味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

仍ほ不能の人に就いて

2020-02-06 09:42:25 | ブログ
第4036号 02.02.06(木)

(な・じょう)ほ不能の人に就いて、能事を求訪し、己の才藝、多しと雖も、猶ほ以て少しと為し、仍ほ寡少の人に就いて、更に益する所を求め、己の有りと雖も、其の状、無きが若く、己の實てりと雖も、其の容、虚しきが若し。惟だ匹夫庶人のみに非ず、帝王の徳も、亦當に此の如くなるべし。『貞観政要』473

自分に能力があっても、自慢していばることがなく、なお不能の人について事を問い尋ね、自分に才芸が多くともなお少ないとして、才芸の少ない人について、さらに益すべきことを求め、たとい自分には徳も智も有っても、その様子は無いようであり、自分には心の中に善事が充満していても、なお足らないと思うからその空虚のように見えるのであります。これらのことはただ匹夫や庶人だけのことではなく、帝王の徳も、またこのようであるべきでございます。473

 【コメント】ひとり帝王だけでなく、われわれ凡人もかくありたいものです。私の空手道の仲間にも、俺が俺がという、でたがり屋の男がいました。

 荘内南洲会の方々が来鹿したとき、傍若無人ぶりを発揮しすぎて、大いなる顰蹙を買いました。このまましたい放題させていたては、人格が損なわれるので、嫌われてもいいと腹をくくって、手紙で大いに噛みついたのでした。そのご男は遠隔地へ引越ししたとのことです。

 その男は、事の真意は理解出来ずども、天は分かる筈だと思ったのでした。世の中は自分だけの世界ではないのだから、決して出しゃばりをしてはならないのです。それが大人の見識というものなのです。自分の非をたしなめられても、幼稚過ぎましたとして詫びを言える人間でありたいものです。『貞観政要』にもそういう愚かさを是正するものを説いています。

 私は長年、荘内南洲会の小野寺理事長とも交流してきました。小野寺先生からは、極めて好意的な手紙を多数頂戴しました。私としては、ただ、出過ぎてはいけない、知ったかぶりをしてはならないとして肝に銘じてきたのでした。そういうところを評価されたのだと理解しています。

 昨日、日赤病院を退院致しました。一日過ぎて見て、どうにか以前の身体に戻ったみたいな感じです。

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◎「今日のひと言」-----たのしい、おもしろい、嬉しい気持ち----

 「およそ楽観歓喜の観念は、神が人間の生命をより新しく甦らせるために与えた霊液とも言うへきものだといいます。

 わかりやすく言えば、たのしい、おもしろい、嬉しい、という思いが心の中に生じた時ほど、朗らかな生き甲斐を人生に感じられる、ということだと思います。

 こういう心の持ち方が、健康にも運命にも、はかりしれない大きな効果を与えるといいます。

 どんな名医や名薬といえども、たのしい、おもしろい、嬉しい、というものに勝る効果はないと思うのです。

 ですから、一人だけ出しゃばるのではなく、人並にありたいものです。できれば、自分よりか、人様に名誉を与えるなどした方が、後々いいのです。

 日赤病院に入院していたのですが、退院した私は、たのしく、嬉しい気持ちです。鹿児島日赤病院の皆様、本当に有り難うございました。

 今先、タイヨーへ買い物に行ってきました。今日は空手道教室、第二道場の日です。気分は入院前と同じだと思います。

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『善の研究』第420回

 第十三章 完全なる善行

善とは一言にていえば人格の実現である。これを内より見れば、真摯なる要求の満足、即ち意識統一であって、その極は自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。外に現われたる事実として見れば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達するのである。
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