第3531号 30.08.31(金)
樂は心の動くなり、聲は楽の象なり、文采節奏は聲の飾りなり。君子其の本に動き、其の象を楽み、然る後に其の飾を治む。是の故に先づ鼓して以て警戒し、三歩して以て方を見(しめ)し、再始はい以て往(すす)むを著し、復亂(またおわり)には以て歸(しりぞ)くを飭(いまし)む。奮疾(ふんしつ)して抜(と)くせず、幽を極めて隠さず。獨り其の志を楽しみて、其の道を厭はず。備(つぶさ)に其の道を挙げて、其の欲を私せず。是の故に情見(あらは)れて義立ち、樂終わりて徳尊し。君子は以て善を好み、小人は以て過を聽く。故に曰く、生民の道は樂を大と為すと。『礼記』582
音楽は人の心の感動に生ずる。感動が物(楽器や人の口)によって表現されたものが樂音であり、歌の声であるが、その音や声に施される修飾が楽曲の樂章であり、小節である。それゆえ君子は音楽を鑑賞するに当たり、まずその楽曲の根本にある感動を味わい、その音や声を楽しみ、次に楽章や小節を吟味する。そのため演奏する側でも、音楽の演奏にはまず鼓を鳴らして開始を知らせ、舞踏の演技には三たび足を動かして舞踏の方式を知らせ、音楽でも舞踏でも一節を終えて次の節へ進むには再び鼓を鳴らし、全部を終えれば楽器で終結を知らせる。こうして鑑賞する者の便宜を計るのである。音楽の演奏には、曲調の速い部分は抑えて速過ぎぬようにし、至って幽玄で音の微かな部分でも手を抜いてごまかすことをせず、たとい他の人には理解されなくても、自分だけはその音楽の本旨を究めて楽しみ、この道を好んで厭きることがなく、もし学びたいと請う者があれば、この道のすべてを尽くして教授し、決して独占するものではない。こうした心がけであれば情意も道義も音楽によって美しく表現され、音楽の完成には優れた徳・人格が相俟っているわけなのである。そこで音楽によって君子はますます善を好み、小人も心を洗われて自分の過失を悔いるのである。ゆえに古人は言った、「人民を導いてゆくための方法として、音楽は重要である」と。582
【コメント】<もし学びたいと請う者があれば、この道のすべてを尽くして教授し、決して独占するものではない。こうした心がけであれば、道義も情意も音楽によって美しく表現され音楽の完成には優れた徳が相俟っている>のである、とあります。
礼記に記されていることは事実だと思います。我々はそういう事実を多くの人に味わって貰うべく努力したいものです。
話変って、昨夜、奈良で深夜に中学生が単車で走っている時事故を起し、6名が死亡したとのことです。何故深夜に遊びまわるのでしょうか。
そして警察から逃げ出した犯人に似ている男がパトカーに追われている時、道路に建ててあるポール柱に激突し死亡したとのことです。この男は無免許で単車は盗んだものであるとのことです。
この二件の事件を見て、何故子供たちが深夜に無軌道なことをするのでしょうか。これらは戦後教育の安全・平和・人権の思想が内在しているのではないかと思うのです。
学校でも、各家庭でも安全・平和と共に厳しい躾け教育が必要なのではないでしょうか。私が電電に入社した時、日教組・社会党を中心にした思想の蔓延に繋がっていると思うのです。それを引き継いでいるのが立憲民主党だと言われていまが、本当なのでしょうか。
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『善の研究』第17回
かく意味という者も大なる統一の作用であるとすれば、純粋経験はかかる場合において自己の範囲を超越するのであろうか。たとえば記憶にあいて過去と関係し意志において未来と関係する時、純粋経験は現在を超越すると考えることが出来るであろうか。心理学者は意識は物でなく事件である。されば時々刻々に新であって、同一の意識が再生することはないという。しかし余はかかる考え純粋経験説の立脚地より見たのではなく、かえって過失は再び還らず、未来は未だ来らずというの時間性質より推理したのではないかと思う。純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識はどこまでも同一の意識とせねばなるまい。例えば思惟或は意志において一つの目的表象が連続的に働く時、我々はこれを一つの者と見なければならぬように、たといその統一作用が時間上に切れていても、一つの者と考えねばならぬと思う。
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『菜根譚』第17
世に処するに一歩を譲るを高しとなす、歩を退くるは即ち歩を進むるの張本なり。人を待つに一分を寛くするはこれ福なり。人を利するは実に己を利するの根基なり。
〔訳〕世渡りをするには、先を争うとき人に一歩を譲る心がけを持つことが尊い。この自分から一歩を退くことが、とりもなおさず後に一歩を進める伏線になる。人を遇するには、厳しすぎないように、一分は寛大にする心がけを持つことがよい。この人のためにすることが、実は自分のためになる土台となる。
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体操協会でもパワハラのトラブルが起っています。18歳の若い女の子が勇気を奮って記者会見をしました。ところが夫婦で体操協会を牛耳っている夫妻は昨夜は高飛車でしたが、組織の良識派に推されて軟化したみたいです。教化本部長の顔は悪の顔になっていると私はみています。
もう少し優しく対応してくれた方がいいでしょう。
