味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

子曰く、禹立ちて三年、百姓仁を以て遂ぐ。

2018-11-29 13:47:16 | ブログ
第3612号 30.11.30(金)

子曰く、禹立ちて三年、百姓仁を以て遂ぐ。豈必ずしも儘(ことごと)く仁ならんや。詩に云ふ、赫赫たる師尹(しいん)、民具(たみとも)に爾を瞻(み)ると。甫刑に曰く、一人慶有れば、兆民之に頼(よ)ると。大雅に曰く、王の孚(まこと)を成す、下土の式(のり)なりと。『礼記』838

 孔子が言った。----禹が天子になると、三年で人びとは仁を理解し、その実行に努めるようになった。人びとはみな仁者になったわけではないが、みな仁に志すようになったのである。詩経に、「輝かしい師尹よ、人びとはみな師尹を見る」とあり、甫刑篇には、「天下ただひとりの天子に、慶(めでた)い行いがあれば、万民みなこれに頼り倣う」とあり、また大雅には、「武王は誠実の行為を積み、天下に模範を示した」とある。

 【コメント】我々平民も天子同様、仁を理解し、世の人々と協調し、意義ある人生とすべく日々に挑みたいものです。
 十年以上、漢籍を繙いていると、漢籍を学んだ南洲翁同様天子様と同じように仁の世界を逍遥したくなります。『南洲翁遺訓』発刊の地、荘内の菅先生方も日々このような姿勢になり、更なる漢籍の世界を生きたのだろうと推測しています。『南洲翁遺訓』の刊行は歴史的偉業だと思います。文献として残すということは、南洲翁と同程度の存在であったからだと思います。

 話変って、今朝のテレビ報道で、31歳の青年が交通量の少ない田舎の山道みたいなところで、安全確認もせず軽トラックをドリフト走行という暴走行為をさせている動画をインターネットに投稿したとして映像が公開されました。その映像は軽トラに同乗させていた小学2年の子供さんに撮影させたとのことです。

 この暴走行為は対向車が来たら必ず大事故に繋がります。映像を見た人々が、そういう行為を止めさせようとして妨害するようなことがあったら徹底抗戦をすると言っていました。

 万一事故発生の時、相手の方に保証をすることが出来るのでしょうか。こういう青年をして無鉄砲男と言うのです。それだけやる気の情熱があるのでしたら、漢籍を繙くことをお勧めしたいと思います。こういう無鉄砲男は普通の道路でも暴走行為めいたことをすると思われますので、警察当局は徹底した取り締まりをして戴きたいものです。

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『善の研究』第89回

 それで古人も終日なして而も行せずといったが、もしこの直覚より見れば動中に静あり、為して而も為さずということができる。またかく知と意とを超越し、而もこの二者の根本となる直覚において、知と意との合一を見出すこともできる。
 真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根底に横われる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。故にいかなる論理の刃もこれに向かうことはできず、いかなる欲求もこれを動かすことはできぬ、凡ての真理および満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、凡ての宗教の本にはこの根本的直覚がなければならぬと思う。学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれに由りて成立するのである。

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『菜根譚』97

 此の心常に看得て円満ならば、天下自ら欠陥の世界なし。此の心常に放ち得て寛平ならば、天下自ら険側の人情なし。

 〔訳〕自分の心を常に円満にしておけば、世の中に自然に不満なものがないようになる。また、自分の心を常に広く平らかにしておけば、世の中に自然にとげとげしいねじけ心がないようになる。

 大事な言葉だと思います。そういう中で、自分の精神は溌剌として目的に向かって邁進したいものです。
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 昨夜の空手道教室も人数は少ないでしたが、熱気あふれる稽古ができました。

 二部では空手道五段だと豪語する田上青年に終盤腹部を打たせました。20年前入門した頃は、手を握り締めることも難解だったのです。ただ甘えがあるのをどうやって取り除いたらいいか、指導者として工夫を重ねています。

