29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

オーソドックスなジャズピアニストとしてのチック・コリア

2021-02-27 10:54:06 | 音盤ノート
Chick Corea, Miroslav Vitous, Roy Haynes "Trio Music, Live In Europe" ECM, 1986.

  ジャズ。2月9 日にチック・コリアが亡くなった。彼の代表作はRTFの一枚目二枚目であり、訃報でも「電化マイルス組を経て一人立ちして1970年代前半にフュージョンを開拓した」というような紹介をよく目にした。その面の強調に異論はない。けれども、キャリアの上ではエレピよりアコースティック・ピアノの録音が多いわけで、そっち系の作品で聴くなら何がいい?、ということになったら薦められるのが本作である。

  コリアのピアノに、ベースにミロスラフ・ヴィトウス、ドラムにロイ・ヘインズという編成。このトリオでほかに"Now He Sings, Now He Sobs" (Solid State, 1968)と"Trio Music" (ECM, 1982)という二つの評価の高い録音がある。だが、それぞれ収録時間が70分前後あって長い("Now He Sings"のオリジナルLPは40分ほどだったが、CD化した際に収録曲が増えた)し、ダレる。本作はこのメンツでの最後の作品だが、61分と前二作に比べて短く、少なくとも前半は楽しんで聴ける。この前半だけで「オーソドックスなジャズ・ピアニストとしてのチック・コリア入門」に最適だろう。

  7トラック収録 (LPは6トラック)のうち、前半の3つは、コリア作の’The Loop’ 以下、’I Hear A Rhapsody’、’Summer Night / Night And Day’というメドレー。得意の高速運指が控えめで、和音と旋律とリズム隊のためのスペースにそれぞれ十分気を配った、リラックスした素晴らしい演奏となっている。後半は、ピアノのソロ、次にベースのソロ、さらにドラムのソロと続き、最後にヴィトウスの曲をトリオで演っている。ピアノソロと最後の曲でのコリアの演奏は、運指も速くなり、彼らしいドラマチックで緊張を強いるものとなっている。

  高く評価したいのは前半だけであるが、後半は趣向が違うだけで悪いわけではない。それにしてもチック・コリアである。天才であることは認めるものの、僕のイメージでは「やりすぎの人」だった。すなわち「アイデアはたくさんあるけれども、コンパクトにまとめきることができなくて、全部アルバムにぶち込んで録音、毎回CD70分ギリギリまで収める超大作(三枚組とか五枚組もある)」という具合で、そういうアルバムが毎年三枚、発表されていた。LP時代の作品がいまだ愛されているのは、巨匠扱いされていたCD時代より録音時間が短いことが多いからだろうと推測する。
  
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協力行動ができないことやエリートが過剰な集団が国の滅亡の原因だって

2021-02-23 08:35:09 | 読書ノート
ピーター・ターチン『国家興亡の方程式:歴史に対する数学的アプローチ』水原文訳, Discover 21, 2015.

  国家の興亡を数式でモデリングしようという試み。しかも、非線形だったりマルチレベルモデルだったりとそこそこハードな数学の知識が求められる。文章もかなり硬い。というわけで専門家向けではあるのだが、歴史学者ならばかなり嫌いそうな単純化した歴史観が展開されている。いったい誰が読むのだろう。著者は、最近の米国の混乱を予言したとしてネットでよく名前を見るようになったロシア出身米国在住の歴史学者である。ただし、本書の原書はHistorical dynamics: why states rise and fall (Princeton University Press, 2003)で、著者の最近の著作というわけではない。

  扱われているのは近代以前に登場した世界各国の王朝である。それぞれの王朝が支配する面積が、拡大~縮小と変化してゆくパターンのモデル化と、および変化に影響する主要な要因を変数としてモデルに組み込む、というのが本書の課題である。で、そのパターンだが、農業国家にはおよそ2~3世紀の寿命のサイクル(永年波動という)があるとのこと。短期では約40~60年の振動もあって、これが混乱期に大きな影響をもたらすこともあるという。書籍ではヨーロッパと中国の事例が挙げられている。日本人ならば約260年続いた江戸時代と、その後の明治維新と第二次大戦での敗北(短期振動としては少々長い70年)が思い浮かぶのではないだろうか、近代以降の話ではあるけれども。

