味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

矩の道。

2015-09-11 10:33:26 | 論語
第2448号 27.09.11(金)
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矩の道。『大学』
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 自分の心を尺度とし、その心を携えて人の心をはかっていく。つまり、思いやりの道である。
 これは「忠恕の道」(『論語』衛霊公)に通じる。149

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 【コメント】このブログで『大学味講』をご紹介していますが、菅原兵治先生の解説で矩の道という言葉が何回も紹介されています。
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 昨夜、空手道指導をしている際、赤ちゃんを抱いて3歳男児をつれたご夫人がやってきました。そこで宗一郎君の型を見て貰いました。正面の私の横に3歳児に座って貰いました。3歳男児は最初はきれいな正座はできませんでしたが、指導したらお正座が出来ました。宗一郎さんが四方展開一番の型、アーナンクーの型を続けて演武して見せました。
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 私は演武風景を見ながら、この3歳男児の顔をチラチラと見たのでしてた。ところがこの男児の目つきをみてびっくりしました。半世紀以上子供たちに空手道を教えていますが、こういう目つきをみたのは初めてでした。凄い形相でした。
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 母親様に何処の大学を出られたのですか、と聞いたら、栃木の医科大学卒業だと答えてくれました。看護師の資格を持っているのだと云いました。ご主人様は医者だと答えてくれました。
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 稽古にきた子供たちに師範組手を教えて4回目になります。みるみる上達していきます。格闘技である空手道技術を修得する人間の心構えを話して聞かせました。真剣なまなざしで聞き、そして術技を真剣に覚えようと頑張っています。
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 日本空手道少林流円心会文武両道は、日本士道の精神を骨格として、道徳教育を根幹に学問の道を探究する武道団体なのです。そしてその道40年の永きに渡り研鑚しているのです。そこいらの老人クラブらしき人々の団体がやろうとしている道徳教育の内容とは次元を異にしています。
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 その昔、私の指導内容を見た竹下一雄先生が、それを清渓学舎で、谷山の子供たちに教えてくださいと哀願されたのでした。20年前のことです。
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 空手道は格闘技ですから、組手技術で強い人は数多おられます。しかし空手道技術を含めた人間教育として見た時、これは凄いというのをみたことはありません。
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 空手道とは、人間修養を目的とした学問なのです。だから指導者は暇を見て漢籍等々を繙き修養に努めなければならないのです。だから私は第二道場へ行く時も十冊位の書籍を持って行くのです。
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 昨日持参した書籍は、『人間学のすすめ』『努力論』『最上の人生設計』『古典の叡智』『人間の基本』『言志四録味講』『致知・十月号』
『自助論』『西国立志編』等々でした。
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 10年位前右顎が腫れたので島耳鼻咽喉科へ行きました。そこの先生の対応を含めた処方が気に入ったものですから、拙著『礼節のすすめ』を持参しました。ところが奥様が「空手をする人にもこういう本を書く人がいるのですか」と吃驚していました。
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昨日、第二道場へ入ろうとしたら、西側のドアは開いたままでした。誰かが先に入り、火の気のついたものを放り投げたら、公民館は消失したかも知れません。公民館を使用する人は、入念な点検をしなければならないのです。
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『大学味講』(第285回)
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 (四) 以上の事は、中国のことでありますが、暴君の代表といわれる夏の傑王を始め、中国の暴君たちによる苛斂誅求の事実に徴すれば、うなずかれるものがありますが、しかしこれはわが国においても然りで、今テレビドラマなどに出てくる悪代官や佞臣達の行状を見ても、なるほどと思われるものがあるではありませんか。
 こういうやからは表面はいかにもお上のため、お国のためと粉飾しているのですが、その実は私腹を肥やしているのでありまして、その点においては「盗臣」と同じだというべきでありますが、しかし「盗臣」の方は、直接民を苦しめないのですから、その禍根は浅いというべきでありましょう。「聚斂の臣あらんよりは、むしろ盗臣あれ」といったのはこのことをいったものであります。