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樂は心の動くなり、聲は楽の象なり、文采節奏は聲の飾りなり。君子其の本に動き、其の象を楽み、然る後に其の飾を治む。是の故に先づ鼓して以て警戒し、三歩して以て方を見(しめ)し、再始はい以て往(すす)むを著し、復亂(またおわり)には以て歸(しりぞ)くを飭(いまし)む。奮疾(ふんしつ)して抜(と)くせず、幽を極めて隠さず。獨り其の志を楽しみて、其の道を厭はず。備(つぶさ)に其の道を挙げて、其の欲を私せず。是の故に情見(あらは)れて義立ち、樂終わりて徳尊し。君子は以て善を好み、小人は以て過を聽く。故に曰く、生民の道は樂を大と為すと。『礼記』582
音楽は人の心の感動に生ずる。感動が物(楽器や人の口)によって表現されたものが樂音であり、歌の声であるが、その音や声に施される修飾が楽曲の樂章であり、小節である。それゆえ君子は音楽を鑑賞するに当たり、まずその楽曲の根本にある感動を味わい、その音や声を楽しみ、次に楽章や小節を吟味する。そのため演奏する側でも、音楽の演奏にはまず鼓を鳴らして開始を知らせ、舞踏の演技には三たび足を動かして舞踏の方式を知らせ、音楽でも舞踏でも一節を終えて次の節へ進むには再び鼓を鳴らし、全部を終えれば楽器で終結を知らせる。こうして鑑賞する者の便宜を計るのである。音楽の演奏には、曲調の速い部分は抑えて速過ぎぬようにし、至って幽玄で音の微かな部分でも手を抜いてごまかすことをせず、たとい他の人には理解されなくても、自分だけはその音楽の本旨を究めて楽しみ、この道を好んで厭きることがなく、もし学びたいと請う者があれば、この道のすべてを尽くして教授し、決して独占するものではない。こうした心がけであれば情意も道義も音楽によって美しく表現され、音楽の完成には優れた徳・人格が相俟っているわけなのである。そこで音楽によって君子はますます善を好み、小人も心を洗われて自分の過失を悔いるのである。ゆえに古人は言った、「人民を導いてゆくための方法として、音楽は重要である」と。582
【コメント】<もし学びたいと請う者があれば、この道のすべてを尽くして教授し、決して独占するものではない。こうした心がけであれば、道義も情意も音楽によって美しく表現され音楽の完成には優れた徳が相俟っている>のである、とあります。
礼記に記されていることは事実だと思います。我々はそういう事実を多くの人に味わって貰うべく努力したいものです。
話変って、昨夜、奈良で深夜に中学生が単車で走っている時事故を起し、6名が死亡したとのことです。何故深夜に遊びまわるのでしょうか。
そして警察から逃げ出した犯人に似ている男がパトカーに追われている時、道路に建ててあるポール柱に激突し死亡したとのことです。この男は無免許で単車は盗んだものであるとのことです。
この二件の事件を見て、何故子供たちが深夜に無軌道なことをするのでしょうか。これらは戦後教育の安全・平和・人権の思想が内在しているのではないかと思うのです。
学校でも、各家庭でも安全・平和と共に厳しい躾け教育が必要なのではないでしょうか。私が電電に入社した時、日教組・社会党を中心にした思想の蔓延に繋がっていると思うのです。それを引き継いでいるのが立憲民主党だと言われていまが、本当なのでしょうか。
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『善の研究』第17回
かく意味という者も大なる統一の作用であるとすれば、純粋経験はかかる場合において自己の範囲を超越するのであろうか。たとえば記憶にあいて過去と関係し意志において未来と関係する時、純粋経験は現在を超越すると考えることが出来るであろうか。心理学者は意識は物でなく事件である。されば時々刻々に新であって、同一の意識が再生することはないという。しかし余はかかる考え純粋経験説の立脚地より見たのではなく、かえって過失は再び還らず、未来は未だ来らずというの時間性質より推理したのではないかと思う。純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識はどこまでも同一の意識とせねばなるまい。例えば思惟或は意志において一つの目的表象が連続的に働く時、我々はこれを一つの者と見なければならぬように、たといその統一作用が時間上に切れていても、一つの者と考えねばならぬと思う。
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『菜根譚』第17
世に処するに一歩を譲るを高しとなす、歩を退くるは即ち歩を進むるの張本なり。人を待つに一分を寛くするはこれ福なり。人を利するは実に己を利するの根基なり。
〔訳〕世渡りをするには、先を争うとき人に一歩を譲る心がけを持つことが尊い。この自分から一歩を退くことが、とりもなおさず後に一歩を進める伏線になる。人を遇するには、厳しすぎないように、一分は寛大にする心がけを持つことがよい。この人のためにすることが、実は自分のためになる土台となる。
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体操協会でもパワハラのトラブルが起っています。18歳の若い女の子が勇気を奮って記者会見をしました。ところが夫婦で体操協会を牛耳っている夫妻は昨夜は高飛車でしたが、組織の良識派に推されて軟化したみたいです。教化本部長の顔は悪の顔になっていると私はみています。
もう少し優しく対応してくれた方がいいでしょう。
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