  次に変化に影響する要因だが、隣接地域との差異、農耕民か遊牧民か、戦乱度、人口動態などが挙げられている。重視されている要因の一つが、支配層の人口に占める割合である。支配層は婚姻において有利なので一般庶民より人口増加の速度が速い。その人口増加は、支配層一人当たりが収奪できる富を縮小させ、結果としてエリート内での権力闘争をもたらすことになり、国内不安定化の要因となってきたという。もう一つ重視されているのが、集団の結束力あるいは協力行動への献身度で、イブン・ハルドゥーンの著作からとって「アサビーヤ」という言葉が付与されている。アサビーヤそのものを直接測定してはいないけれども、言語、宗教を指標として変数化している。

  以上。「単純ではあるけれどもけっこういい線いっているはず、けれどもモデルに改善の余地もあるよね」というのが著者の弁。うまくモデリングされれば、歴史動向が巨視的なスケールで予測可能なものとなるというのがそのメリットだ。例えば、現在の日本国の1945年から続く体制は、長期波動に従えばまだ100年から200年の幅で存続できると予想できる。しかし、読んでいる方としては、そういうことを自分は知りたかったのだろうか、という疑問も浮かんでくる。歴史に求めているのは、時代の分岐的となった人物の決断とかではないのか、と。動かしようのない時代の流れというものもある(たとえば人口構成)のは確かなので、そういう面から眺める歴史という意義があるのだろう。著者の最近の著作も翻訳してほしいな。
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人間の認識は適応によって形成されているというものの...

2021-02-19 09:11:19 | 読書ノート
ドナルド・ホフマン『世界はありのままに見ることができない :なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』高橋洋訳, 青土社, 2020.

  認知科学。哲学的な認識論に寄った内容であり、難解である。著者はカリフォルニア大学アーバイン校の認知科学者で、原書はThe case against reality: how evolution hid the truth from our eyes (Allen Lane, 2019.)である。生物の認識システムは進化における適応によって形成されている。したがって、生物の知覚を通して脳内で再構成される現実世界は、適応が必要とする情報以上のものを含んでいない。人間が赤外線そのものを認識できないように。現実をありのままにみるというようには、知覚は進化的には形成されてこなかったという。

  では、カントが言うような認識以前にある物自体の世界と、人間の認識は近いのか遠いのか。「現実を十分に反映しない認識システムは適応度が下がるはずだ(すなわち、間違った現実認識によって行動する個体は生存競争に敗れる)」という予断が、これまでの議論では支配的だった。しかし、著者はそうでもないという。錯視などの例を挙げながら、知覚による積極的な情報の取捨選択や現実の再構成が行われていることを示す。知覚が正確に現実を反映していなくても、知覚は現実のインターフェースとなる(すなわち認識だけでなく解釈も同時にもたらす)ことによって十分機能する、と。時空というコンセプトも現実ではなくて、知覚の側にあるものらしい。

  以上が議論の大枠である。論証の材料は最近の科学研究が反映されていて新しいものとなっているけれども、主張自体はそんなに新しいという印象は受けない。こういう感想になったのは読むほうの僕に認識論についての哲学的素養がないからだろう。含意を十分汲み取れなかったところもある。訳者あとがきによれば、本書は「新実在論」なる潮流にある考え方らしいので、もしかしたら詳しい人にはすごく面白いのかもしれない。
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アメリカ映画の脚本の決まり事がわかるが、科学的説明は後付け

2021-02-15 08:52:25 | 読書ノート
ポール・ジョセフ・ガリーノ, コニー・シアーズ『脚本の科学:認知と知覚のプロセスから理解する映画と脚本のしくみ』石原陽一郎訳, フィルムアート社, 2021.

  効果的な脚本の書き方について、認知科学を参照しながら示すというもの。ただし、演劇ではなく映画の脚本である。図版もほとんどアメリカ映画からで、脳構造を示した図と科学者のポートレイトなども少々ある。著者のガリーノは脚本家で、複数の短編とテレビ作品、長編映画二本があるという。いずれも日本で公開されていないようだ。もう一人の著者シアーズは心理学者。原書はThe science of screenwriting: the neuroscience behind storytelling strategies (Bloomsbury, 2018.)である。

  人間の認識のメカニズムからはじまって、主人公をどう登場させるか、明暗大小などのコントラストの効果、ドラマの背景(今風にいうと「世界観」)を観客に対してどのように理解させるか、観客側の因果推論能力を前提とした情報提示、適切な情報量、ストーリーのメリハリ、脚本執筆の際の心理、紋切り型の展開とその発展形、スターウォーズ第一作を用いた分析例というトピックの構成になっている。各章は、成功する紋切り型の演出とそうでない演出を比較して、なぜ前者がうまくいくのかを認知科学的に説明するというパターンとなっている。