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『論語』(第385)
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 子曰はく、与(とも)に言ふべくして之と言はざれば、人を失ふ。与に言うべからざずして之と言へば、言を失ふ。知者は人を失はず、亦言を失はず。
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 孔子が言うには、「共に語るに足る人に出会いながらこれと話しをしないと、人を失う、すなわち折角の善い相手を取りにがす。話してもわからぬ人をつかまえて語ると、言を失う、すなわち折角の言葉を無駄にする。よく相手の人物を見定めて、語るべき時に語り黙すべき時に黙するのが知者というものぞ。」
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『農士道』(第264回)
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   農民よ! 先づ真箇に農に立志せよ。
   農民よ! 先づ真箇に農に帰依せよ。
   農民よ! 先づ真個に農に精進せよ。
   「農士」の生活は其処から始まる。

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君子は必ず、その独りを慎んで学問に精励すべし。『大学』

2009-10-20 20:13:20 | 論語

タイトル----君子は必ず、その独りを慎んで学問に精励すべし。『大学』 第206号 21.10.20(火)

〈所謂(いわゆる)其の意を誠にするとは、自ら欺くなきなり。〉(宇野哲人著『大学』伝六章・講談社学術文庫)

 通解「いわゆるその意を誠にすとは、自分で自分の真心を偽らないことである。我が身を修め、善をなし悪を去ることを信条とし、真実に全力を尽くしてこれをなし、自分の本心を欺いてはならないということである。」(前掲書)参照。

〈悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如くす、此れを之れ自ら謙(こころよ)くすと謂う。〉(前掲書)

 通解「人が悪臭を嫌い、好い色をすき好むように、善いことを行い悪を排除することが自然に行えるようにするのである。このようになれば、善をなし悪をさりて、充分に自ら満足し、心に快しと思うのである。その真実に全力を尽くしているか、幾分かごまかしをしているかは、自分でわかるので、誠実に実践することが「自ら謙くす」ということである。」(前掲書)

〈故に君子は必ず其の独りを慎むなり。〉

 通解「だから、君子は道を学び徳を修めるには、必ず自分自身の目標に誠実に行い、その身を慎み修めるのである。」(前掲書)

 『大学』を読み始めたのが、『南洲翁遺訓』と出会ってすぐのことだった。これを読み、筆写するなどして暗記はしたものの、実践するとなると容易なことではなかった。今でも不十分である。だからこそ、今日もなお研鑽しているのである。青少年に『南洲翁遺訓』を教え、多くの古典を紹介はしているが、教えている本人も未熟そのものである。

 ただ、いえることは道場に集う子供たちがせっせと書いてくるのは事実である。4歳から中学、高校生までが筆写してくるノ-トに精一杯の賛辞を寄せている。たどだどしく書いているノ-トであっても、一字一句に目を凝らして見るのである。そういうノ-トを見て、私自身が子供たちに教えて貰っている敬虔な気持ちになるのである。それは今時、そういう子供たちは皆無だと思うからである。

 メディアの著しい進展に伴い、ゲ-ム機、携帯電話などそれはそれは便利であるため、そういう方へ安易に流れ易いからである。テレビまでもが連日そういうコマ-シャルを流しているのを見て、反教育的だと私一人が力んでも詮無いことである。だが、長い一生で、どちらが人間生活に有効であるかということである。

 人と生まれて早く死にたいと思う人はいまい。出来れば健康で、幸せで、長生きしたいと思っている筈である。ところが、社会事象はそういう存在に寄与するどころか、儲けることだけしか眼中にないような気がするのは、私ひとりだけではあるまい。そういう俗悪的社会環境の中にあっても、前途ある青少年に70年間生きてきた人間として、健康的に、楽しく、有意義に生きる術を紹介したいのである。

 自分の少年時代を振り返り、よくもこのようなことに言及することになったものだと、不思議でならないが、このことが、健康に資し、明晰化に資するとあれば、誰憚ることがあろう。人間が人間の尊厳を高めるためには、自らが勤勉にし、勤労をよくし、社会性ある人間として日々を過ごすことこそが最高の幸せと思うようになったからである。

 磐石なる人生を送ろうと思うならば、『南洲翁遺訓』に学ぶに如かずである。なぜなら、西郷南洲翁は古典全般を渉猟したと思えるからである。なお、『南洲翁遺訓』を刊行した菅臥牛翁他関係者も同様に古典を学び、道を全うした人々であるからである。その事を小野寺理事長が必死に説いているのである。それは国家の安寧と、人々への「幸福論」の提供なのだと解している。