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飲酒して事故を起こし、轢き逃げをしたとして、元モーニング娘が執行猶予5年の刑が確定しました。メディアに載せられ舞い上がっていたのだと思われます。二度とハンドルを握らないと自覚しているとのことです。

 先に書いたドリフト走行を続けるという無鉄砲男もこういう羽目になるだろうと思います。
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子曰く、夫れ民は、之に教ふるに徳を以てし、

2018-11-29 09:43:58 | ブログ
第3611号 30.11.29(木)

子曰く、夫れ民は、之に教ふるに徳を以てし、之を齊(ととの)ふるに禮を以てすれば、則ち民、格る心有り。『礼記』836

 孔子が言った。----人民に対しては、徳義をもって教導し、礼儀をもって規制するようにしてゆくべきで、そうすれば人民のほうから寄って来る心を起こすのである。

 【コメント】末端に住む我々であっても、上の解説にあるように、人様には徳義をもって対応し、また教導しお役に立ちたいものです。それらはあまり押しつけであってはならないと考えます。

 新聞等の広告欄には、色々な教えとされることが書いてありますが、思うに、一年生になったつもりで、日々読み続ける、書き続けることがよろしいかと思います。

 私は長年の間、多くの書籍を購入し、そして読み、それらを書き写してきました。世間では多くの人々が群がってワーワーいいながら楽しんでいるようですが、私の場合、全く興味が湧きません。

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『善の研究』第88回

 この思想の根本的直覚なる者は一方において説明の根底となると同時に、単に静学的なる思想の形式ではなく一方において思惟の力となる者である。
 思惟の根底に知的直覚があるように、意志の根底にも知的直覚がある。我々が或事を意志するというのは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚に由りて成立するのである。意志の進行とはこの直覚的統一の発展完成であって、その根底には始終この直覚が働いている、而してその完成した所が意志の実現となるのである。我々が意志において自己が活動すると思うのはこの直覚あるの故である。自己といって別にあるのではない。真の自己とはこの統一的直覚をいうのである。

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『菜根譚』96

 家人、過あらば、宜しく暴怒すべからず、宜しく軽棄すべからず。此の事言い難くば、他の事を借りて隠にこれを諷せよ。今日悟らざれば、来日を俟ちて再びこれを警(いまし)めよ。春風の凍れるを解くが如く、和気の氷を消すが如くにして、纔に是れ家庭的の型範なり。

 〔訳〕身内の者に過失があった場合、むやみに怒ってはよくないし、また軽くみてうち棄てておくのもよくない。もしそれが、あからさまに言いにくいことであれば、他のことにかこつけて遠まわしにほのめかすようにすればよい。今日、気がつかないなら、他日を持って諭すようにするがよい。ちょうど春風が凍りついた地面を解かすように、また、暖気が氷を消すようにしてこそ、はじめて家庭の模範といえよう。
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 高級車ポルシェを運転し暴走行為をした後、車両が炎上したとされる久保田医師50歳は厳しく問われなければならないと思います。今回は、先に事故を起こし免許取り消し中だったとのこと、これらは国家に対する挑戦だと思います。
 金さえあれば何でもしていいと思いあがっての暴挙は厳しく断罪しなければならないと思います。

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子曰く、賢を好むこと緇衣の如く、

2018-11-28 09:39:48 | ブログ
第3610号 30.11.28(水)

子曰く、賢を好むこと緇衣(しい)の如く、悪を悪(にく)むこと巷伯(こうはく)の如くすれば、則ち爵けがれずして民、愿(つつしみ)を作(おこ)し、刑、試(もち)ひずして民咸(みな)服す。大雅に曰く、文王に儀刑し、萬國孚を作すと。『礼記』836

 孔子が言った。-----上の者が賢人を重んずること緇衣篇の詩句のようであり、悪人を憎むこと巷伯篇の詩句のようであるならば、みだりに官爵を与えなくても人民おのずから身を慎んで職に努め、刑罰を持ち出さなくても人民みな心服する。詩の大雅に、「文王を模範として万国みな信義を守った」とある。