  一見、分析的ではあるけれども、はじめに結論ありきの説明パターンである。科学という装いに期待すべきではなく、面白い脚本を書く上での注意点とその理由を論じた書籍と考えるべきだろう。あくまでも脚本を書く人向け。同じ手法を使っておきながら成功する脚本とそうでない脚本がなぜあるのかは説明できていない。映画に対しても『ベストセラーコード』のような量的研究が期待されるところだ。
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日本の教育はそんなに悪くなく、そこそこ良いという

2021-02-11 20:29:22 | 読書ノート
小松光, ジェルミー・ラプリー『日本の教育はダメじゃない:国際比較データで問いなおす』 (ちくま新書) , 筑摩書房, 2020.

  教育学。文科省やOECDなどによる国際調査の結果を比較して、日本の教育が世界でどの程度の位置にあるかを説明する内容である。その結果、日本の教育はどちらかと言えば良いほうであることが示される。正確な診断がなされないまま「日本の教育は酷い状態にある」と先入観を持たれ、学校改革が急かされる風潮があるが、これに警鐘を鳴らすという面もある。著者二人は京大で知り合って共著論文を何本か発表している若手研究者である。

  二部構成となっており、第一部は事実の検証編。まず、TIMSSやPISAなどの国際学力調査をもとに、日本の子どもの学力が落ちているという通説を批判する。それによれば、暗記問題でも考える力を試す問題でも日本の結果は国際的にみて上位にあるという。続いて、国際テストの点がいいのは子どもが勉強漬けになって他の時間を犠牲にしているからだ、という反論に対して、国際的にみて日本人生徒の勉強時間が短いことや学校への満足度が高いことを挙げて再反論している。いじめや自殺の数も突出しているわけではなく、平均的である。全体的に日本の教育は悪くない、との評価が下される。

  第二部は、教育改革を急ぎ過ぎることへの警告となっている。日本の学校教育は、「詰め込み教育」としてイメージされることが多い。けれどもそれは間違いで、諸外国と比較してみると、日本の授業は考える時間をけっこう与えており、また多角的な見方が示されるものとなっている(似た話はクレハン著でも出てくる)。すなわち質が高い。なのにそれを捨てて、国際調査において日本より学力の低い英米の制度を参考にしたり、すでに米国ではブームが過ぎた「アクティヴ・ラーニング」なんかを取り入れようなどというのは倒錯だという。日本の教育の良いところを壊すべきではない、と強く主張される。

  以上。日本の教育についての正しい認識を迫る内容である。最近の教育改革反対論──広田照幸『教育改革のやめ方』とか石井英真ほか編『流行に踊る日本の教育』など──のなかでは、手に取りやすくかつわかりやすい書籍である。ICT教育をどうするのかなどの今後の課題についてはくわしくないものの、それは読む側の課題。教育をめぐる議論の出発点として非常に有益であり、教育談義に参加しようとするならば必ず本書で示された事実を踏まえるべきだと思う。
 
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米国における進歩主義教育の勃興と栄華と衰退の歴史

2021-02-07 07:05:45 | 読書ノート
ダイアン・ラヴィッチ『学校改革抗争の100年:20世紀アメリカ教育史』末藤美津子, 宮本健市郎, 佐藤隆之訳, 東信堂, 2008

  20世紀米国教育史。ジョン・デューイに代表される進歩主義教育を批判するという内容である。難しい本ではないけれども、600頁の大部となっており気楽に読めるものではない。著者のラヴィッチは教育史の研究者であるだけでなく、教育行政に携わった実務家の面も持つ人である。原書は、Left back : a century of battles over school reform (Simon & Schuster, 2001)。

  20世紀初頭の米国は、初等教育普及の段階から中等教育を充実させる段階に進みつつあった。この時代、大学に進むわけではない高校進学者に何を教えるべきか、ということが教育学の課題になった。その答えの一つが「進歩主義教育」である。進歩主義教育には四つの考え方が含まれている。IQなど知能や学力について客観的に計測すべきだという科学主義、児童生徒の関心と要求を重視する子ども中心主義、学力別に労働市場に対応した技能教育を施そうとする社会効率主義、教育を手段として社会変革を目指す社会改造主義の四つである。

