、大学ランクや学部によっても変わるだろう。

  以上。僕が大学院生だった20年前にもいくつか労働経済学の教科書を読んだ記憶があるが、どれも理論重視の説明で事例は欧米のことばかり、というような内容だった。本書は実証研究の結果が多く紹介されており、日本での研究成果も多い。残された課題も明確だ。この分野の研究の進展をまざまざと見せつけられる。また、因果分析の強力さもよくわかる。
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謎の新興レーベルによるピアノトリオ快作

2020-06-12 18:00:35 | 音盤ノート
Marc Copland "And I Love Her" Illusions Mirage, 2019.

  ジャズ。コープランド以下、ドリュー・グラス(b)とジョーイ・バロン(d)というピアノトリオ。彼らは2017年8月に亡くなったジョン・アバクロンビーのカルテット(参考)のメンバーで、録音時期もレーベルのサイトにあるライナーノーツによれは彼の死の直後のようだ。

  収録の9曲中4曲はメンバーのオリジナルで、残りはカバー。コープランドの本領は、ソロではなくて、原曲の印象をがらりと変えるリハーモナイズにある。このアルバムでもカバー曲のほうが面白い。特に最初の二曲、コルトレーンの荒々しい演奏で知られる’Afro Blue’と、ハービー・ハンコックによるファンキーな曲'Cantaloupe Island'は、静謐ながら緊張感のある演奏となっていて引き込まれる。アルバムタイトルとなっているビートルズの'And I Love Her'は、原曲の雰囲気を残しつつ、メロディをとりまく和音を幽玄で美しいものに変えている。残りの二曲、コール・ポーターの’You Do Something To Me’は筆者に原曲の印象がなく、アバクロによる'Love Letter'はこれが最初のレコ―ディングで比較するものがない。オリジナル曲だとコープランドによる'Day And Night'が盛り上がる。全曲を通じて、バロンのドラムが大胆になる瞬間もあってとてもスリリングである。

  ここ数年、飽きずに聴けるようなジャズの新譜にしらばく出会っていなかったが、これは久々のツボだった。耽美派ピアノトリオ好きならば気に入るのではないだろうか。なお、発行元のllusions Mirageというのは設立されたばかりのレーベルらしく、今のところ作品はこのアルバムだけ。公式サイト(参考)を見ても情報は少なく、設立者が誰かわからない。僕が所有しているのは不良品のようで、パッケージには収録時間が65:50とクレジットされているのに、CDプレーヤーでは67:06と表示され、最後の曲は決まった箇所で音飛びがある。このレーベルは、あんまり良いプレス工場と契約できていないみたいだ。どうしよう、もう一枚買おうかな。
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またもやブルーバックスから論理的な作文術の入門書

2020-06-08 20:00:41 | 読書ノート
更科功『理系の文章術:今日から役立つ科学ライティング入門』(ブルーバックス), 講談社, 2012.

  論理的な文章の執筆術。著者は生物学者で、例文も生物やらDNAやらを扱ったものが多い。トピックとしては、読者の想定、接続詞や係り受けといった話から、パラグラフ・ライティングまでをカバーしている。一方で、引用表示や参考文献の書き方については言及がない。形式的なところは類書ほどこだわりが少なく、考え方とその説明に重点を置いているという印象だ。

  本書の大きな特徴としては、推論についての章が設けられているところだろう。演繹に対して、推測(仮説形成)という概念を対置し、その下位カテゴリとして帰納・類比・アブダクションの三つを挙げている。類比とは、ラットに薬を投入する実験から人間へのその薬の作用を推論するという発想法だ。アブダクションとは、ある仮説があって別の良い仮説が無い場合はその仮説はおそらく正しい、とする考え方である。こういうまとめ方はあまり見たことがない。また、科学哲学者のポパーを引きながら、反証可能性やアドホックな仮説についても解説している。個人的にはこうした推論法の説明はとても面白かったが、学生が読んで使えるようになるにはもう少し記述が必要だという気はする。

  なお、ブルーバックスにはすでに、藤沢晃治『「分かりやすい表現」の技術』(1999)、倉島保美『論理が伝わる世界標準の「書く技術」』(2012)、成清弘和『理系のための論理が伝わる文章術』(2016)といった優れた作文入門の本が出版されている。その中にまた強力なのが加わった。欲張りかもしれないが、それぞれの長所をまとめた、一冊で論理的な文章術について事足りる本があってほしいと思う。
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生産性をめぐるさまざまな実証研究の成果を通覧できる

2020-06-04 19:03:52 | 読書ノート
森川正之『生産性:誤解と真実 』日本経済新聞社, 2018.

  経済学。図表はそれなりにあるが、数式はなく、専門書ではない。四年制大学卒ならばロジックを追えるレベルだろう。サービス業、IT技術、教育、働き方改革、日本的経営、規制緩和、グローバル化、地域間人口移動、財政赤字、EBPMといったトピック毎に関連する実証研究をまとめ、トピックによっては著者が関わった研究の結果を紹介するという内容となっている。著者は経済産業研究所副所長とのこと。

  その中身を一部示す。「日本において製造業に比べてサービス業の生産性は低い」とよく言われるけれども、他国との比較の問題があって、生産性の上昇が正しく評価されていない可能性がある。企業による教育訓練投資は効果があり、企業にも労働者にも恩恵がある。ただし、サービス業での訓練は過少にみえる。労働者の多様性が高まることは社会的にみて望ましいと考えられているが、その企業の生産性が改善されるかどうかは不確実である。日本国内の労働者の移動を控えさせる政策──都市から地方への再分配など──は、生産性の低い産業への投資となって不効率、などなど。このほか、AIが労働代替する可能性は業務の種類による。駄目な上司は部下の生産性を低める。政策や将来の不確実性は投資を控えさせる。金融緩和は生産性の低い企業を生きながらえさせるのでよくない。政府の将来予測は数値が甘め、など様々な知見が披露されている。

  手堅く実証研究をまとめた本であり、「あんたらが期待しているXXXXという政策には生産性を改善する効果はないよ」とそっと教えてくれる。生産性の改善のためには、時間当たりのアウトプットを増やすことが必要で、そのためには教育と訓練に投資するか、技術革新に投資するかのどちらかが効果的だという。あとは、生産性上昇を阻害しないこまごまとしたルール作りや規制緩和が必要であるとのこと。都内大学に勤める利害関係者として記すが、著者によれば「都内大学の入学定員厳格化」は人の移動を阻害し生産性を低下させる愚策だそうです(ここ強調)。
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