 【コメント】人々が生きて行く上において大切なことは、上に立つ者が公正で、下の者が仕えやすく、かつ正直で勤勉であれば、世の中上手く行くと思います。

 昨日のブログでも再度書きましたが、日々に生きる下々の正直な人々に、天の神秘な恩恵が与えられるよう誠心誠意諸事に尽したいものです。

 そのお手本が西郷南洲翁だと思います。それは『南洲翁遺訓』を熟読玩味すれば理解出来るでしょう。荘内の皆様のお蔭で『南洲翁遺訓』をこの世に誕生させてくださり有難く存じています。

 今政界では与党対野党の力関係の芝居をしていますが、出来れば丁寧に説明をすべきだと思います。週刊誌によれば、安倍総理は四選を目指せと士気を鼓舞するような見出しが視られましたが、まさかそういう野望をお持ちではないでしょう。

 安倍さんは真摯に丁寧にと言っていますが、言葉とは裏腹だと思っています。それでも私は安倍さんの方が好きなのです。それは野党のスローガンがおかしいからです。

 野党の言うとおりだとすれば、国民の真摯性・勤勉性はなくなるからです。貧乏家庭で無制限に働いて来た私は怠け者は大嫌いなのです。

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『善の研究』第87号

 我々がいかに縦横に思想を馳せるとも、根本的直覚を超出することはできぬ、思想はこの上に成立するのである。思想はどこまでも説明のできるものではない、その根底には説明し得べからざる直覚がある、凡ての証明はこの上に築き上げられるのである。思想の根底にはいつでも神秘的或者が潜んでいるのである、幾何学の公理の如きものすらこの一種である。往々思想は説明ができるが、直覚は説明ができぬというが、説明というのは更に根本的なる直覚に摂帰し得るという意味にすぎないのである。

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『菜根譚』95

 君子として善を詐(いつわ)るは、小人の悪を肆(ほしいまま)にするに異なることなし。君子にして節を改むるは、小人の自から新たにするに及ばず。

 〔訳〕有徳であるべき君子が、善をよそおい人前をつくろうのは、徳のない小人が勝手気ままに悪事を働くのと、なんら変りはない。しかし、いやしくも君子たるべき者が、変節して破廉恥な行為をするのは、小人が自分から悪事を改めるのに比して、はるかに及ばないことである。

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子之を言ひて曰く、上と為りて事へ易く、

2018-11-27 09:44:07 | ブログ
第3609号 30.11.27(火)

子之を言ひて曰く、上(かみ)と為りて事へ易く、下と為りて知り易ければ、則ち刑煩(わずらは)しからず。『礼記』836

 孔子がこう言った。------上に立つ者が公正で、下の者が仕えやすく、下に仕える者が正直で、上の者が下の人びとの実情を知りやすければ、政治がゆきとどくから煩わしく刑罰を用いなくてもよい。
 
 【コメント】大変良い言葉だと思います。人が生きて行くのには、人々が自由にしたい放題に出来る事は大変いいことです。その時当該人を除く他の人々に迷惑がられることがあってはならないことです。

 今朝のテレビ報道でロンドンの市内の風景が紹介されました。単車に乗った二人組のギャング集団という人々がスマホなどを持って歩いている人々の物をかっさらって行くのです。

 そして集団でお店に行き、ハンマーで外壁を壊して物を収奪して行くのです。

 そこでロンドンの警察はパトカーでの体当たり作戦と称して、単車でギャング活動をしている連中に体当たりしてギャング団を捕まえるシーンを紹介しました。

 その作戦について、街の人々は擁護している意見が多く見られました。何もしない無抵抗な人々を襲い、無差別に収奪する行為が許されていい訳がありません。

 昨日の新聞によりますと、安倍の次は俺だ、として立憲民主党の枝野氏が講演したとして記事が紹介されました。これは阻止しなければならないと思います。安全・平和・繁栄を主張してきた昔の社会党と同じだと私は視ています。何故、阻止しなければならないかと言へば、そこに厳しい躾け教育がないからです。