  進歩主義教育は、高校にあってはラテン語や歴史などの伝統的教科を衰退させた。「高等教育を受けるのに十分な知能がない」と見なされた一部の高校生らは、人類の英知に十分触れる機会のないまま、社会的分業に合わせた実学教育を受けただけで卒業または中退していった。初等教育においては、子どもの主体性重視が無秩序と乏しい学びをもたらした。それは、優れた教員と高い階層の家庭出身の児童という組み合わせでしか成功しなかった。このような状況に対する懸念は、20世紀前半から表明されてきた。しかし、当時の教育学者らは批判者を「保守派」とレッテル貼りして切り捨てていったという。

  1960年代の混乱を経て教師の権威は崩れる。学校は責任回避的になり、子どもの態度や学びを統制しようとしなくなった。そして、1970年代になって学力低下が観察されるようになり、1980年代にはそれが一般大衆にも認識されるようになる。問題克服のために、学習内容の全米的な基準を設けて教育に秩序と方向性をもたらそうという運動が始まり、1990年代には連邦政府や州政府も取り組むようになる。(ここは日本人にはわかりにくいかもしれないが、米国では文科省のような機関が全国一律に教育内容を統制しているわけではなく、各学校でバラバラだというのがある)。同時期に統一テストもはじまった。ただし、まだ不十分な点も残っているとのこと。

  以上。著者は、人文学などの教養知をすべての児童生徒に教授すべきだという立場に立っており、職業教育は階層や差別の固定化につながるとして批判的である。これに関しては、米国の学力格差問題はカリキュラムの問題ではなくて学区制の問題ではないか、というのが近年の認識になりつつあるのではないだろうか。また、ピーター・ターチンのように教育の過剰によるエリートの量産が社会を不安定にするという主張もあるしね。というわけで進歩主義教育のうち、子ども中心主義や社会改造主義が有効ではないとしても、科学主義や社会効率主義をも捨ててしまっていいものか疑問だ。とはいえ、米国教育をめぐる歴史的な議論が詳述されていて、参考になることは確かだ。

  あと、読んでて意外だったのは、進歩主義教育が読書による学習を嫌っていたこと。教室での先生による一方的な教授を忌避したということは想像がつくが、代わりとして調べ学習的な学びが持ち上げられたわけでもなく、その段階をすっ飛ばして直接的な経験からの学習を重視したとのことである。読書は直接的な経験より劣るという考え方だったらしい。良書主義的な「保守派」の読書観のほうが学校図書館と親和的だったというのはわかるが、ならば調べ学習的なコンセプトはどこから出てきたのだろうか。
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クラシック音楽の末裔の20世紀の展開

2021-02-03 07:42:38 | 読書ノート
沼野雄司『現代音楽史:闘争しつづける芸術のゆくえ』(中公新書), 中央公論, 2021.

  現代音楽史。クラシックすなわち西洋芸術音楽の20世紀音楽史である。シェーンベルクから始まって、無調音楽、ストラヴィンスキーなどによる各種音楽様式のハイブリッド、新古典主義、ファシズムあるいは共産主義体制下の音楽、十二音技法とセリエリズム、電子音楽、ミニマリズムや新ロマン主義など1960年代以降の様々な潮流、最後に21世紀の動向を紹介して終わる。著者は桐朋学園大学の先生。

  楽譜が出てこないわけではないけれどもそこに焦点を合わせるわけではなく、時代背景や社会状況を織り込みながら作曲家のコンセプトを解説してゆくという記述スタイルとなっている。関連情報を総動員して言葉で変化を説明するわけだが、僕のような素人にもわかりやすくなっており成功していると思う。社会主義リアリズムを強要されながらもそうした制限を超えてゆくショスタコーヴィチの個性の強さ、ミュージック・コンクレートがレジスタンス運動の流れにあるとか、バーンスタインによる抗議イベントを手塚治虫がマンガ化していたとか、個人的に興味を引く指摘が多かった。さりげなく日本人作曲家を紹介してくれるところもいいと思う。

  1990年代半ばには現代音楽にもCD化の波が押し寄せてきていて、大手輸入盤店でコーナーが出来たりCDカタログ集が出版されたりして盛り上がったこともあった。一方で、現代音楽の動向をバランスよく通覧できる良書はあまりなくて、僕が大学生のころ教科書として使われていたポール・グリフィス『現代音楽小史』(音楽之友社, 1984)が思い出されるぐらい(一方で個別の作曲家を扱った本やインタビュー集はよく出版されている)。そういうわけで、新書で読める現代音楽通史として本書は貴重だろう。音源はYouTubeとかNaxos Music Libraryで探せるので、1990年代よりずっと実際の音にアクセスしやすくなっているぞ。
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