身体の垢を除くごとく、心をも洗い清めよう。『大学』

2009-10-19 18:06:34 | 論語

タイトル----身体の垢を除くごとく、心を洗い清めよう。『大学』 第204号 21.10.19(月)

 〈洵j(まこと)に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなりと。〉(宇野哲人著『大学』講談社学術文庫)

 通訳「敬(つつし)んで徳を新たにし、身体の垢を除き去るごとく日々に徳を新たにし、さらに心をも洗い清め悪習を除きて日ごとに新たにせねばならないとある。この「日に新た」の言葉を三度繰り返して、丁寧親切を極め、少しも油断すべからざるの意を述べてある。」(前掲書)参照。

 精神的・物理的行為としての徳は、人間の天命の受ける優れた能力であって、人間が修めるべきものであると言えよう。人間の歴史が生々発展してきた背景には、想像を絶する遥か昔からの聖人たちの、たゆまぬ努力があり、これらが人々によって継承され、今日の文化として形成されてきたものであるということに他ならない。

 要は、そういった人間社会に有用な訓戒であっても、それを応用・活用しなければ、その意義は何らの効を奏さないであろう。やや難解であっても、それらを日々に生かすことが出来るのは人間だけである。だからこそ“万物の霊長”と言われる所以でもあると思う。

 浅学菲才の私が、このような書と巡りあって二十年を経過した。今でも分からないが、当時は何がなんだか分からないまま筆写し、録音し、そして歩きながら聞くという作業を繰り返してきた。今でもそのようなことを繰り返しているが。その教えを、自己の人生に活かす、このことこそが意義があるのだと私は思う。意味を理解し解説出来ても、それを活かさず、頭の中の学問では折角の人生の、喜び、楽しみ、潤いというものはなく、何の学問かということになる。

 話は変わるが『南洲翁遺訓』の教えもそうである。この教えを現代社会に応用するところに意義があるのである。国の特別会計の杜撰な使途を見て言えることは、その種の仕事に携わる人々が、どのような学問をして来たのか、ということに帰結するのである。その弊害の代表的なものが、偏差値教育に他ならない、と私は思う。

 能力は、幼少にして伸びる人もいれば、年輪を重ねて伸びる人とさまざまである。それを画一的に、ある一時期を以て決するということに、どうしても不可解の念を禁じ得ないのである。それらは一応よしとして、今回取り上げた、古典のエキスを人生に執り入れ活用したいものである。『南洲翁遺訓』にしてもしかりである。

 洵j(まこと)に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなりと。


国を治めて天下平らかなり。『大学』

2009-10-14 22:23:51 | 論語

タイトル----国を治めて天下平らかなり。『大学』 第200号 21.10.14(水)

〈物格(いた)って后知至る。知至って后意誠なり。〉(宇野哲人著『大学』講談社学術文庫)

 通訳「物事を窮め尽くし、正しく理解出来るようになって始めて、知が極められ明晰になる。知が極められ明晰になるに従い、意が誠実になる。」(前掲書)参照。

〈意誠にして后心正し。心正しくして后身修まる。〉(前掲書)

 通訳「意が誠実になるに従い、世の事象がわかり、心が正しくなる。心が正しくなってこそ、身が修まってくる。」(前掲書)

〈身修まって后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まって后天下平らかなり。〉(前掲書)

 通訳「身が修まるにしたがい家族が和合し斉う。家族が和合し斉ってこそ国家が安らかに治まる。国家が安らかに治まるにつれて、天下が安泰になるのである。」(前掲書)

 『孟子』は「天下の本は国に在り。国の本は家に在り。家の本は身に在り」と論じている。また「誠」とは、自分でいささかの疑いも残すことがないよう明白にすること。「誠」は『中庸』の根本主張でもある。『中庸』は「誠は天の道なり」と教え、「誠は物の終始なり。誠ならざれば、物なし」と論じ、誠を宇宙森羅万象を包含した世界観の根本原理として捉えている。(新釈漢文大系『大学』明治書院)参照。