 私が勤めていた電電でも、高校出たての青年たちは極めてデタラメでした。それは労働組合のオルグがあるからです。それと昔ながらの古典教育がないからです。

 30.11.24(土)、私のブログで『菜根譚』91をご紹介致しました。その解説で、「節義のかたい人物は、福を求めようとする心がない。そこで天は、この福を求めるに無心な点に報いるために、その人物のまごころを導いて福を授ける。陰険な男は、禍を避けることに常にびくびくしている。そこで天は、この禍を避けるにびくびくしている点に報いるために、この男の魂をおどして禍を与える。これによってもわかるように、天道のはたらきは全く神秘で不可思議である。人間の浅はかな知恵や技巧など、なんの助けになるだろう。」と書きました。

 無学者の私ですが、長年漢籍を繙いてきました。そして天風師の教えも学んできました。そして『南洲翁遺訓』発刊の地、荘内南洲会の先生方の教えも謙虚に学んできたのでした。

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 『善の研究』第86回

 余はこの統一的直覚は技術の骨と同一性質のものであると考える。またこれを大にしてはプラトー、スピノーザの哲学の如き凡て偉大なる思想の背後には大なる直覚が働いているのである。思想において天才の直覚というも、普通の思惟というもただ量において異なるので、質において異なるのではない、前者は新にして深遠なる統一の直覚にすぎないのである。凡ての関係の本には直覚がある、関係はこれに由りて成立するのである。

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子曰く、后稷の祀は富へ易きなり。

2018-11-26 09:14:59 | ブログ
第3608号 30.11.26(月)

子曰く、后稷(こうしょく)の祀は富(そな)へ易きなり。其の辭は恭しく、其の欲は倹に、其の祿は子孫に及ぼす。詩に曰く、后稷兆(はじ)めて祀り、罪悔無きを庶(こいねが)ふ、以て今に迄(いた)れりと。『礼記』834

 孔子が言った。-----古代の賢人たる后稷が行った祭礼では、供物が簡素で容易であった。そのわけは、祭の辞が至って恭敬であり、祈り求めることは至って倹約であったからである。しかも后稷の福禄は、子孫にまで続いた。詩経に、「后稷が始めて神を祭った時から、『何とぞ罪咎を犯すことのないように』とこいねがい、その誠意あふれる敬神の念によって授けられた幸福が今日に及んでいる」とある。

 【コメント】古代の賢人が行った祭礼では、供物が簡素で容易であったわけは、辭が恭敬であり、至って倹約であるということは大変よいことだと思うので、踏襲していければと思います。
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『善の研究』第85回

 画の精神は描かれたる個々の事物と異なれどもまたこれを離れてあるのではない。かつていったように、真の一般と個性とは相反する者ではない、個性的限定に由りてかえって真の一般を現わすことができる、芸術家の精巧なる一刀一筆は全体の真意を現わすがためである。
知的直観を右の如く考えれば、思惟の根底には知的直観なる者の横わっていることは明らかである。思惟は一種の体系である、体系の根底には統一の直覚がなければならぬ。これを小にしては、ジェームスが「意識の流」においていっているように、「骨牌(カルタ)の一東が机上にある」という意識において、主語が意識せられた時客語が暗に含まれており、客語が意識せられた時主語が暗に含まれている、つまり根底に一つの直覚が働いているのである。

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 『菜根譚』93

 平民も敢て徳を植え恵を施さば、便(すなわ)ち是れ無位的の公相なり。士夫も徒に権を貪り寵を市(う)らば、竟に有爵的の乞人となる。

 〔訳〕無位無官の人でも、自からすすんで世に徳を植え人に恵みを施すなら、それはもう無冠の宰相である。これに反して、高位高官の人でも、ただ権勢をむさぼり求め人に恩を売るだけでは、それはもう衣冠をつけた4乞食も同然である。

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