 この一章は、通常「治国平天下」と呼ばれている。

 要は、この世に生きる各人が幸せに生を全うしようと思うならば、「誠」の精神哲学を構築することが涵養であろう。ところが、人が見ていないからとか、少しぐらいはいいだろうとか自分に都合のいい我田引水的手前勝手な論理で事を処するから厄介なのである。70歳を迎えた私であるが、まさかこういう事を論じることが、私の人生サイクルにあったという事実に私自身驚いている。30数年前から古典との付き合いを始めて、恋をする気持ちにも似た熱烈な心情を古典にぶつけて格闘してきたのであった。

 たかが知れた浅学菲才の老人の論は、曖昧模糊としている部分もあるかも知れないが、多くの青少年に空手道を教える指導者として、文武両道を標榜し実践しているのである。館で修行する門下生は殊の外、優秀に成長して行くのである。高度で難解に論じても実生活に応用・活用出来ないものは意味がないであろう。ところが私の館に集う幼児たちを含めまことに立派に成長していったし、現在も模範的な日々を過ごしているのである。

 学問とは、人の人生に善良に処するものでなければならない、との強い使命感を抱き、身を修めたいという人々がそこに賛同し、切磋琢磨するものでなければならないと思料するものである。それが「治国平天下」の強固な基礎部分ともなるであろうと信じて-----。


知を磨き明晰にし、物事を正確に理解しよう。

2009-10-13 22:08:44 | 論語

タイトル----知を磨き明晰にし、物事を正確に理解しよう。 第199号 21.10.13(火)

 知を致すは物に格るに在り。

〈明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。〉(宇野哲人著『大学』講談社学術文庫)

 通訳「天下のすべての人をして明徳を明らかならしめんと欲すれば、まず教化をもって人々を治め、善にすすませ天下、すなわち一国を平安に治めた。」(前掲書)参照。

〈その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。〉(前掲書)

 通訳「その国を治めんと欲すれば、必ずまず己の家族を和合させた。家族を和合、かつ斉えるためには、まずもって自分自身が修養し、模範となった。」(前掲書)参照。

〈その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。〉(前掲書)

 通訳「己の身を修めんと欲した者は、まず自分の心を正しくした。その心を正しくせんと欲するには、それに先だって心の発するところの意(おもい)を誠実にして少しも自ら欺くことがないようにした。」(前掲書)

〈その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。知を致すは物に格るに在り。〉(前掲書)

 通訳「自分の意を誠実にしようとしたものは、それに先立ち自らが研鑽し、知を極めて明晰にした。人間の良知を完全に磨き上げようと思う方法は、事物に直接体験し、人の性を正しく精確に認識することにあった。」(前掲書)参照。

 『大学』は、『小学』を学び然る後、人格識見等々認められた人々が学ぶための学問であるという。いわゆる大人の学問である。これを今日的に換言すれば、国政に携わる政治家の学問というふうに解釈してもよかろう。

 政治となると、八月末の総選挙が思い起こされる。半世紀以上も政権の座に君臨してきた自民党政権がはしなくも大敗を喫し、野党・民主党にとって変わられた。これは何が原因なのか、ということである。以後自民党は総裁を選出し、政権奪還をしなければならないという共通認識のもとに動きだした。

 ここで大事なのは、政治は誰のものであるか、ということである。政権交代した民主党がマニュフェストに掲げた全てがいいなどと思っている人は、多くはいまい。一見、バラマキの感が否めないのも事実である。が、過去、自民党が執行してきた政治に国民が不信を抱いているのも枚挙に暇がない。それは、天下りと特別会計の無駄遣いではないかと思う。平成21年10月の世論調査で明確にその数字が現れている。

 自民党が政権を奪還したいのなら、過去の政策を大きく転換し、無駄遣いの部分に大きく踏み込み改善しさえすれば、早期に復帰出来ると考える。

 その為には、西郷隆盛の精神を吐露した『南洲翁遺訓』に学ぶのが一番の良策であろう。これ程明快な回答を教え示したものはないからである。これは偏に、西郷隆盛の言々肺腑より出ずる士魂を記録しただけに止まらず、庄内という地域的風土が産んだ所産なのである。いわゆる西郷南洲翁と、酒井忠篤公の命を受けて遺訓刊行に携わった菅臥牛翁の合作だと私は理解しているのである。政治家も、そして老いも若きも『南洲翁遺訓』に学ぶに如かずである。